蒼の咆哮   作:修行者‪α‬

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Crossing blue.
08. 境界線


半年前、台栖中学・剣道場前。

 

まだ、明日佳の髪が短かった頃。彼女は松葉杖を支えに戸の前にひとり佇んでいた。前髪が顔の前にかかるのも気にせず、ただ沈痛な面持ちで中を伺っている。

裸足が床を踏みしめる音。競り合う竹刀の衝突音。

 

「やめーっっ!」

 

ずっと鳴り響いていたそれらが、号令を合図にぷつりと止んだ。

 

「蹲踞、礼!!」

 

よく通る声は聞き覚えのあるものだ。彼女が次の部長へと推薦していた二年の男子生徒の声である。退部式には出られず、引き継ぎは手紙と伝言のみで行ったが、上手くいっているようだ。

「・・・・・・大丈夫。行くよ」

大きく息を吸って、彼女は戸を開き一礼、そして一歩踏み出した。

 

「やっほ〜諸君!」

 

先程の緊張が嘘のような朗らかな挨拶が道場に響き渡る。

 

「武藤、先輩・・・・・・!!」

 

時刻は四時すぎ、中休憩に入り、思い思いの時間を過ごそうとしていた部員たちは驚きで目を見開く。

顧問も副顧問も不在の道場で、一番先に動いたのは現部長だった。部員を集め、明日佳を中心にして輪になって座らせる。

 

「怪我は大丈夫なんですか」

「退部式にもいらっしゃらなかったので心配していました」

「インタビューに出ていたので無事なのだろうなぁとは思っていたんですけど、それでも・・・・・・」

 

入院している間、手紙などで軽いやり取りをしていたとはいえ、彼等にとっては実に三ヶ月ぶりの再会である。

 

「あーちょっと待って、ひとりづつひとりづつ」

 

その日、明日佳が道場を訪れたのは自分が抜けたあとの剣道部の様子が気になったからだった。中総体が終わるや否や、部長の緊急入院である。あれから顧問も忙しくしていて休部状態になっていた剣道部は、ほんの数日前にやっと再開の目処がたった。それを聞いて、挨拶に来たのだけれど――。

ああ、よかった。ちゃんと部活は回っている。わたしがいなくたってきちんと、練習は続いている。

考えてみれば当たり前のことだ。日頃から自分が休みの日でも滞りなく進むように、次期部長候補の子には手順を教えていたし、そもそも全国大会に出るほど熱心に剣道を続けてきたつわもの達である。

 

 

 

「――ところで武藤先輩、どのくらいで復帰できる予定なんですか?」

 

 

浮かべていた笑顔が一寸、固まる。喉の奥が詰まって、遠くなる自我をなんとか押し止めて、ぐるぐると回る思考を整理する。

 

 

『日常生活に支障はありません。しかし・・・・・・激しい運動をするのは難しいでしょう。よく動かす箇所でもありますし、再発の可能性が高い』

 

 

医者に言われた言葉はずっと耳の奥にこびり付いている。

あの日、一歩踏み込んだことを明日佳は後悔などしていない。それによって彼女は確かに袋小路を破ったし、信念を貫いた。高潔であることを自分に課して、その意思を守り通した。

きっと、あそこで止まっていたら理不尽に潰されたことをいつまでも恨んでいただろう。肉体を損なった今とは違う意味で停滞していただろうし、名残は尽きなかったはずだ。

勝とうが負けようが、どちらの道を辿ろうが、それなりに苦労はする。

 

――けれども、怪我を悪化させなければ、得られたものもあったのだ。

 

それはけじめである。

明日佳が出ることができなかった表彰式、退部式。それらは物事のはじめ、あるいは終わりを形として表明する儀式である。

誉れや未練を一旦そこに置き、また新しい目標へ向かって再出発するための儀式。

では、儀式を経ず、置いて行くことが出来なかった感情は、どこに送り出せば良かったのだろうか。

 

「――完全復帰は難しいらしいの」

 

・・・・・・この胸の内で燻る灰は、選択のその代償だ。己が選んだ道の重み。再び頂きに至る夢を見るには現実は重すぎた。だから。

 

 

「わたしは、剣道をやめようかと思っている」

 

 

その時の明日佳は思いに蓋を被せて、ひっそりと抱えて生きていくことを選んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前にはノート、筆記用具、参考書。

まだ届けられて間もないコーヒーを共に、明日佳はシャーペンを紙面に走らせていた。今解いているのは明日提出の数学の課題だが、彼女の思考の大半のスペースを締めていたのはまったく別のことである。

 

――最近、兄の様子がおかしい。

 

はじめに違和感を感じたのは、兄が夜遅くに帰ってきた日の事だったと思う。うちに門限という門限はないけれど、大抵八時前には双子のどちらも帰宅している。一度帰宅しているとはいえ、十二時を超えて帰って来ることなんて今まで無かったのだ。

帰ってきた兄の顔を見て明日佳は言いようのしれない感覚を覚えた。

そこにいるのは確かに片割れであるのに、そうではないような。どこか根本的なところで違っているような、そんな、違和感。

その時は気のせいだろうと流していたものの、翌日になって更に疑いは増した。兄は前日の夜のことをすっかり忘れていたのである。帰宅後に外に出たことすら覚えていなかった。

兄の中では学校から家に帰ってきてからと朝までの記憶は連続していない。

しかし、真夜中に出会ったあの『兄』は受け答えを振り返る限り地続きの記憶を持っていた。それもずっと昔からの。明日佳のことも明日佳の夢も知っていた。それは兄しか知り得ぬ事だ。だから、偽物なんてことはありえない。

 

「うーん・・・・・・手を引いて家の中に入れるとか、しなさそうなんだけどなー。あれはびっくりした」

 

いつもの遊戯なら後ろから背中をぐいぐい押すだろう。

・・・・・・しかし、あの『兄』が兄であることには違いない。便宜上、『兄さん』とでもしておこうか・・・・・・。

 

 

 

「あす!お待たせ〜!」

 

煮詰まる思考にぐいっと回そうとした肩にそっと触れる手がひとつ。杏子だ。

 

「あ、杏ちゃんおつかれ。今日のバイトは終わったの?」

「ええ、友達が来てるんですって伝えたら早めにあがらせてくれたの」

「そっかぁ・・・・・・うーん、なんだか悪い気もするけどねぇ・・・・・・」

「いいのよォ!この間とんでもない目にあったんだから、このくらいしてくれないと・・・・・・」

 

そこで彼女はちょいちょいと手招きをした。明日佳がそちらに顔を寄せると、杏子はひそひそと声を小さくして話し始めた。

 

「――ここだけの話だけどさ、この前の脱獄囚の件で店員結構辞めちゃって・・・・・・その代わりに報道効果かしらね?お客は増えたんだけど・・・・・・。店が回らないから残ってくれ〜ってテンチョーに泣きつかれたのよ。向こうはやめて欲しくないから多少融通してくれるってワケ」

 

「なーるほどォ・・・・・・。おぬしも悪よのぉ」

「ふっふっふ、褒め言葉でございますわ・・・・・・ま、そんなに無理強いする気もないけどね。こんな時くらいよ」

 

杏子はにこりと悪戯っぽく笑うと向かいの座席に座った。彼女の様子を見て明日佳は安堵に胸を撫で下ろす。

よかった、少なくとも表面上は元気そうだ。

 

「あす、まだ食べてないでしょ。あたしはチーズバーガーにするけど、何頼む?」

「んー同じので!」

 

 

 

――二週間ほど前のことだ。童実野刑務所から凶悪犯が脱獄して町中大騒ぎになった。その凶悪犯が数日街に潜伏した後、篭城先に選んだのがここバーガーワールドだった。

明日佳はその日通院していたので後から遊戯から詳細を教えて貰ったのだが・・・・・・丁度そこでアルバイトをしていた杏子は犯人の人質にされ、危うく命を落とすところだった、と聞いている。

過剰に反応するのもよくないだろうと、杏子に合わせて務めて普段通りに振舞っている明日佳だが、内心では気がかりに思っていた。

 

「はー・・・・・・にしても大事にならなくて良かった。学校にアルバイトやってるなんてバレたら一大事だもの」

「ほんとにね。杏ちゃん、夢のためにバイトしてるってこの前言ってたっけ」

「そ、お金貯めてニューヨークでダンスの勉強するの。アメリカに行くためにはもっと頑張らないとね!」

「うん、ファイトだ杏ちゃん!応援してるよ」

 

談笑しているうちにウェイターが注文したバーガーを運んできたので、一旦話をやめて食事に集中する。

外で夕食を摂るのは久しぶりだ。普段は兄と祖父の三人で当番を回していたり、ときどき母が買ってくる惣菜で過ごしているので中々外で食べることはない。

家で食べる食事も美味しいのだが・・・・・・今は新鮮さが勝っている。友達と食べるのも久々な事だし。

 

じぃっとバーガーを見つめながら一口ずつ味わうように食べる。齧る。咀嚼する。

まず初めに口内に感じたのはパンズの表面のパリッとした食感だ。歯を少しくい込ませれば、ふわりとした生地本来の食感が顔を出す。最初の一口では具材までたどり着けなかった。次はどうか。

三口目でやっとパンズの領域から脱した。まずはシャキっとしたレタスの軽快な噛み心地。お次はチーズだ。とろりと芳醇な香りと独特な塩味が口いっぱいに広がる。そして、パテ!薄くともぎゅっとうまみが濃縮された肉の味わいは最高だ!

最後は再びパンズである。染みた肉汁やソースも、また違う味わいを生み出し、飽きさせない。

 

「うん」

おいしかった。

 

これは遊戯がやみつきになるのも頷ける。満足そうに畳んだ紙をトレーに置いた明日佳はふと前を見た。

 

「・・・・・・杏ちゃん、なーにその顔」

「いーえ、なんでもないけど?」

にやにやと、愉しそうな顔で杏子が笑っている。

「満足そうに食べてるの見ると、こっちも嬉しくなるわね、って思ってただけ」

「だって、おいしいものはおいしいんだもの」

「そういうとこ、遊戯と一緒。昔っから変わらないんだから。今度はあたしがウェイターやってる時に注文してってよ」

「気が向いたらね〜」

 

ひらひらと明日佳は手首を振る。気のなさそうな素振りだが、メニュー表を横目で伺っているのを見ると二度目の来店も遠くはなさそうだ。

 

「そういえばさ」

「どうしたの?」

「最近、遊戯に変わったとこない?杏ちゃんから見た主観でいいんだけど」

「遊戯ィ?・・・・・・別におかしなとこはないと思うわけど。あークラスでよくつるむ(ヤロー)ができたくらいじゃないかしら。城之内っていうんだけど」

「遊戯に・・・・・・同性の・・・・・・友達」

「おお、驚いてる驚いてる」

 

明日佳は八年間遊戯がパズルに託してきた願いを知っている。それが叶ったのだから驚きも喜びも一塩だった。

 

「そう、それで、聞いて明日佳!!」

 

 

「!?」

 

惚けていると不意に杏子は立ち上がらんばかりにずいっと身を乗り出してきた。酷く興奮した様子だ。

 

「ど、どうしたの?」

「遊戯と城之内といえば、この前の立てこもりの時来てたんだけどさ・・・・・・あいつらあたしが最近付き合い悪かったの怪しんで着いて来たらしくって、バイトのことバレちゃったんだけど・・・・・・ってそうじゃない、そうじゃなくて」

「うん?」

 

熱が入っているかと思えば、今度は肩を小さくして彼女は訥々と話を続ける

 

「あの時、あたし目隠しされてたの。銃突きつけられて怖くって、このまま夢も叶えられないまま死んじゃうのかな・・・・・・なんて思ってた」

「杏ちゃん・・・・・・」

「そして、あの男周りの客に指示を出して酒を持ってこさせたのね・・・・・・。見えなかったけどあたしには分かったわ。あれは遊戯だった」

 

『気の弱そうなチビ』と、犯人は指名したから。あの場で一番背が低かったのは彼だ。

 

「危ないから来ないでって止めたんだけど、犯人に・・・・・・邪魔されちゃって」

 

無意識にだろうか、そっと杏子の手が彼女自身の右頬に添えられた。その動作だけでなんとなく彼女のされたことを察して、明日佳は顔を伏せる。

 

「ああ、あたしも遊戯もどうなっちゃうんだろうって思った時」

 

――声を聞いた。

 

杏子の口調に少し熱が篭もり始める。

 

「『あんたに度胸があるならオレとゲームをやらないかい?』。その人はそう言ってあたし達の前に座ったわ」

「ゲーム・・・・・・」

「最初は遊戯だと思ったの。声の質が似てたから。でもあの自信に満ちた声は違うわ・・・・・・。その人があたしと遊戯を助けてくれたのよ。目隠しを外したらもういなかったんだけど、その声の持ち主がどうしても忘れられなくって」

 

ほんとうに誰だったんだろ。

 

「・・・・・・好きになっちゃった?」

「たぶん。好きになっちゃった・・・・・・」

 

杏子はテーブルに乗せた腕に顔を埋めて、窓の外に視線を向けている。

 

「また会えるといいね・・・・・・」

「・・・・・・うん、絶対探し出すから、祈ってて」

「OK、後方支援はまかせたまえ」

 

友の恋路を祝福する一方で、明日佳の頭の中では浮遊していた思考が新たに動き始めたところだった。

 

いつもと様子が違う兄。

窮地に現れたヒーロー。

提示されたゲームという言葉。

兄と声質が似た誰か。

 

 

「・・・・・・なーんか繋がりそうなんだけど」

 

詰めにはまだ足りないな。

 

「何が?」

「いんや、なんでも」

 

 

 

時刻も九時を回った。そろそろ帰ろうとどちらともなく立ち上がって勘定を済ませて外に出る。

 

「最近物騒だし、送っていかなくていい?」

「だーいじょうぶよ!あすの方こそ転ばないように気をつけな!」

「はーい、それじゃまたあした」

 

大きく手を振る杏子が路地の向こうに消えたのを確認してから、明日佳は踵を返す。

 

「・・・・・・この時間に帰るの久しぶりだ。剣道やってた時以来?」

 

『遅くなるなら連絡してね!迎えに行くから』とのメッセージがSMSに兄から送られてきていたものの、繁華街と自宅のゲーム屋の間はそこまで離れてはいない。

『今から帰るね』

それだけ入力して彼女は夜道を歩き出した。

松葉杖を降ろす先が見えやすいように、できるだけ灯りのあるところを通るように心がけて歩む。

 

 

こん。

 

 

――にわかに物音が聞く。

かつん、と響くのは固い靴の音だろうか。振り返っても誰もいない。青果店などの個人経営の店舗は七時半には閉まってしまう。いつもは賑わっているはずの大通りは、しんと静まり返っていた。

 

「誰か、いるの?」

 

意図せずして震えた問いに答えはない。

声を出すのも久しぶりな気がした。さっきまであんなに杏子と話していたのに、その時間がまるで嘘のような気さえしてくる。

よくよく聞くと人の声らしきものも断続的に聞こえてくる。音の出処はどうやら通りではなく、少し奥まった路地のようだ。

どくどくと心臓が痛いほどに脈を打つ。あの時と一緒だ。入学式で感じたあの感覚と同じ。世界が回るような。

・・・・・・自分の体が思うようにならないというのは、気持ちの良いものでは無い。

壁に背中を預けてなんとか衝動に耐える。

 

 

たすけてくれ。

 

 

歪む視界の向こうから、か細い声が明日佳を呼ぶ。

街灯に照らされた光は路地裏までは差し込まない。

きっぱりとわかたれた光と闇。

 

一歩足を踏み入れれば、がらりと日常が変わる気がした。

 

一度境界をまたげば、二度と戻って来れないような気がした。

 

「・・・・・・いかなきゃ」

 

それでも、助けを呼ぶ声は無視することができなくて。

ここで見捨てたらきっと一生後悔する。ずっとあの人はどうなったんだろうって不安が付き纏う。

やらずに後悔するより、やって後悔した方がずっといい。やってみなくちゃ結果は分からないから。

覗くだけでいい。何が起こっているのなら然るべき対策を。

 

明日佳は鞄からスマートフォンを取り出した。アプリの録音機能をオンにして、通話ボタンを押すだけで警察に連絡できるように準備して、名前を書いたハンカチを大通りに落として。今考えうるだけの用意をすべて整えて、彼女は闇の中に足を踏み入れた。

 

 

 

 

「やめてくれ・・・・・・あの人におまえのことを伝えようとしたことは悪かった!!土下座だってなんだってするから!!」

 

さっきよりも大きな声が聞こえてきて、明日佳は驚いて壁に身を隠す。

路地裏を進んでその先、暗がりで蹲っているのが誰なのか明日佳には理解できてしまった。

あれは、童実野高校の教師だ。

では誰が彼を恐喝しているのか?

視線を移せば換気扇の影から革靴の先と仕立てが良いスラックスの端が覗いている。それも複数人分。

 

――これは無理だ。見つかる前に戻らないと。

 

ぞっと蒼白になった顔で、背後を向き直ろうとしたそのとき。

 

 

肩に触れる手があった。

 

 

 

「あんちゃ・・・・・・ッ」

いいや、いいや。漏れそうになった名前を噛み殺す。この場に都合よく友人がいるなんてことは無い。そんな甘いユメを見られるほど現実は甘くない。

 

「お嬢さん」

 

「あ」

 

 

 

駄目じゃあないか。こんな時間にひとりで外を出歩くのは。

 

 

 

そんな言葉が耳に入ったがいなや、悲鳴をあげる暇もなく明日佳の口は黒服の手で塞がれた。

 

 

 




前に投稿した8話9話を消してしまってすみません。
数年前にプロットを作り始めたので色々繋がらないところがあり練り直していました。
2章からは過去に制作した文ではなく、新規に執筆してるので多少雰囲気が変わるかもしれませんがご了承ください。
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