分かってたでしょ?
夢は寝ている間に見るもので、いつかは見られなくなるんだって。
こがらしというのは、木を枯らすと書くが、この寒さはその本来の意味を痛いほど教えてくれる。
「春香ちゃん、年度末ライブはどうするって言ってました?」
冬が深まり、クリスマスが近づく頃。給湯室でコーヒーを淹れていると、左隣でミルクを入れる音無さんから声がかかった。マグカップにあたるマドラーの、からからという音が小さな部屋の中に二つ響く。
「そういやまだ聞いてませんね」
「そろそろ準備しておかないと、三月に間に合わなくなっちゃうので気を付けてくださいね」
「そうですね、今日あたりに聞いておきます」
眠さが薄っすらと瞼にまだ残っている。ほんのり温かい湯気がその瞼を包んで、まどろみの世界へ入っていきそうになるも、給湯室の扉を開けた時に入ってくる、まだ暖房の効ききっていない部屋の空気が頬を叩く。
『お疲れ様。年度末のライブなんだが、どうしたい?』
デスクに戻り、メールを打ち込む。あて先は春香。躊躇うこともなく送信ボタンを押し、仕事に戻る。彼女は今レッスン中で、きっとまだ見ないだろうけど。
*
寒くなると換気はできればしたくない。とはいえ、しなければいけないのは事実で。
「寒いな」
呟きながらポットのお湯を手元の麺に注ぐ。はぁ、とため息が出る。食事すら楽しめないこのイベント時期の冬に、最初から期待することなんてなかったはずなのに、どこか裏切られたような気持が芽生えていた。
「おや、今日のお昼は随分と質素らしいね」
デスクでカップ麺をすすりながらマウスを握っている俺に声をかけたのは、社長だった。びっくりして、すすっていた麺を噛みちぎって急いで飲み込もうとして――
「げほっ、げほっ」
「だ、大丈夫かね……?」
思わずむせて、一度息を吸い込もうとするも、気管が苦しくて、咄嗟に右手でお茶を掴んだ。
「すまないね。驚かせたようで」
「いえ……こちらこそ、変に驚いてしまってすいません」
落ち着いてから深呼吸をする。社長はその間も俺のデスクを覗き込む位置に立っている。
「すっかり冬だねぇ」
「そうですね、寒さも厳しくなりましたから」
社長は目線を外の街路樹へ移す。社長が眺める目下の世界を、同じように眺めてみる。何度も見た世界なのに、事務所から見るといつもよりちょっと違うように見える。事務所の前のイチョウの絨毯もすっかり片づけられてしまい、色見のない寂しい街が広がる。色が戻るのは人が活気づく時だ、と前に社長は言っていたが、それはきっと本当なのだろう。寒いと呟きながら体を縮めて歩く人々に、少なくとも「活気」と呼べるものは見当たらない。
後ろで組んだ手は優しく握られていて、茶色の背広は余裕からか大きく見えた。世界史の、あいつ……誰だっけ。去年の世界史の補習担当の先生の名前が思い出せない。ただ、確かにこんな感じの茶色の背広だったことだけは思い出せた。そう思うと、毎朝姿見で見ているスーツ姿の自分は、まだまだスーツに着られている少年のようにしか思えないな、と少し呆れてしまう。
「いや、それもそうだが、君がすっかりお昼の手を抜くようになったから、もうそんな時期か、とね」
「……ああ」
仕事が忙しくなって、どんどん家で過ごす時間を蔑ろにしている自分がいたことに、はっとする。春香に会って、仕事ができて、今は新しいことを覚えるのに精いっぱいで。何もかもが新鮮で。だけどちょっぴりしんどくて。
「仕事は体が資本だ。気を付けてくれたまえよ?」
「はい、お気遣いありがとうございます」
社長が背を向けて去っていくのに一礼する。ちょっと緊張はするが、すっかりこの場所は居心地のいい場所の一つになっていた。
*
今日の帰宅は深夜一時。扉を開くと、見慣れた灯りのない玄関が立ちはだかる。既に家族は寝ていて当然で、そんな時間に帰ってくる俺も、慣れたように灯りをつけずに靴を脱いで階段を上っていく。
「ただいま」
部屋の扉を開く。誰もいない部屋に、囁き程度の声が響く。部屋の消臭剤の匂いがして、帰ってきたなと思うと、そのままベッドへ顔から飛び込んだ。スーツが皺になることすら厭わずに、疲れのまま体を預ける。
そろそろ年度末のことを考えなければいけない時期になってきたのか。部屋が寒い。でも暖房を入れるのすら面倒で、布団の上でうずくまる。あの日の春香のメールにあった書きかけのテキストが、瞼の裏にちかちかと写る。あれから一度も切り出せないでいる自分が、なんとなく嫌で、でも打開できるほど彼女に対して勇気が持てるわけでもなくて。しばらくうずくまっていると布団の表面に熱が帯びてきて、だんだん暖かくなってくる。
このまま夢に潜っていけたらいいのにな。
高校を出て、今。一番楽しかったのは、いつの時も「夢中で走り続けている時」。こうして振り返ったり、頭を悩ませたりする時はいつも、どこか苦しい。後から振り返ればよかったと思えることもある。しかし悩んでいるその瞬間はいつも、苦しくて、全てを投げ出したくなる。
こんな自分だから、受験を投げ出したのかもしれない。この道を選んだのも、自分が逃げたかったからかもしれない。でも、ここで本気になった自分は嘘じゃない。彼女と向き合ってきたこの数か月も、無駄じゃない。でも、それは上手く行かなかった俺への救済かもしれなくて。ああ、もうなんなんだ。
膝を抱える腕の力を強める。布団が皺になって、布の擦れる音がする。その中に、聞き慣れたジングル音。
『ドームでライブ、やりたいです』
*
「ドームライブか」
「はい。本人の意思でもありますが、私も、彼女にふさわしい舞台だと思います」
「そうか」
昨日の社長の表情はもう思い出せないが、今確かに、きっと昨日よりも今日の社長の顔は険しい。古い紙の匂いがかすかに残る社長室に張り詰めた空気が、首元の肌や顔をぴりぴりと突き刺す。
「ドームライブをするということは、大きな成功を得る一面もあるが、大きな失敗のリスクを伴うということでもある。それは分かっているかね?」
「はい」
「それでも、彼女の意思を尊重して、ドームライブをすると」
「はい」
「……分かった。その手はずを準備しておこう。君はアイドルとの調整に力を注いでくれ」
「ありがとうございます」
「それから、単独ドームライブをするには、いくつか条件がある。音無君に書類は渡してあるから、受け取ってくれ」
「分かりました」
形式ばった確認のようなやり取りを終え、社長室を出る。緊張が解けたからか、上がりっぱなしだった肩の力が抜ける。同時にため込んでいた息が吐きだされて、目を閉じる。
ドームライブをするということ。それは、前のプロデューサーと同じ道を辿ることであり、同時に自分の答えを探すことと同義だ。踏み出してしまった右足は、もう引けない。そのまま左足を出すしかない。デスクへ戻る足取りは、どことなく重かった。
*
重い話をする時間ほど、来てほしくないと思う時間はない。なのに、そういう場合に限って瞬く間に時は流れて……それこそ、冬の流れ星のように、彼女が事務所の扉を開くまでの時間は過ぎ去った。会議室の机越しに向き合う俺と彼女の間には、いつもの柔らかい雰囲気はない。
「これからの予定だが、まずはスーパーアイドルオーディションを受けてもらう」
「はい」
「それから、そのオーディションの二次審査の後でドームライブ希望者のみの特別選抜がある。そこで勝てば、年度末のドームライブは決定、予定は三月三日だ」
書類に書いてあることを噛み砕き、淡々と読み上げる。彼女の顔は、柔らかくも険しくもない、少し真面目な顔だ。
「もちろん、スーパーアイドルの番組には出てもらう。そこでミスをすると後から色々やらなきゃいけないことが増えるから気を付けてくれ」
「分かりました」
「ここまでで何か質問あるか?」
「いえ……去年通りなので、大丈夫です」
「そうか。なら、とりあえずその方針で」
去年通り、と口に出すその時だけ、眉が下がり、顔色が暗くなるのを俺は見逃さない。ただ、その感情に、俺はもう敢えて触れないようにした。彼女が送りかけのメールを送らなかったように、隠したいと思っていることがあるなら、それをも敢えて暴くようなことは、もうしたくない。そんなことで俺の答えを見つけたくない。向き合い方は人それぞれかもしれないが、それでも俺は前を見て答えを探したい。
*
「ワン・ツー・スリー・フォー、ワン・ツー・スリー・フォー」
テレビから聞こえる掛け声とクラップ。今日のレッスン風景を録画したものだ。トレーナーさんの指導もドームライブを決めてからだんだん熱が入ってきている。それもそのはず、今回も前回同様、持ち歌全曲披露を本人が希望したのだ。さらに、春香自身が作詞する曲を、ラストに持ってきたいと。
「そこ、動き遅れてるわよ!」
「はい!」
でも、まだ曲は完成していない。だからこそ、今は他の曲に力を入れたいらしい。画面の中の春香は険しい表情で、いつもより若干テンポの速いトレーニングに勤しんでいる。腕の振り、指先の伸び方、腰の捻り、ターンの美しさ。基礎トレーニングなのに、普通の人なら倒れてしまうようなテンポで続けている。
すっかり冬になったのに、汗もびっしょりで、ジャージの上からでも分かるほどだった。肩で息をする彼女は、まだ苦しそうで、それはただトレーニングに苦しいだけじゃないのかもしれないとも思う。背負い込んだ何かが、手を膝につくその背中の上にのしかかっているようにも見える。俺が思うように、春香にもどこか、ドームライブへ思うところがあるのかもしれない。
*
送信のジングル音。
『オーディションで出す曲は決めたのか?』
受信のジングル音。
『はい。一次は「まっすぐ」、二次は「私はアイドル」で行こうかと』
『なるほど、王道で攻めるのは確かに悪くない。だが、持ち歌とはいえど二曲とも事務所の全体曲だが、それでいいのか?』
『はい。新曲はドームでお披露目したくて』
『なるほど。まぁ、これからを決める一大事だもんな。作詞は順調か?』
『なんとか仕上がりそうです。あと少しですが』
『よかった。ちゃんと出来上がりそうで何よりだよ。曲名は?』
『曲名は、まだ』
『難しいよな。どんな感じにするつもりなんだ?』
『それが、歌詞より曲名の方がずっと難しくて、本当に何も思いつかなくて……何かコツとかあります?』
『コツかぁ……相変わらずコツはないけど、俺が一つだけワガママを言っていいなら――』
『春香が、笑って歌える歌がいいな』
*
オーディション当日。会場前での待ち合わせに、春香は笑顔でやってきた。
「おはようございます!」
「ああ、おはよう。元気そうだな」
「はい、昨日はしっかり寝たので、元気いっぱいです!」
茶色の合皮のハンドバッグに、赤いジャケット、白に細い青のボーダーのシャツ、そして赤に白のチェック柄が入ったリボン。春香らしいなと少し笑った。
「あれ、どこか変でしたか? 寝癖は直したはずなんですけど……」
「いや、よく似合ってるよ。審査は衣装だっけ?」
「いえ、私服でとのことだったので、今日は一番のお気に入り持ってきたんです」
笑顔の彼女の隣を歩く。会場に入ると、テレビで見慣れたアイドル達がそこらじゅうにいる。春香が何人か知り合いらしいアイドルに挨拶すると、向こうも笑顔で挨拶を返した。俺は合わせるように、隣のマネージャーらしき人に笑顔で会釈をする。会場は笑顔こそあふれていたが、緊張感で肌が裂けそうだった。
「この会場、前来た時もですけど、緊張しちゃいますね」
春香も同じことを感じていたらしい。よく見ると、笑顔の口元がわずかに震えている。
「そうだな。俺でさえ震えそうだよ」
「プロデューサーさんが震えてどうするんですか」
「そうだな……まぁ、深呼吸して、目を瞑ってれば収まるだろ」
「それじゃ寝ちゃいますよ……ただでさえ、昨日プロデューサーさんは事務所出るの遅かったんですから」
左を歩く春香がハの字の眉で笑う。あはは、と二人で声をそろえた時、もう目の前に来ていた控室の扉が開く。
「あ、春香ちゃんおはよう! 今日はお互い頑張ろうね!」
「うん、お互い頑張ろうね!」
知り合いらしいアイドルと握手をする春香。さっきまでの不安げな表情は消え、その笑顔のまま控室の敷居を跨いでいく。
「じゃあ、ロビーで待ってるから」
「はい、また後で」
扉は閉まる。
*
待っている時間が何より愛おしくて、もどかしい。それはいつの時も同じ。春香がこのオーディションの舞台に立つことができたという喜びと、早く受かってほしいというもどかしさ。まるで自分のことのようにさえ思えるこの時間が、心地よくて苦しい。二律背反のこの感情の群れが、ロビーに座る俺の頭の中をぐるぐるかき混ぜる。暖房があまり効いてなくて、体が眠ることを許さない。まどろみと寒さの中で流し込むカフェオレは、苦さがほんのり鼻について消えない。
ドームライブが決まってからというものの、秋までのような余裕はなく、そんな中で四苦八苦しながらも、でもその時間が楽しいと思える、夢中になれる時だったことは間違いなく……お互いがお互いを気遣いながら、本当に二人三脚で歩いてきたと思う。だから、俺は積み上げる時間が好きで、終わってほしくないと思ってしまう。
「プロデューサーさん!」
でも、残酷か、それとも夢の目覚ましか、時間はそんな思いを無視して過ぎていく。控室のある廊下から、春香の声。浮かび上がる笑顔。一瞬、ああもうこの時間は終わるのかという物惜しさが、その笑顔によってかき消されていく。
「お疲れ様! どうだった?」
そして、分かり切ったことを聞く。
*
きっとそれは二番煎じで、そんなことは分かっていて、でも、だからこそ、叶えたかった。
ドームライブ特別選考の結果発表。呼び出された先で、前列にアイドルが並ぶ中、後ろから見守っていた。他のアイドルたちを見ても、彼女より実力があるアイドルはいなかった。ロビーで見た彼女の確信した顔を、俺は忘れない。
スポットライトは彼女を照らさなかった。ライトは彼女の隣にいた新人の少女で止まった。泣き崩れ、会場は審査員の拍手に包まれる。
泣き崩れたいのは俺の方だった。彼女がドームライブで新曲を出すことを知っていて、彼女があの場所に答えを探していくことを知っていて、人一倍彼女が自らに込めてきた思いを見てきた。その彼女が、夢を掴めなかった。誰よりも大事にしていた場所を、取り戻せなかった。
二回目のドームライブは、叶わない。
天海春香は、敗れた。
アイドルのトップを、隣の少女に譲り渡した。
覚めない「夢」は、終わったんだ。