「……羽依里くん、うみさん! 朝だぜ!」
……朝。今日も夏海ちゃんの声で起こされる。
って、声の感じが全然違う。思えば、お客さんがいる朝は夏海ちゃんは起こしに来ないんだった。
「……識?」
「やっと起きたかい。おはようだぜ」
そんなことを考えながら、うっすらと目を開ける。開け放たれたふすまと、昇ったばかりの朝日をバックに識が仁王立ちしていた。
「あ、ああ。おはよう」
「しろは先輩に頼まれて起こしに来たんだ。今日からラジオ体操が始まるから、早く起こしてくれとね」
「ふあ……そうだった。おーい羽未、朝だぞー」
俺はあくびを噛み殺しながら身体を起こし、隣で眠る羽未に声をかける。
「うみゅー」
……相変わらず眠そうだけど、頑張って起きてもらわないと。初めてのラジオ体操、初日から遅刻させるわけにはいかない。
「……ところで羽依里くん、その、らじお体操ってのはなんだい?」
「え、識はラジオ体操を知らないのか?」
やっとこさ上半身を起こした羽未の髪を手櫛で梳いていると、識がそんなことを言ってきた。今時珍しいな。
「じゃあ、識も羽未と一緒にラジオ体操に参加したらいいよ。今日から参加すればログボももらえるしさ」
「よくわからないけど、羽依里くんがそう言うなら参加してみることにするよ」
識はまっすぐな笑顔を返してくれた。この島のラジオ体操は少し変わっているけど、健康に良いらしいし、朝ごはんは美味しくなる。
おまけにログボももらえるとなれば、参加しない手はないと思う。
「準備ができたら声をかけるからさ。識もでかける用意はしておいてくれよ」
「ああ、了解したぜ!」
元気な返事を残して廊下の先に消えていく識を見送って、俺と羽未も出かける準備に取りかかった。
「……ほら羽未、急いで急いで」
「いそげー!」
「……ご主人。忙しいところすまない」
羽未と一緒にバタバタと家の中を走り回っていると、帰り支度を整えたらしい霧島姉妹から声をかけられた。
「ああ、すみません。朝から騒々しくて」
「いや、我々の方こそ朝早くから動いてすまないな。ところで、宿代を支払いたいのだが」
「お支払いですね。こちらでお願いします」
羽未の支度をしろはに任せて、お客さんを玄関口へと案内する。そこにはしろは食堂から運んできたレジスターが置いてある。
「夕食代込みまして、お二人で10000円になります」
「ああ、これで頼む」
「はい。ちょうどお預かりします」
俺は慣れた手つきでレジを操作して、代金を受け取る。食事代込みでこの金額は安すぎると言われることもあるけど、食材のほとんどは貰い物だし、民宿はこれくらいの値段がちょうどいいと思っている。
「じゅんび、かんりょー! おとーさん、はやくいこー!」
ちょうどレジ処理が終わった時、準備を終えたらしい羽未が元気に表に飛び出していった。
「今日は何かあるのぉ? うみちゃん、すごく嬉しそうだねぇ」
「ぴこぴこー」
ポテトと一足先に表へ出ていた佳乃さんが、そんな羽未を見ながら不思議そうに首をかしげていた。
「特に特別なイベントがあるわけではないんですが……今日から島のラジオ体操が始まるんですよ」
「え? ラジオ体操がそんなに楽しみなの?」
「そうなんでしょうね。あの子にとって、初めてのラジオ体操ですから」
初めての夏休みの、初めてのラジオ体操。楽しみじゃないはずがない。
「……ふむ。その気持ち、理解できるな。佳乃も初めてのラジオ体操の時は、あの子と同じようにはしゃいでいたものだ」
「えー、そうだったかなぁ?」
話を聞いていた聖さんが口元に手を当てながら、どこか懐かしむようにそう言っていた。
「あの頃の佳乃はかわいくてな。いや、今も十分にかわいいが。はやる気持ちを抑えきれずに、まるで子犬のように私の周りをくるくると回っていたものだ」
「も、もう! 恥ずかしいから昔話はやめてよぉ!」
話を聞くうちに佳乃さんも昔を思い出したんだろう。赤面したまま、バンダナのついた右手をぶんぶんと振り、必死に話を遮っていた。
「それじゃ、しゅっぱーつ!」
朝一番の船に乗るという霧島姉妹を見送った後、俺は羽未と識を連れ立って神社へと向かう。朝から蝉が空を叩くように鳴いているし、今日も暑くなりそうだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ついたー」
「おお……さすが皆、揃ってるな」
石段を登って境内に辿り着くと、そこには島の子供たちの他、良一やのみきといった俺の友人たちが集まっていた。
「羽依里さん、おはようございます!」
「今日がラジオ体操の初日ですからね。皆、気合入ってるみたいです」
一番に挨拶してくれたのは、夏海ちゃんと堀田ちゃんだった。その手には既にスタンプカードが握られている。
「あ、もうスタンプカードを配ってるんだね」
「はい! 今年は藍さんが配ってくれているみたいです!」
夏海ちゃんが指差す先、子供たちに囲まれている藍の姿があった。
「ああ、今年は藍が配っているのか」
「……そうなんだ。例年なら役所が配るんだが、今年は学校側に負けてしまったんだ」
……その時、背後から声がした。思わず振り返ると、明らかに意気消沈したのみきが立っていた。
「学校には今年の春、新しいプリンターが入ったらしいからな。くぅ……やはり、最新機種には勝てない……」
のみきは悔しそうに肩を震わせていた。その肩を良一が優しく抱く。
この島のラジオ体操では初日にしかスタンプカードがもらえない決まりになっているんだけど、もしかしてそのスタンプカードも学校と役所で出来栄えを争っているのかな。なんか大変そうだ。
「確かに綺麗なスタンプカードなんですよね。ほら、見てください」
そんなことを考えていると、夏海ちゃんが持っていたスタンプカードを見せてくれた。ひげ猫やスイカバー、かき氷といった色鮮やかなイラストが描かれた、可愛らしいスタンプカードだった。
「もしかしてこれ、藍の手作りなのかな」
「そうですよ。はい。どうぞ」
そのスタンプカードを手に取って覗き込んでいると、藍がこっちにやってきて羽未にスタンプカードを渡してくれた。
「藍ってば、昨日は夜遅くまで学校に残ってこれを作ってたのよー。大事に使ってあげてねー」
「あ、蒼ちゃん……! それは秘密にしておいてくださいと言ったのに……」
「あれー? そうだったかしらー」
恥ずかしそうな姉を尻目に、蒼はイタズラっぽい笑みを浮かべていた。よく見れば、藍の目の下にはうっすらとクマができている気もする。
「わざわざ残って作ってたのか、先生は大変だな」
「せっかく最新機種があるんですから、使わない手はありませんよ。ところで、識ちゃんもラジオ体操に参加するんです?」
「ああ、そのつもりだぜ?」
「そうですか。でしたらスタンプカードをどうぞ」
「藍先輩、ありがとう!」
藍から差し出されたそれを、識は両手でしっかりと受け取っていた。
「それで、これはどう使うんだい?」
「ああ、これはね……」
……受け取ったスタンプカードをしげしげと眺めていた識に、俺はその使い方を教えてあげる。ラジオ体操が初めてということは、スタンプカードも初めてなんだろうし。
「……つまり、この台紙に判子を押してもらえば、その日の景品がもらえるわけだね!」
「そういうことだな。ちなみに、その景品を用意するのは……」
「……鷹原に藍、ちょっといいか?」
識にスタンプカードの説明をしていたその時、のみきから声をかけられた。
なんだろうと思いながらついていくと、そこには青年団の皆が集まっていた。
「お、羽依里も来たか」
「ラジオ体操大好きさんが来る前に、話を詰めるぞ」
そう言う良一と天善は、どこか気乗りしていない感じがした。
「これ、何の集まりなんだ?」
「何って、ログボ担当の割り振りに決まってるじゃない」
不思議に思いながら聞いてみると、集まりの中心にいた蒼がさも当然のような顔で言う。
「あ、そうか。それがあったな……」
……羽未のことばかり気にして、そっちを完全に忘れていた。
この島のラジオ体操で参加賞として配られるログインボーナス……通称ログボは、青年団の俺たちが毎回用意することになっている。
しかも、当番制。下手なものを用意すれば、純粋な島の子供たちから容赦ないダメ出しを食らうわけだ。
かつて何も知らずにラジオ体操に参加していた頃は、誰が毎日このログボを用意してくれるのか不思議だったけど……実はそんなからくりがあったなんて。
「こういう時、藍や蒼はいいよなー。駄菓子屋のお菓子を横流しするだけで良いしよー」
「横流しってアンタ、言い方が悪いわね……」
「むぎゅ? 横流ししていいのなら、わたしも漂着物を横流ししたいのですが」
「紬、それは駄目よ。たとえ賞味期限が大丈夫な缶詰でも、それは駄目」
良一と蒼の会話を勘違いしたらしい紬がそんな案を出していたけど、静久が笑顔で止めていた。ログボが漂着物。色々と問題がある気がする。
「ちゃんとした品物を用意してくれるのであれば、是非紬にも参加してほしい。ログボの準備要員は多ければ多いほどいいからな」
「わかりました! せっかくなので、シズクも一緒にログボを用意しましょう!」
「そうね。紬に誘われたら断れないし、私も協力するわ。早朝のラジオ体操だし、しぼりたて牛乳とかどうかしら」
確かに子供たちは喜びそうだけど、しぼりたて? 一体どこから手に入れるんだろう。島のどこかに、酪農をやってる人でもいるんだろうか。
「ねぇねぇ。私もログボ、用意していいかな?」
その時、静久の背後から鴎がひょっこりと顔を覗かせた。彼女は青年団には所属していないんだけど、どうやらログボに興味津々みたいだ。
「いいのか? 鴎は渡りの人なのだから、気にしなくていいんだぞ?」
それを聞いたのみきが驚きの声をあげる。ちなみに渡りの人というのは、島に長期滞在する人を指す島の言葉だ。現状だと、主に鴎と夏海ちゃんがそれにあたる。
「硬いこと言いっこなし! 島の子供たちにはお世話になってるから、お返ししたいの! のみきさん、お願い!」
のみきの手を取りながら、鴎はそう懇願する。恐らく、純粋にお返しがしたいんだろう。あの性格、いつまで経っても変わらないな。
「そうか……それなら、お願いするとしよう。先も言ったが、ログボを提供してくれる人間は多いほどいいからな」
「まかせといて! たくさんの三角形の秘密を用意してあげる!」
提案が了承されて、鴎は嬉しそうだった。のみきも何やらメモを取っているし、この計画の元締めはのみきなんだろう。
「あのー、私もログボ、用意していいですか?」
……直後、俺たちの輪の外から小さな手が上がってそんな声が飛んできた。この声は夏海ちゃんだ。
「え、夏海ちゃんも?」
「はい! 鏡子さんと作った野菜がたくさんあるので、おすそ分けしたいんです!」
うちも毎日のように野菜を分けてもらっているし、岬農園はあの広さだ。ログボを用意するくらい、造作もないのかもしれない。
「わかった。それじゃ夏海ちゃんや鴎も提供者リストに加えておこう。詳細はまた追って連絡させてもらうよ」
「よろしくお願いします!」
やる気満々の夏海ちゃんを見ながら、のみきは先程と同じようにメモに何やら書き込んでいた。たぶん、後々役所の方で順番をまとめてくれるんだろう。
「……ところで、俺はどうしようかな」
提供してくれる人数にもよるけど、ひと夏の間に大体2~3回はログボの順番が回ってくる。
去年は確か、良一から回してもらった魚の干物とか、しろはが作った漬物とかを出したんだけど、子供たちの反応は微妙だった。
正直駄菓子屋の品物が一番喜ばれるんだけど、お金をかけすぎるのもどうかと思うし……。
「羽依里くん、さっきから何の話をしているんだい?」
ああでもないこうでもないと考えを巡らせていると、識が俺たちの方を覗き込んできた。
「いや、ラジオ体操のログボの話を……って、そうだ識、ちょっとこっちに来て」
「ぶえ!?」
そんな識の顔を見た時、頭に一つの考えが浮かんだ。俺は識の手を取ると、そのまま皆の前へと誘う。
「皆にちゃんと伝えておきたかったんだけど、識は俺の親戚になる子でさ。この夏の間、うちで預かることになったんだ。よろしくお願いするよ」
俺は昨日の一件を踏まえて、改めて識を皆に紹介する。ちなみに識が記憶喪失だということは秘密にしておいた。皆に必要以上に心配をかけないようにと、しろはを含めた三人で取り決めたことだ。
「……なるほどな。ここ数日島でよく見かけると思ってはいたが、そういうことだったのか」
「鷹原の親戚ということなら、この島に少なからず縁があると言うことだ。識、改めてよろしく」
「識、よろしくねー」
少し無理があるかなとも思ったけど、どうやら杞憂だったらしい。皆は笑顔で識を島の一員として迎え入れてくれていた。
「……よーし! お前ら、一年ぶりだな! 今年もラジオ体操を始めるぞ―――!」
胸をなで下ろしていた矢先、ラジオ体操大好きさんがやってきた。スタンプカードも子供たちに行き渡ったみたいだし、今年もラジオ体操が始まる。
「第一の体操! 耳介筋の鍛錬!」
「……羽依里くん、ジカイキンってどこだい?」
「耳の辺りらしいぞ。ほら、羽未がやってるみたいにやるんだ」
初めての体操に識が困惑する中、羽未は識の隣で、ぴくぴくと耳を動かしていた。
「よしゅー、ばっちり」
そして誇らしげな顔をする。羽未もラジオ体操に参加するのは初めてのはずなんだけど。学校で上級生にでも教えてもらったんだろうか。
「第二の体操! 横隔膜の振動だ! うるああああぁぁぁー!」
「うるるあぁぁぁぁーーー!」
「第三の体操! 一秒間! 真剣な目!」
「じーーーーー……!」
……若干の内容変更はあるものの、島のラジオ体操は俺が初めて参加した頃からあまり変わっていない。
これまでもログボを用意する傍ら、何度も参加しているし。すっかり慣れたものだった。
「よーし、今日のラジオ体操はここまで―!」
「「ありがとうございましたーーー」」
「さあ、スタンプはこっちだぞー」
やがて今日のラジオ体操が終わり、子供たちがスタンプとログボを受け取っていた。
「おとーさん、みてー!」
一番にスタンプを押してもらった羽未が嬉しそうに走ってきた。記念すべき、第一号スタンプだ。
「羽未、良かったな」
「うん!」
「こんな感じに台紙を判子で埋めていくんだね。全て埋まったら、さぞかし壮観だろうね」
跳ねるようにしてやってきた羽未に続いて、識が自分のスタンプカードを眺めながら戻ってきた。
「めざせ、スペシャルスタンプ!」
羽未がスタンプカードを頭上に掲げながら、そう意気込んでいた。
ちなみにスペシャルスタンプとは、15個のスタンプを溜めると押してもらえる、ビッグサイズのスタンプのこと。皆勤賞を目指すにあたって、最初の目標とも言えるスタンプだ。
「ログボ目当てに通っていれば、おのずと溜まっていくよ。二人とも、皆勤賞を目指して頑張れ」
「うん!」
「もちろんさ!」
揃って笑う。どうしてか、不思議と姉妹みたいに見えてしまった。
「あ、うみさんに識さん、ログボを忘れていますよ!」
二人を見ながら温かい気持ちになっていると、夏海ちゃんが両手に黒い小瓶を抱えてやってきた。なんだろうあれ。
「夏海ちゃん、それ何?」
「小林さんお手製の海苔の佃煮らしいです! 美味しそうですよね!」
「それは私が頼んで用意してもらったんだ。おにぎりの具にすると絶品なんだぞ」
いつの間にかのみきがすぐ近くにやってきていて、そう教えてくれた。小林さんはなんでも手作りしてしまうすごい人なんだけど、佃煮まで作っているのか。これは、しばらくごはんの友には困らなそうだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
スタンプもログボも受け取り、良い感じにお腹も空いた。そろそろ頃合いだと思った俺たちは、三人並んで家路に就く。
「おなか、ぺこぺこー」
「もう少しで家だぞ。運動した後のごはんは美味しいんだ。頑張れ」
「うん!」
そう鼓舞すると、両手に握りこぶしを作って気合いを入れていた。それで力が入ったのか、羽未のお腹がクーと可愛い音を立てた。
「うみゅ……」
「はは、もう少しだから頑張って」
お腹を押さえて顔を赤くする羽未を慰めながら、俺は今日の予定について考える。
……今日は宿泊の予約は入っていないから、朝食を済ませたらまずは客室の掃除だろう。ポテトが使った犬小屋も洗って返さないといけないし、午前中は忙しくなりそうだ。
そうそう。忘れずに羽未のイベントも用意してあげないと。やるとしたらお昼からだけど、何をしようかな……。
……その時、羽未とは反対方向から少し大きな腹の音が聞こえた。
「ぶえぇ……」
「識もお腹空いたのか」
「そ、そりゃそうさ。慣れない体操をしたからね」
識は視線を外しながらそう言う。やっぱり女の子だし、恥ずかしいんだろう。
「そうだ識、朝ごはん食べ終わったら、昨日みたいに民宿の仕事を手伝ってくれない?」
思えば、今日からは識が居たんだ。料理の腕前は昨日見せてもらったし、もしかしたら掃除や洗濯もお願いできるかもしれない。識が手伝ってくれるんなら、午前中からでも羽未のために動けるかも。
「……悪いけど、お断りするよ」
「え?」
「確かに、一宿一飯の恩は返さなきゃならない。けど、僕は働きたくないんだ!」
高らかにそう宣言されてしまった。良い返事を期待していただけに、面食らってしまう。
「えぇ……昨日は手伝ってくれたのに」
「昨日は夏海先輩からのお願いだったからさ。仕方なくだよ」
……そうだった。そういう取り決めになっていたのを忘れていた。じゃあ、民宿の仕事はお願いできないわけか。弱ったなあ。
「え、私がどうかしたんですか?」
そのタイミングで夏海ちゃんが会話に入ってきた。どうやら、すぐ後ろを歩いていたらしい。
「ああ、夏海ちゃん。実はね……」
……俺は識との会話をそっくりそのまま夏海ちゃんに話して聞かせた。
「……むぅ。識さん、私の願い事、ちゃんと叶えてくれないと困ります!」
その話を聞いて、夏海ちゃんは不満そうな顔をしていた。
「夏海先輩、ちょっと待っておくれよ! その願いは昨日で終わったはずだよ!?」
「……あれ? 私、昨日だけって言いましたっけ」
「ぶえ!?」
「あー、言われてみれば……」
……俺は昨日の夏海ちゃんの台詞を思い返してみる。
ーー識さん、今から羽依里さんの仕事を手伝ってあげてください!
……確かにあの時、夏海ちゃんは識に俺の仕事を手伝うようにお願いしただけで、特に期間とか決めていなかった気がする。
「それじゃあ、改めて期限を決めましょう! 識さんはこの夏の間、羽依里さんの仕事を手伝ってあげてください!」
「お、鬼だ……夏海先輩、キミは鬼だよ……!」
笑顔の夏海ちゃんにそう言われて、自称鬼の子はがっくりと肩を落とした。いつものようにぶええ言いながら走り去らないところを見ると、走り去ったところでどうにもならないと理解しているんだろう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ただいまー!」
「あ、三人ともおかえり」
住宅地の途中で夏海ちゃんと別れて、加藤家の門をくぐる。それと同時に味噌汁のいい匂いが漂ってきた。
「おかーさん、みてー!」
羽未は玄関で靴を脱ぐと、そのまま台所のしろはの元へ向かい、もらったばかりのスタンプカードを見せていた。よほど嬉しかったんだろう。
「あ。スタンプ、しっかりと押してもらってきたんだね」
「うん!」
「これは羽未ちゃんが頑張った証だから、しっかりと続けなきゃ駄目だよ」
「えへへ、がんばるー」
しろはは調理する手を止めて、羽未と目線を合わせてそう言い、優しく頭を撫でてあげる。羽未もとろけそうな笑顔を見せていた。
俺と識はそんな様子を微笑ましく見ながら、母子の時間を邪魔しないよう、静かに洗面所へと向かった。
……それから手を洗って居間に戻ってくると、食卓には朝食が用意されていた。
ご飯に卵焼き、かつお節の乗った山菜のおひたし、シイタケとキャベツが入った味噌汁。相変わらず美味しそうだ。
「ところで、この黒い瓶は何?」
最後に急須と湯呑みを運んできたしろはが、食卓に置かれた瓶を不思議そうに見ていた。
「今日のログボだよ。海苔の佃煮だってさ」
「もしかして、小林さんちの佃煮かな。おいしそう」
……正解だった。さすがしろは、瓶を見ただけで作った人までわかるのか。我が妻ながら恐るべし。
「おかずはたくさんあるけど、少し食べてみない?」
俺はそう言いながら、小瓶の蓋を開ける。市販の佃煮とは全く違う、濃厚な磯の香りが広がった。
「おかーさん、おにぎりがいい!」
「え? おにぎり?」
その直後、一度は食卓に着いていた羽未が立ち上がってそう口にしていた。急にどうしたんだろう。
「のみきさんが、おにぎりにすると、さいこーだって」
……そういえば、そんなことを言っていた気がする。のみきはおにぎりが大好きだし、小林さんの佃煮、さぞかしお気に入りなんだろう。
「じゃあ、僕がおむすびにしてあげるぜ! しろは先輩、台所を借りるよ!」
言うが早いか、識は佃煮の入った小瓶と羽未のお茶碗を持って台所へと消えていった。
突然の出来事に俺としろはが呆気に取られていると、数分と経たないうちに綺麗な三角形に握られたおにぎりを持って戻ってきた。
「へぇ、うまいもんだな」
「にへへー、おむすびは得意料理だからね! うみさん、さっそく食べてみておくれよ!」
「いただきまーす!」
羽未はできたてのおにぎりを受け取ると、きちんと挨拶をしてから、勢いよくかじりついた。
「んー、おにぎり、おいしいー!」
「うみさん、僕が作ったのはおにぎりじゃないぜ。人と人を結ぶ、お結びさ」
「おむすび、おいしいー!」
思わず飛び跳ねて、全身で喜びを表現していた。どうやらお気に召したみたいだ。
「羽未ちゃん、嬉しいのはわかるけど、落ち着いて食べないと。ほら、ちゃんと座って」
「うん!」
羽未はきちんと座りなおして、もう一度おむすびにかじりつく。その様子を見ながら、俺たちも各々挨拶をして食事を始めた。
「んー、おいしいー」
羽未は味噌汁を一口すすった後、満面の笑みでおむすびを頬張る。
ほっぺに米粒がつくもの気にせずに夢中で食べている羽未を見ていると、こっちまでおむすびが食べたくなってくる。
「そうだ。せっかくだし、羽依里くんのご飯もおむすびにしてあげようか?」
「え?」
その時、まるで心を見透かされたようにそう言われたけど、すでに自分のご飯は半分以上食べてしまっていた。
「今日はほとんど食べちゃったから、明日にでもお願いしようかな」
「おねーちゃんのおむすび、まいにちたべたいー」
俺がそう言うと、羽未が間髪を入れずにそう付け足してきた。本当、識のおむすびが気に入ったみたいだ。
「うみさんがそう言うなら、毎日作ってあげるぜ! しろは先輩、構わないかい?」
「え? うん、いいけど……」
そう提案する識は嬉しそうだった。確かに羽未みたいに喜んで食べてくれたら、作り甲斐もあるというものだろう。
……そんな光景を見ながら朝食を堪能していると、居間の電話が鳴った。こんな時間に誰だろう。
『はい。もしもし』
『あの、加藤家さんですかっ』
『あ、はい。民宿加藤家です。お電話ありがとうございます』
……どうやら、宿泊予約の電話らしい。本格的な夏休みに突入したこともあって、電話も多くなってきた気がする。
『7月29日なんですけど、空いてますかっ?』
『はい。空いてますよ。何名様でしょうか』
『3人なんですが、構わないですか?』
『最大で5人まで泊まれますので、大丈夫ですよ。では、代表者さんのお名前をどうぞ』
『芳野です。芳野公子といいますっ』
『芳野……公子様……三名様ですね。当日、お夕飯はどうされますか?』
「お姉ちゃん、ヒトデの島にいけるですかっ!?」
『ちょ、ちょっとふうちゃん、まだ電話中だから。それに、ヒトデの島じゃないからね』
……なんか電話の向こうで声がしてる。ヒトデの島?
『……失礼しました。夕食なんですが、用意してもらえますか? 夕方には行けると思いますので』
『かしこまりました。それでは、お越しをお待ちしています』
そして電話を切る。電話の女性はおしとやかな感じだったけど、その向こうでやけに賑やかな声がしていた。聞いていた感じ、妹さんかな。
「しろは、宿泊の予定が入ったよ。明日の夕方に三名様。夕飯希望だって」
「わかった。用意しておくね」
しろはも近くに置いてあったメモを手に取って、さらさらと要点を書き記していた。
「……あれ?」
それを横目に見ながら食卓に戻ると同時。また電話が鳴った。今日は忙しいな。
『もしもし』
『おはようございます。民宿加藤家はそちらですか?』
『はい。民宿加藤家です。お電話ありがとうございます』
どうやら、また予約の電話みたいだ。続けてなんて珍しい。
『今月の29日なんですが、宿泊の予約をお願いできませんか』
『あ、申し訳ありません。その日は既に先約が入っていまして』
『そうですか……でしたら、31日はどうでしょう?』
『その日なら空いていますよ。何名様でのご利用でしょうか?』
『5人です。そのうち、女性が4人、男性が1人です。相部屋で構いません』
『承りました。代表者のお名前をいただいてよろしいですか?』
『水瀬秋子といいます』
『水瀬……秋子様ですね。当日ですが、夕飯はどうされます?』
『そうですね。お願いしましょうか。夕方までにはそちらに行きますので』
先程と同じように、しっかりと事前情報を聞いておく。男女混ざってるらしいけど、相部屋でいいところからして、たぶん家族なんだろう。
『それでは、お越しをお待ちしています』
……電話を切る。今度の予約は5人か。夕飯希望だし、31日は忙しくなりそうだ。
「……この宿場、大人気だね」
再び入った予約の詳細をしろはに伝えていると、識がニコニコ顔でそう言ってきた。
「夏休みだし、今日はたまたまだよ」
急に気恥ずかしくなって、俺はひらひらと手を振りながらそう誤魔化しておいた。この宿、まだそこまで知られていないはずなのに。
……そういえば、先日の天王寺先生のブログとやらはどうなったんだろう。俺はコンピュータは詳しくないし、今度のみきや藍にでも聞いてみようかな。あの二人、よく仕事で使うって言うし。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……朝食を済ませた後、しろはに羽未の宿題を見てもらいながら、俺は客室の掃除に向かった。
シーツを洗濯に出して、布団を干した後は、畳をほうきで簡単に掃く。例によって綺麗に使われていたので、大した時間はかからなかった。
それからは庭に出て、ポテトが使った犬小屋を洗い、ある程度乾いたところで高橋さんの家へ返しに向かった。
「おかげで助かりました。これ、大したものじゃないですけど」
「ボロボロの犬小屋を洗ってくれるだけでもありがたいのに、わざわざ野菜までもらっちゃって悪いわねぇ」
「いえ、せめてものお礼です」
そして犬小屋と一緒に、しろはから託された野菜を手渡す。今朝は夏海ちゃんが来ていないから、採れたて新鮮……とはいかないけど、せめてもの気持ちだ。
「それじゃ、俺はこれで」
「あ、ちょっと待って。空門さんちの蒼ちゃん、また若い男の人と歩いてたって聞いたんだけど本当かしら?」
「え、どこからそんな話が?」
思わぬところで知った名前が出てきて、俺は思わず足を止める。
「ウチの旦那が港で見かけたらしいのよー。いかにも観光客っぽい人と歩いてたんだって」
「ああ……」
それは多分、普通に観光客を道案内してただけだと思う。蒼って強く頼まれたら断れない性格だし。
「蒼ちゃん、美人でしょー。あたしゃ、変な虫がつかないか心配でねぇ……」
「それはその、藍がいる限り大丈夫だと……」
「そのお姉さんが心配するのも分かるのよー。小さい時から一緒にいるのを見てきたからね。でも思うの。空門の家を守るってのも大事かもしれないけど、一番はあの子の幸せよ。羽依里くんもそう思うわよね?」
「え、ええ。まぁ……」
「良い感じの知り合いがいれば紹介するんだけどねぇ……そうそう。幸せといえば、灯台の紬ちゃん。誰かとお付き合いしてるって話聞かないかい? あれだけ良い子なんだし、そろそろ良い男性が見つかっても良いと……」
……しまった。高橋さんがお喋り好きなのをすっかり忘れていた。
逃げるタイミングを完全に逃した俺は、しばらくの間、高橋さんとの世間話に付き合う羽目になったのだった……。
「……はぁ。犬小屋を返しに行っただけなのに、予想以上に時間を食ってしまった……」
へろへろになりながら加藤家に戻って来た時には、家を出てから一時間以上が経過していた。うう、本来なら、この時間には庭の掃除を含めて、全部終わらせておく予定だったのに……。
「おとーさん、おかえりー」
「羽依里くん、戻ったのかい」
そんなことを考えながら庭の片づけを続けていると、羽未と識が蔵から出てきた。どうやら識は宿題が終わった羽未を連れだって、もう一度蔵の掃除をしていたらしい。
「……あれ? 識、その格好はなんだ?」
見ると識は制服に着替えていた。朝は着物姿だったはずだけど、いつの間に着替えたんだろう。
「着物姿じゃ、さすがに島でも目立つしね。しろは先輩が昔使っていた制服を貸してくれたんだ」
そう言って俺の前でくるっと回ってみせる。制服の上に羽織った花柄の着物がふわりと舞う。
「すごく動きやすいよ。その、少し大きい所もあるけどね」
「ああ……」
俺は思わず識の胸を見やる。しろははああ見えて、着やせするタイプだったから。
「……羽依里くん、どこを見てるんだい?」
「え? いや、ごめん」
それこそ鬼のような鋭い目で睨まれてしまった。そんなつもりじゃなかったのに。
慌てて視線を外すと、識の首から下げられた袋のようなものが目についた。
「……あれ、その首から下げてるのは?」
「よくぞ聞いてくれたね。これはおむすびポーチさ!」
気付いてほしかったんだろうか。先程までの不機嫌そうな顔が一転、笑顔になった。
「これにおむすびを入れておけば、いつでもおむすびが食べられるんだぜ!」
「かっきてきー」
見ると、羽未も同じものを持っていた。おむすびポーチ?
「そんなの、どこにあったの?」
「蔵の中さ。今朝、掃除していたら見つけたんだ。しろは先輩に聞いたら、自由に使って良いと言われたよ。うみさんとお揃いだぜ」
「おそろいー」
羽未も同じものを大事そうに持っていた。どっちも似合うなぁ。
「しーーーろーーーはーーー! うーーーみーーー!」
……その時、玄関の方から声がした。この声はもしかして。
「ひーじーじー!」
その声を聞いた羽未が玄関へ走っていった。俺もそれに続くと、玄関にしろはのじーさんが立っていた。
「ひーじーじー、おはよー!」
「おお、羽未ーーー!」
勢いよく飛びついた羽未をがっしりと受け止めて、そのまま持ち上げる。相変わらず、すごい力だ。
「おじーちゃん、おはよう……って、その箱は何?」
少し遅れて、家の中からしろはがでてきた。直後、その足元に置かれた段ボール箱に視線を送る。俺も気にはなっていたけど。
「ああ、羽未にまたお菓子を買ってきたんだ」
「そうなんだ。羽未ちゃん、またひーおじーちゃんがお菓子持ってきてくれたよ。お礼を言ってね」
「うん! ひーじーじ、ありがとー!」
「おーおー、たくさん食べて、大きくなるんだぞー」
普段は強面のじーさんがデレデレだ。本人は気づいていないんだろうけど、あの表情は羽未にしか見せない。
「……でも、そろそろお菓子は勘弁してほしい、かな……」
胸元まで持ち上げた箱を覗き込みながら、そう呟いたしろはの言葉を俺は聞き逃さなかった。
つい先日も大量にお菓子をくれたらしいし、はっきり言って供給過多になってると思う。羽未も素直に喜んでいるし、俺たちとしてもありがたいだけに、難しい所だ。
「……それで、おじーちゃんはわざわざ羽未ちゃんに会いに来てくれたの?」
「それもあるが、山に行く用事があってな。その途中に寄ったんだ」
「え、山?」
「ああ。今日の昼、役所前で流しそうめんをやるそうじゃないか。その準備をしようと思ってな」
流しそうめん? 初耳だ。ラジオ体操の時も、そんな話はしていなかった気がするけど。
「じゃあ、今から竹を切りに行くの?」
「そうだ。三谷のせがれに車を出すように言ってある。今から準備すれば、昼に間に合うだろう」
「……つまり、竹取の翁になるわけですか。頑張ってください」
それまで聞き役に徹していたけど、そこで思わずそう口にしていた。
今は昔、竹取の翁といふものありけり……って見出しの物語があった気がする。まさにそのまんまだ。
「……何を言っている。お前も来るんだ」
「え、俺もですか?」
さも当然のように言われた。今ここに、竹取の羽依里といふもの爆誕。
「竹取り、面白そうだね。僕もついて行っていいかい?」
その時、それまで俺の後ろでやりとりを拝観していた識が唐突に口を挟む。
「む? お前は誰だ」
「僕は識さ」
「わしは小鳩という。なるほど。加藤の家に昨日から居候している鬼の娘というのはお前か」
じーさんは識を見ながら、納得したように頷いていた。ところで、いつの間に識の情報がじーさんの耳に入ったんだろう。俺、誰にも話した覚えがないんだけど。
「その通りさ。よろしく、小鳩先輩!」
一方の識はそんなことを気にする様子もなく、元気にじーさんに挨拶していた。そしてまさかのタメ口。これは怒られるかも。
「……ふっ。先輩……か。実に懐かしい響きだ。死んだばーさんも、初めはそう呼んでいた」
……あれ? 怒ってない。むしろ、気に入られたような気がする。
「だが、女子供に山は危険だぞ?」
「心配してくれているのかい? 大丈夫さ。山は得意なんだ」
「大層な自信だが、野生の猪を前にしても同じことが言えるのか?」
「こう見えて、この島に古くから伝わる武術の心得もあるのさ」
……これまた初耳だ。武術? 識は華奢な身体だし、合気道みたいに相手の力をいなすのかな。
「ほう。それは頼もしいな。では、龍神岩砕波の発動に置いて注意すべき体の部位は?」
……りゅうじんがんさいは?
「そんな技は知らないよ。竜神破岩衝ならわかるけどね」
……りゅうじんはがんしょう?
「……どうやら、ハッタリではなさそうだ。いいだろう。一緒に来るがいい」
俺には全く意味不明な単語が並んでいたけど、どうやら二人はそれだけでわかり合えたみたいだ。
「うみもいくー!」
「駄目だ」
「えー」
その場の流れを見て、羽未もその小さな身体全体で参加を表明するけど、さすがにじーさんに一蹴されていた。
「うみさん、山の中は危険なんだ。もし野生動物に襲われたらどうするんだい?」
「うー……」
続いて識が優しく論じていた。さすがに野生動物と遭遇することは稀だろうけど、竹が生えているような山奥となると足場も悪いだろうし。こけて怪我でもしたら大変だ。
「……だから、入口まで一緒に行こう。羽未さんはそこで、僕たちが無事に戻ってくるのを待っていてくれないかい? 小鳩先輩も、それなら構わないだろう?」
「……そうだな。入口までなら良しとしよう」
「やったーーー!」
……急転直下。同行の許可をもらえた羽未は嬉しさを爆発させていた。
先の話によると、良一たちもいるらしいし。入口までなら大丈夫だろう。識も自称鬼なのに、優しいじゃないか。
「……それじゃしろは、行ってくるから」
「うん。いってらっしゃい」
「いってきまーす!」
その後、急いで軍手や水筒を用意して、じーさんを含めた四人で山へ向けて出発した。
「♪~♪~♪~」
皆とのお出かけが嬉しくてたまらないのだろう。羽未は俺と手を繋ぎながら、島に伝わる童謡を口ずさんでいた。
その歌に合わせるかのように、首から下げられたおむすびポーチが踊る。その中には、これまたしろはが急いで用意してくれたおむすびが入っている。
「おむすび、たのしみー」
本来の目的は竹切りなんだけど、羽未にとってはピクニックのようなものなんだろう。足取りも軽やかだった。
「……島の古武術は本来、水中で使用した際に最も威力を発揮できるようにしてあるはずだよ?」
「それだと、万が一上陸を許した後が困る。竜神破岩衝・改はその点を補う」
……ちなみに俺たちの前を行く識とじーさんは、ずっと武術の話で盛り上がっていた。なんだろう。単語だけ聞いても、古傷をえぐられるような妙な感覚がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
住宅地を抜けて山に入る。秘密基地のある場所から少し道を逸れて進むと、ひらけた場所に出た。そこには一台の軽トラックが止まっている。
「すまんな。少し遅れた」
「いえ、鳴瀬翁。私たちも今来たところです」
その軽トラックの近くにはのみきと良一の姿があった。良一は既に軍手をはめ、準備万端といった感じだ。
「おっ、今日は羽未ちゃんも一緒か?」
「うん!」
「小さな現場監督って感じだよなー。今日はよろしく頼むな!」
「あいあいさー!」
良一にそう呼ばれて、羽未は嬉しそうに敬礼のポーズをしてから、そのまま近くにあった切り株にちょこんと腰を下ろす。元より森の入口までの予定だったし、羽未にはこの辺りで待っていてもらおう。
「そうだ二人とも、羽未なんだけどさ……」
そして俺は改めて、その旨を良一たちに伝える。
「……なるほど。そういうことなら了解した。羽未ちゃん、おとーさんたちが戻ってくるまでの間、私と水鉄砲で遊ばないか?」
「するー!」
それを聞いた羽未は座ったばかりの切株から元気良く立ち上がる。のみきはそんな羽未に、子供用の小さな水鉄砲を手渡していた。
その様子を微笑ましく眺めていると、のみきの背中に巨大な水鉄砲が背負われている事に気がついた。見間違えるはずがない。あれはハイドログラディエーター改だ。
「その水鉄砲、久しぶりに見たな」
「ああ……長い間、秘密基地にしまい込んでいたが、久しぶりに持ち出してしまった」
俺が指摘すると、のみきはどことなくばつが悪そうな顔で笑う。服装こそ違うけど、やっぱりハイドロはのみきが持ってこそしっくりくる。
「……って、まさかその水鉄砲を羽未に向けたりは……」
「するわけがないだろう。これはあくまで護身用だ。森の近くだし、何が出てもおかしくないからな」
のみきはそう言って、背後の森を見やる。あのハイドロ、中に聖水でも入ってるんだろうか。もし森からゾンビの軍団とか出てきたりしたら、すごく頼りになりそうだけど。
「……む?」
「……はっ」
……その時、一番森に近い所にいたじーさんと識が何かに反応した。
「え、二人ともどうしたの?」
「……獣のにおいがする」
「うみさん、羽依里くんの後ろに隠れているんだぜ」
二人が森から視線を外さずに言った直後、近くの草藪がガサガサと音を立てた。
「……やれやれ。早急にこれを使うことになるのかもしれないな」
俺の隣にいたのみきも、ため息混じりにそう言いながらハイドロを構える。じーさんは持っていたナタを握りなおし、識は見たことのない構えをしていた。まるで漫画の真人の拳だ。さすがにゾンビは出ないだろうけど、何か野生動物がいるのかな。
俺は背中にくっついてきた羽未の背中を後ろ手でさすりながら、音がする茂みを凝視する。
「ゴフゴフー」
「ポーン!」
……緊張感が頂点に達したその時、草をかき分けて二匹の動物が現れた。巨大なイノシシと、青いキツネだ。
「……なんだ。お前たちか」
「驚かせおって」
その正体を確認したのみきとじーさんが気の抜けたような顔をしながら、それぞれの得物を下ろす。
「え、どういうことだい!?」
一方、識だけは妙な構えを解かずに、ひたすらに困惑していた。俺はそんな識を見かねて、説明をしてやることにした。
「識、心配しなくていいぞ。こいつらは人に慣れてるし、襲ってきたりはしない」
「そ、そうなのかい? てっきり、僕のおむすびを狙ってきたのかと思ったよ」
「はは、こいつらはそんな事しないよ。むしろ、農作物を荒らす悪い動物を追い払ってくれるんだ。な?」
「ゴフゴフ!」
「ポポーン!」
俺の近くに寄ってきた猪と狐が元気よく返事をしてくれた。うんうん。相変わらず元気そうだ。
「こっちのイノシシはナベって呼ばれてるんだ。見た目は大きいけど、すごく優しい奴なんだぞ」
こいつは俺が学生の頃、ウリボウだったのを偶然拾ったんだ。
親とはぐれたウリボウは単独じゃ生きていけないということで、イノキングの沢田さんがしばらく面倒を見てくれた後、ナベは山に放された。
でも、小さい頃に人間から受けた恩を忘れずにいて、今ではイノシシの視点から、島の治安を守ってくれているんだ。
「それで、この青い動物は狐なのかい?」
「そうだぞ。キツネのイナリだ。昔はよく蒼と一緒にいたんだ。すごく頭が良いんだぞ」
「ポン!」
「ほ、本当に狐なのかい……?」
種としてのアイデンティティー捨てた鳴き声に識が首をかしげているけど、今やイナリはナベと並んで島の動物界の頂点に君臨する存在だ。
屈指の攻撃力を持つイノシシと、知能の高いキツネ。この二匹がタッグを組めば、島内では向かうところ敵なしだと思う。
「……ところで、お前たちは島のパトロール中か? 俺たちは竹を取りに来たんだ。ちょっと森にお邪魔していいかな?」
「ポン!」
「ゴフ!」
俺が二匹の頭を撫でながらそう伝えると、力強く返事をしてくれた。どうやら了承してくれたらしく、直後に二匹は道を譲ってくれた。
「山の主の許しがもらえたのなら、先に進むとしよう」
それを見て、じーさんが山の中へと歩みを進める。良一も遅れないように、その後をついていった。
「それじゃのみき、羽未の相手、よろしく頼むな」
「ああ、任されたぞ」
羽未に渡したのと同じく、子供用の水鉄砲を取り出しながら、のみきは頷いてくれた。
「そうだ。せっかくだし、イナリとナベも羽未と遊んでやってくれよ」
「ポーン!」
「ゴフゴフー」
こっちからも『まかせといてー』という声が聞こえた気がした。羽未はイナリもナベもお気に入りだし、これだけ友達がいれば寂しくないだろう。
「ほら羽依里くん! 早くしないと置いていくよ!」
少しの間だけ、待っていてくれな……とか思っていたら、先に森へ分け入った識が振り返って俺の名前を呼んだ。
「ああ、今行くよ!」
俺もそんな識に遅れまいと、慌てて森の中へと分け入ったのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
……森に入ってしばらく歩くと、無数の竹が生えた場所に到着した。島の中にこんな場所があったのか。
「よし。ここら辺でいいだろう。今から切るのは、これくらいの太さの竹だ。できるだけまっすぐのがいい」
立ち止まったじーさんが目の前にあった竹を指し示しながら、そう教えてくれた。大体、直径15センチってところか……。
「じーさん、俺にもナタを使わせてくれよ!」
周囲に広がる竹藪の中から手頃なサイズの竹を探していると、良一がそう頼み込んでいた。
「駄目だ。ナタは素人では扱いが難しい。お前たちはこの竹引き鋸でゆっくりと切れ。四本もあれば事足りるだろう」
じーさんはそう言うと、見慣れないのこぎりを俺たちに渡してくれる。万が一にも怪我をしないようにとの、じーさんなりの心遣いなんだろう。
「あと、識は細い竹を切って集めておけ。これくらいのでいい」
「それは構わないけど、こんな細い竹、何に使うんだい?」
「組み合わせて、流しそうめんの台にするんだ。知らないのか」
「流しそうめんはやったことがないからね。そういう使い方もあるんだね」
識は感心したように頷きながら、じーさんからナタを受け取っていた。
「あれ? 今しがた、ナタは素人には扱いが難しいって言ってたのに」
「理由は簡単だよ。僕は鉈を使い慣れているのさ」
言うが早いか、識は細い竹をさくさくと切り始めた。本当に手際が良い。
「……上手いもんだな」
「にへへー。鉈を扱うのに力は必要ないぜ。必要なのはコツだけさ」
少し照れたような顔をしながら、識は竹切りを続ける。羽織っている着物だけを見ていると、それこそかぐや姫っぽいのに。
「……ところで羽依里くん、この島には変わった蝶がいるのかい? さっきから、ひらひら飛んでるのが見えるんだけど」
そんなことを考えていると、識が手を動かしながらそう聞いてきた。
珍しい蝶? 大きなアゲハチョウとかなら見たことがあるけど、そんな話は特段聞いたことがない。
「変わった蝶って、どんなの?」
「それはね……」
「おーい羽依里! 識とばっかり一緒にいないで、こっちを手伝ってくれ!」
そんな折、良一が声を荒らげていた。
「あ、ああ。悪い! 今行くよ!」
識の話も気になったけど、それを打ち切って俺は良一の元へと向かう。今の俺は竹切りの羽依里なんだ。務めは全うしないと。
「……そういえば今日、天善は来てないのか?」
竹切りの最中、少し気になったので聞いてみた。こういうイベントの時は、天善は一番に呼び出されてそうだけど。
「ああ。今日は静久の海の家を手伝ってるよ」
「あ、そうなのか」
……そうだった。竹切りの用事が入らなければ、当初は俺もそれを手伝うつもりだったんだ。
「久しぶりに静久さんと一緒に過ごせてるんだ。そっとしておいてやるのが友情ってもんだぜ」
良一はそう言って目を閉じていた。さすが、長年の付き合いといったところだろう。
「……そんじゃ、そろそろ頃合いだし、脱ぐか」
せっかく感心していたのに、良一は至って自然にTシャツに手をかけた。全く、何が頃合いなのかわからない。
「おい。脱いだらまたのみきに撃たれるぞ」
「だって作業してたら暑くなっちまってよー。この竹藪ならバレないぜ? 羽依里も一緒にどうだ?」
「……仲間が欲しそうな目で俺を見るな! 俺は脱がないぞ!」
一見安全そうに見える竹藪でも、脱いだらのみきにどこからともなく狙撃されるに決まってる。同じ穴の狢にはなりたくない。
「んんーーーパーーージ!」
その刹那、良一は上着を脱ぎ捨てて上半身裸になった。やめろ、血迷ったか!?
「……って、あれ?」
すぐにでも水弾が飛んでくると思ったけど、そんな気配は微塵もなかった。いくら結婚しているとはいえ、のみきが裸になった良一を見逃すはずがないんだけど。一体どうしたんだろう。
「ほら。やっぱり竹藪は安全地帯なんだ。羽依里も一思いに脱いで、解放感に浸ってみろよ。しろはや羽未ちゃんの前だと気軽に脱げないし、窮屈な思いしてんだろ?」
「いや、窮屈な思いなんてしてないから。そんな目で俺を見るな」
「そう言うなって。男同士、裸の付き合いって大事だろ?」
良一はそう言いながらにじり寄ってきて、俺の上着を脱がしにかかる。裸同士の付き合い……それ、意味が違うから! やめて! 脱がさないで!
「羽依里くん、こっちの作業は終わったぜ……ぶえ!?」
……その時、両手いっぱいに細い竹を持った識がこっちに走ってきて……俺たちの姿を見るや、固まった。
「い、いやその、識、これはだな」
「……みなまで言わなくていいよ。そういう趣向の人がいるのは知っているさ。僕は何も言わないぜ」
どこか優しさを含んだ口調でそう言い、識は静かに背を向ける。
……そして無言で走り出した。
「待って! 誤解だから!」
慌ててその後を追ったけど、ここは足場の悪い山の中。俺の足で識に追いつけるはずがなかった。
やがてじーさんと話す識の元に追いついた時には、時すでに遅し。識は事の端末を全てじーさんに話してしまっていた。
「……まったく最近の若い者は。真面目にやらんか」
ものすごく複雑そうな顔をしたじーさんに、そう怒られてしまった。うう、俺、何も悪くないのに。
「告げ口されたか……どうやら、子供には刺激が強すぎたみたいだな」
そんな中、服を着た良一はほくそ笑んでいて、全然反省の色が見えなかった。
くそ、竹藪で服を脱いでいたこと、あとでのみきに言いつけてやるからな。
……それからは気を取り直し、良一と二人で四苦八苦しながら竹を切り倒した。
一方のじーさんは涼しい顔をしながら、一人で二本の竹を切り倒していた。本当、80歳を超えているというのが信じられない。
「……よし。それでは戻るとしよう」
そして切り倒した竹はその場で枝を落とした後、森の入口まで運び出されることになった。
じーさんと良一がそれぞれ二本ずつ、両脇に抱えるようにして竹を持つ。俺はというと、識と一緒にその後ろをついて歩いていた。
さすがにじーさんに二本も運ばせるのは悪いと思い、俺も一本持ちたいと申し出たんだけど……両脇に一本ずつ持って運ぶ方がバランスがいいらしく、あっさりと断られてしまった。
「……識、その竹、俺が持つよ」
さすがに何も持たないというのもあんまりなので、識が持っていた細い竹をひったくるようにして持った。せめて、これくらいはしないと。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ぶわっ!? ひゃあっ!? やめろっ……やめてくれっ……!」
……森の入口まで戻ってみると、そんな悲鳴が聞こえてきた。
何だろうと思ってよく見ると、のみきが羽未に水鉄砲で撃たれまくっていた。
というのも、羽未はナベの背中に器用に乗って、縦横無尽に走り回りながら水鉄砲を乱射していた。
のみきも反撃を試みていたけど、相手は機動力で勝る野生動物。完全に振り回されしまっていた。
「ま、まいった。降参だ」
「うちとったりー!」
やがて、のみきは手にしていた水鉄砲を投げ捨てて、降参の意を示していた。既に全身びしょびしょだし、俺たちが戻ってくるまで遊んでくれていたんだろう。ありがとう。のみき。
「ほら羽未、竹を切ってきたぞー!」
運搬用の軽トラックへと向かいながら、じーさんが羽未に竹を見せていた。広い場所で改めて見てみると、羽未の身長の何倍もありそうな大きな竹だった。
「おっきいー! ひーじーじ、すごーい!」
「そうかそうか、ひーじーじはすごいか」
心なしか、俺の方を見て言っているような気がしないでもない。
「えー、おとーさんの竹、ちっちゃいー」
続いて、俺の持つ小さな竹を見ながら率直な感想を述べていた。こ、これは違うんだぞ。ちゃんと役目があるんだからな。
心の中でそんな言い訳をしていると、全身ずぶ濡れになったのみきがこっちに歩いてくるのが見えた。
「うぅ……多少腕が落ちているとは思っていたが、ここまでボコボコにされてしまうとはな……」
心底悔しそうにしながら、濡れたTシャツの端を絞っていた。なるほど。こうなるまで真剣に羽未と遊んでくれていたから、良一は竹藪で脱いだ時も撃たれなかったわけか。
「その……のみき、ごめんな」
「気にするな。この暑さだし、すぐに乾くだろう」
俺としては申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、のみきは腰に手を当てながら笑っていた。
「だが……その、あまりじろじろ見ないでくれると嬉しい。こうなるとは思わず、白いTシャツを着て来てしまったからな……」
「え?」
俺は思わず、もう一度のみきの全身を見やる。水に濡れたシャツの下に、肌と薄緑色の下着が透けて見えていた。
「だから、見るなと言っているだろう。向こうを向いていろ」
直後、のみきは自分の身体を抱くようにしてそれを隠し、顔を赤くしながら俺を睨みつけてきた。俺も慌てて視線を逸らす。のみき、色々と見ちゃってごめん。
……その後、切り出した竹はトラックの荷台にしっかりとロープで固定されて、慎重に役所へと運ばれていった。
竹が途中で落ちたりしないように、じーさんが荷台での見張り役を買って出たので、残された俺と羽未、そして識の三人は歩いて役所へと戻ることになった。
その道中、たくさん運動してお腹空いたので、おむすびポーチに入っていたおむすびを三人で分けて食べた。おむすびポーチ、本当に画期的だった。
第四話・あとがき
皆さん、おはこんばんちわ。トミー@サマポケです。
今回は長くなりすぎてしまったので、前後半で区切る形となってしまいました。
識に起こされてからの、ラジオ体操、朝ごはん、片付け、竹切り……たったこれだけの内容なんですけどね。筆が乗りすぎるのって怖いです。
特に、羽未ちゃんだけでなく識も初めてだったラジオ体操(主にスタンプやログボ供給の仕組み等)の説明に文字数がかかってしまった気がします。
後、純粋に登場人物が多いのもありますね。堀田ちゃんやオリキャラの夏海ちゃんを含めると、フル出演で14人です。それに他作品からのゲストキャラがいたりすると、もっと増えますw
そしてお気づきの方もいると思いますが、このゲストキャラ……宿泊客という名のクロスオーバーは2日に一度の頻度でやるようにしています。
25日に天王寺夫妻、27日に霧島姉妹がそれぞれ来島し、今後は29日に芳野夫妻(+風子)、31日に秋子さんたちの来島が控えています。
この作品のこのキャラに来てほしい!というのがありましたら、感想に一言いただけると、参考にさせていただきます。
また、今回から登場のナベ(イノシシ)との出会いのエピソードはサマポケ#2の第十七話にて書いていますので、興味のある方はお読みください。
では、今回のあとがきはこの辺りで。
一言感想や評価など頂けましたら、次話執筆への活力になりますので、よろしくお願いします。