出来ることならまた、オラリオを出て2人で山奥で静かに暮らしたかった
のどかで静かで、木々のざわめきと鳥の鳴き声が心地よいあの場所へ
無理にでも連れて帰ることは出来た。でも、そうはできなかった
この子の心からの笑顔が消え去る気がしたから
この子の瞳が涙で曇りそうだったから
この子を家族から引き離してしまうことになるから
そして、何よりも………
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朝、日が出始める頃に僕は目覚める。でも、視界に広がるのは未だ見慣れぬ光景。病院特有のツンとした薬草の香りが鼻先を掠め、異様なまでに清潔なベッドで眠っているこの状況は必ずしも【快適】とは言えなかった。
時折加速する胸の鼓動は僕を苦しめ、呻かせる。地獄のような状況下に僕が置かれていても、何事も無く綺麗なまま鎮座するこの部屋を僕は嫌悪し、慣れることは無かった。
あの日からお母さんはずっと僕のそばに居てくれる。片時も離れること無く一緒で、今も隣で僕を抱きしめながら寝ている。まるで山奥の村に住んでいたあの頃に戻ったみたいだった。
……でも、お母さんは日に日に衰弱している。咳をする頻度も増えてきて、涙の跡も消える日は無い。それが僕にとっては何より辛い事だった。
「ん…?ベル、起きたか」
「うん。おはようお母さん」
「おはよう。よく眠れたか?」
「最近寝てしかいないよ。そろそろ飽きてきた」
「そうだな。でも、あと何日かの辛抱だ。我慢してくれ」
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「ホームに戻っても良いですよ。状態は回復傾向に有りますから」
アミッドさんからのお墨付きを受け、僕は晴れて病院を出た。久しぶりの外は空気が澄んでいて、同じ香りしかない無機的な病院との違いをありありと感じた。一歩歩けば香ばしい肉の香り。また一歩歩けば今度は甘い花の香り。生きている世界を久しぶりにこの肌で感じて、僕の気分は最高潮だった。
しかし、お母さんの表情は浮かない。笑うこともめっきり無くなって、悲しそうな顔ばかりするようになってしまった。 お母さんが僕に秘密にしていることがあるのは分かっている。アミッドさんからの呼び出しを受けた後に戻ってきたお母さんは、嗚咽をしながら「すまない……本当にっ……」と引っかかる喉奥から絞り出した声で謝ってきたから。多分僕の病気のことってのは想像がつく。
「僕のことは心配しなくていいんだよ」
そう言えたらなんて楽なことか。でも、そんなこと言えない。僕を守る為に秘密にしているはずなのに、それを無視して気休めを言うなんてできるわけが無い。
お母さんに手を引かれ、いくつもの感情を雁字搦めにさせながら僕はホームに帰ってきた。
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帰ってきて数日が経った頃。僕はダンジョン探索の復帰を認められた。
だけど、ダンジョン探索へ行く直前に僕はお母さんに呼び止められ、お母さんの部屋へ連れて行かれた。
「お母さんどうしたの?僕もうダンジョンに行きたいよ」
お母さんは口を開かない。だが、いつもは閉じてる瞼を開いて美しい灰と翡翠の瞳でこちらを真っ直ぐ見つめている。
「お、お母さん…?」
もう一度呼ぶ。すると、僕の肩に両手を乗せてポロポロと涙を零し始めた。
状況が理解出来ない僕は、「どうしたの?どこか悪いの?ねえ、お母さん?」と慰めるのに必死になる。
お母さんは口を開くが、その口から音という音は聞こえてこなかった。空気が入り、出ていくだけ。
やがて、僕の耳元にそっと口を近づけて呟いた。
その言葉は、僕の脳天を貫き思わず体がその場で崩れ落ちてしまうほど、衝撃的な一言だった。
「え……?」
お母さんは僕の背中に腕を回し、強く抱き締めてくる。
違和感があった。僕はその違和感の原因に思考を巡らせ、すぐに思い至ってしまった。
いつもは優しさそのものに包まれているような感覚があった。お母さんがしてくれる抱擁はどんな時でも暖かく、心地よかった。
それでも僕は………その腕を、その体を振り解けなかった。【抱き締める】その行為が、今、僕とお母さんをつなぎ止める唯一の方法だってことを僕は直感的に感じていた。
「なんで…?」
僕は精一杯声を捻り出す。お母さんとの会話が苦しい。こんなのは初めてだし、何より大切な人と接することで吐いてしまいそうなほどの苦い気持ちを味わいたくなかった。
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「なんでそんなこと言うの?僕はお母さんの英雄になるために、強くなりたくて……ここまで、来たんだよ?」
お母さんは僕と顔を向き合わせる。これ以上に無いくらい悲しい顔をしていて、僕は見ていられずに顔を背けてしまった。
顔を背ける僕の耳に聞こえてきたのは懺悔の言葉。謝罪を繰り返すお母さんが、僕にはどうしようもなく小さく思えた。
「ねえ、なんでオラリオから離れるの?」
もう一度聞いてみる。今度は返ってきた。今までの苦悩を吐き出すように、涙を零しながら。
「私はお前に、、冒険者になんてなってなって欲しく無かった。【冒険】は常に
お母さんの本音は、僕の心を締め付けた。じゃあなんで認めたの?当たり前の問いが脳を駆け巡る。
でも、その答えは直ぐにお母さんの口から発せられた。
「でも、メーテリアが死んでしまった以上は私がお前の【母親】なんだ。息子の夢を叶えるよう支えてやる、それが母親の役目だ……。だから、私は認めた。何より、私の英雄になってくれると言ってくれたこと。そこまで言ってくれたお前の夢を潰したくなんてなかったんだ」
「でも、もう私はその言葉で……【英雄になりたい】って言葉だけで良かったんだよ。この言葉だけでお前は私の唯一無二の英雄だった」
「勘違いしないで欲しいが、ここでの生活も悪くなかった。少し騒々しいが、皆が笑っている。私が憎んだ陰鬱とした雑音は消えていた」
「でも、お前の
「そ、そんなこと言わないでよ!嫌だよ、お母さんが死んだら僕は……僕はどうすればいいか分からないよ!!!!!」
思わず叫んでしまった。お母さんが病弱なのは知っている。でも、いつ死ぬとか、そんなことは言って欲しくなかった。
「ベル………それは、お前もなんだ」
「えっ………?」
時が止まり、空間を包む音という音が消えてゆく。
「ど、どういう」
「お前の病気は体内で持続的に魔力暴発が起きている。お前がレベルが2つ、3つも離れている敵相手に無双できたのもそれを動力として身体が動いたお陰なんだが……」
「僕の体の中は、絶えず魔力が暴発してるってこと?」
「ああ。だから見た目以上にお前の体はボロボロなんだ。このまま冒険者を続けていけば、お前はいくつもの困難に立ち向かうことになるだろう。その度に暴発の度合いが高まり、内側から傷ついてゆく。必然的に寿命は短くなってしまうんだ。私は、お前があいつらと同じように壊れてゆくのを見たくないんだ!」
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言ってしまった。全て私のエゴ。馬鹿みたいな親としての願望。死んで欲しくない。それも私より早くに。でも、ベルの病気の性質上そうなる可能性が高い。本当に死んで欲しくないんだ。そのために……私は今、ベルの夢を踏みにじろうとている。
あぁ…………それでも、ベル。お前の瞳の中にある決意は揺らいでいないのか。
「お母さん。僕は、僕は、死なないよ。死んでも、お母さんと一緒」
「ベル、何言って…!!」
「僕は冒険者なんだ。ただお母さんに守られているだけの子供じゃないんだよ?それに……僕はその病気に向き合うことも、誰もした事の無い【冒険】だと思う。ただ逃げるんじゃなくて、向き合いたい。そのためにはここじゃなきゃ、オラリオじゃなきゃダメだ」
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まだ街が目覚めぬ頃に少年は目覚める。短く切りそろえた真白な髪に真紅の瞳を輝かせ、ベッドから出て階下へ降りる。
「おはよう、ベル」
「あら、おはよう。今日も早いのね」
「おはよう、お母さん!おはようございます、アストレア様」
挨拶を交わして大好きな母の作った朝食を食べる。食べ終わったら装備の用意。
腕には母から貰った腕輪を身につけて、母の作ったアンダーを着込む。赤色のラインが映える白を基調とした
そして扉の先から溢れる光を前にして振り返り、一言。
「行ってきます」
母もはにかんだ笑顔を息子に返す。
「行ってらっしゃい」
扉の先は色鮮やかな家や商店。その中にただ1つ天へと聳え立つ冒険者の塔、英雄の生まれる場所へ少年は走る。
愛する母と、笑顔で共に過ごすため。母の願いを叶えるため。
英雄の階段を駆け上がるように、少年は石畳を軽く蹴った。