「ど、どうしよう……」
プロデューサーさんが美味しい、と買ってきてくれた紅茶をついつい飲み過ぎてしまった私は当然のことながらその代償として急激な尿意に襲われた。幸い事務所の中だったから間に合わない、なんてことはなかったんだけど、入る前に確認すべきだった……とことが済んでから後悔している。
「か、紙がない……」
最後に使った人は誰だったのか、どうして無くなった後に替えを用意してくれなかったのか、という念が頭の中を渦巻く。真っ先に浮かんだのははづきの顔。こういうことは事務員である彼女の仕事なのに。でもアルバイトをいくつも掛け持ちしてるはづき一人を責めるのは筋違いかしら……そして次に浮かんだのはそういうことをやってしまいそうな子たちの顔。
「いくらうちでもそれは忘れんばい!」
「え〜、まみみを疑うんですか〜?」
「甜花……そこまでうっかりやさんじゃない……」
「前に忘れて冬優子ちゃんに怒られてから気をつけるようにしてるっす!」
ああ、ごめんなさい。一応一番お姉さんの私がみんなを疑うなんて……恋鐘ちゃんは寮で暮らしてるからわかるけど、掃除洗濯料理と女子力のかたまりのような子だし、摩美々ちゃんは悪戯好きだけど決して人が本気で嫌がるようなことをする子じゃない。甜花ちゃんやあさひちゃんには甘奈ちゃんや冬優子ちゃん、愛依ちゃんが付いてるからその辺りは学んでいるはず。そもそも私だって紅茶を飲みすぎたことやら寒さに負けてデニムで来ちゃったりしてるわけだし……人を疑うより先にするべきことがある。まずはこの危機的状況を如何にして切り抜けるか、よね。
「にへへ……今事務所には誰もいない……そのまま出て取りに行っちゃえばいい……」
あら甜花ちゃん、さっきぶり。何故かデビ太郎のコスプレをした甜花ちゃんの文字通り悪魔の囁きが私の頭の中に響く。デビ太郎になりきる甜花ちゃん可愛い!じゃなくてね?
「だめだよ、千雪さんはアイドルなんだからそんなはしたない真似しちゃだめ!」
そんなデビ太郎甜花ちゃんを止めるかのように現れたのはエン次郎のコスプレをした甘奈ちゃん。甜花ちゃんに負けず劣らず甘奈ちゃんもかわいい、じゃなくてね?
「じゃあ、なーちゃん……なーちゃんは千雪さんにどうさせたいの? 千雪さんずっとトイレに閉じ込めて……いじわる」
「そ、そんなことないよ! 甘奈は……甘奈は……」
ああ、喧嘩はやめて。私の頭の中の天使と悪魔だけど、いつもの仲良しな甜花ちゃんと甘奈ちゃんでいて。
「とにかく、下半身裸のまま外に出るのだけはだめ!」
「……じゃあもう、誰かが来るまで待つしかない……」
「やっぱりそれしかないよね! ファイトだよ、千雪さん!」
ありがとう、デビ太郎甜花ちゃんとエン次郎甘奈ちゃん。こうなったら誰かが帰ってくるまで待つしかないわね。ドアの音がしたら、少しだけドアを開け、入ってきた人を確認してトイレットペーパーを持ってきてもらう。
最も戻ってきたのがプロデューサーさんや社長さんみたいな男の人だったら恥ずかしくて声なんてかけれないから……できればはづきみたいに気の置けない間柄の人や樹里ちゃんとか灯織ちゃんみたいに気遣いのできる子を待ちたいところよね。そんなことを考えていると、ドアがガチャリと開く音が。私はトイレのドアを少しだけ開け、トイレの便座に腰掛けたままぐっ、と身体を伸ばして隙間から覗き見る。
「お疲れ様です……って誰もいないの?」
やってきたのはノクチルの樋口円香ちゃん。正直予想していなかった子が来たからどうすればいいのか、と思ってしまうけど円香ちゃんなら話せばわかってくれるはず。
「ま、円香ちゃーん……」
「プロデューサーもはづきさんもいない……鍵が開けっ放しでほんと不用心な事務所」
あまり大声を出せる環境じゃない、とはいえこんな小声じゃ聞こえないかしら、って思ってると円香ちゃんの耳にはワイヤレスのイヤホンが。もし今スマホか何かで音楽を聴いていたとしたら、どれだけ叫んでも聞こえない。
「ま、円香ちゃ……きゃっ!」
なんとかしなきゃ、と焦る私はトイレのドアにかける力加減を見誤っていた。大きく開いたトイレのドアに釣られる形で私の身体が前のめりになり、私はそのまま倒れ込んでしまった。しかし、その時の倒れた音と衝撃が伝わったのか円香ちゃんは私に気づいてくれた。
「いたた……」
「あの、大丈夫ですかちゆ……!」
「あっ」
駆け寄ってきた円香ちゃんは私の姿を見るや否や顔を真っ赤にして背けた。そう、今の私は下半身に何も履いていないのです。つまり円香ちゃんの目には私の……が思いっきり映ってしまったのです。異性の人ではないとはいえああ、なんと恥ずかしい。
「あの、トイレットペーパーを取ってきてもらえないかしら……?」
*
「ほん……っとうにありがとね円香ちゃん。このお礼は必ずするから……」
あの後、円香ちゃんに助けてもらった私は無事トイレから出ることができた。二人っきりの事務所で私は円香ちゃんにそれこそ地に頭がつくくらいの勢いでお礼を繰り返す。
「気にしないでください、それにしてもとんだ災難でしたね」
「……まあ、私にも非はあるんだけど」
「あの……こんなことを言って慰めになるかどうかわかりませんが……その、千雪さんのヒップ……綺麗で、すごく魅力的でした」
「……ふふっ、ありがとう」
正直円香ちゃんは甜花ちゃんや甘奈ちゃんと同い年とは思えないくらいクールで大人びていて、プロデューサーさんへの当たり方からちょっと怖い子だなぁって思っていたけれど、こうして話してみるとやっぱり年相応の可愛らしい女の子なんだなぁ、って思っちゃった。
「お疲れ様でーす。あ、千雪さんだ」
「お、お疲れ様です!」
「お疲れ様です〜……あー、円香先輩いたんですか〜?」
二人で話しているとノクチルの三人が入ってきた。幼馴染だけあって信頼できる仲間がすぐ近くにいてくれるっていうのは羨ましいな。
「珍しい組み合わせですね〜、円香先輩何か失礼なことしたんですか〜」
「は? 雛菜と一緒にしないで」
「そうよ、雛菜ちゃん。私さっき円香ちゃんに助けられたの」
「樋口に?」
ちょっと恥ずかしかったけど、私はトイレで起きた事の顛末を三人にも話した。変に隠すよりかは円香ちゃんの功績はどんどん広めた方がいいと思ったから。
「ま、円香ちゃん……大活躍だったね!」
「円香先輩も意外と優しいところあるんですね〜」
「雛菜が同じ状況になったら助けてあげない」
「え〜、ひど〜い」
「ふふふ……」
円香ちゃんと雛菜ちゃんが突っつきあい、小糸ちゃんがツッコミを入れて私が笑う。まるでノクチルの一員になったみたい、なんて思っているとその輪の中心にいるはずの子がいないことを思い出す。ノクチルのリーダーにしてセンターの透ちゃんはどうしてか窓の外を見つめていた。
「透ちゃん?」
「……ふふっ、ごめん」
「透先輩?」
「浅倉……まさか」
「紙……替えてないわ」
思わぬところから犯人が自首してきた。最も当事者である私よりももっと感情を表に出している子が一人。
「あ〜さ〜く〜ら〜ぁぁぁ!」
わぁ、私が子供の時にやってたドラマみたい、じゃなくて。怒る円香ちゃんを宥めるのにもっと体力を使ってしまったのでした。
ちなみに元ネタは私の実体験です
もちろん千雪さんのような美少女ではありませんし、助けてくれる円香も紙を替え忘れる透もいませんでした