モノクロ・ドリーム   作:ゆきますく

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雪の夜にて。
受験と、進路と、将来と、重く肩にのしかかってくる今、バス停で。


俺は、春に出会った。





First Impression
震える夜の「夢」


二月の雪は冷たかった。十二月のイベントのような温かい雪ではなく、そこにあるのはただ無機質な雪の概念だけ。夜の空には黒と白しかなくて、まるで世界がモノクロになってしまったかのような、そんな気さえする。寂れた田舎のバス停は、雪と夜空と、それから街灯と今雪を支えているトタン屋根以外には何もない。雪の重みで屋根が軋み、そこに時折吹きつける横風が学ランの肩に雪を残していく。今日もまた、そんな一日が終わる。

受験生の二月は、それなりに、いや、それ以上に寒い。迫りくる受験と合格発表日が、常に心に重く降り積もる。いつの間にか心は真っ黒と真っ白で埋め尽くされて、そうして積み重なった不安は、ぎゅっと圧縮されていく。そして、そこにグレーや、ましてや鮮やかな原色たちが入り込む隙間がなくなっていく。本来あったはずの入り込む隙間は、口から白い息となって外へ飛び出して、霧散して消える。

バスが来るまで、あと三十分。一時間に一本のバスを待つ。絵に描いたような田舎のバス停は、人の気配すらない。鉄とトタンの合成で作られたベンチの冷たさが、座ったままのこの体をカチカチに固めて、氷漬けにする。

どん。

「よっこらせ……ふぅ」

でも、その時、確かに揺れた。閉じていた眼を開く。危うく眠りそうだった自分の意識を奮い立たせる。学ランの肩に積もった雪が少し落ちて、と気づいた時には、目覚めのまどろみの中にある寒さがじわじわと意識の中に入ってきて、体が震え始める。歯がカチカチと音を鳴らす。

「あの……大丈夫ですか?」

その時、右隣から声がした。白い息が吐きだされて、振り向いた俺の視界を埋め尽くした。

「えっ、と」

上手く声が出ない。マスクもせずにしばらくこの寒さの中にいたせいで、喉まで凍り付いてしまって、かすれた声が漏れるだけ。

「あ、ごめんなさい! 一年の天海春香です。……同じ学校、ですよね?」

ふわりと、温かい声が聞こえる。聞き覚えのない名前だったが、寒さを和らげるには十分な人の温かさがあって、さっきの揺れの正体は彼女がこのベンチに座ったことだと、この時すぐ分かった。うちの学校の女子制服に、マフラー、毛糸の手袋、もこもこのコート、ニットの帽子。防寒具フルコースの彼女は、どうやら一年生らしい。

「大丈夫ですか……? 唇真っ青で、ベンチが揺れるぐらい震えてましたけど……」

「た、たぶん、だいじょうぶ」

内心大丈夫じゃないとは思いつつ、しかしもし変に気を遣われて、彼女の防寒具を借りることになってしまうと、彼女のことを一ミリも知らないのもあって、今より困るのは目に見えた。雪の積もった腕を動かして、手を横に振る。

「えっと……よければ、これ!」

しかしそんな手袋のない俺の手を彼女は一瞬も見ることなく、そのまま鞄の中からピンクの魔法瓶を取り出した。街灯が当たって、金属の淵がきらきらと光る。かぽん、という音と共に中から湯気が立ち込めて彼女の顔を包んだ。

「ショウガ湯なんですけど、飲めます?」

「たぶん」

「よかった!」

湯気が晴れて彼女の笑顔が見えた時、咄嗟に、たぶん、と声が出てしまった。魔法瓶のコップにショウガ湯が注がれる。優しい音が雪の中に響いて、彼女の手の中にコップは大切に包まれていた。

「はい!」

「あ、ありがと」

温かい。受け取った手の温かさが、断ればよかった、とさっきまで少し思っていた思考さえも溶かしていく。あったかい。さっきまで黒い夜空と白い雪に埋もれていた頭に、何色か分からない、でも確かな暖色が差し込まれていく。喉が少し潤って、染みて、徐々に目が覚めていく。

「あ、バス」

彼女が呟いた。雪の地平線の先に、うっすらと影とライト。地面が少し揺れ始める。

「あれ、のります?」

「そうですね……えっと……先輩は?」

呼び名に困った彼女の目が泳いだように見えた。

「えっと、もう一本あとのだから……まだ」

バスがライトの中に黒い煙を吐き出しながらやってきた。ブザーの音と共に扉が開く。

「じゃあ、そのコップ、また学校で返してください!」

彼女は立ち上がってバスに乗る。定期をかざして、ぴっ、と音が鳴ると、彼女はそう言

った。

「扉が閉まります。ご注意ください」

そのまま、バスが閉まる。しんと静かになったバス停に、ショウガ湯の湯気が立ち込めていた。さっき防寒具を借りないように、って思ってたのに、結局困ることになりそうだった。

 

 

*

 

 

「天海?」

「はい、ちょっと前に物を借りて返したくて」

次の日。補修が始まる前、ふと思い出した。補修の担当の先生が職員室から出てきたのを見て、捕まえる。天海春香は何年何組ですか、とだけ尋ねた。

「天海は、今日は来てないな」

「来てない?」

「ああ、アイドルの仕事らしい」

「アイドル?」

来てない。そして、アイドル。

あるかもしれないと思っていた返答に、聞き慣れない単語が上書きされて思考が止まる。

「知らなかったのか? 天海といえば、東京の方で事務所に入ってアイドルしてる、って話題なのに」

「いや、名前すら聞いたことなくて」

「テレビにも出るようになったらしいぞ」

「えっ、テレビ?」

「特に最近は忙しいらしくて、昨日は来たけど、次来るのは二週間後だそうで」

彼女が何故初対面で名前を言ったのか、なんとなく分かった。自分がどれだけ知られているかは把握できてなかったみたいだが。

「テストですよね、確か」

「期末だな」

学校の廊下というありきたりなシチュエーションで、アイドルが学校に居るというありえない話を、さも普通のように話す先生。変な表情になりそうなのを、少し力んで抑える。

「……大変なんですね」

「大変なんだろうなぁ」

そしてありきたりなモブのような感想を言い合って、それにはなんだか笑いそうになる。

「あ、予鈴だ。お前、今日は何からだ?」

「今日は先生の世界史からです」

「そうか、じゃあとりあえず教室行くぞ」

茶色の背広の後ろについていきながら、鞄の中に入ったピンクの魔法瓶のコップをどうするかの思考を、一旦頭の片隅に追いやった。生憎、受験間近の今に人間関係で困っている余裕はなかった。

 

 

*

 

 

しかし図らずとも、その日はすぐにやってきた。

「あ、天海さん」

雪は降っていない、夜のバス停に彼女はやってきた。今度は俺から声をかける。

「あ、お久しぶりですっ」

天海さんはぺこりと一礼。そのままトテトテと走ってきて、あの日と同じようにベンチに座った。右端に天海さん、左端に俺。

「よっこらせ……ふぅ」

妙に渋い声が聞こえて、前を向き直した俺は再び振り返った。

「あっ、あはは……すいません、気が抜けてると、つい」

アイドルと聞いていたが、そんな彼女からおばちゃんみたいな声が出て、驚きと笑いが同時にやってきて、上手く噛み殺せない。そんな俺の表情に、彼女は苦笑いを返す。

「はは……まぁ、そういうのも、あるよな」

今日は雪が降るほど寒くもなく、声が自然に出る。

しばらく沈黙の音が耳に鳴る。雪のような、白いノイズがあって、時折風が吹いて、時折街灯がちかちかと光る音がして。携帯を出してSNSを見ようかと思ったが、手が冷たくてそれをする気にすらなれなくて。

「あっ、そういや、魔法瓶」

そんな空気を破ったのは、彼女の声だった。

「あぁ、そうそう」

ずっと持ち歩いていた魔法瓶のコップを取り出そうと鞄を開くと、中に教室の暖房の空気がほんの少しだけ残っていて、ふわっと飛び出した。そしてビニール袋に包まれた、ピンクのコップを手に取る。

「ありがとう、この前は助かったよ」

「よかったです! この時期寒いですし、体調崩すと長引いちゃう時期ですから……」

俺が右手で渡すと、彼女はわざわざ手袋を外して両手で受け取ってくれた。そして、にっこり。思わず見惚れる程の笑顔。彼女は鞄のチャックを開いて直すと、冷えた手を数回こすり合わせてから手袋をはめ直した。やり取りを終えると、どちらが言いだすでもなく、道路に向き直る。目を合わせることなく、何かをし始めるわけでもなく。でも、確かに彼女はアイドルだった。

「今日はそんなに寒くないな」

「言っても、すっかり息は白いですけどね。はぁー」

流れをつかめないまま、言葉を交わし始める。彼女がわざとらしく息を吐いて、風に流れて白い息が俺の前まで流れてくる。視界の上側に見えていた星が少し霞む。

「そうだな」

言葉を出すたびに白い息が、視界に少し靄をかける。体温が逃げていく。

「先輩って、三年生ですよね?」

「え?」

「あ、いや、名札付けっぱなしなので、そうなんだろうな、って」

学校を出る時に外し忘れた名札が、今見ると胸元にあった。最近は名札をつけて歩くのさえPTAから苦情が来るとかで、外しておくように、と担任が言っていたのを思い出す。

「まぁ、そうだな。三年だ」

「自由登校期間、でしたっけ」

「そうそう、まぁ、俺は受験前の補修だから来てるが」

目の前の道路を見ながら話していたが、その時天海さんがこちらを向いたのが、なんとなく分かった。ほんのり右耳が温かくなる。

「受験生、ですか」

「受験生だな」

また、しばらく言葉が消える。少し目線を上げてみると、冬の澄んだ空気を星の光が俺の目をめがけて貫いてくる。零れそうなほどの星。はっきり見えるオリオン座。

でも、なんだか、そんな風景も、もう消えてしまいそうな気がして、沈黙を破る。

「天海さんは、アイドル、だっけ」

でも言葉が思いつかなくて、その瞬間、何故か自分の不安に踏み込まれる予感がして、途端に思いついたことを口にする。

「アイドルですね」

思い付きの言葉へ返すのその声は、さっきみたいな温かさは消えていた。

「どうして、アイドルに?」

こんなこと、聞いたって何の意味もないことは、分かっていた。でも、もう、踏みとどまれない。

「夢だから、ですね」

「夢、か」

「小さいころに連れて行ってもらったライブで、初めて、アイドルを見た時からの、夢なんです。……でも、もう、そんな夢、いいんですけどね」

彼女の方を向くと、彼女は空を見上げていた。

「……どうして?」

「そろそろ、今のプロデューサーさんとの活動が、終わるんです。それで……夢より大事なこと、かも、って思えるものがあって」

「じゃあ、諦めるのか?」

「ううん……諦めると、きっとその人も悲しむので」

「そうか」

彼女の眼はまっすぐに星空を見ていた。零れ落ちそうなほど輝くこの大きな空を。……でも、大きな空の向こうに、何かを見つめるような、そんな遠い目をしていた。それは、なんとなく、アイドルの顔と言うより、少女の顔だった。

「先輩は、どうして受験するんですか?」

一度瞳を閉じた彼女は、今度は、と言わんばかりに俺の方へ向いた。彼女の髪についた二つのリボンが、優しく揺れた。

「どうしてだろうな」

「理由とか、ないんですか?」

「いつの間にか、そうするって決まってて、それでいつの間にかこうなってたな」

改めて思えば、一度も自分を貫かないまま、ここまで来た。不合格の通知を既に四つも見てきた。でも、まだ続くんだ、という気持ち以上のものは、何もなかった。

「夢、追わないんですか?」

「夢か……見てないな」

「そっちの夢じゃなくて……こう、きらきらした人とか、なりたいなって思う人とか、やりたいこととか」

彼女の言葉を、一度正面から受け止めてみる。でも、どれだけ捻ろうと、彼女の言うような『夢』が頭から出てこない。雪のような重い塊が頭の中でぴくりとも動かない。確かに昔は持っていたそれが、その塊の中に埋もれて、掘り出せない。

「分からないな」

「なのに……頑張ってるんですか?」

「そうだな。……なのに、頑張ってる」

不安な声を出す彼女に、ちょっと強がって笑顔を見せる。

「夢、見たことないんですね」

彼女は俺の顔を見ずに、空を見てそう言った。彼女は口元は吐き捨てるような素振りで、目は寂し気なまま、空を見ていた。

「かもしれないな」

そう言って振り向くと、彼女の頬に、凍り付いた流れ星の跡。街灯に照らされて、今初めて見えたその跡に、思わず唾をのむ。その時、彼女は一度だけ顔を横に振って、立ち上がった。俺の目の前で、立ち止まる。

「見たく、ないですか?」

「どうだろう」

どう答えるべきか分からなくなって、反射的に飛び出す言葉を抑えることもやめた。同時に、声が震える。

「じゃあ、見てみてから、考えてみませんか」

彼女はポケットから何かを掴むと、俺の右手を取ってその上で握り拳を開いた。

「これは?」

「最後のライブの、チケットです。学校で友達にあげようと思ってたんですけど、全部断られちゃって……なので、こんな所で話した縁として、受け取ってもらえたらな、って」

彼女は、少し震えた声で、でも、確かにはっきりと、こう続けた。

「私、夢も、そうじゃないものも、諦めずに……頑張ります」

「そっか」

「なので、もし、私が、ちゃんと夢、見せられるようなアイドルになる時が来るなら……それはきっと最後のライブの時だと思うので、見に来てください」

まだ二回しか話したことがない、防寒着フルコースの制服姿のアイドルは、確かに、そして強く、言いきった。

「あ、バス」

「だな」

「私、これに乗って、今から東京戻るんです」

「……応援してる」

「はい。次は、ライブで」

バスに乗り込む彼女を見送る。右手には、まだほんのりぬくもりが残っていた。

 

 

*

 

 

悲しみに暮れる暇もなく、見上げるは東京の春の青空。受験総落ちの絶望は、あのチケットが救ってくれたのかもしれない。

「天海君は、朝一番で、近くの広場に向かったようだ。迎えにいき、活動を開始したまえ」

あのライブ終わりに慣れない東京で立ち止まっていた時に、壮年の男性に出会ったのがきっかけで、この東京と言う大きな都市にこうして夢を追いに来た。

「ワン・ツー、ワン・ツー、あれ? わからなくなっちゃった。もう一度、最初から……、きゃあああ」

公園に着いて、辺りを見回して、すぐ。叫び声が聞こえて、振り向く。

「君、大丈夫?」

「いたたたたた……、あ、はい。平気ですっ、慣れてますから! あはは……って、あれ」

彼女は屈んだまま、俺が差し出した手を取ろうとして、そして目が合う。

「今日から、俺が君のプロデューサーになったんだ」

モノクロの雪も、モノクロの夢も、今からこうして色づけていく。彼女と、一緒に。

 

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