閉じ切られた暗い教室。
唯一開け放たれた窓から投げかけられた夕日が、細くされど揺らぎのないシルエットを網膜に焼き付ける。
『証拠』を奪うために伸ばした手はわずかに届かない。
彼の狼狽をよそに少女は高らかに宣言する。
「――取引をしましょう、海馬瀬人」
それはきっと、彼にとって死刑宣告にも等しく、それでいて天上から伸ばされた蜘蛛の糸のようであった。
※
「明日佳、そろそろ家出ようぜ〜!・・・って、なんで朝からハサミ持ってるの?」
「工作中。ごめん、2分待って!」
剣道において出鼻は重要だ。ろくに構えも出来ていないうちに焦って先に飛び出せば返し技を喰らうし、臆して踏み込むタイミングを逃せば正面からやられる。
最初の一手を制した者こそ場を支配する、といっても過言ではないだろう。
残念ながらその最初の更に前段階でペースを握られてしまった明日佳だったが、絶望するにはまだ早い。
──だって、試合はまだ始まってすらいないのだから。
時刻は六限終わりから少し過ぎた16時40分。
多目的室のカーテンはぴっちりと閉ざされており、傾きかけた太陽が投げかける光は少しもその気配を感じさせない。
大半の机は前に寄せられ、ひとつの机と二脚の椅子だけがぽつりと残されている。冷たい硬質なそれを、中央のみ灯された蛍光灯がスポットライトのように照らし出していた。
席に座って数学の教科書のページをめくる明日佳の姿は授業中とまるきり変わらない。これから一世一代の大仕掛けに挑むというのに、彼女はただ凪のようにそこにあった。
がらり。後方の扉が開き、静けさを破る。
「武藤さん──君が、先に来ているとは思わなかったな」
今の多目的室はほぼ密閉空間だ。外の光が入らないということは、内側から外への光とて同じこと。扉を明けるまで部屋の中には誰もいないと思っていた海馬は明日佳の姿を認めて、一瞬だけ瞑目した。
「終礼が早めに終わったものだから」
扉に鍵をかけ、ぐるりと部屋を見渡した彼は明日佳の前に座る。真っ直ぐにあげた顔には先程の動揺の面影は微塵もない。うっすらと笑みすら称えている。
明日佳は引き結びかけた口角を上にあげ、務めて同じ表情を作った。
閉じた教科書を脇に置く指は震えている。それを抑えながらバッグに手を差し入れた。
こわい?それだけならどんなに良かったか。
恐ろしさももちろんあるけれど──武者震いだこれは。危機的な状況にありながら、自身は高揚している。
「──昨日あなたは言っていたね。サイン、してくれるんでしょう?」
「二言はないとも。さぁ、書類を寄越すといい……と、言いたいところだが──」
つ、と細く骨ばった指先が天板の上に敷かれた薄いテーブルクロスを撫でる。微かにかさりと音を立てることで、それは己が紙で作られたものだと主張した。
「──その前に。これはなんだい?」
「見ての通りよ。ゲームと言うなら、それらしいステージを用意したいでしょ?」
にこり、とわざとらしいほど笑みを浮かべてみせる。
疑ってくれて構わない。……むしろ、疑心を抱かせること、それ自体が目的なのだ。
「ふぅん、裏を見ても?」
「お好きにどうぞ」
テーブルクロスが躊躇なく、さっと捲られる。
頭上の光源が投げかけた光によって、くっきりと浮かび上がる天板のかたち。対象的にのっぺりと濃淡のない影を張り付けた側面。
「……」
恐らくクロスの裏側を怪しんだが故の行動。
しかし、彼の予想は裏切られたようだ。
クロスの裏側と天板の間には何もない。
影になったクロスの裏面の暗がりとつるりとした板目だけが目の前に広がっている。
あえて挙げるなら、長年に渡って使い古された天板は黒く薄汚れている。それくらいだろうか。
なるほど、これではクロスを置きたくなるのもさもありなんといったところ。
「演出のためだけ、ということか」
ふ、と一息ついた彼はクロスを元通りに戻すと、対面の明日佳に向き直る。
静かに差し伸べられた手に彼女は薄っぺらいコピー紙と未開封の新品のボールペンを手渡した。
書いてあることはシンプルだ。
昨日の海馬の発言通り、此度のゲームで勝っても負けても明日佳への接触はこれっきり。違うのは明日佳が負けた場合、ネフティスの鳳凰神を差し出す必要があるということだ。
あまりにも明日佳に条件が良過ぎる。
なので、これはなにか別の企みがあるのだろう……そうぼんやりと考えながら、彼女は海馬がサインをするのを待つ。
クロスという紙を挟んだ契約書はたわみがちで書きにくいのか、ぐっと対面の少年の肩に力が入る。
でも、クロスを除けようとする素振りはない。
──予想通りだ。
「はい、書けたよ」
「ええ、ありがとう」
差し出された紙をファイルに入れて、教科書の下に差し込む。
向かいの瞳がその動作を抜け目なく追う。直ぐにその視線は外されたものの、のしかかるプレッシャーは消えない。
うん、難敵だ。なんたって向こうは帝王学や人間心理を叩き込まれた御曹司!
一介の高校生にどうにかなるものか。
兄の助けがなければこれほど落ち着いてはいられなかっただろうと明日佳は内心胸を撫で下ろした。
「今回やりたいのはデュラックなんだが・・・・・・君、ルールは知ってるかい」
口火を切ったと同時に机に置かれたのは黒いカードケース。
中から出てきたのは飾り気のないオーソドックスなトランプだった。
「いいえ、教えてくれる?」
「もちろん。ゲームはフェアでないとね・・・・・・」
どこか空々しい響きを帯びた言葉を口にした海馬は山札をシャッフルすると、淀みのない慣れた仕草でカードを配り始める。
最初の手札は六枚。
残った山札は明日佳から向かって右側に置かれた。
「デュラックは6からKとAの九枚のカードを扱う。各スート(絵柄)を考えると合計三十六枚だね。それをルールに従って場に出していき、最初に手札をなくした方が勝ちとなる」
「カードの強さとかはあるの?」
「ああ、さっき言った順番の通りだ。一番弱いのは6、強いのはA。しかし、例外もあってね。山札を見てごらん」
「一枚だけ表になっているね・・・・・・あれが例外?」
そちらに視線を移すと山札の一番下に一枚だけ表になって挟まれたカードがあった。
「それは切り札スート。詳しくはあとで説明するけど、同じ絵柄のカードは場合によっては強弱に左右されない力を持つ・・・・・・今回であればスペードだね」
デュラックには攻撃側と防御側が存在する。初めはノンディーラーが攻撃側としてカードを出す。
今回であれば明日佳が最初の攻撃側として手札から一枚カードを出せることになる。
「早速だけれど、出だしだけやってみようか。気負わず好きなカードを選ぶといい」
海馬に促されるままに明日佳は手札を確認した。
カードは左から7、7、9、10、7、10。トリプルセブンとはめでたい数字だ。実際戦況にどう影響してくるかはまだまだ不明瞭だが。
「・・・・・・」
数秒の黙考ののち、手札から一枚引き抜いて場に出した。
クラブの7。まずは無難なところから。
「なるほど」
攻撃側が一枚出すと、今度は防御側。海馬の番である。
「防御側が出せるのは同じスートの更に強いランクのカード。そして、切り札スートだ。なければパス・・・・・・僕はこのカードを選ぼう」
海馬が7の上に重ねたのはクラブのA。明日佳が出したものよりランクが上だ。
「Aは一番強いカードだよね」
「その通り。攻撃側は既にその場に出ているカードと同じ数字を出すかパスができるんだけど・・・・・・まずは切り札について説明しておこうか。武藤さん、スペードのカードを持っているかい?」
「ええ」
明日佳の返事を聞くと海馬は現在場に出ている二枚を少し横に退けた。
「じゃあそれをここに」
「ん。私はスペードの7を場に出すよ」
言われるがままにカードを置く。
ふむ、と頷いた海馬は手札に目を落とす。目当てのカードはなかったようですぐにその顔は上げられた。
「切り札スートは他の強弱とは少し違うルールで動いていてね。切り札という名前通り、このスートはどのカードよりも強いんだ。ただし同じスート内での順位は他と同じ・・・・・・」
海馬はそう言うと場に出た三枚を手に取ると自分の手札に加えた。
「パス──防御失敗だ。僕の手札には君の出したスペードの7を上回るランクのカード……つまり、スペードの8からAまでは存在しない。よって、僕は現在場に出ているカードをすべて手札に加える。これが攻撃側のパスだと攻守は入れ替わり、場に出たカードは捨て札としてゲームから除外されるから覚えておいて」
攻防が一旦終わると、手札の補充がされる。攻撃側から防御側。それぞれ合計六枚になるように山札からカードを引く。
「・・・・・・わたしが場に出したのは二枚。だから二枚補充すればいいのかな」
「ああ。こちらは既に六枚以上の手札があるから手札の補充はしない・・・・・・どうかな、基本的なルールは把握できたかい?質問があれば答えるよ」
顎に手を当て、首を少し傾けて海馬は言った。鷹揚に構え、絶えず浮かんでいる微笑みは多少のことでは崩れる気配がない。
「ルールについては問題ないよ」
明日佳もまた背筋を伸ばし、脳内で今までの情報を整理する。ああ、ルールについては問題ないとも。
返事を聞くと海馬はカードを元の山場に戻してシャッフルし始めた。
「なら、はじめようか」
数回それを繰り返した後、カードの山を明日佳に手渡す。
公平性を期す、といったところか。
彼がやらなければ、明日佳自身が申し出ていたところだったので特に否やはない。
彼女もまたーー海馬より些か慣れない手つきではあるがーー数回シャッフルを繰り返し、カードを返却する。
「ええ、いつでもどうぞ?」
グラウンドから切り裂くように響き渡った高い笛の音。
陸上部のものであろうそれに、彼女はあの茹だるような夏の日を幻視する。
栄誉はなく、喝采もなく、振るうのは剣ですらないーーしかし、相対すべき敵はそこにいる。
ならば、ここは彼女にとって既に戦うに足る場であった。
澄んだ青い瞳が、鋭利な光を帯びていく。
机の下で、かすかに煤けたように汚れたシャツの袖を握りしめる。
手は打った。ならばあとは走り出すだけ。
果たしてどちらがカードを最後まで残した愚か者(デュラック)になるか?
ーーゲーム開始だ。