僕がお風呂から上がると、彼女は優しい笑みと共に僕を待ってくれていた。
彼女がベットに座ると、ギイと言う音が静かな部屋に鳴り響いた。
「それじゃあ、話を聞かせてもらおうかしら」
腕を組んで、威圧的に、でも目は僕を気遣う優しい目でそう言った。
僕は彼女からつい目を逸らした。
緊張で口は脱脂綿を詰められたかのようにカラカラに乾いていた。
僕は、深く息を吐いた。
「僕はいじめられていたんだ、きっかけはなんだったのかよく分からない、前のことだから。最初は耐えられると思っていた。でも無理だった」
そして、僕は袖を捲って、付けられた傷を見せた。彼女は野菜でも吟味するみたいに僕の腕の傷を見つめていた。
そして、優しく僕の腕を傷の上から撫でた。
「誰かに助けを求めても誰も知らんぷりをするし、
親には心配をさせたくなかった。だから夏でも長袖の服を着て傷を隠してる」
彼女は何も言わず、ただ僕の傷を上から撫でながら目をつぶっていた。
「キミとあったのはこれから死のうと思ってた時。その前にも何回も死のうと思ってたけど、あと一歩が踏み出せなかった。」
あと一歩踏み出すだけで死ぬ、そんな事を考えたら僕は生きる事も死ぬ事もとても怖くなった。
今までテーブルの上に生と死っていうカードがあって僕は無意識的に生のカードを取り続けてただけなのだ。遠い存在と思っていたのが、とても身近に死と言うものがあるのだ。ソファにも椅子にも死というものがあるように。
「一回でいい、僕を何も見なかったようにしてくれないかな。助けて貰って申し訳ないとは思っているけれど」
「それをするとどうなるのよ、また同じことをするんじゃないでしょうね」
「それがダメなら僕を殺してくれないかな、自分では無理なんだ」
僕は今までとても深い井戸の縁に立っているような気がしていた。下は見えなくて、全ての黒を集めた様な暗黒が広がっている。そして僕はその淵でジリジリと穴に近づいている。もうとうに疲れてしまった。でも井戸の世界に踏み出す事が出来ない。
「出来るわけ無いじゃない。そんな事」
彼女は特に驚くことも無くなんでもない様に切り捨てた。
「そうだよね、ごめん。忘れて」
僕がそう言うと、彼女は大きくため息をついた。
そして柔らかい笑みを浮かべて、僕の事を抱きしめた。
「今までよく頑張ったわね」
彼女の体から僕へ温かさがとても伝わってきた。
僕はこの暖かさがとても恋しくなった。
彼女の身体の中に手を入れてでも欲しいと思った。
「ありがとう」
なんの変哲もない一言なのに、僕はとても救われたような気持ちになった。
視界が段々滲んでいくのが分かった。
彼女は、さらに強く僕の熱を確かめるように抱きしめた。
僕たちはしばらく二人で抱きしめあっていた。
それがとっても心地が良かったのだ。
魂が癒されるように。
僕は自分から何か空気の固まりみたいなのが体から離れていくような感じがした。
***
それから、幾分か経ち、仕切りなおすように咳払いをした。
「なんとなくあんたが死のうとしていた理由は推察していたけれど、やっぱりね」
「ごめん、迷惑だったよね」
「ええ、とっても。でも乗りかかった船だし、私としてもあんたがこのままふらっと死なれると困るのよ。私たち似た者同士のようだから」
「似た者同士?」
僕は首を傾げた。
「私もあんたほどひどくはないけど、いじめというより、クラスの中で浮いていた時があったのよ」
「つらかった?」
「結構。自分を理解してくれる人がいないんだもの。それはつらいに決まっている。自分らしいあり方をするにはそれを理解してくれる友人は絶対必要だった。今はもういるけれど」
「そっか……」
僕は俯いた。楽しそうに語る彼女の顔はとても眩しく見えて、それ程彼女にとって大切で重要な存在なのだろうと推測出来た。
「ところであんた、これからどうするの?戻るのか、それともここにいるのか。私ではあんたの傷を癒すことは出来るかもしれない。でも傷を直すことは傷をつけた問題を見ないときっと直らない」
「戻りたくないけれど、でも」
僕はいい淀んだ。
彼女の言うとおりにきっとまた前を向けるようになる為には根本的な問題を見ないと行けない。けれどそこから逃げてしまいたい気持ちもある。
「私の学校に転入でもしてみる?女子校だけど、理事長が知り合いにいるし、きっと話せば無理やりにでも入れてくれるわ。あんたが良ければ、だけれど。十分に心を整理してからでも遅くないわよ。何事にも遅すぎるということはないの」
僕は静かにうなづいた。
「ねぇ、聞くのが大分遅れたけれど、君の名前は何」
「私?津島善子」
「津島善子……」
僕は噛み締めるように口に出して言ってみた。
何だかその言葉は僕によく馴染んだ。
「津島善子さん、僕と一緒に生きてくれませんか」
彼女は目を見開いて驚いた表情をしていた。そして頬を赤く染めた。
僕は彼女に何か引力的なものを感じていた。他人には分からないだろうけど僕にはわかる。
そして、彼女にもそれを感じているだろうという確信があった。
正体は分からないけれど、激しい嵐のような物が僕と彼女を巻き込んでいる事だけ知っている。
「あんた、よく人に勘違いされない?」
「僕には勘違いされるようなしゃべれる人は居なかったよ。どうして?」
「さっきの言葉、プロポーズみたいに聞こえるのよ」
そう言って二人で笑いあった。
「ま、頼まれなくもない。あんたの隣で見守ってあげるわ」
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夕日が沈みかける頃僕は外に出て防波堤に座っていた。そして彼女が助けてくれなかった時の事を考えていた。
もしかしたら、今頃僕はこの海で溺死体として何処かで打ち上がってたかもしれない、それかもう沈んでしまって魚達の栄養となっていたかもしれない。
もしくは僕はまたあの生活に逆戻りしていたかもしれない。あの僕を引き裂く様な毎日に。
部屋の空気が少しずつ薄くなるように生きていきたいと言う気持ちが少なくなっていく日々だった。
海やその近くに立っている建物が一塊となり津波のように僕を押しつぶすような感覚だった。
でも今はこうして津島善子という文字通りの命の恩人に会って、どんな災害の後に植物が芽生えるように僕は生まれ変わることが出来た。
僕はそんな事を考えながら彼女が後ろから肩を叩くまで海を見つめていた。
終わり!