モノクロ・ドリーム   作:ゆきますく

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どんなに永い時を経ても、どんなに長い葛藤にもまれても、変わらない想いがある。
どんな寒さにさらされても、どんな冷たい表情に触れても、変わらない現実がある。

大好きで一緒に居たいのに、大好きでも一緒に居られない。

真っ白なこの世界の中にたった二人だけになる瞬間、二人の想いと視線が交差する。

また、この季節がやってきたんだ。


*


本作品は天海春香学会 学会誌vol3の特集テーマ「十年後の天海春香」の文章の部に寄稿させていただいた作品になります。


10 years later
White Planetarium


冬の匂いって、鼻で感じる寒さのことらしい。

玄関の扉を開く、日曜日の午前十一時。東向きの玄関に、瞬くように太陽の光が差し込んできて、思わず目を背けた。同時に寒さが一気に押し寄せて、防寒具の外側と顔全体を締め上げる。手袋をした両手をこすり合わせてみる。あんまり意味はない。それでもちょっと冬らしさを感じて、あったかくなる。

さ、いかなきゃ。今日は待ち合わせなんだ。

春香と、久しぶりに会うんだから。

 

 

*

 

 

「あ、プロデューサーさん!」

改札を出て、駅の出口に向かうと聞き慣れた声がした。まだ待ち合わせの時間まで三十分もあるのに、やっぱり、いた。駅の喧騒の中でもはっきりと分かる彼女の声。視線を向けてみると、茶色のコートに身を包んだ春香。薄いピンクのマフラー。真っ白のリボン。ぱっと咲いた笑顔。変装用のアンダーフレームの眼鏡。レンズの奥の翡翠の瞳。そこにあったのは、久しぶりの「当たり前」。そこまで見てようやく、頭の中に「おいおい、変装してるのにそんな大声出したらバレるだろ」って言葉が浮かんだ。とはいえ、その笑顔を前に言えるはずもなく飲み込んだ。

近くまで寄ってみると、春香の鼻の先がすっかり赤くなっていた。最近テレビで見る大人びた彼女とは違う、明るく元気な少女の顔。道端でそんな笑顔の彼女がいるというのに、周囲は気にもとめない。今の時代、人の視線は手元の端末に注がれているんだから当然と言えば当然なのだが、気づけないもんだなぁ、なんて感慨深く思ってみたりする。冬のせいか、春香のせいか。

ふらっと歩いてみる。駅の改札前は人の熱気があるからか、外から風が吹き込むといつも以上に寒く感じる。右隣の春香が震えながら顔をきゅっと引き締めていた。

「寒くなったよな」

「そうですね……もう二月ですもんね」

自然に二人の息が重なる。白い息。春香の目は前を向いている。お互いの白い息が、お互いの顔を避けて後方へ流れていく。

「今日はどこへ?」

「ちょっと行ってみたかった喫茶店へ」

冬の匂いは、彼女の笑顔と吐息にかき消された。

 

*

 

 

喫茶店の中は土日らしい喧騒が満ちていた。時計を見ると三時。おやつ時か。春香はメニューを見て「どうしよう、あ、こっちもいいなぁ」なんて、昔と変わらない弾んだ声で呟いている。俺はそれを見ながら水を一口ふくんだ。

「目当ては何だったんだ?」

「パンケーキです。前に千早ちゃんと真美がお昼の番組で紹介してて、行きたいなぁって」

千早ちゃん、と、真美、か。久々に春香から聴いた名前の呼び方に、ああ、そうか、ってなった。芸能界から離れたのは俺だけで、彼女たちはまだその渦中にいるのだ。右手で頬杖を突く。春香から目線を外して店内のポスターに目を移してみる。きらびやかな文字が薄いポスターの上を滑っている。

「どれにするか決まった?」

「いえ……やっぱり決まらないので、先にプロデューサーさんが決めてください」

春香がメニューを閉じて俺に渡す。

「じゃあ、メジャーな、この『メイプルパンケーキ』でいいかな」

「あっさり決まっちゃいましたね……」

「こういう時はメジャーなものをいっとくのが良いんだよ。次来た時に色んなもの試せばいい」

メニューを返しながら、にかっと笑ってみる。いや、こんな風に「笑顔をする」のは久々だからできているか自信はない。ただ、昔を思い出して、「こうすれば春香も決めやすい」みたいな発想が自然と出てきて、自然と「笑顔をする」発想が生まれる。春香もそうだけど、俺もそんなに変わってないのかもしれない。

「じゃあ私はこっちの『スリーベリーパンケーキ』にしようかな」

「よし、じゃあボタン押すぞ」

決めたらしくメニューをぱたんと閉じたのを見てから、机の角にある呼び出しボタンを押す。ちりん、と可愛らしい鈴の音が鳴り、足早に店員がやってきた。二つの注文をする。

「お飲み物はどうされますか?」

「あっ」

「あー……どうする?」

「えっと、うーん」

考えていなかった。いや喫茶店なんだから先にそっちだろ、って思えて自分の抜け具合に笑いがこみ上げてきたが、なんとか堪える。

「じゃあミルクティー二つ」

「ホットとアイスどうされますか?」

「二つともホットで」

「かしこまりました」

店員を待たせているのもなんだか気が引けて、ささっと注文を済ませる。店員が注文を復唱して、確認して、ぺこりと一礼。流れるような作業で、その場を後にする。

「すまん、決めちまった。ミルクティー大丈夫だっけ」

「はい。……えへへ、全然考えてなかったです」

いい歳した大人二人が何してんだろうな。とはいえ、これも春香と一緒にいると懐かしく感じる。なんだろう、上手く行くことばかりが日常じゃなかった日々と言えばいいのだろうか。

春香との日々は、二年ちょっと続いた。二年して、俺から離れた。プロデュース業に行き詰っていたのはあるが、実家の方でちょっといざこざがあったのが主な理由だ。とはいえ、そのたった二年は濃密な二年だった。些細なライブだけど上手く行って二人で笑ったり、オーディションに落ちて重い雰囲気になったり、それでも春香の歌声に感動したり、ダンスの上達を見届けたり、そして――大事な約束を交わしたり。

そこまで来て、思考が止まる。

そうか、今年は、春香のメジャーデビュー十年か。

「そういや、最近どうだ?」

「最近……ですか?」

「いや、あんまり俺テレビ見なくなっちゃってさ。最近みんながどうしてるかとか、春香がどんなのに出てるとか、あんまり追えてなくて」

正直に包み隠さずに話す。春香と話す時の鉄則。隠したってバレるし、隠したら悪い方向へ解釈される。二年ちょっとの経験は、体に染みついていた。頭はすっかりその時に戻っている。

春香はしばらく話してくれた。最近の765プロについて。春香は女優業がメインになりつつあって、美希は服のプロデュース業を始め、千早は作曲に手を出したらしい。最初にそれらを話した後、俺がいなくなった後の765プロを振り返りながらいろいろ話してくれた。とはいえ、一番驚いたのは、やよいの妹が765プロの事務員になったことだったが。

「まさかなぁ……かすみちゃんだっけ。なんだか感慨深いな」

「入ってきて一番驚いてたのはもちろんやよい本人でしたけど、伊織もすごい驚いてましたよ」

「え、やよい知らなかったの?」

「こっそり入社試験受けたみたいです」

俺の知らない765プロがだんだんとはっきりした像になりつつある。音無さんと、社長と、かすみちゃん。あれ、そういえば。

「俺の後任はどうなったんだ?」

「社長が『ティンとこない!』って一人も来てないですよ」

「あ、相変わらずだなぁ……じゃあずっとセルフプロデュース?」

「そうですね、マネージャー的な人はつきましたけど、プロデュースは」

そこまで言い切って、春香が初めてお冷を口にした。つめたっ、と口と目をすぼめた。既に飲み切った俺のコップへ視線を流す。机の木目を気にしたりしながら頭の中の765プロ像に思考を馳せてみる。そうか、あれから「プロデューサー」はいないんだ。

「だから俺のこと、まだプロデューサーって呼ぶのか」

「あ、そうかもしれません。あと、プロデューサーさん、って呼ぶ以外、なんかしっくりこなくて」

「もうあれから随分経つのにな。七年ちょっとか?」

「そうですね。もう七年前なんだぁ」

えへへと笑う春香。改めて、今の俺たちの状況がおかしすぎて俺もつられて、あははと笑ってしまう。

ただ、二つの笑い声はどこか乾いていて。

ああ、なんだか、あの時、あの、春香との約束の時も、こうだったな。

 

『春香の将来を大切にしたいだけだ』

『いつか、アイドルを辞めたら、戻ってきてもいいですか?』

 

『はぁっ、はぁっ、プロデューサーさん!』

『春香』

『どうして……!』

『申し訳ない。ここまで来れたんだ。もう大丈夫だろう?』

 

『大丈夫か? なんて、聞かなくても分かってるけどさ。久しぶりに連絡してみた』

 

『あ、見た? ちゃんと送っておこうと思って』

 

『どうして? って……そりゃ』

 

『天海春香で居てほしいからだよ』

 

 

――そこに。

「おまたせしました。メイプルパンケーキと、スリーベリーパンケーキと、ミルクティーお二つです」

「ありがとうございます」

「ご注文の品は以上でよろしかったでしょうか?」

「はい、大丈夫です」

「ごゆっくりどうぞ」

「……食べるか」

「そ、そうですね! 食べましょう!」

気まずそうに笑う俺と、ちょっと無理に元気そうに振舞う春香。

傍から見れば、俺たちはどういう風に見えるんだろうな。

 

 

*

 

 

なんだか気まずくなった喫茶店を出てからは、買い物に付き合った。「そろそろ千早ちゃんの誕生日だから」と。そういやそうだったな、なんて思いながら、すたすたと突き進む春香の後ろを見つめながら歩幅を合わせた。駅ビルの百貨店は無駄に広くて、同じような商品を並べている店が同じフロアに腐るほどあった。何が違うのかはよく分からなかった。

買い物を済ませ、外へ出る。すっかり暗い。冬の七時。中央広場の吹き抜けから見える空には、大粒の星。見上げた視線を戻し、駅の改札前についた。

「ちょっと散歩しませんか」

足を止めて振り返る春香。声のトーンが落ちる。文末だけちょっと笑顔で、無理した頬と目がちゃんと笑えていない。隠したくて、隠したくなくて。そんな春香の感情に気づいてないふりをしながら、頷く。改札前を過ぎて出口へ向かう春香の背中を追うように歩く。

 

あの日と一緒だ。

 

春香の声、春香の後ろ姿。確かに昔とは見違えるぐらい大人びた姿だ。いくら昔のように見えたって、傍から見ればすっかり一流の芸能人で、もう女子高生アイドルなんて呼べないぐらい、しっかりした立ち振る舞いだ。

だけど、変わらないものはある。翡翠の瞳の奥の、もっと奥深い、明度が低い、強い芯が見える瞬間。

 

河辺のベンチ。先に春香が腰かける。白い息が押し出される。心臓の辺りが一度だけ痛む。俺も息を吐き出してみる。体の中がなくなった空気を埋めたがるように、吐く力を抜いた途端に冷気を吸い込んだ。

「もう散歩はいいのか?」

分かり切っていることを、振り向かない春香の後頭部へ投げかけてみる。

「ちょっと疲れちゃったので、休憩しようかなと……あはは」

そして振り向かない春香は、声だけでちょっと笑って、俺へと投げ返してくる。暗闇のキャッチボール。休憩するときは必ず先に聞いてくる春香が、何も言わずに座るなんて、もう、頭の中に一つ抱えていることがあると言っているようなものだ。

「で? どんな話をするつもりだ?」

「きかなくても分かってますよね?」

「あはは、強くなったな」

昔じゃ絶対にしない強い言い方。そして、分かっていないわけじゃない。でも、形式美だ。

そもそも、今日、こうして久しぶりに会うことになった理由は――

 

「今日はなんだかデートみたいでしたね」

「そうだな」

周りからの視線。気づいていたのか。

「最後にこういうのしたの、最後のオーディションの時以来ですよね」

「そうだな」

「思えば、デビューしてから、十年、経ちました」

メジャーデビュー十周年。そんなこと、分かってる。

「プロデューサーさんがプロデューサーさんじゃなくなって、七年ですね」

「そうだな」

「あの日もこんな日でしたね」

雪が降り始めた。夜空にあった大粒の星が降ってきているかのように。そしてその景色は、もう何度も見たことがあるもので。

 

「アイドルになることが夢だった私は、もういなくなっちゃいました」

「もうアイドルだもんな。それも、十年」

「でもアイドルになって、いっぱい夢を叶えました」

「同時にいっぱい夢を与えてきたよな」

川のせせらぎと人の声が、だんだん遠くなる。

「たまにそうじゃなかったけど、夢を一番大事にしてきました」

「そうだな」

春香の目はやはり星空へ向けられている。眼鏡に雪がぽつぽつと当たっている。自然と春香に視線を吸い寄せられる。

「あの時言ってた将来って、今なのかなって思う時があるんです。プロデューサーさんがいなくなって、自分でしていかなきゃいけなくなった時、目の前が真っ暗になったように感じましたけど、今はもうすっかり慣れちゃってますし」

「そうだな。それに、何度かちゃんと連絡もとってるしな。メアドも、番号も、変わらず」

話が見えているからこそ、出すべき答えも見えている。白い息と、雪と、真っ白に染め上がる満天の星空が、全てを覆いつくしている中で、こんな問答に、意味なんてない。

 

「だから、アイドルは、そろそろ辞めようかなって」

 

「それが、言いたかったことか」

「はい。やっぱり、プロデューサーさんに一番最初に伝えたくて」

「本当にいいのか?」

「はい」

真っ黒な沈黙。いや、沈黙と呼べるほど、時間が空く訳はない。分かってるんだ。意味が。

 

「やめとけ」

 

だから、やっぱり、出す答えも、分かってるんだ。

 

「え?」

「アイドル辞めるなんて、やめとけ」

「どうして、ですか……?」

「辞めるのを俺に伝えるってことは、そういうことなんだろう? でもな」

 

分かっていたからこそ、準備もできるわけで。

コートの胸ポケットに入った、小さな金属輪。

それを、自分の左手の薬指にはめる。

 

「俺には、意味のないことなんだ」

今度こそ、沈黙。真っ黒な世界にたった二人だけ。

「春香。十年だ。俺と道を分かれてからは七年だ。七年も経ったんだ。春香はもう二十六になるし、俺だってアラサーだ。変わらないものもあるけど、変わるものは変わるんだ」

あの時と同じ、一方的な言葉。

 

「アイドル、続けてくれよ」

 

会う理由になった春香からのメール。「変わるわけないですよね」。

メールアドレスも、電話番号も、関係も、全部。

 

『もし気持ちが変わっていなければ』

『変わるわけないですっ。プロデューサーさんは、今も、そしてこれからも……』

 

でも変わるんだよ。

大事なものは、減らないけれど、増えるんだ。

増えれば、並び替えなきゃいけない。

 

「天海春香で、いてくれ」

視線は川へ落とされる。隣の顔を、もう見る資格はない。

「追ってないなんて、嘘なんだ。ちゃんと春香は追ってた」

だから、顔を見てなら言えないことだって、言える。

 

「春香は、俺にとっては、手が届かないのにずっと大好きで居続けられる人なんだ」

 

冬が、雪によって湿気を帯びるように。

星の瞬きは、掴めないように。

天海春香には、やっぱりこんな冬、似合わない。

やるべきこと、居るべき場所。俺と違う世界。

冬のプラネタリウムの上映時間は、もう終わったんだ。

 

「ありがとうな。そして、これからも、ずっと、追いかけるよ」

 

用意した言葉は、もうない。互いに、言葉のない世界に立たされる。川の音、雪の音。白い息、滲んだ視界、鈍色に光る左手の薬指。

春香との思い出は、いつも俺を救ってくれる。だけど、春香を救うことは、できない。俺には、目の前の世界に戻る義務がある。

 

「ありがとうございました」

春香が口を開く。

 

「えへへ……私、本当はそう言ってほしかったのかもしれません。アイドル、最近ちょっと蔑ろにしすぎたかなって。女優やったり、バラエティ出たり……でも、よかった。やっぱり、なりたかったのは、アイドルですから」

 

いつにも増して、強く振り絞られる声を、俺は聞くしかできない。

 

「じゃあ、また、テレビで見たら、教えてください。私、プロデューサーさんに、まだまだ夢を届けますから」

「分かった。また、連絡するよ」

「いつでも、待ってます」

「ああ、俺も楽しみにしてる」

「じゃあ、また」

「ああ、また」

 

「さよなら」

 

冬の匂いが、また戻ってきた。

 

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