一から無限に広がる物語(かのうせい) ヒト、それをオクトパストーリーと呼ぶ   作:オクトパストーリー主催者

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2020年11月お題募集分
知己に遇うて酒を飲み 酒を以て諭される男の話 (作:fire-cat)


「そうか。……ここまでだな、俺達」

 そう呟くと男は女を残し扉を開けた。

 その場に残された女の眼から滴が一つ、また一つと頬を伝わっていったことに気付かず。

(どうしてこんな事になったんだ……)

 その言葉だけが男の脳裏を駆け巡る。

 駆け巡る言葉を振り払うように男は杯を重ねる。

『溝内さん、もうお止めになったほうが』

 何軒目かで馴染みのマスターに言われた言葉。

 その言葉を背中で振り払い扉を開き外に出る。

 店に入る前に降り始めた雨はますます強まって、心と身体を打ちのめす。

 傘は持っているが、差す心境にはなれなかった。

 降り続く雨が男の顔を、身体を、全身を容赦なく濡らしていく。

 ふと我に返った男が顔を上げる。

 そこにある一軒の店。

 古めかしい木製の扉には、何の表示もなかった。

「どこだ、ここは……?」

 


 

 アルコールに濁った口調で、溝内(みぞうち)は呟く。

 こんな場所に用はない、とすぐに立ち去ろうと思った。だが、どうしてだかその扉の前から離れられなかった。

 暫しの躊躇いの後、その手は扉を押していた。

 軽やかなベルの音が、扉のきしみに被さる。

「いらっしゃいませ」

 その空間に足を踏み入れた溝内に声がかけられる。

 暗闇からかけられた声に咄嗟に腰を落とし身構える溝内。

 目が次第に慣れてくると店内は照明が意図的に落とされ、カウンターやテーブルは燭台に立てられた蝋燭の灯で照らされている様子がわかる。

 壁に備え付けられた棚に並ぶ洋酒の瓶やグラスが目に飛び込み、初めて彼はそこがバーであることに気付いた。

 煙草と花の香りが溝内の鼻先に漂う。

 客は誰もいない。

 カウンター奥では、よく見えないがまだ青年の域を脱していないと思われる風貌のバーテンダーがグラスを磨いていた。彼はグラスを置くと、穏やかな歓迎の笑みを浮かべてカウンターを指し示す。

「どうぞ」

 男は促されるままカウンターに腰掛け、戸惑いを覚えながらに周りを見回した。

 薄暗い店内の壁に灯陰(ほかげ)がゆらゆらと揺れ、蝋燭の灯りが磨き抜かれたグラスやカウンターに反射して、上品だがどこか幽遠な雰囲気を醸し出している。

 溝内はこういった雰囲気に慣れていない訳ではないが、年若そうなバーテンダーとバーの雰囲気との釣り合いが取れない事にいささか戸惑いを覚えていた。

 カウンターの奥から手前に出てきたバーテンダーが溝内に向けて穏やかな笑みを投げかけている。

(何だ、この男は。俺にその気はないぞ?)

 だが、溝内がそう思ったのは一瞬だった。

 背の高い、黒いスラックスと同色のベストが良く似合う、蝋燭の灯ではっきりと風貌が判ったその青年バーテンダーを溝内は知っていた。

 無意識に、彼の名前を口にしていた。

「……何だ、拓海(たくみ)か……。 !! 拓海じゃないか! 久し振りだな!」

 驚きのあまり立ち上がった溝内に対し

「久し振りだね、新三(しんぞう)。まぁ、座りなよ。こうして会うのは卒業式以来かな」

 懐かしそうに言いながら、手際よくチャームと冷たいお絞り、ミネラルウォーターのグラスを出す旧友。その姿を、椅子に腰掛け直しながら溝内は驚きの視線で見つめた。

 意外だった。

(あの嗣永(つぐなが)拓海が、客商売をやっているとはな)

 嗣永とは中学で知り合った。性格はかけ離れていたが、すぐに気が合い、気の置けない親友付き合いをし、学部は違えど大学までそれぞれの幼馴染たちと共に過ごしてきた。

 それでも嗣永については、その性格ゆえか、他人と接するのが苦手な様子で生真面目ではあるが何処となく他人の目を気にした様な行動と幼馴染の女の子に振り回されていた印象が強い。

 そんな彼が大学病院の臨床心理士となった事も意外であったし、僅か2年でその地位を去った事も意外であった。その後、どこかで開業したらしい事は風の便りに聞いていた。

 それを最後に彼の消息も途絶えていたが、そんな彼が酒を扱う仕事をしているのは、そして此処で出会った事は溝内にとって驚きだった。

「あれから10年か。お互い歳を重ねたものだな」

「まったくだね。新三が片眼鏡を掛けるようになったなんて知らなかったよ。老けた?」

「よせよ、こいつは伊達でつけてるのさ。仕事上なめられないようにな」

 ふっと笑う溝内の言葉に口元に微かに笑みを湛えると、嗣永は「さあ、何を飲む?」という態で溝内を見やる。

「銘柄は何がある?」

「スコッチなら殆ど取り揃えているよ。その分他の品揃えは自信ないけどね。ジャパニーズはハイニッカ、白州、イチローズモルト、バーボンはフォアローゼズ、ワイルドターキー、ベイカーズ。アイリッシュはカネマラ、ティーリング、レッドブレスト。カナディアンはカナディアンクラブ20年とクラウンローヤルのデラックスとメープルフィニッシュドのみ」

 そうか。と溝内は暫し考え

「グレンフィディックの12年をトワイスアップで貰おうか」

「かしこまりました」

 嗣永は軽く頷いて、戸棚からスコッチウイスキーの瓶と、グラスを取り出した。手際よくグラスにウイスキーを注ぐ親友の様子を見ながら、ふと、その左手の薬指に銀色の輝きがある事に溝内は気付く。

「結婚していたんだな」

 溝内は問いかけていた。

「ああ、もう5年になるかな」

「5年前か。相手は亜津紗(あづさ)か?」

 嗣永をよく振り回し、傍から見ると無理難題を押し付けていた様な態度ながらも本当に無理な事は決して言わない、させない、嗣永を一途に想っている事が丸分かりだった幼馴染の名前を挙げる。

「ああ。勿論」

「そうか、おめでとう」

「ありがとう、新三」

 顔を赤らめ恥ずかしそうに頷く旧友に溝内は軽く笑いかける。

 そんな彼の前に、グラスが置かれた。

 溝内はグラスを取り上げ、軽く嗣永に向けて掲げてから一口含んだ。

 新鮮な洋梨のようなフルーティな香りとともにかすかに感じるバニラ香が口中から鼻腔に広がり、繊細で軽やかな味わいが喉を通り過ぎた後はほのかな甘みが残る。

「……美味いな。こんな酒、久し振りだ」

「別に高級な物を使っている訳じゃない。指定通りのシングルモルト、グレンフィディック12年さ」

「そういう意味じゃない。俺にとっては美味い酒だということだ」

 自嘲げに溝内は笑って、もう一口飲む。

 そう言う溝内の顔に、暗い色が浮かんでいるのに嗣永は気付いた。

 だが、自分から質問するのは躊躇われ、

「そう言えば新三も結婚したんだったね、潤奈(じゅんな)と」

 思いだしたように別の話題を投げかける。溝内は目だけを動かし、嗣永を見上げた。

「どこで聞いた?」

「暫く前に(やすし)に会ってね」

 学生時代のもう1人の親友―長谷部(はせべ) 靖―の名前を、嗣永は挙げる。

「そのときに教えてくれたんだ。『新三と潤奈が結婚したらしい』って」

「2年ほど前だ」

 静かにグラスを揺すって香りのハーモニーを奏でさせながら、溝内が応える。

「巧くいっているの?」

「……まあ、ぼちぼちだな」

 溝内に浮かぶ暗い色の訳が何とは無しに察せられるも、やはり自ら問うのは躊躇われ、嗣永は自分のための水割りを作り始める。

 お互い無言だった。

 マドラーでグラスの中をかき回すと、氷と触れ合って軽やかな音を立てる。その音がかすかに耳に届いてきたとき、溝内は知らず、問いかけていた。

「なあ拓海。巧いこといっているか?」

「ぼちぼちかな」

 自分の台詞を真似た嗣永の回答に、溝内は苦笑いした。

「……ぼちぼちか。いい事だ」

 そう言うと、残っていた中身を一気に飲み干す。

 無言で掲げられたグラスを取り上げ嗣永が新たに水割りを作り始める。

 作りながら、唐突に言った。

「……新三。何を悩んでいるんだい?」

「……何だ、気づかれていたのか」

 溝内は苦笑した。

「当たり前だろう。僕もこういう仕事をするようになって様々な生き方を見て来たからね、新三が悩んでいる事ぐらいは、ね」

「そうか」

「こうして久し振りに会えたのも何かの縁じゃないか。僕に話してみる気はない?」

 溝内の目の前に水割りのグラスが置かれる。

 それはさっきのよりも水の割合が多いのか、幾分色が薄かった。その色を見ながら溝内が呟いた。

「最近は自棄酒ばかりでな。正直、味なんかどうでも良かったのさ。ただ、酔うことが出来たらな」

 グラスを取り上げ、ゆっくりと飲む。

「……別れ話が出ていてな」

 嗣永は何も言わない。驚いた様子もない。もちろん、その目に責めるような色もない。

 彼の顔にあったのは、ただ、落ち着いた穏やかな表情だけ。その顔を見ていると、不思議と、溝内は素直に全てを打ち明けよう、そんな気分になって来る。

 それだけの力が、嗣永の顔にはあった。

 彼は昔から、こんな男だった。

(変わらんな、この表情は)

 そんなことを考えながら、チャームに手を伸ばし、適当に口の中に放り込む。

 ナッツを勢いよくかみ砕き、水割りで喉の奥へ流し込んでから、溝内は再び話し始めた。

「……潤奈も承知している。義父には明後日申し出るつもりだ。……話しに話しあった結果だ」

「潤奈とは、幼稚園の頃からの付き合いだろ?」

「そうだな。拓海と亜津紗と同じくらいか。子供のころからスキーやら海水浴やら温泉やらと良く一緒に出かけたもんだ。色々と支えあって……それで結婚したんだ。今から思えば春が長過ぎたのかも知れんな」

「何があった?」

 嗣永は自分のグラスを手にしたまま、落ち着いた口調を崩さず訊ねた。

「義父と仕事をやっているんだがな。少し前に上の連中が定年で相次いで辞めて大きな仕手戦を一手に任される事になったんだ」

「へえ、すごいじゃないか。その若さで」

「その分責任も増えたけど、やりがいもあってな。つい会社に入り浸る日が続いたのさ。それを潤奈は寂しい、寂しいってな。そりゃ潤奈の言う通りとは思ったけど、お互いに仕事を持つ身だ、仕事の重要性は理解しているじゃないかって意識があったんだ。それでつい、言い争いになって。それから毎日顔合わせたら喧嘩さ。……ま、よくある話だが、な」

 自嘲めいた笑いを浮かべて溝内が言うと、嗣永は肩をすくめて見せる。

「俺も潤奈もこんな生活が続くのはもう嫌になってな。もう別れようって事になったのさ」

 しばらく、沈黙が嗣永と溝内を包む。

 グラスと氷が奏でる音だけが店内に響いた。

 ふと、溝内の脳裏に離婚届に署名した時の妻の様子が浮かび上がる。

 涙をいっぱいにためながらうつむき、それきり新三の方を見ようともしなかった潤奈。彼女の肩が小さく震えて、テーブルの上に落ちていた涙。そんな妻から目を背けた自分。

 いつもの言い争いは全くなかった、その日の夜。

(別れ話を切り出したのはどちらだったかな……)

 溝内は思い出そうとする。だが、それをどちらが先に口にしたのか、いまではもう忘れてしまっていた。自分だったかもしれないし、妻だったかもしれない。

 ただ、既に離婚届が妻によって用意されており、もう署名をすればいいだけになっていた。

 

『ほら、書いたわよ。これで満足なんでしょう?』

『ああ。済まなかった』

 

 潤奈も意地を張っていた。そして自分自身も、意地を張っていたと思う。

 それは溝内には分かっていた。もしかしたら、まだ危機を乗り越える手段は残っているかもしれない、とも思った。

 だが、素直になれなかった。

 いまではもう、どうでもいいという気持ちになっている。そして全てを忘れるために連日飲み歩いている。

「新三、本当に離婚したいのかい?」

 物思いに沈んでいた溝内に、嗣永は声をかけた。

「……仕方ないさ」

「仕方ないじゃないだろう。新三の本心はどうなんだ?」

 真摯な嗣永の問いかけに、口から出たのはただ一言だった。

「……分からん」

「そうか」

 そして嗣永も、それだけしか言わなかった。

 唐突に嗣永はグラス一つと酒瓶を2本取り出すと、何かカクテルらしきものを作り始める。

 ほどなくして、琥珀色の液体が入ったグラスが溝内の前に差し出された。タンブラーではなく、背が低くて底が広いロックグラス。そのグラスの真ん中より少し下のところまで、見たこともない色の酒が注がれていた。

 普通のウイスキーよりやや赤みがかっているだろうか。表面に大きなロックアイスが涼しげに浮かんでいる。

「……これは?」

「飲んでみて」

 訝しげに溝内が訊ねると、嗣永は微笑んで、勧めた。

 溝内はグラスを取り上げて香りを確かめる。何かの香草の香りが、鼻先に漂う。

 舌先で舐めてみた。

 途端に強烈な甘さが全身を突き抜けて、溝内は思わず顔をしかめる。

「な、何だ、これは」

 溝内にとっては経験したことのない甘さだった。

 砂糖の甘さとは違う、舌が痺れるような、鈍い甘み。

 溝内のその反応が予想通りだったのか、嗣永は笑いながら説明した。

「そのカクテルはラスティ・ネールっていう名前でね、スコッチウイスキーと、ドランブイを混ぜ合わせてるんだ。ドランブイは英国のハイランド地方で15年以上熟成したハイランドモルトと40種類のスコッチ、それにヒースの花や蜂蜜から作られるリキュールのこと。だからすごく甘いんだよ。おまけに普通はスコッチ2にドランブイ1なんだけど、これは割合を1対1にしているからね」

「ろくでもない酒を飲ませるな」

 眉を顰める溝内。

「ラスティ・ネールの意味は≪錆びた釘≫。この赤茶色みたいな色から連想したのかもしれないね。なかなか洒落た名前だと思わない?」

「≪錆びた釘≫か。妙な名前だな。だが今の俺達夫婦には意外と合うのかも知れんな。錆びた釘は折れるだけ」

 そう言いながらも、溝内は意を決して酒を口に含む。

 一口目と変わらない鈍い甘みが全身を駆け抜けていくが、何だか病みつきになるような甘さである。

 飲み込んでも、まだ甘さの余韻が口腔内で残る。

「ドランブイにはね、精力剤や媚薬の役割もあるんだよ」

「何だと?」

「新婚夫婦が夜にこのカクテルを交替で飲んで頑張ったんだってさ」

「何を言うんだ? 突然」

 何を言い出すのかと不審げな溝内に、嗣永が笑いかける。

「蜜月って言葉も、そこから来ているそうだよ。もちろん、伝説に過ぎないけどね」

「さすが本職。良く知っているな。だが何の関係があるんだ?」

 どうしてそんな由来を説明するのか、溝内には理解出来なかった。

 普通よりドランブイを多くし、余計に甘くした理由も分からない。

 すると嗣永は、唐突に訊ねた。

「ねぇ新三。新婚の頃ってどうだった?」

「何だ? 藪から棒に」

「新婚時代ってさ。潤奈と2人で幸せになってやるんだって、そんな気持ちにならなかったかい?」

「……そうだな」

 言われて、溝内は2年前の新婚時代を思い出した。

 何もかもが幸せに満ちていた新婚時代。式を挙げたとき、ウェディングドレスに身を包んだ潤奈が世界で一番美しく見えたことを、いまでもはっきりと覚えている。

 

『新三、私を絶対に幸せにしてね』

『当たり前だ』

 

 潤奈と2人で幸せな家庭を作る。

 式で彼女に接吻しながら、硬派を気取っていた自分らしくなく、そう誓った。

 朝、仕事とはいえ家を出る時は寂しさを感じ、仕事で疲れを覚えたら妻の笑顔を思い浮かべ疲れを忘れる。仕事が終われば上司や同僚の誘いも断って帰ったものだった。

 そんな幸せだった新婚時代がまざまざと甦って来て、溝内は呟くように言った。

「いままで生きて来た中で、一番幸せな時期だったかも知れんな」

「それが分かってるなら、大丈夫だよ」

 嗣永は微笑む。

「……どういう意味だ?」

「僕は新三に新婚時代の幸せな生活を思い出してもらいたくて、その酒を出したんだ。そのカクテルも甘かったけれど、2人の新婚生活は、もっと甘かったんじゃないかな? そんな日々は、ラスティ・ネールみたいな作り物なんかとは比べものにならないよ?」

「何を言いたい、拓海?」

「もう一度、ちゃんと潤奈と話し合ったらどうだってことさ」

 きっぱりと、嗣永は言った。

「新三は心の底では、潤奈と別れたくないって思ってる。それを認めたくないだけだ」

「……」

 全てを見透かしたような嗣永の言葉に、溝内はぐっと唇を噛んだ。

「……そんなことが、どうして分かる?」

「これでも僕の本業は臨床心理士なんだけどな。カウンセリングセンターで様々な悩みを抱えた人達の話を聞いている事で、心もそれなりに読めるようになったんだ。このバーはセンターには訪れにくい人たちの手助けになればと思って営業しているんだ。センターみたいな改まった場所は嫌いだけど悩みは聞いて貰いたいって人達もいるしね」

「そうか。大したものだな」

 溝内のその言葉に嗣永は軽く微笑むと、きっぱりとした口調で言った。 

「もう一度言うよ、新三。溝内新三はいまでも溝内潤奈のことを愛してる。ただ、プライドが邪魔をして、彼女を引き止めることが出来ない。そうなんだろ?」

 その言葉に言い返すことが出来ず、代わりに溝内は赤茶色の液体が入ったグラスを傾ける。

 氷の周りが、粘着質のものに覆われている。

(嗣永の言う通りかもな)

 ふと、溝内はそんなことを考えた。

 男としての面子にこだわって、潤奈に謝ることが出来なかった。いまも引き止めることが出来なかった。そんな自分が情けなくて、酒に溺れたのかもしれない、と思った。

「……まだ、遅くは無いだろうか」

 ふと気付くと、そんな言葉が口をついて流れていた。

 嗣永は穏やかな笑顔で、はっきりと頷く。

 その笑顔を見ているうちに、自分の心に勇気が湧いて来るのを、溝内は感じていた。

 離婚を決めたものの、潤奈とはまだ一緒に住んでいる。それは潤奈が、新三に家を出ていかれるのを引き止めようと、待っているからではないのか。

 そして先程まで一緒に呑んでいた今夜もきっと、新三の帰りをベッドで待っているに違いない。遅く帰った日も先にベッドに入っていながらも、潤奈が眠っていないことに溝内は気付いていた。

(互いに意地を張ってただけだったんだな)

 溝内は苦笑すると、残っていた中身を一息に飲み干した。

「なあ拓海」

「……何?」

「この酒、もう一杯作ってくれないか? もう一杯飲んでから、帰るとしよう」

「かしこまりました」

 おどけたように言って嗣永はグラスを取り上げると、溝内のためにもう一杯、ラスティ・ネールを作り始める。

 その鮮やかな手さばきを見つめる溝内の脳裏には、妻の笑顔が浮かんでいた。

『どんなことがあっても別れない。この笑顔を守る』

 そう誓ったときの、潤奈の笑顔が。

 

 

 それから数日後の定休日。

 客がいないはずの店内に、タキシード姿の嗣永と、紺色のロングワンピースに白ニットのカーディガンを纏った彼の妻の姿があった。

「……で、それだけであの馬鹿を帰したの?」

「ほかにどうしろと?」

「友達ならあの馬鹿をもっと怒鳴りつけてやりなさいよ! 私の親友を悲しい目に遭わせて。私がその場にいたら有無を言わさず殴ってるところよ」

「相変わらず過激だね……」

 乾いた布でグラスを拭きながら、嗣永はカウンターで不機嫌そうな表情を隠せない妻の亜津紗に笑いかける。

「ま、カクテルで相手を悟らせるなんて、貴方らしいと言えばらしいけどね」

「亜津紗に褒められるとは思ってもみなかったな」

「褒めている訳じゃ無いわよ? 第一、ラスティ・ネールって言えば、あのとき貴方が作ってくれたカクテルじゃないの。芸がないわ」

「新三も潤奈も、あのときの僕と亜津紗みたいだってピンと来たからね」

 拓海が言うと、亜津紗はふふっと軽く笑う。

「……本当はお互い別れたくないのに意地を張って。仲直りしたいんだけど、なかなかきっかけが掴めなくて。あのときは私ももう終わりかなって思ったわ」

「そんなときは原点に戻るのが一番なんだよね。あの状況ではあのカクテルは最適だと思うよ。何と言っても、ね」

「カクテルに使われたドランブイのもう一つの意味、ね」

「うん、ゲール語で『心を癒す飲み物』……あの2人、今夜ここに来るってさ」

「何だ、だから私をここに連れてきたの?」

 それにしても、と亜津紗がその口元に微かに笑みを浮かべる。

「古風な男を悟らせるのに態々『古めかしい』カクテルを使うなんて、貴方も洒落が利いているわよね。ドランブイを使うんならムーニー・オ・レでも良かったんじゃない?」

 悪戯っぽく夫に笑いかけた亜津紗の耳に軽やかなベルの音が聞こえてくる。

「いらっしゃいませ」

 嗣永の穏やかな歓迎の笑みの先に、2人の男女が立っていた。

 この前とは違い、羽織袴姿に黒を基調とした二重廻しを着こなした溝内と、その妻の潤奈。2人とも、明るい笑顔で、幸せそうな雰囲気を振りまいている。

「済まなかったな、拓海。わざわざ呼んでもらって」

「こんにちは、拓海君、亜津紗」

「久し振りね、潤奈。……ついでに新三も」

「俺は『ついで』か?」

 そう言って、明るく笑い合う妻と、親友と、親友の妻。

 彼ら3人を穏やかな瞳で見つめながら、嗣永の口にも自然と笑みがこぼれていた。

 そんな彼の前のカウンターには、彼が亜津紗のために作った、ラスティ・ネールのグラスが置かれてあった。

 


 

登場人物(溝内新三氏以外追加キャラ)

嗣永拓海 32才

【挿絵表示】

 

 

溝内新三 32才w(年齢はこの話独自の設定。お題には年齢記載なし)

【挿絵表示】

 

 

 

奥さん達

嗣永亜津紗 32才

【挿絵表示】

 

 

溝内潤奈 32才 

【挿絵表示】

 

 

 

え? 奥さん達が若すぎ? 童顔の幼馴染が奥さんで幸せですネ。

奥さん達はWAIFU LABS(https://waifulabs.com/)で作成しました。

 

 バーのイメージは新宿の名店【ル・パラン】若しくはお弟子さんの【歯車】です。そんな私が頼むカクテルは①ロブ・ロイ→②ラスティ・ネール→③ギムレットで終わりw

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

没ネタ

 

義父(オヤジ)と仕事をやっているんだがな。少し前に上の連中(組のカシラ達)定年で相次いで辞めて(ボケちまって)大きな仕手戦を一手に任される事になったんだ」

「へえ、すごいじゃないか。その若さで」

「その分責任も増えたけど、やりがいもあってな。つい会社()に入り浸る日が続いたのさ。それを潤奈は寂しい、寂しいってな。そりゃ潤奈の言う通りとは思ったけど、お互いに仕事(シノギ)を持つ身だ、仕事(シノギ)の重要性は理解しているじゃないかって意識があったんだ。それでつい、言い争いになって。それから毎日顔合わせたら喧嘩さ。……ま、よくある話だが、な」                 

 

 

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