都に近いその山は、太古から『山神』と呼ばれる存在の治める聖域だった。
麓には神を祀る『社』が存在し、都に住む人々は季節の節目に『神』を崇めた。
それも、過去の話となった。
『神』を崇めるものは、もう居ない。
時代は移り変わり、総じて人は『ヒトでないモノ』を『異形』、或いは『妖』と呼ぶようになった。
国を治め、人々が崇めるのは帝。
それを支えるのは『異形』を使役し、『神託』を聴き『異能』を操る陰陽師たち。
嘗て『神』と呼ばれた存在は、既にヒトの世界に仇をなす存在と変わり果てていた。
そこを、幼い一人の子供が歩いていた。
齢七歳ほどだろうか、明るい髪を持つ女の子だ。
着ている着物は傍目にも高価なもので、この子供が平民ではなく位の高い家柄の子供であると分かる。
「・・・どうしよう・・・」
困り果てた様子で呟く声音はほんの少しだけ震えており、髪と同様に明るい茶の双眸が深い緑に覆われているが故に薄暗い『そこ』を見回していた。
女の子が歩くそこは、『山神』と嘗てヒトから呼ばれていた存在が棲む、深い緑と豊かな水を抱く山であった。
今ではその山は、『山神』を初めとした『異形』が蔓延り、陰陽師などの『異形』を操る者たち意外の立ち入りを禁じられた場所でもある。
普段であれば山の入り口である『社』には宮廷の『守人』が常時配備されているのだが、女の子が入った時は丁度交代の時間だったのか誰も居なかった。
それが故に女の子は簡単に山へと立ち入ることができたのだが。
「・・・もう日が暮れる」
木々の間から見え隠れする空は、澄んだ青から薄茜色へと変わり始めている。
即ち、『異形』たちが活動する時間へと。
「爺が心配するな」
「じゃあ、君は早く人里に帰らないと」
何時の間にか女の子は山の深い場所まで来ていたらしい。
目の前に広がるのは澄んだ水の流れる滝と河。
その周囲に広がる木々は水滴に濡れており、日を反射して明るい。
その滝つぼの中心。苔むした岩に座る人影があった。
片方は女の子とそこまで体格の変わらない男の子。
黒い髪の間からは黄金色の双眸が覗いている。
もう片方は長身の男性だった。
長い髪は流れる水と同じ透き通った銀色、その双眸は山と同じ深い緑色。
整った美貌に浮かべるのは穏やかな微笑みで、女の子を優しく眺めている。
「此処は、ヒトが来ても良い場所ではないよ」
「・・・もしかして、山神様?」
女の子が呼んだ呼称に、男性は驚いた表情を浮かべたが、直ぐ様ひどく可笑しそうに。
けれど何処か懐かしそうに笑い声をあげた。
「その呼称を聞いたのは、随分と久しぶりな気がするよ」
クツクツと笑う男性を、きょとんとした顔で女の子は見つめた。
隣に座る男の子も、首を傾げて男性の顔を見上げている。
「それを知っているとは、さすが『東宮』の家の子、というわけだね」
一人納得したように『山神』と呼ばれた男性は頷くと、不思議な顔を浮かべる男の子に笑いかけた。
「さて、あの子を山の出口まで案内してやれるかな?」
男の子はそれに表情を一切変えずに頷くと、腰掛けていた岩から飛び降り、女の子に近付いた。
「こっち」
男の子は呆然とする女の子に歩み寄ると、その手を引いて歩き出す。
女の子は我に返ると、大慌てで振り返り、男性にお辞儀をすると男の子の歩調に合わせて歩き始めた。
背格好から憶測するに、男の子と女の子はそれ程年も変わらないだろう。
「ここ、まっすぐ」
獣道にも近い場所を指差し、先導するように手を引いて歩き出す。
その歩みに一切の迷いはなく、この山を知り尽くしているのだと分かる。
しかし、単語だけをつなげて話すその様子は外見よりも非常に幼く見えてしまう。
純粋に言葉を知らないからだろうか、と女の子は疑問に首を傾げた。
「・・・ねえ、あなた、名前はなんていうの?」
手を引かれながら、女の子は問いかける。
その問いが意外だったのか、足を止めて女の子を見返した。
「なんで?」
「なんで、って言われても・・・。なんて呼べばいいか分からないし、後でお礼もしたいし・・・」
しどろもどろに答えると、男の子は女の子の前で初めてその表情を変えた。
「お前、人間の癖に、変な奴」
男の子は屈託のない無邪気な顔で笑うと、その金の双眸で女の子を見つめた。
「僕の、今の名前は『葵』」
「葵、かあ。いい名前だね」
男の子の手を取り、女の子も笑顔で自身の名前を告げる。
「私は『橘』」
「・・・うん」
気恥ずかしそうに男の子は笑うと、再び女の子の手を取って歩き出す。
程なく道が開け、社の建物が木々の間から透けて見えた。
「ここが出口」
「ありがとう」
男の子が女の子の背を軽く押す。
女の子はその勢いによろけながらも、男の子を振り返り、笑顔で手を振った。
「お礼をしに、必ず来るから!またね、葵!」
男の子はひどく驚いた表情を浮かべたが、それも一瞬だった。
直ぐに笑顔を浮かべ、手を振り返す。
「・・・またね、橘」
「うん!」
女の子――――――橘は笑顔で頷くと、眼下に見える社へ駆けていった。
「橘様!探しましたぞ!」
「爺」
社に降りれば、切迫した様子で詰め寄ってきた一人の人物。
爺、と呼ぶには些か若く見える外見をしている男性だが、その黒い髪は所々白髪が混じっている。
着ている着物も質の良い素材でできており、地位の高い役職に所属していることが伺える。
「何故このような場所に一人で参られたのですか」
咎めるようなその口調は、橘を心配して発せられたものであったが、当人である橘はやや不服だと言いたげに表情を歪めた。
「父様とのお約束だもん。爺には関係ない」
「・・・わかりました。しかし、お屋敷に戻ってからしっかりと灸をすえさせてもらいます」
「えー」
先を歩く爺を橘はうんざりとした表情を浮かべて見ていたが、ふ、と後ろに聳える山を見上げる。
夕焼けに照らされた山の容貌を、人は禍々しいと呼ぶのだろう。
「・・・また、来るからね」
けれど今の橘の瞳には、その山の様子が神々しいものとして映っていた。
「・・・必ず来るから、だって」
橘の姿が見えなくなるまで見送った葵は、困ったような笑顔を浮かべていた。
傍らには、何時からいたのか、山神と呼ばれた男性が立っている。
「そんなこと言われたの、はじめてだ」
「・・・ならば、大切にしなさい」
山神は葵を抱き上げ、優しく微笑む。
「この先なにがあっても、自らが嬉しいと感じたものは大切にしなさい。そして、その大切にしたいと思ったものは、最後まで守り通しなさい」
「・・・うん」
二人の眼下には、社で会話をする橘ともう一人の姿が見える。
去っていく二人を、山神と葵は姿が見えなくなるまで見送った。
新しく始めてみました。誤字があったりしたらすみません・・・。
今回は子供がメインの、物語の序章にあたる話です。今後どんどん登場人物が増えていき、話がえらいことになっていく予定です。