雪乃「真正の馬鹿」 作:ばなな
私が裏門に着くと、そこは大きな影が木陰の下で蠢いているのが見えた。大きく、長く、ゆったりとした影。それの横には見慣れた1組の靴が置かれており、犯人がこれであることは直ぐに察することができた。
影が二つの眼光をこちらへ向けると、喉奥から何かが迫り上がってくる感覚に襲われる。呼吸が止まってしまいそうな緊張感が身を包み、額からとめどなく発汗する。
影はそんな私に興味を無くしたようにその場で丸くなると、ここを自分の居場所だと定めたように唸った。
私が靴を取り返そうと一度近づいてみれば、影は気を悪くしたのか「ワンッ!」と短く吠えた。
「犬のくせに……」
負け惜しみのようにつぶやかれる言葉に反応する者はいない。
影の正体は紛れもない犬であった。そう、ただの犬であったのだ。
しかし残念なことに私はあまり犬が得意ではない。これが猫であれば、今直ぐ近寄りその極上の毛並みを堪能していたところであるが、相手はいつ噛みついてくるか分からない犬だ。それは、ナイフを持った凶暴犯と同じくらい慎重にならなければいけない相手だと言える。
「でもなんで犬がこんなところに……」
そんなどうしようもない事を考えてみれば、答えなんて直ぐにあったのを思い出す。
朝の会の前。担任が連絡事項としてあげていたものに「最近、学校に野良犬が出没する」というものがあった。あの時は、自分には関係のない事だと適当に聞き流していたが、まさかこんな事になるんて、自分の運の無さを恨んでしまう。
兎にも角にも、今は靴を取り戻すことに専念しなければ。
幸いにも目の前の犬は丸くなり微睡を楽しんでいるように見える。この隙に職員室に行って、先生を呼んでくれば事態を収拾してくれるだろう。
じりっと、犬を警戒しながら私は後ろに下がる。大丈夫、いくら犬が苦手と言っても、これだけの距離があれば冷静を保っていられる。そのまま校舎の入り口まで走れば、1分もせずに着くだろう。
けれど、犬の走行がどれだけのものなのか私には想像もつかない。もし、私が走って犬に追いかけられでもしたらと考えると、背筋に悪寒が走る。
ダメ、入り口まで走ることはできない。大声も出せない。犬の気を荒げさせず、このままじりじりと後退するしかない。
心臓の鼓動がやけにうるさいのが分かった。時という概念が、進む速度を遅らせていると錯覚した。犬がいつ襲ってくるか分からないと思えば思うほど、私の体の端は小刻みに震えてしまう。
一歩、また一歩と後ろへ下がる。
大丈夫。このまま進めば大丈夫だと自分に言い聞かせる。
一歩。また一歩と後ろへ下がる。
できることなら、誰かがここへきてくれる事を祈りながら下がる。
一歩。また一歩と後ろへ下がる。
目の前の犬が突然、私の方を見ながら立ち上がった。
そこからは本能が働いた。恐怖を察知する本能が一足先に、私の体へ伝令を下したのだ。けれど、それが逆に体の動きを鈍らせる。あまりに唐突なことのせいで、足から力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
終わった___。
そんな言葉が鮮明に脳裏に轟いた。別に噛まれたとかそんな事をされたわけでもないのに、妙に現実味を帯びた絶望感が私の体中を駆け巡った。
瞬間、目の前に犬が飛び込んできているのが見えた。視界一杯に犬が飛び込んでいるのだ。
あと数秒もしないうちに私の体へ犬はダイブするだろう。あと数秒もしないうちに私は噛まれるのだろう。
どれくらいの痛みが伴うのだろうかと、その冷静でありながらも動揺している思考が働く。無粋な考えだと思うのに、それを消すことが私にはできなかった。
結局、誰も私を助けてくれない。当然だ。正しくありすぎる故の人間は、結局こうなるのがオチだったというわけだ。私が靴を隠す嫌がらせをやめさせたところで、私という人間はつくづく運命に嫌われているらしい。
正しすぎる人間は常に孤独を強いられ、何もかもを一人でやらされる___。
自嘲してしまいそうになった。なぜここまで自分が惨めな思いにならなければいけないのかと思うと、涙が出そうになった。いや、実際にもう泣いているかもしれない。
あの時、私が友達を作っていれば、こんな風にならなかったのか。
あの時、私が擦り寄れば、こんな風にならなかったのか。
あの時、私が負けていれば、こんな風にならなかったのか。
どこで何をどう間違えたのか。そんなことすらもう思い出せない。帰国してから早1年。私は一体この学校で何をしてきたんだろう。
犬に噛まれれば、きっとお母さんはこの学校を転校させる。
そうなれば、私の手元には何も残らないだろう。
そう、何も残らないのだ。
私には何もない。
「探したぞー、クールビューティー」
いつの間にか閉じていた目を開けてみれば、そこには野良犬を撫でている彼がいた。
「ど、どうしてあなたが……?」
私は状況が掴めず、混乱する頭を必死に押さえながらそう質問する。
すると彼は、とても不思議そうな表情を浮かべて首を傾けた。
「だって運動場来ないじゃんか。だから、探しにきた。そしたら、見慣れた犬がいたからさ撫でてるとこ」
言葉にしてみればそれだけのこと。私を探してにやってきてみれば、知っている野良犬を見つけたので可愛がっていると。
ちょっと待って。もしかして、この犬が学校に出没するようになった理由って……。
私はそこまで考えて、とりあえずこのことは後で担任に報告でもしておこうと思った。真実に関しては今知るべきことではない。
それよりも私は、彼に尋ねたいことがあった。
「……探しにくるのは百歩譲って良いとして、私が運動場に行かなかったのは、あなたと遊びたくないからだとは考えなかったの?」
実際、私は彼のところへ行く気なんてなかった。彼と遊ぶつもりなんて微塵もなかった。ただ外を眺めていて、読む本もなかったし、クラスの雰囲気も良くなかったから適当にブランコにでも乗ろうと思ったくらいだ。
それを言われた彼は困ったように、腕を組むと寝転がっている野良犬に頭を預ける。
「えー、んー、確かにクールビューティーは遊びたくなっかたかもしれないのかー」
彼は低い唸り声を上げながら何かしらを考える。目蓋を落とし、口を閉じて考える。
少しすれば、彼なりの答えが出たのか私の方を見ながら口を開いた。
「それでも、多分俺は来なかったら来なかったで無理やり連れ出すかな。俺、クールビューティーと遊びたいし」
「私と遊びたい、ですって……?」
「おう。俺はクールビューティーと遊びたい」
それは彼の本心と思える発言だった。
私と遊びたい。それが、それだけが彼の本心だったのだ。
それなのに彼と初めて話した時、私が感じたのは確かな劣等感だった。
私よりも持ってない彼が、でも、私が持っていないものを持っている。そんな彼に、自分を惨めだと思われるのを何よりも嫌い、自分の環境を蔑まれるのを恐れた。だから私は彼との会話を早々に打ち切り、強さを装った。
けれどどうしたことだろうか。そんな事を壊すように彼は純粋に「遊びたい」のだと言ってきた。私が拒否しても、連れ出すと豪語してのけた。
私があれやこれやと悩んでいるのに、彼はたったそれだけのことで私に近づいて、私に話しかけていたのだ。
これでは、人間関係で色々と思考していた自分が”馬鹿”に思える。
「あなた、本当に変わっているわね」
「ん? そうなのか?」
「そうよ。私と遊びたいっていう子は大抵、お家柄か、好きな子の牽制か、下心くらいだもの。誰一人として、私の性質を好きになった者はいないわ。私って性格に少し難があるから」
私はそう言って立ち上がる。いつの間にか、浮かべていたはずの涙も引っ込んでいた。
そのまま木陰に置いてあった靴を取ると、私はそれに異常がない事を確認して履いた。さすがにずっと上履きのままでいるのも忍びなかったし、土がつくのも嫌だったためだ。ついでに、隣に置いてあった赤い俊足も見つけたので、それも回収してやることにした。
「クールビューティーの言ってることは難しくて分からんけど、俺はクールビューティーのこと面白いと思うぞ」
「……」
「一人で頑張ってるところとかよく見るし。すげー奴なんだなって思った。今日だってテストで満点取ってたし、給食の時なんか誰もやらない台拭きやってたもん」
___ああ、だめね。
そう思った。
___誰にも見られないと思っていたわ。
そう誰にも見られていないと思っていた。
私がどれだけ頑張っても、どれだけ正しい事をしても誰にも認められないと思っていた。
褒めて欲しかったわけじゃない。讃えて欲しかったわけでもない。かと言って、哀れんでほしかったわけでもない。妬んでほしいわけでもない。
私はただ、純粋に、誰かに認めてほしかっただけなのだ。上下も何もない、雪ノ下雪乃という人間を、誰かに認知して欲しかったのだ。
外見やステータスで嫌ったりせず、外見やステータスで褒められたりせず、雪ノ下雪乃という本質を誰かに見て、触れて欲しかった。
私だってちゃんと生きて、ちゃんと努力しているという事をクラスメイトにも、家族にも知って欲しかった。
私は私しかいないのだと、そう思って欲しかった。
「だからさ。"クールビューティーにはクールビューティーの"良いところがあるんだなって気づけた。だから友達になりたいと思った。一度遊べば友達みたいなものだろ?」
その言葉がずっしりと重みとなって心に沈んでいく。
深く、深く、見えないところまで沈んでいく。
私の心はきっと雪の下に隠れてしまっているのだろう。白く、冷たい表層に覆い隠されているのだろう。
小学生という未熟な精神をした者たちには、きっとそれを見つけることはできない。誰もがその雪ばかりを見て満足してしまうから。誰も、その下に眠る雪を見ようとしない。もしかしたら、真っ白じゃない雪が出てくるかもしれないのに。すべて同じと断定して、そこで決めつける。
陽になると幸せが訪れると思い、陽を育てる冬を軽視する。
「そうね。あなたがそこまで言うのなら、知り合いくらいにはなってあげても良いわよ」
彼なら見つけてくれるだろうか、こんな雪に塗れた心を___。
「え、そこから?」
「私、あなたみたいな頭の弱い人好きじゃないもの」
彼なら掘り返してくれるだろうか、陽に埋もれてしまったわたしの心を___。
「ウゲー! クールビューティーさてはお前口が悪い奴だな!」
「今更ね。私はこういう人間よ」
彼なら解かしてくれるだろうか、こんなにも冷たい雪の世界を___。
「よし、今日からお前の渾名は氷の女王だ! 何年後かにヒットしそうな名前を与えてやる」
「そんな不名誉なあだ名なんていらないわ。それにあなたの壊滅的なネーミングセンスを披露されなくても、私にはきちんとした名前があるのよ」
騒々しい彼を一笑に付す。そんな私を見て彼はまた微笑んだ。
この男に理屈は通用しないのだと知った。この男に論理は働かないのだと分かった。
人はいつだって理的ではいらない。時に情的な動きをし、理屈がまかり通らない事をやってのける。正しいことばかりを行うのは神様で、間違いを犯してしまうのはいつだって人間だ。それが人間という生物であり、それが生きるということなのだと再認識できた。
「おーい。どこ行くんだよ」
私の背中に声がかかる。それは私にとって不慣れな行為。
ここから始めよう。大丈夫、自分の過ちを認識できたのだから、これからはうまくやれる。
「運動場よ。私、体力ないからドッチボールは嫌なの。どうせならブランコにしましょ?」
その日、私は初めて「友達」という言葉を調べました。
そこにはこんな一節が書かれていました。「同等の人として交わっている人」と。
「……おう!」
その日、私は初めて「友達」というものを知りました。
× × ×
「お前さ、友達いんの?」
隣に座る男がそんな事を聞いてきた。私という人間を彼はある程度、見定めようとしているのかもしれない。
私は「友達」という単語を聞いて、先ほどまで読み進めていた単行本をパタリと閉じる。男はそんな私を恐れたのか、「ひっ」と短い悲鳴をあげて身構えた。
それがなんとなく不躾に見えて、なんとなく彼を思い出してほくそ笑む。
「そうね。まずはどこからどこまでが友達なのか定義してほしいところだけど、たった一人思い浮かべれたわ」
「は、はあ? それは一体どんな奴なんだ?」
「馬鹿」
男は私の言った言葉が聞き取れなかったのか、顔をしかめると、「え?」と気の抜けた声を出す。
確かに、今のでは端的すぎたかもしれない。あれを表現するにはもう一言、足した方が良いのかもしれないと思った。
「真正の馬鹿よ」
私はそう言って、彼の顔を思い浮かべながらクスリと笑うのだった。
ご愛読ありがとうございました。
11月に始まり、なんとか11月に終わらせることができてホッと一安心です。
これから、このSSを続けるかどうかは未定となっています。
一応、プロットには葉山や、陽乃の面々も想定して作っていましたが。
何はともあれ、ここまで読んでいただいたみなさま、並びに評価を押していただいたみなさまには感謝申し上げます。
また、続けばこのSSで、続かなければどこかでお会いいたしましょう。
それでは、さよなら。