「はぁ・・・・・・」
机の上に置いた財布を見つめながら遊戯は重いため息をついた。頬には痛々しい痣があり、その上からガーゼが貼られていた。頬だけではない。身体のそこかしこに青痣が我が物顔で居座っていて、じんじんと鈍い痛みを訴えている。
全て今日の放課後に負った傷である。
風紀委員の牛尾が同級生の城之内と本田に暴力を振るっていたのを止めようとした結果がこの有様だ。
「・・・・・・明日佳には、なんでもないって言ったけど・・・・・・ぜんっぜん大丈夫じゃないんだよなぁ」
──君、クラスの特定の生徒にいじめられてるんじゃないのかい?
遊戯にそんな自覚はない。それどころか彼らは友達だと思っていた。確かに大事にしてるパズルの箱を奪われたりはしたが、だからといって仕返しをしたいなどとは思わない。
けれど、牛尾は遊戯の言葉に構わず、ボディーガードとして彼らへ制裁を加えてやった代わりに金を払えと言ってきた。
その額は二十万。一般的な高校生の小遣いでは一年貯めたとしても到底届かない金額である。
・・・・・・彼の現在の所持金は三千円。お年玉のほとんどは一月のうちにゲームに使ってしまったし、へそくりを合わせても一万に届くかどうか。
持ってこいと指示されたのは明日だ。
「二十万円なんて・・・・・そんな大金あるワケないじゃないか・・・」
せめて一万もあれば少しは待ってくれるかもしれないが・・・いいや、とんだ希望的観測だ。
財布を振っても小銭がポケットから数枚ばかり転げ落ちてくるだけ。
数の重みが今になってずしりとのしかかってきた。
払わなければまた痛い目に遭う。城之内や本田も危ないかもしれない。
「どうすれば・・・・・・いいのかな」
───悶々と悩んでいた遊戯だったが、彼の手は知らず知らずのうちに宝物の箱へと伸びていた。
ウジャト眼が刻印された金色の箱。その中には同じ金の立体のピースが入っている。
見えるけれど、見えない宝物。完成しなければ形が分からないもの。
不吉な、けれども好奇心を擽られる噂が付き纏った代物。
はっと我に返れば途中まで組み上げたそれを手に取って、新たなピースを組み込もうとしていたところだった。
・・・・・・ああ、何をしているのだろう。こんなことしている場合じゃないのに。
でも、とパズルを放ろうとした手が止まった。
金はないし、牛尾に逆らう力もない。
今更考えたところでどうしようもないのだ。
「・・・・・・少しだけなら、いいよね」
そして、彼の手は再びパズルの組み立てを始めた。
天窓から差し込む月明かりが照らす中、金属が接触し合う冷たく硬質な音と静かな息遣いだけが響く。
不思議だ。体は痛いし、気分は最悪。しかし、手だけはまるで別の生き物のようにすらすらとピースを組み込んでいく。
八年間かけて未だに完成しないパズルが、今。
「でも、そっか・・・・・・ないんだよな・・・・・・」
三角の形に組み上がった黄金のパズルはぽっかりと真ん中に穴が空いている。
──なくしたピースは結局見つからなかった。
明日佳も手がかりは見つけられなかったらしい。怪我のことでも心配していたようだし、これ以上足の不自由な彼女に負担をかける訳にはいかないと遊戯は咄嗟に嘘をついた。
だって、そうとも言わなければ見つかるまで彼女は諦めなかっただろう。
これと決めたことは決して曲げない子だから。
人から見れば無理なことでも無理なままで押し通してしまえる子だから。
遊戯はそれを一年前の夏に痛いほど思い知った。
イカサマは止めねばならない。でも、神前に誓った勝敗をかけた試合を途中で止めることは部外者には叶わない。体育館に漂った異様な空気を破ったのは血を吐くような執念が篭った気合いの叫びだった。
足が砕けても、構わず飛び込んで──全てを懸けて放たれた一刀。
ただ打ち勝つことだけを目指した打突は、彼女の望み通りに面を穿った。
でも──その代償はあまりにも大きくて。
試合後の礼をした瞬間、ぶつりと糸が切れたようにその場に崩れ落ちた妹の姿を今でも遊戯は夢に見る。
剣道をしていた頃の明日佳はまるで別人のようで怖かったこともあったけれど、嫌いだった訳じゃない。溢れんばかりの情熱を注いで部活に打ち込む背中は思わず応援したくなるようなものだったのだ。
喧嘩も暴力も嫌いだけど、彼女の剣には相手を傷付けようとする意思はなかったから。
大きな大会には欠かさず見に行っていた。面を取った時のやり切ったと言わんばかりの気持ちの良い笑顔が好きだった。
──だからこそ、もうあんな姿は見たくない。
病院から退院してしばらくしても魂が抜けた人形のようだった片割れ。
それがやっと最近になって笑えるようになってきたのだ。
「ボクが、もっと怪我して帰ってきたら・・・・・・明日佳は・・・・・・」
・・・・・・きっと、牛尾に会いに行くだろう。
幼い頃からそうだった。遊戯が嫌な目にあったら、その原因に真っ向から立ち向かっていくような性格だった。
気のいい風紀委員の振りをして、その裏では都合のいいやつを見つけて暴力を振るって、金を巻き上げている。そんな男のところに妹を行かせるなんてもってのほかだ。
でも、どうすればいい?
明日佳の様に何か武道やスポーツをしていた訳でもない自分に何ができる?
ゲームの腕はあっても、圧倒的な力の前では何の役にも立ちやしない。
遊戯がパズルを手にしたまま机に突っ伏した、その時だった。
背後から扉をノックする音が聞こえたのは。
「・・・・・・明日佳?」
「いいや、ワシじゃよ。入っていいかのぅ」
「うん・・・・・・いいけど」
にこにこと笑みを浮かべながら扉を開けたのは祖父の双六だった。
「ホホーこりゃたまげた!」
入るがいなや遊戯に向かって歩み寄ってきた双六の視線の先には黄金のパズルがある。
そもそもパズルは元々双六が遊戯に渡したものだ。それが形を成していると言うのは彼にとっても喜ばしいことだろう。
「でもさ、じいちゃん・・・・・・これまだ完成してないんだ・・・・・・」
「ほう?」
どれどれと覗き込んだ双六はすぐに中央の欠けに気が付いた。
しかし、その微笑みは微塵も崩れない。
「遊戯・・・・・・おまえはこのピースにずーっと願いをこめてきたんじゃろ。なぜもっと信じてやらんのじゃ!」
双六は知っている。この八年の間、遊戯はこの千年パズルが願いを叶えてくれると信じて、思いを込めてきたことを。生半可な気持ちではない。ただ一心に欠片と向き合ってきたことを知っている。
「──願うことを諦めるんじゃない。諦めなければきっと叶うハズじゃ」
「諦めなければ・・・・・・叶う・・・・・・」
「そら、手を出すんじゃ」
ぼんやりとパズルの穴を見つめる遊戯の前に差し出されたのは固く握られた拳だ。
「これは・・・・・・?」
双六は答えずににやりと悪戯っぽい笑みを浮かべるばかり。恐る恐る遊戯が手を差し出せば、その掌の中にぽとりと軽いものがひとつ、落ちた。
ピースだ。なくしたと思っていた眼のピース。パズルを埋める最後のひとつ。
「じ、じいちゃん!!」
「オイオイ、それはワシが見つけたんじゃないぞ」
「エ!?」
思わず抱きついてきた遊戯を宥めて双六は言う。
曰く、それを持ってきた人物は遊戯の友達だと言っていたこと。
曰く、雨も降っていないのにびしょ濡れになっていたこと。
「友達・・・・・・?」
誰だろうと首を傾げる遊戯を他所に双六は彼の通学カバンの方へと歩み寄った。ピースと共に持ってきた封筒をそっと中に忍ばせると、ふぅと息をついた。
封筒の中にはぴったり二十万の金が入っている。
──あー・・・・・・っと、じーさん。ここ、遊戯の。武藤の家で間違いないか?
双六の元を訪れた少年は城之内と言った。先日、友人の本田が遊戯から箱を奪った時にピースを盗んでプールに放り投げたのは彼だった。しかし、牛尾に殴られた自分たちを庇った遊戯の姿を目にした城之内はそれを悔やんで今の今まで水攫いをしていたらしい。
バツが悪そうにする彼から詳しい事情を聞いていた双六はもちろん遊戯が今厄介な出来事に巻き込まれていることを知っている。
双六の行動はお金でつまらないトラブルが避けられるなら・・・・・・という想いからのものだった。
「それじゃあの。おやすみ遊戯」
「ありがとーじいちゃん、おやすみ!」
双六が部屋を出ていけば残ったのは遊戯と、そしてパズルのみ。
「やっと・・・・・・完成するんだ・・・・・・!!」
期待に胸が高まる。震え、汗で滑りそうになる指をなんとか抑えてピースを握った。
逸る思いのままそっと近付けて、嵌め込んだ。
かちっ。
ぴったりと穴に嵌ったその瞬間、パズルが眩い閃光を放った。
「──ねぇ、あにき」
思い出すのは何年も前の記憶。丁度祖父からパズルを渡された頃まで遊戯の意識は遡っていた。
妹の髪が今よりもずっと短くて、きらきらと透き通った瞳には陰りひとつなかったあの頃。
「なに?」
「どーしてあにきはさ、そのパズル完成させたいの?」
むすくれた顔をして明日佳はそう言った。当時は分からなかったけど、今思えば多分一緒の時間をパズルに奪われて悔しかったのだろう。
「願いごとがあるんだよ」
「願いごと?」
うん、と小さな遊戯は頷いた。こればかりはいくら双子でも教えられない。お願いは誰かに教えたら効果がなくなってしまうんだよ、と聞いたことがあるから。
「ふーん、ならいいよ。言いたくないならわたしも聞かない・・・・・・それ、叶うといいね」
そう笑って言い繕いながらも、目に見えて落ち込んだ片割れに焦った遊戯は慌てて『願いごと』を口にした。
同じ時に生まれた半身が聞くくらいなら大丈夫だろう。そう思って。
──親友が、ほしいんだ。
「親友、か」
「うん、どんな時も裏切らない。そして、裏切られない友達がほしい」
口に出すとなんだか小っ恥ずかしい。どんな反応をするだろうかと恐る恐る顔を上げる。すると、そこには優しい微笑みがあった。
青い瞳を細めて、誇らしそうに肩を揺らす。
「──素敵だね」
わたしも、そういう友達がほしいなぁ。
見渡す限りの青空の下で秘密を共有したそんなある日のこと。思い出した記憶の中の妹が囁いたかと思えば、その姿は急速に遠くなっていく。
目の前が真っ暗だ。
何か硬いものが床に落ちた音を聞いたのを最後に遊戯の意識は暗闇に沈んだ。