忘雪(わすれゆき)   作:紫 李鳥

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 日本海の荒波は波の花を舞いながら岩に砕け、灰色の空の下で哭いていた。汽車の窓から覗く疎らな家並みに心細くなりながらも、(すみ)はその荒涼の地に降り立った。風が冷たかった。角巻(かくまき)で耳まで覆うと、風呂敷包みを抱えた。夜はまだ先だと言うのに、分厚い雲に覆われた空は暗かった。道行く人もいない、その小さな町を彷徨(さまよ)いながら、澄は安堵(あんど)の場所を求めた。

 

 

 朔風(さくふう)土埃(つちぼこり)を巻き上げながら激しく裾を捲り、骨の(ずい)まで凍らせた。道沿いの飲み屋はまだ暖簾(のれん)を仕舞っていたが、一軒だけ、提灯を出していた。〈酒処 勝〉と書かれた年季の入った赤提灯が、強風に煽られてパタパタと音を立てていた。戸口から覗くと、女将らしき女の背中があった。静かに戸を開けると、

 

「まだだよ」

 

 客と思ったのか、女将は背を向けたままで突っ慳貪(つっけんどん)に言った。

 

「……あのぅ」

 

 澄の声に咄嗟(とっさ)に振り向いた女将は、風呂敷包みを抱えた澄を見て事情を察したのか、

 

「とにかく、閉めておくれ」

 

 身震いしながら両手で自分の肩を抱くと、中に入るように促した。

 

「すいません」

 

 急いで中に入ると、戸を閉めた。

 

「お忙しいとこ、すいません。……働きたい――」

 

「ああ、いいよ。働いておくれ」

 

 澄の話が終わらないうちに返事をした。澄が驚いていると、

 

「丁度あんたのような人が欲しかったんだ」

 

 板場で手を動かしながら一瞥(いちべつ)した。

 

「寒かったろ。暖まりな」

 

 隅に置いたストーブに顎を向けた。

 

「……はい」

 

 澄は爪皮(つまかわ)の下駄を爪先を蹴るようにして音を立てずに歩くと、壁際の椅子に腰を下ろした。

 

「おでんができてるから食べるといい」

 

 女将はそう言いながら、急須に茶葉を入れた。

 

「……はい」

 

 澄は風呂敷包みを横に置くと、黒い角巻を脱いだ。女将は急須と湯呑みを手にして出てくると、湯気を立てているやかんをストーブから下ろした。澄は丁寧に角巻を畳んでいた。

 

「今日はゆっくり休んで、明日から働いてくれればいい。な?」

 

「……はい」

 

「……どこから来た」

 

 澄の前に置いた湯呑みに急須を傾けた。

 

「……南のほうから」

 

 言いづらそうに俯いたままで返事をした。

 

「……長旅じゃったな。疲れたろ。おでんを食べたら二階(うえ)で休みな」

 

「はい。……ありがとうございます」

 

 澄は顔を上げ、しみじみと礼を言うと、頭を下げた。

 

「その代わり、明日からは気張って働いてもらうよ」

 

「はい」

 

 澄は笑顔で頷いた。

 

 

 女将の名を(こう)と言った。この地に来て二十年になる。だが、土地の者は誰一人として、香のそれまでを知らなかった。

 

 おでんで鱈腹(たらふく)になった澄は、住居になっている二階で、安堵の眠りに就いた。

 

 

 

 若い頃の香の着物を着ると、翌晩から店に出た。――器量好(きりょうよ)しの澄の噂は広まり、客が客を呼んで、〈酒処 (まさる)〉は繁盛した。

 

 最後の客が帰ると、縄のれんを仕舞い、後片付けをする。そして、余った惣菜で飯を食べる。この時の飯が一番(うま)いと、澄は思った。

 

「……苦労したのぅ」

 

 澄の着替えを眺めながら、こんな地の果てにやって来た澄の過去を推測して、香が言った。

 

「えっ?」

 

 肌襦袢(はだじゅばん)を脱いだ裸の澄が振り向いた。

 

「……私、馬鹿だから。人は苦労って言うけど、私、幸せでした」

 

「……お前を見ていると、昔の自分を思い出すよ」

 

 布団の中の香が独り言のように呟いた。

 

「……」

 

「綺麗な肌をしてる。男を吸い付ける肌だ」

 

「……そうでしょうか」

 

 澄は恥じらうように俯くと、寝間着を羽織った。

 

 

 ――その日は、珍しく閑散としていた。

 

「今夜は客足が鈍いね。どれ、早仕舞(はやじま)いしようかね」

 

 香がそんなことを言っていると、戸の開く音がした。洗い物をしていた澄は咄嗟に顔を上げた。見ると、澄に目を合わせた着流しに襟巻きをした男が戸を閉めるところだった。

 

「こりゃぁ、よしさん、久し振りじゃのぅ」

 

 香が満面の笑みで迎えた。

 

「……どうも、久し振り」

 

 良治(よしじ)が軽く手を上げた。

 

「よしさんっ」

 

 止まり木の馴染み客の二人連れも声を掛けた。

 

「よっ」

 

 良治は二人連れに応えると、澄の前に腰掛けた。

 

「……いらっしゃいませ」

 

 澄がおしぼりを手渡した。一瞬、互いは見つめ合った。

 

「……お飲み物は」

 

「人肌の辛口を」

 

「はい、かしこまりました」

 

「よしさん、おすみだ」

 

 香が紹介した。

 

「あ、澄と申します。よろしくお願いします」

 

 鍋の湯に、酒を注いだ徳利を入れた。

 

「おすみさんか……。何か飲まないか」

 

「はい、ごちそうになります」

 

 良治の前に猪口(ちょこ)を置いた。良治が堅気(かたぎ)でないことは澄にも分かった。しかし、香の迎え方で、大切にされている客であることも判断できた。

 

 香と二人連れは賑やかに喋っていた。それとは対照的に、澄と良治に言葉はなかった。良治が飲み干せば、澄が注いでやる。澄が飲み干せば、良治が注いでやる。それは重い空気ではなく、互いを労るような、何か仄々(ほのぼの)とした静けさだった。

 

 良治が袂から(たばこ)を出して一本抜くと、澄は急いで燐寸(マッチ)を擦った。澄の冷たい指先に良治の温かい手が触れ、向いた良治の視線に澄は()じらうように俯いた。

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