新しい春は、彼女の調べと共にやってくる。
新しい春の一歩
「おはようございます!」
「おはよう」
「あ、おはようございます! プロデューサーさん!」
扉が開く。都内のとある事務所の一室に、春らしい明るい声が響いた。それに一言答えると、少女はこちらに向かって走ってくる。
「今日はレッスンだったよな。直接行かなくていいのか?」
「まだ少し時間があるので、この前頼まれた歌詞のお話、考えていようかなって」
ソファに座りながら伊達眼鏡をはずす彼女、天海春香は息を落ち着けるように一度目を伏せてそう言った。ワインレッドのリュックからクリアファイルを取り出すと、イヤホンを付けて紙の世界へ没入していく。
「春香ちゃん、久々のお仕事でもフルパワーですね」
そんな彼女を見ていると、向かいのデスクからさえずりのような声。
「そうですね。歌詞を書くなんて今まで経験ないって言ってたのに」
「だからかもしれませんね。この機会にファンの皆に何か伝えたいこととか、聞いてほしいこととか、あるのかもしれませんし」
声の主である事務員の音無さんは、そんな彼女に目を向けながらコーヒーを一口飲んだ。その時、開けていた事務所の窓から桜の花弁が舞い込んでくる。
「そうかもしれませんね」
手元のキーボードに桜の花弁が触れて、手が止まる。
春は散り始めた。
天海春香は二年目を踏み出した。
俺は、そんな彼女の隣で社会人一年目を踏み出そうとしていた。
*
テレビに映る彼女は、アイドルそのものだった。この仕事をするようになって少しずつテレビを見るようになったが、未だにこうして自宅の部屋でアイドルを見ることに、なんとなく違和感がある。それに、少女はさっきまで普通に会っていた女の子だ。普段着とは違う衣装で、普段と同じ笑顔で楽しそうに話す彼女が、今ステージに上っていく。俺はそんな彼女を見つめながら、惣菜のニラレバを口に入れる。口の中で日常と非日常が混ざっていく。
「天海春香さんで、曲は、『太陽のジェラシー』です、どうぞ」
MCの声がして、歌いだし。デビュー曲というのもあって、息を多くした滑らかな声で入っていくのも、すっかり慣れた様子だった。ただ最初の音は少し上にずれたが。
「ねぇ、云いかけた言葉聞いてみたい。キュンと、キュンと、甘い予感」
それ以降も少しずつ、一つステップを飛ばしたり、サビの前で上ずったり、いくつかミスはしたが、笑顔は崩さず歌いきった。こういう部分に目が行くようになったのも、プロデューサーとして少しは前に進んでいる証拠かもしれない。膨れた腹をさすりながら緑茶を喉に流し込む。ふぅと息をつくと、外から早くもうっすらと蝉の声。太陽のジェラシーが似合う季節なのだから当然か、なんて少し笑って目を閉じる。梅雨も明け、もう少しで夏がやってくる。ワンルームに一人、ちゃぶ台の下に足を入れたまま寝転がると、そのまま睡魔がやってくる。
明日も早い。今日はここらへんで眠るとしよう。
*
それからしばらくした、事務所にて。忙しさは増す一方で余裕なんてなくて。
「天海さん」
「もう、天海さんはやめてくださいよ」
「あっ、すまん。……で、春香。明日のミニライブなんだが」
余裕のない日々はあっという間に時間が過ぎる。プロデューサーが俺になってから初めてのミニライブは、もう明日に迫っていた。ソファに座っていた彼女に声をかけると、むっとした顔で迎えられる。原因は明らかだが、まだ慣れなくて治せそうにない。
「明日は現地に直接来てくれたらいい。事務所より春香の家からの方が近いから、余裕をもって来れるはずだ」
「確かに、この会場なら近いですけど……やっぱり一度事務所に寄ってからにしたいです」
「どうして?」
「なんというか、ルーティンみたいなもので、電車に乗って、サンプル音源聞いて、歌詞見て、お仕事確認して、そして事務所の扉を開けるとやる気が出るんです」
「なるほど。でもなぁ……うーん、ただ十時に会場となると、俺がここを出るのが八時だから、春香は遅くとも七時半にはここに着かないといけない」
「となると始発じゃないと間に合わないですね」
「今日この後収録だったよな。大丈夫なのか?」
うーん、と唸る彼女は、しばらく目を天井へ向けていたが、はっとして手帳を開く。
「今日、千早ちゃんと収録同じなので、泊めてもらえたら余裕持って来れます!」
「如月さんか……確かに同じ収録だと聞いているが、本当に大丈夫なのか?」
「あはは……駄目だったら大人しくおうちに帰りますよ」
「まぁ、ならいいか。……彼女とは仲良くしてるのか?」
「そうですね。去年からちょっとずつですけど」
さっきまで顰めていた眉が綻び、彼女の笑顔にハの字を描いた。悪い話は聞いていないので、確かに大丈夫だとは思うが、この調子だと恐らく彼女からの一方的なものかもしれない。いつもより覇気のない笑顔に、俺も少し笑って返した。
「それなら問題ないか」
「また何かあったら連絡します」
「じゃあ、とりあえず明日についてはいったん事務所に来るってことで。その後は俺の車で一緒に行くことになるが、それでいいか?」
「はいっ」
元気よく答える彼女に対して、若干渋い表情になってしまう俺。正直三月に免許を取ってから数か月しか経っていないのに、担当アイドルを乗せることにまだ不安しかないが――
「あっ、そろそろ時間なので収録行ってきますね」
「ああ、頑張ってこい」
彼女の笑顔が「そうすべきだよ」と言っているように見えて、その全てを拭い去っていく。さて、俺は事務所でもう少し仕事が残っているし、もうひと踏ん張りするとしよう。両頬を叩くと、こめかみを垂れていた汗が人差し指を伝った。
これまでの仕事は主に営業で、レッスンや収録は本人に任せてきた。イベントは事務員の音無さんに任せ、俺は彼女が頑張っている間、社長から研修を受けていた。だから、次の仕事が初めての「プロデュース」になる。
汗を拭う。大丈夫。やれば意外と何とかなる。彼女の笑顔から奮い立たせる言葉をひねり出すと、その言葉が彼女の声で脳内に響いてくる。イベントの企画書とスケジュールを開く。よし。一度右手で顔を仰ぎ、デスクに向き直った。
*
「仕事には慣れました?」
ほんのり暑さが事務所に流れ込んできて、向かいのデスクから声。事務員の音無さんがモニターの横から顔を出していた。
「少しずつですが、やっと」
「早いですね。まだ二か月とちょっとなのに」
「覚えるのだけは得意だったので」
高校時代から、流れを掴んだり覚えたりするのだけは得意だった。だから世界史は好きだったし、国語も好きだった。コーヒーを一口飲む。ガムシロを入れたはずなのにまだ苦い。
「それ混ざってないんじゃないです?」
「え?」
「いや、苦そうな顔してたので」
音無さんはこういうところまでよく見ている。うちに所属するアイドルと、俺と、社長、きっと全員。ただ、タイミングがタイミングだったのもあり、豆鉄砲を食らったみたいな顔をしてしまった。
「いります?」
「いただきます」
プラスティックのマドラーを受け取り、おもむろに混ぜ始める。
「で、春香ちゃんとはどうなんですか?」
「えっ?」
「そこは噴き出すとこでしょう」
「そんな理不尽な」
再びコーヒーに口をつけた時、音無さんから思いもよらないボールが飛んできて思わず驚いた。ただ、驚き方には不満だったらしい。理不尽だ。
「聞きましたよ。プロデューサーさん、まだ春香ちゃんのこと名前で呼べないとか」
「うっ……まぁ、そうですね」
「駄目ですよー、ちゃんとアイドルとは仲良くしてもらわないと。うちの事務所はそれがモットーなんですから」
「分かってはいるんですが、まだ慣れなくて」
「やっぱり年が近いことって関係あります?」
「ない……とは言い切れないと思います」
「まぁ二つしか違いませんもんねぇ」
彼女との距離の取り方は、未だに悩みの種としてある。仕事は慣れてきても、距離の取り方は如何せん進展が少ない。もう少し話す機会を増やしたりとかするべきなんだろうか。
「でも、アイドルも普通の女の子ですから、仲良くしようとすれば応えてくれますよ」
「女の子ってもっと怖いものだと思ってるんですけど」
「……それはもう現代病です。早く治療しましょう」
「そんなの慣れ以外で治療できるんですか」
「できないので、仕方ないですし私で練習してもいいですよ?」
「……音無さん、その書類の束、さっきから微塵も動いてませんよね」
「ぴ、ぴよっ」
「仕事が終わってない人には任せられないので」
「そんなぁ」
真面目な話をしていたかと思えば、急にふざけた口調で話されて、あしらいながらも笑ってしまう。春の風はもう吹かないが、しっとりとしたそよ風が流れる事務所は、今日も晴れだ。
*
「もしもし?」
『あ、プロデューサーさん! もしもし、春香です! 今大丈夫ですか?』
その日の晩。事務所の鍵を閉め、階段を降りると電話が鳴った。着信は、彼女から。
「今事務所出たとこだから問題ないが……どうした、もう夜十一時だぞ」
『あはは……千早ちゃん寝ちゃったんですけど、なんだか眠れなくて』
「おいおい、明日早いのに大丈夫なのか?」
『んー……ちょっとぐらいの夜更かしなら大丈夫ですよ』
「ならいいが……で、どうした?」
『え?』
「いや、電話するってことはなんかあったんだろ? メールじゃなくて」
『あー……そうですね』
街路樹の間をすり抜ける風が吹いて、彼女の歯切れの悪い言葉を少し遮ってしまう。
『別に大したことはないんですけど』
「そうなのか」
『あっという間でしたね、夏まで』
「え?」
『その、早かったなぁって』
夜も更けて人通りが少なくなった街は、星の光なんて見えなくて、空には黒いキャンバスが一面に広がっている。右耳から聞こえる彼女の声が、何も見えないキャンバスに優しく微笑む彼女を映し出しそうだった。彼女の声の意図がなんとなく分かって、強張った頬が綻んだ。
「まぁ、仕事結構忙しかったもんな。それに高校だろ?」
『そうですね』
「課題は大丈夫なのか?」
『あ、えっと、その』
「世界史でまた呼び出されたのか」
『ち、違いますよっ。世界史は元々好きでしたもん。もう大丈夫です』
「その言い方だと数学はまだ危なそうだな?」
『……はい』
彼女のころころと変わる声色を聴いて、いつものばたばたした日常を思い出す。それと、もうこんなに話せるぐらい、時間が過ぎてしまっていることも。
「あま……春香は前から苦手がはっきりしてるところがあるからな。分かってるとは思うが」
『プロデューサーさんも、苦手がはっきりしてますよね。ずっと苦手なままそうですが』
「し、仕方ないだろ。年の近い女の子とあんまり関わったことないんだ」
『部活でも?』
「クラスでもだ」
『高校時代の部活は何してたんですか?』
「軽音だよ」
『え、軽音ってことはギターとか弾けるんですか?』
「まぁちょっとだけ。俺ボーカルだったし」
『ボーカルだったんですか!?』
「ちょ、そんな大声出して如月さん起きちゃうぞ」
『あ、すいません……』
「いや謝るべきなのは俺じゃなくて如月さんにだけどな」
『でも、いつか聞いてみたいです。プロデューサーさんの歌』
「いつか、な。……さて、そろそろ電車なんだが、眠れそうか?」
『いえ……眠れはしないかもしれないですけど、眼は瞑ってみます』
「なんだそれ。まぁ、いいか。明日は頑張ろうな」
『はい、頑張りますっ』
「じゃあまた明日」
『はい、おやすみなさい』
「おやすみ」
電話の着信終了の文字を見て、息を吐く。駅まで来ると星が見えた。電車に乗って座ってみると、強烈な睡魔がやってくる。春香、ちゃんと眠れたかな。そんなことを思いながら体を電車に預ける。つまり、そのまま寝過ごしたってことだ。
*
夢なんてめったに見ないくせに。
「夢、追わないんですか?」
久々にまじまじと星を見たからかもしれない。
「夢、見たことないんですね」
だから、こんな夢を見るのかもしれない。
「もし、私が、ちゃんと夢、見せられるようなアイドルになる時が来るなら――」
*
朝。目覚めは悪かった。朝飯もなんだか喉を上手く通らず、そのまま家を出た。
「おはよう」
「あ、おはようございますっ」
眠い目をこする。電車を降りてからしばらくふらふらと歩いていた気がする。事務所について、階段を上ると扉の前には彼女が。
「早いな、まだ六時半だぞ」
「プロデューサーさんも早いじゃないですかあ。いつもこの時間なんですか?」
「いや、九時出社だからいつもは……っていうかもう暑いな、すぐ開けるよ」
鍵を取り出して、右手で捻った。少し重い鉄の鍵がガシャンと音を立てる。
「緊張してるか?」
「えっ?」
「その……なんだ、今日復帰後初めてのミニライブだろ。緊張しないのか、って」
「番組の収録とかで歌うことはありましたし、大丈夫ですよ」
入って電気をつける。むわっとこもった空気が、逃げ場を求めて入り口にいる俺たちへ襲ってくる。俺はデスクへ、彼女はソファへ向かい、荷物を置く。緊張しないのか? という俺の問いに、慣れた口調で返す彼女の背中は、心なしかいつもより大きく見えた。
「それ、順調か?」
「んー……難しいですね、作詞って」
復帰して最初に、社長が提案した「アイドルによる作詞」。アイドルが感じたことを、アイドルが思うように歌ってほしい。それによって見えるものがあると。事務所に居る間、彼女はいつも作詞ノートに目を落としていたし、大事にしているのだとは思う。ペンが動いているのを見たことがないので不安だが。
「プロデューサーさんって、軽音やってたんですよね」
「まぁ」
「作詞とか経験ないんですか?」
「あったけど、俺のとあ……春香のとは違うだろ」
「……確かにそうですけど。何かコツとか……」
「うーん、時間について考えないことかなぁ」
「時間ですか?」
「いや、まぁ一番と二番、みたいな感じの時間は意識しなきゃいけないんだけど、一番の中で無理やりストーリーを作ったりとかはしなくていいのかなって思う」
「……実は結構作詞好きでした?」
「バレたか」
デスクの上に置いていた今日のタイムテーブルの書かれた書類を、クリアファイルに入れながら、右手で後頭部を掻いた。そういえば、去年の今頃まではまだ部活でギター弾きながら歌ってたんだよな。
「歌うのって、楽しかったですか?」
「え?」
「昨日の晩、ボーカルだったって言ってたじゃないですか」
「まぁそうだけど……そうだなぁ」
答えに困る。歌うのは、なんというか、生活そのものだったような気がする。
「楽しかったのかなぁ」
「かなぁ、って言われても」
「毎日歌ってて、コンクールとかあってさ、上手くなるためにはいっぱい歌う必要があって……って考えたら、楽しかったなって今は思うけど、あの時どう思ってたのかは分からない」
「結構部活好きだったんですね」
「まぁ……部活は好きだったよ」
おかげで受験には力が入らなかったが。
「あ、そろそろ時間」
「了解。車出すから、事務所の前に居てくれ」
「はーい」
「あ、鍵閉め忘れないようにな」
さて、ライブの時間だ。無論、高校時代の俺のライブではなく、彼女のライブだが。
*
割れるような歓声。舞台袖から見ていた俺は胸を撫で下ろす。準備に抜かりはなく、もちろん最善を尽くしたが、それでも彼女のステージが終わるこの時まで、不安が拭えなかった。
「ありがとうございました!」
小さな屋外会場だったが、復帰後初のライブということで、客席はいっぱいだった。活動休止前最後のドームライブを見に行った時は暗くて見えなかったが、あの時からこうして目いっぱいの人に囲まれて彼女は歌っていたと思うと、メンタルの強さがうかがえる。
「お疲れ様です!」
ステージの裏に入ってくる彼女が、すれ違うスタッフに明るい声のあいさつと会釈をしながらこちらへ歩いてくる。
「……春香、お疲れ」
「ありがとうございます! どうでしたか?」
「いやはや、さすがトップアイドルだよ」
決して上手さで勝負している訳じゃない。歌の上手さならうちの事務所では如月さんの方が圧倒的に上だし、踊りの上手さなら菊地さんの方がキレもある。だけど、天海春香にしかない魅力が確かにあふれていた。たった十数分の歌とMCに、詰まっていた。彼女の溢れる笑顔と、それに続く会場の盛り上がり。歌詞に込められた思いを、流してしまうのではなく、技術で聴かせるわけでもなく、しっかりと伝わるように歌い上げる彼女の歌への姿勢。それに心打たれる会場の雰囲気。目線の振りまき方。描く理想像。彼女は、確かに、アイドルだった。
「あはは、ありがとうございます」
「まぁ、ただ一曲目の歌いだし、声上ずったところあったよな。そこは要練習だ」
「げっ、バレてましたか……」
「アイドルが出しちゃいけない声出したぞ今」
とはいえ、上手くいった部分はあっても、そればかり言うのでは駄目だ。求められているのは一人の視聴者ではなく、一人のプロデューサーとしてだ。
「とりあえず衣装着替えてこい。帰ろう。家まで送るよ」
「ご飯いかないんですか?」
「この後すぐご飯なんていったら、ファンに見られるだろ」
「じゃあ事務所の近くで……」
「駄目だ、今日は俺の事務仕事が終わらん」
「はーい……」
最近になって、彼女のこんな一面を見ることは増えた。それは、音無さんの言う「仲良くなれてきた」なのか、それとも単に年上に構ってもらいたいだけなのか。どちらも近いように感じるが、何か違うような、そんな気もする。
スタッフにお礼まわりをしてから、急いで車を出す。会場の前に立つ、キャスケットと伊達眼鏡に身を包んだ彼女を迎えに。