それでも、「ゆめ」を見続けさせるのが、アイドルじゃない?
だから、何を魅せるか選ばなきゃいけない。
春香は、彼女は泣かなかった。
会場を出ても、事務所についても、日を跨いでも、年が明けても、事務所でも、レッスンルームでも、楽屋でも、晴れようと、雨が降ろうと、雪が降ろうとも。彼女は時々目を閉じて、一度だけ息を吐く。次に目を開くと仕事の笑顔を持ってきて、本当の彼女を包み隠す。テレビに出ようと、ライブに出ようと、彼女は悲しみの色を一度も出さない。まるで、今まで俺に見せてきた表情豊かな彼女は、別人であるとでも言うように。
そんな彼女を見るうちに、あのオーディションが触れてはいけない腫れ物になってしまったような気がして。だから、どうしていいか分からなくて。毎日していたメールはすっかりなくなっていて。
『プロデューサーさん、明日一日、お休み貰えませんか』
だから、一か月ぶりの彼女のメールは、無機質で、冷たくて、モノクロだった。
*
休み。久々に朝のまどろみを感じることなく、昼の太陽の光で目覚める。疲れていたのかな。彼女の言うままに、今日を有給扱いにしてきた。親が心配して、昼ご飯に何故か鰻が出た。「好きだったから」とのこと。俺が有給を取るのは確かに今年度入ってから一度もなかったが、別に好物が食べられなくてこんな気持ちな訳じゃない。しかし、家族が心配しているのはよく伝わった。
「おつかい、行ってくれない?」
昼ご飯を終えると、母親に茶封筒を渡される。表には、メモとお金が入ってます、と。元気づけ方としてはありきたりだなとは思いつつ、有給だからと部屋にこもっていても仕方ない。寝間着のジャージのままクロックスを履き、財布と封筒だけもって玄関の扉を開く。
大きな欠伸を一つ。寝たはずなのにな。目を閉じて、流れる涙を人差し指で拭う。
その時。
「おはようございます、プロデューサーさん」
聞き慣れた声が、聞き慣れない場所から聞こえて、目を見開いた。
「春香……?」
「はい、春香です」
「どうしてここに?」
「去年の三月、バス停で分かれた時、一緒のバスに乗りませんでしたよね? そうなると、ここに来るバスしかないので、苗字と表札で探しました」
「いや、どうやって見つけたかではなく、何故ここに……」
「そんなの別にいいじゃないですか。それより、まず着替えてきてください。その恰好じゃさすがに外出はまずいですよ」
「……はい」
*
冬の昼下がりはまだ気温が温かく、歩きやすい。若干積もっていた雪も解け、空には雲一つない。バスに乗り、向かったのは、高校。
「どうして高校に?」
「プロデューサーさんはもうOBですから私服で大丈夫ですけど、私はまだ二年生なので、制服じゃないと駄目なんです」
「いやそんなことを聞いてる訳じゃないんだがな」
なんだか様子がおかしい彼女と、バス停に降り立つ。前まではそうでもなかったが、最近歩幅も近くなり、歩くスピードも合うようになってきたからか、足音の鳴るタイミングが重なる。制服姿の彼女は、出会った時と同じ、ピンクのマフラーに毛糸の手袋、もこもこのコート、ニットの帽子といった、相変わらずの防寒具フルコースに身を包んでいる。冷たく肌を指す冬の空気に、二人の息が重なる。
「今日は創立記念日で学校はお休みです」
「そういや今日だったな」
「なので特別に開けてもらいました」
「は?」
校門の前まで来ると、彼女は俺の右手を引き、勝手口の鍵を捻った。おいそれどこで手に入れたんだ。
「昨日教頭先生に、図書室で自習したいのでと言ったらすんなりくれましたよ」
「……そうか」
口に出していない俺の疑問に勝手に答え、そのまま中へ入っていく。……まぁ多分、理由はそれだけじゃなくて、最近出席の減っている彼女への配慮か何かだろうとは思う。
廊下を歩いていく。前を行く彼女の背中は、いつものテレビで見せる大きく頼もしいものではなく、そこにあるのは俺から見ればただの後輩のそれで、驚くほど小さく、等身大の彼女だった。無音の中の白いノイズが耳をくすぐる。本当に誰もいない。気配すらない。いやそれは当然で、今日は創立記念日だから、職員すらいない。かつかつと、二人のスリッパの音だけが響く。
「ふう」
図書室を開け、中へ入ると彼女は俺の右手を離し、防寒具フルコースをとっていく。現れるのは見慣れた女子制服。俺も一息ついて、椅子に腰かけた。マフラーを外し、手袋をポケットにしまう。
「初めて会った時、プロデューサーさん、手袋もマフラーもしてませんでしたよね」
「あの日は忘れたんだよ。朝は母親の車で送ってもらったから、気に留めてなくて」
図書室の南側についている大きな窓へ、彼女は歩み寄る。そのまま目線を窓の外のグラウンドへ落としたまま、口を開く。
「私のこと、最初からアイドルって知ってました?」
「いや、まったく。あとで世界史担当の……えっと、誰だっけ」
「溝口先生ですか?」
「そう。溝口先生から聞いた」
「やっぱり」
席に座る俺に、彼女は振り向いて笑顔を向けた。仕事の時用の無理に作ったものではなく、楽しい仕事の時や普段の自然な時のそれが、ぱっと咲いた。振り向き際、彼女の後ろ髪とリボンが揺れる。
「プロデューサーさん……いや、ここでは、先輩、の方がいいんですかね」
「俺に聞かれても」
「じゃあ先輩で」
春香が一息吐いて、そして瞼を閉じる。次に開いた瞳は、ぶれることなくまっすぐ俺を見つめている。
「先輩は随分変わりましたね、大人になったっていうか」
「そうか? 前からこんな感じだったと思うが」
「前からおっさんだったってことですか?」
「やめろよ気にしてるんだぞ、まだ十九だ」
右手を口元にあてて笑う彼女を見て、俺も少し頬を緩ませる。彼女はそれを見届けてからか、グラウンドへ向き直る。
「ここの景色、変わらないですね」
「……まぁ、グラウンドだしな。今日は野球部の声もしない」
「ですね。でもなんだか静かなグラウンドって変な感じです」
彼女は視線をこちらに向けることなく話し続ける。手は背中の辺りで組んだまま、ぴくりとも動かない。
「春香」
「はい」
「ここに連れてきたのには何か理由があるんだろ?」
「そうですね」
「じゃあまどろっこしいのはやめにしないか」
ゆっくりと立ち上がる。視界の中央に彼女を捉え直す。彼女も、それに合わせてかゆっくりとこちらへ向き直る。彼女の背には、冬の青空。
「歌詞、付け終わったので、聞いてほしくて。できれば、先輩と初めて会った、この場所で歌いたくて」
「……あれ、初めて会ったのはバス停じゃなかったか?」
「その日のお昼、私、図書委員のお仕事で図書室に居たんです。先輩、ここで自習してましたよね?」
「……そうだっけ」
「そうです。だから、バス停で見た時、あの人だ、って思ったんです」
彼女は視線を俺から外すと、ゆっくりとその足を進め、こちらへ近づいてくる。足が動くと同時にスカートの裾がふわりと揺れ、あと二メートルというところで止まった。
「なるほど」
「聞いてくれますか?」
「曲名は?」
「え?」
「ほら、紹介なんだから、まずは曲名から」
「曲名は……まだ仮案ですけど」
彼女は一度唾を飲む。喉が息とともにうねる。
「『笑って!』です」
*
「繰り返す毎日は、止まることを知らないから」
メロディーが流れる。今までの彼女の曲とも少し違うミドルバラード。歌詞をひとつひとつ置くように歌っていく。
「悩んだり、泣いた時間も通り過ぎてく」
「楽しいことだけじゃないけど、私頑張ってるからね」
一瞬彼女が微笑む。それは、自然と言うよりは、強がりな、純粋な彼女の感情そのもののようで。
「『笑って!』のメール、くじけそうな時、いつも読み返すよ」
「今は時々ね、週末の報告、それよりも声が聴きたい、会いたいよ」
いつものハの字の眉の笑顔に似た、悲し気な目に強がる頬。それでいて奥に隠す自分の弱さを表す口元。胸元に手を当て、目を閉じた彼女の表情は、また穏やかなものになっていく。
「大切な思い出、しまい込んでた。大事にしすぎてた」
「今日という未来は、開き続けるから、新しい出来事きっと待っている」
フレーズの終わりと共に、彼女は目を開く。メロディが盛り上がる。
「『笑って!』のメール、忙しそうな君にも送るね」
「本当に伝えたいことは一つだけ、目を見て言いたいから、会いにゆきます」
ビブラートではない声の震えを携えて、曲は終わっていく。メロディーが終わっていく。最後に耳にしたのは、彼女の深呼吸だった。
*
「ありがとう」
「え?」
「これが、春香が作った歌詞かぁ……なんだか熱くなったよ。昔、自分が初めて曲を書いた時のような、まっすぐな気持ちがあってさ。この歌のこと、ずっと忘れないと思う」
「……よかったです」
『今日のこと、ファンは一生、忘れないと思う』
「プロデューサーさん」
「どうした?」
「プロデューサーさんは、オーディションのこと、『これからを決める一大事』って、言ってましたよね」
「ああ、メールでだな」
「私、ドームライブ終えたら、本当はアイドル辞めてもいいかなって思ってたんですけど、辞めないことにしました」
「……そうか」
「もちろん、ドームライブができなかったのはあるんですけど……今、歌い終わって思ったんです。こうして歌を聴いてくれる人が居て、私が、夢を、ちゃんと見せられるアイドルでいたいって」
『なので、もし、私が、ちゃんと夢、見せられるようなアイドルになる時が来るなら……それはきっと最後のライブの時だと思うので、見に来てください』
「それは、変わらないんだな」
「はい、きっと、ずっと」
「だから……もしよかったら、私のこと、もっと近くに置いてくれませんか」
「……え?」
「あの日、最後のライブの前に最後に会った日……私は夢より、目の前のことを選ぼうとしてました。ドームライブは、ファンの為じゃなく、見に来てくれた貴方の為でもなく、たった一人の……あのプロデューサーさんの為に、最後まで歌い続けました」
『それで……夢より大事なこと、かも、って思えるものがあって』
「でも、そんなメッセージは、届かなかった。プロデューサーさんは、辞めてしまいました。私は、仕事だけじゃなく、プライベートでも、あんなに頼りになるあの人の、もっと傍に居たかった。でも、受け取ってくれませんでした」
『ここからは別の道を行こう』
「だから……私は、また一人でした。そんな時、貴方が……先輩がプロデューサーさんになってくれて、驚きましたけど、嬉しかったんです」
『君、大丈夫?』
『いたたたたた……、あ、はい。平気ですっ、慣れてますから! あはは……って、あれ』
『今日から、俺が君のプロデューサーになったんだ』
「それで、その時……『この人なら、一緒に夢を追える』って思ったんです。だから、もっと傍に居たい。もっと夢を見たい。だから――」
「それは、できない」
「どうして……ですか?」
「君は、俺にとってだけの夢を見せるアイドルじゃない。確かに、俺は君に夢を見た。白黒の雪と夜空の世界から、カラフルな夢を見た。だけど、俺も、ただ他のファンと同じで、言い換えるなら、ファンの中で最も近いだけだ」
「でも、それなら――」
「俺は、君そのもの……天海春香というアイドルに夢を見てきた。それは天海春香本人じゃない。そんな俺が、君の傍に居ちゃいけない。傍に居て、夢を現実の話にしてはいけないんだ」
「じゃあ……私が悩んでいたこの時間はどうなるんですか?」
「……え?」
「私が、この歌詞を考えて、練習して、ドームライブで出したくて、でも……出せなくて、どうしたらいいか分からなくなった時、残ったプロデューサーさんへのメッセージは、どうしたらいいんですか……?」
『いつか、アイドルを辞めたら、戻ってきてもいいですか?』
「やめたら」
「やめたら……?」
「やめたら、この話の続きをしよう。だけど、今は、君に……春香に、色んな人へ、夢を届けてほしいから。今は……春香の将来を大切にしたいから」
『春香の将来を大切にしたいだけだ』
「だから、笑ってアイドルをやり遂げたと言える……その時が来たなら、この話の続きをしよう。もし気持ちが変わっていなければの話だが」
『もし気持ちが変わっていなければ』
「だから今は、まだ、アイドルの……アイドルという、夢の続きの話をしよう」
「ゆめ」の続きは、きっと、いま、ここにあるんだよ。