一年前 日本
竹がしなる。空気を裂いて、風を切って、急所を覆う防具に打ち込まれる竹刀の音。
試合の熱気は夏の猛暑と混ざりあって蒸気が立ち昇るほどに白熱した会場に更に熱を与えていた。
「コォテェェェェェ──アァッ!!」
一際響く喊声。竹刀が腕の防具を打つはっきりした快音。静寂、一瞬の後にそれはわっと湧いた拍手の喝采に変わった。上がる赤旗に両者は開始戦まで下がり、主審の合図で再び眼前の相手に向かって一歩踏み込む。
ここで勝てば個人戦準々決勝進出は確定、負ければ全国ベスト8止まり。お互いに譲れない一線だ。
竹刀を交えて、躱されたそのままの勢いで相手にぶつかる。鍔迫り合いの体勢、二人の視線が交差する。白の選手は先に一本取られてしまった焦りを宿した目で睨みつけ、対する赤の揺るぎない青い目がそれを正面から受け止めた。
じりじりじり、と隙を伺い──ふっと白が力を抜く。そこを逃さず赤が引き際の面を打ち込むが、浅い。距離を取る彼女に白は追いすがり一本取り返した。
「小手あり!」
これで互いに同点となったが、赤白どちらも気は抜かない。引き分けになってからが勝負。ここからが正念場だ。
打ち合い、引いては交差し、間合いを測り、声を上げて競り続ける彼らの邪魔をする者は何もなく、最早『熱い』と言った方が相応しい夏の暑ささえ気を散らすことは叶わない。
規定の五分を超えて、途中休みを挟んで延長すること三回。赤は疲れを見せないまま息もつかせぬ攻防を繰り返しながらも、面の奥でその眉を寄せた。
相手の竹刀から散ったささくれが視界を悪くする。試合前に防具や竹刀の状態は厳しいチェックを受けている筈であるから本来ならば有り得ない状況だ。特に失明の危険があるささくれなどは一番細かく見られるはずなのだ。
面の下で見えないとでも思っているのだろうか、白の浮かべた泣き笑いの顔に苛立たしげに小さく舌を打つ。
・・・・・・話には聞いたことがあった。実力は十二分にあるのに勝つためならばなんでもする学校がある、と。これまで何度も苦情が出たものの顧問がお偉いさんとの繋がりがあるとかの『大人の事情』で云々──赤も詳しくは知らない。知らないが、これが明らかな不正であることは彼女や、それ以外の誰が見ても間違いないだろう。
踏み込んだ足に鋭い痛みが走る──欠片でも踏んだか。これまで何度か審判に手を挙げて中断の意志を表明しようと試みたものの主審が反応しない上、その度に邪魔をするように白が打ち込んでくる。今は赤が押しているとはいえ、押し返されるのも時間の問題である。万事休すであった。
互いの誉れ、これまでの鍛錬の全てを賭けた真剣勝負だというのになんたること。侭よ、構うまい。向かってきた白を竹刀で押し、その隙に手を上げようとした──ごしゃり。
嫌な音が彼女の耳に入ってくる。足が、砕けた。全体重を載せた踵で踏み抜かれた去り際の一撃。あまりの衝撃にみっともないなどと考える暇もなく赤の選手は床に倒れ込む。中断を告げる笛の音が遠い。反則は、取られなかった。むしろ取られたのは無様に転ばされた彼女の方だ。
あと一回、取られれば負ける。
顧問や部員のブーイングを聞きもせず、立つことを促す主審に一礼するとふらつきながらではあったが、赤は気丈に立ち上がる。
向かい合う相手がぼろぼろと涙を流す姿に怒りは湧かない。感じるのは失望と悔しさだ。泣きたいのは踏んだり蹴ったりの赤の方であろう。
視界が白い。ショックで酸素が頭に回っていない。朦朧とした意識の中でただ勝たねばならぬという思いだけが彼女を突き動かす。
自分の体のことは自分が一番良く分かっている。
状況は最悪といっていい。
最早、剣を握れる体ではない。
精神的にも肉体的にも疲労は限界に達している。
体重をかける左足が取り返しがつかない事になっているだろうことは、何となく察していた。それだけの痛みだった。感覚すら消えるほどの。
「っ、せえぃやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
気合を入れる。喉が潰れるほど高く高く。引き絞るような叫びが会場を席巻する。
ただならぬ気迫、見開かれた真っ直ぐな碧眼に相手が怯む。
そして、彼女は前に飛んだ。
──負ける訳にはいかなかった。
少なくとも、こんな奴には。誰かに指示されたからと言って自分のした事の責任を放棄して、後悔しか持てない奴には・・・・・・負けられない。
ここで止まれば恐らく反則負け。正確なジャッジは期待できないが・・・・・・すぐにでも顧問が審判を訴えてくれるだろう。問題行為として学校も審判も、もしくは連盟も取り上げられることになるだろう。だが、彼女は止まらなかった。止まれなかった。
連戦の疲れも自分の体も、順位でさえ、どうでもいい。ただ『勝つ』という意思。それのみで腕を振るう。
「──メェェェェェェェンッッ!!」
血を吐くような叫びと共に放たれた渾身の──面。
誰も否定できない、否定させはしない。中段から突くように伸ばした力強い一撃が面を穿つ。
すっぱあぁぁん・・・・・・!
弾ける打突音。意志を剣先まで漲らせ、面に当たって跳ね返った竹刀を最後まで気を抜かず指の先まで絞り切る──残心。
「・・・・・・ッ、面、あり!!」
勝った。
声援不可の禁などどこ吹く風の大歓声の最中、辛うじて礼までやりきった赤の選手はその場に膝をついた。歓声も、仲間の声も、兄弟が自分を呼ぶ声も遠ざかり、急速に彼女の視界は色を失っていく。
どこかで蝉が鳴いていた。勝利の賑わいが悲鳴に変わるまであと少し。
──焼けるような熱さの中、彼女の十五の夏が終わった。
明日佳にとって剣道は全てだった。
小学校一年から中学校の三年までおよそ九年近く続けてきて、漠然とこれからも続けるのだろうと思っていたルーチンワークのひとつだった。
だが、それが違ったのだと気付かされたのは全てが終わったあとだった。
──始めたきっかけはなんだったか。
大層な理由ではなかったように彼女は思う。
ただ双子の兄を守れるように強くなりたいという単純な理由だった。
兄は明日佳に比べれば気弱な方で、幼稚園ではその特異な髪の色や紫の目の色が災いしてよくいじめられていた。同じく先祖返りか何かで黒髪に青い目などという組み合わせに生まれてしまった明日佳も弄られることには弄られたのだが、兄ほどではない。心優しい大好きな兄を虐める輩をその度に追い払っていたため、むしろ怖がられていたような気もする。
父は単身赴任でほとんど言葉を交わした事がない、同じく母も夜遅くまで働いていて休日まで顔を見ないことはざらだった。兄と小さなゲーム屋を営んでいる祖父だけが明日佳にとっての家族だった。だから、自分が兄を守らねばならないと幼心にそう思ったのだ。
きっかけは些細なことで、原点は変わらないままに少しずつ剣道に向ける思いは変わっていった。
体を動かすのか好きだったから辛い稽古も耐えられた。初めは全く当たらなかった打突も試合を重ね、経験を積むことで当たるようになった。
・・・・・・あの頃は純粋に楽しかった。
仲間と共に練習をすることが。
試合に出て、勝つことが。
楽しかった。
守りたいから力を求めた。守るために、強くなった。その為に手を出した『剣道』という競技は幼い少女を魅了した。
意思が全てではない。力が全てではない。速さが全てではない。
心技体が揃った打突は体格が大きな相手にでさえ勝つことができる。
明日佳にはセンスがあった。運動神経が備わっていた。相手の動きを逃さぬ目が合った。
稽古を休まず、一挙一動指の先まで意識を伝わせ、日々鍛錬を続ける。
彼女は徐々に強くなっていった。
最初は道場内、次は市大会、県大会、有段剣道家による旗の名の付く大会・・・・・・。
中学生三年になる頃には最早県内の中学生以下で彼女に挑んで勝てるものはいなくなっていた。
ふと、そこで気が付く。相変わらず兄には親しい友人はできないようだが、多少強引にでも彼を引っ張ってくれる幼馴染が着いている。
最早明日佳が守る必要はなかった。
部活に打ち込む妹と内向的な兄。共感覚めいたものはあるとはいえ、二卵生の双子。年を経るにつれ距離も自然と離れ、いつしか初心は二の次になった。
それは良いことでもあっただろうけれど。
しかし・・・・・・彼女は剣に魅入られていた。強者と正々堂々闘う爽快さに毒された。勝ち上がることに取り憑かれていた。
それこそ、自分の体を後回しにしてしまうほど。
──だから、これも当然の結果だったのかもしれない。
「残念ですが、剣道は諦めてください」
左足甲部複雑骨折、一部粉砕。神経の断絶及び損傷。
あの時、踏み込まなければ骨折だけで済んだ怪我だった。
骨折は時間が治してくれるが、神経に付いた傷は中々治らない。もし手術によって十分歩けるようになったとしても元のようには動かせないだろう──それが医師の判断だった。
その時初めて明日佳は己の中の何かが壊れる音を聞いた。
がらがらと積み上げてきたものが全て崩れ落ちていく。
──明日佳が強さを求めた切っ掛けが兄であるならば、救うのもまた兄だった。
「明日佳、こっちにおいでよ。ゲームしよう」
「・・・・・・わたしはいい。遊戯だけしてたら」
「そんな事言わないでさ。一度だけでもやってみなよ。これボクの一押しだから、面白いんだぞー」
包帯を巻いた左足を松葉杖で支えながらも学校には通った。
中学三年、受験の年だ。成績はそこそこの値をキープしていたが、スポーツ推薦がなくなった今その程度では足りない。今度は狂ったように勉強に打ち込む明日佳を偶には気を抜こうと連れ出すのは決まって兄の役目だった。
幼馴染の心地の良い強引さが移ったのか、性根は寂しがりでお人好しな明日佳の内に芽生えた罪悪感がそうさせたのか、兄の提案は断りがたくゲームだらけの自室に連れ込まれる毎日。
何が彼をそうさせたのかは明日佳には分からないが、毎晩組み立てている黄金のパズルを放って彼女を呼びに来るのだから相当だった。
「ああー・・・・・・負けちゃった。わたしの方が性能はいいはずなのに。これが経験の差か・・・・・・!」
「性能だけが全てじゃないからね。でも、明日佳もいい感じだったよ。最後のコーナーはもう少し早くハンドル切ったらもっと速くなるかもね」
「もう一回、やる」
「あはは、いいよ。アドバイスあげたから次はハンデなしね」
「ちょ待ちっ難易度上がり過ぎでは!?」
遊戯は強い。ブランクがある明日佳は中々勝てなかった。
負けたら悔しがり、稀に勝った時には思わず拳を上げて喜ぶ──そばでにこにこと拍手する兄の姿に我に帰って恥ずかしくなるのだが──久しぶりに双子の片割れと遊ぶのは楽しかった。
そうしているうちに、ふと長いこと一緒の時間を過ごしていなかったことに彼女は気が付く。
朝は朝練で明日佳は早くに学校を出るし、帰りだって帰宅部の遊戯に比べれば遅い。家に帰りついた頃には彼は夕飯を食べ終えて部屋に戻っている。
──今になって、ぽっかりと胸に空いていた寂しさを自覚した。
この世でただ一人の片割れであるはずなのに、誰よりも気を許せる肉親であるはずなのに。すれ違ってすれ違って、すれ違って・・・・・・。
こうなるまで気が付かなかった。
「明日佳明日佳!逆走してるよっ・・・・・・あすか?」
優勝を逃したと知った時も、体の状態を告げられた時も、剣道をもう続けられないと知った時もどこか上の空だった。感情を爆発させることもなくただ喪失感だけを感じていたはずなのに、今になって宙に浮いたままだった気持ちが戻ってくる。
手の中からゲームコントローラーが滑り落ちた。目の前の画面が滲む。
「あれ、なんだろ。はは、なにこれ・・・・・・なんでわたし」
ないているの。
ぽろぽろ、ぽろぽろと拭う端から目から雫が零れてくる。透明な涙が溢れて止まらない。
──明日佳は、すれ違い始めてから初めてまともに片割れの顔を見た。
酷く疲れた顔をしている。それでいて寂しそうなそんな表情だ。
鏡で見た自分の顔と同じ顔だった。
「ゆうぎ、ごめん、ごめんね。謝っても、仕方がないけど。わたし何も考えてなかった」
「うん、ボクも何も言えなかったから」
「こんなに、寂しい思いしてたなんてっ気が付かなかった!」
「うん、寂しかった」
自分だけが不幸なような顔をして、精神的にも物理的にも心を閉ざしてしまえば、成長も振り返りも存在するはずがない。
初心すら忘れて、ただ強いだけになって、その様子を見ている周りの事を考えもせず、勝手に絶望して、勝手に閉じ篭って。
「頼っていいんだよ」
「うん・・・」
こんな酷い妹、放って置いても良さそうなのに兄は律儀に手を引いて殻から連れ出してくれた。
小さな体で気弱なのは変わらないけれど、いざという時は勇気のある優しい兄。その優しさが胸に痛くて、傷付いた場所に言葉が沁みる。
「明日佳」
不意に兄が、ポケットから何かを取り出した
「勝手に拾っちゃってごめん」
そっと差し出されたのは一枚のカードだった。
渦を巻く背の裏に描かれた絵柄がなんであるかなんて見なくても分かる。
「ネフティス・・・・・・」
火炎を纏った黄金の肢体。何度死しても灰の中から蘇る、女神の名を冠した不死の鳥。
───ネフティスの鳳凰神。
「明日佳の大事なものだろ」
それは彼女にとってお守りのようなものだった。
小学生の頃、兄に誘われて祖父の店で初めて購入したパックから出てきたレアカード。それを見ればいつだって背中を押されるような心地がした。栄光も、挫折も、一番長く共にしてきた相棒としてとても思い入れのあるカードだ。彼女にとっての『ライナスの毛布』と言えよう。
――かつて明日佳はそれをゴミ箱に捨てた。
あれは剣道を辞めると決めた日だった。
未だにこんな玩具に頼っているなんて馬鹿馬鹿しい、なんて思っていたっけ。
もう剣道はできないということを認められなかった気持ちもあっただろう。
でも、その『捨てた』という事実はずっと彼女の心を苛んでいた。
新しく手に入れても意味はないのだとなんとなく自分でも分かっていて、ただ見ないふりをし続けていたそれが、今目の前にある。
「どうして、遊戯がこれを?」
震えるままカードを受け取った手ごと、包み込まれる。
「その週はボクがゴミ出し当番だったんだよ。だから見つけることができたんだ。・・・・・・でも、これがじいちゃんだったとしてもボクと同じことしたと思うぜ」
兄の絞り出したような言葉に堰が決壊した。
色々伝えたいことも言いたいこともあって、でも結局すべては言い切れなさそうだ。ぽろぽろとまた振り返してきた涙を強引に拭えば、兄は慌てて止めようとする。その様子になんだかおかしくなって、泣きながら笑った。
「何で笑うんだよ明日佳〜」
「なぁんでもないったら。・・・・・・ねえ、兄貴」
「なに?」
「ありがとう」
その一言に全てを篭めた。
すれ違っていた歯車が合い、ようやく共に歩み始めた彼等を急かすように無情に時は進む。
夏が終わり、秋が去り、冬が過ぎ──そして、春が来た。