なんだったのだろう。
不思議な一日が終わっても、首を傾げるばかりだった。
葛木先生は私の授業を免除した。
中庭の向こうにある聖堂へ行くよう指示されたが、ここは無人のはずだ。
随分前に神父が去って、それ以来封鎖されていたはずなのに。何故か開いてた。
礼拝堂の真上にある鐘が響いて、ようやく解放され外に出ると――
「ごきげんよう」
よく知った声が呼び止めた。
「……?」
「ようやく目が覚めたのですねハクノさん。ですが――七ヶ月と八時間十二分の遅刻です。私は貴方を過小評価するべきでしょうか? それとも過大評価していたのでしょうか?」
予想外の展開に、つい息を飲んでしまった。
目の前にいる少女は、眉一つ動かさず、こちらについてとつとつと語り始めたのだから。
エキゾチックで中性的な女の子だ。
褐色の肌に清潔感のある白衣、そしてすらりとした平坦なシルエット。
だが、その、色々と装備をお忘れじゃないでしょうか。上も下も、どっちも。
「聞いているのですか? 感情の起伏は穏やかな私ですが、今回ばかりは制限超えです」
「……え、ええと…・・」
曰く、あまりに長い待ち時間を利用し、サミュエル・ベケットの戯曲を検索、耽読した上で考察できそうなほど待たされた――と。
「私は貴方の健康を一憂し、貴方と私の置かれた状況に失望し、ひょっこり現れた貴方に憤慨中――然るに。今私がどのような状態なのか、言い当てる事ができますか?」
穏やかに微笑んで少女は問いかける。
はい。端的に言うと、ものすごく怒っている。
……だがしかし、珍しい事もあるものだ。
あまり長くない付き合いとはいえ、それなりに親しい彼女がここまでの不満を言葉にした事はない。
彼女の名前はラニ=Ⅷ。
電気工学の権威として月海原学園に招かれた、超のつくエリートである。
研究室育ち故に彼女は普通の学校生活、とくに友人付き合いが不慣れだった。
機械的な言い回しはぶっきらぼうに聞こえるが、真面目で清廉な少女である。
なのですぐに仲良くなれた、のだが……
「なんで、そんなに怒ってるんの?」
思い当たる節がないので、確かめてみる。
「なぜって――それはハクノさんが――ハクノさんが――いつまでも……」
……私が? なにか約束でもしたようだが、記憶にない……。
「失礼しました。理由は明白、貴方が時間を破ったのです。きっと」
え!? 確信があるんじゃないの!?
「他ならぬ私が、ここまで憤慨する状況は、その理由がもっとも適切だからです」
ラニは断言してのけた。
あまり口にしたくはないが、冤罪は避けねばなるまい。
「ラニ、自分でも自分が怒ってる理由を分かってないんじゃない?」
「だまらっしゃい」
「だ、だまらっしゃい……!?」
パンドラの箱を開けてしまった。
あまりにも衝撃で、ついリピートしてしまうほどだ。
「繰り返しますが、私は憤慨しています。スケジュールは正しくこなすもの。改めて――いえ、絶対に改めさせねばなりません。それが最適かつ最善、最高の解」
ラニはそのまま自分の世界へ突入する。
真面目不真面目かいけつゾロリ、拙僧節操不節操。
いや違うか。不真面目は私だ。
「――失礼、用事を思い出しました、それでは。次に会う時を楽しみにしています」
ラニは何事も無かったかのように、長い髪を揺らして去っていった。
そして、その途中――
「ちなみに、戯曲名は『ゴドーを待ちながら』です。ご存じですか?」
――西日が目に入ったのか、眩暈がした。
…………。
誰かと話していたような気がする。
きっと、気のせいだろう。
ああ、気のせいだ。
頭をかるく振って目眩を払うと、見慣れた姿が視界に飛び込んできた。
「やぁやぁハクノン、相変わらず人生を浪費してるねェ」
剽軽な声に振り返る。
「最高の贅沢がクセになったかい?」
狐面を被ったような、鋭角にシャープな顔は忘れようがない。
ウヒヒと笑いながら女子生徒は私の手をとった。
「北上さん、どうしたの」
「どーもこーもねえですのよ。や、まだお帰り気分みたいだから。気付けにホレ」
すると、左手の甲がじくりと痛んだ。
なんだろう、と左手の甲を見てみれば、そこには、とても大切な――
そして頭――頭が、意識が、途切れ途切れに断線していく…
なんだ、これは。
怖い。怖い。怖い。怖い。
頭痛はない。痛みはない。むしろ安眠の心地よさすらある。
もうこのまま、今までと同じように眠ってしまえればどんなに良いか。
けれど怖い。
痛みはないのに亀裂が走る。
断線する頭ではなく、鼓動を打つ心臓が、異常を訴えかけている、ような――
「マ⬛⬛ター……もうしば……このキャ――」
手の甲に浮かんだ紋章が、残り一つになった。
目眩が収まるまで二秒ほど。
頭を振りながら胸に手を当て、心臓の音を確かめる。
あまりにも激しい動悸だった。
胸を抉る、漠然とした不安。それこそ、心臓が止まりかねないほどの。
「あーこりゃもう一発いかないとダメだ、じゃあ歯を食いしばってェ――」
ニコニコと、マドカの目と口の両端が吊り上がる。
ここに居てはいけない。
それは核心となって、背筋から脳まで這い上がってくる。
正常な/異常な、いつもの自分なら、たまらず校舎の外へ走り出しているところだ。
今は、その不安より大切なことがある。
――あの声、あれは忘れてはいけない誰かの声だ。
……思い出さなければ。
たとえここが“居てはいけない”世界で、今すぐに逃げ出さなくてはいけない地獄だとしても。
逃げる前に、その前に、あの声の主の名前だけは自分で取り戻さないと……。
ともかく、まずは――
「そこまでよマドカ! いくらアンタでもやりすぎだわ」
「あちゃータイムアップだね。んじゃ、あとはぜーんぶ任せちゃう」
私を解放したマドカと入れ違いに、もう一人の少女が肩を掴む。
「凛!」
黒い皮製のハイブーツに、ボディラインを強く見せる真っ赤なワンピースで全体的にタイトな印象のある彼女。
遠坂凛を象徴する赤色は、ツーサイドテールのリボンにも欠かせない。
月海原学園の自由な校風も颯爽と超えていく優等生が、今は誰より安心出来る。
「凛、私なにか忘れてる。大切なことなのに、なにも思い出せない」
「ええ、大丈夫。あなたはとんでもないコトを忘れてる、それだけ分かればオッケーよ」
普段の、お嬢様という肩書きと勝ち気な性格のアンバランスが嘘のよう。
力強く安心感のある表情が、真っ直ぐこちらを向いている。
「もうすぐ鐘が鳴るわ。だからその前に屋上へ行って。この学校で、一番高い屋上よ。誰にも構わないで、どこにも寄らないで、死ぬ気で走るの。いい?」
「けど、ここからじゃ遠すぎる。対岸まで――」
「出来る。あなたなら、絶対に出来る。さぁ走って! 早く!」
突き飛ばされ、その勢いで足を動かす。
床材のせいで滑るのもお構いなしに、凛に言われるがまま駆ける。
髪が乱れるのも、スカートが翻るのも、無視。
階段を一段飛ばしで昇り、校舎同士を結ぶ渡り廊下へ。
上履きが脱げて後ろへ飛んでいっても走る。
一成が苦労するのも、この校舎では当然だ。
あまりにも広すぎる。こんなところまで非現実とは。
非常識な敷地面積を誇るせいで、走っても走っても先が見えない。
夕陽に横から照らされて、今にも爆ぜそうな心臓に鞭を打つ。
第二校舎まであと半ば、そんな距離に達した瞬間。
恐ろしいほど重く、暗い鐘の音が響き渡る。
この音色がなにを告げようと構うものか.
今いる世界から逃げられるなら、なんだっていい。
恐怖に突き動かされた私を、現実はさらに追い立てる。
学校中に設置されたスピーカーが、笑いを含みながら通告する。
「最終トライアル参加者が規定値に到達した。これに伴い、
男の声に慈悲はなく、しかしこれから起こる惨劇に心躍らせていた。
粛々と原稿を読み上げながら、こみ上げる笑いを押し殺している。
この世界が、端から綻び始めているにも関わらず。
「最終審査、最終温情もこれで終わる。他のマスター候補を排除した者にのみ、トライアル参加を取り計らおう」
ああ、これから始まってしまうのか。
仮初めの記憶を抱いたまま、先ほどまで隣にいた者同士での殺しあいが。
一切の猶予も慈悲も与えられず、ただ一振りの刃物のみを委ねられて。
「時間はない。君たちの人生において、猶予など初めからないように」
悲鳴が聞こえる。
脚の、肺の、心臓の。
学友という『
立ち止まって耳を澄ませば、肉を切り、骨を断つ音も届いてくるだろう。
通達の声は厳かで、だからこそ邪だった。
「これよりハンターを投入する。該当する個体を行動不能ないし撃破した者も、特例としてトライアル参加を許可しよう」
倒してみせろと言わんばかりの口ぶりだ。
己が身一つで立ち向かえるなら、特例たり得ないだろう。
無機質な
生徒会役員まで無差別に襲われる中、ようやく中央の昇降口へたどり着いた。
「ッ……ハァッ……あとは、ここを昇れば……」
気を許せば内臓が口から飛び出そうだ。
逆流してくる胃液に食道の粘膜を焼かれ、痛みで涙がにじむ。
滴り落ちる汗の雫を袖で拭い、また足を踏み出す。
「――ああ、貴女。貴女は、私の願いを叶えてくださいませんか」
今日で何度目だろう。誰かに呼び止められて、振り返った。
覚悟はしていた。
該当するハンター、撃破ないしダウンさせれば、最後の慈悲を許される救いの舟板がそこにいた。
真っ黒な髪に真っ白な肌、黒々とした目は見つめていると吸い込まれそうになる。
純白のドレスを鮮血で染め、すらりと長い腕は鉄塊のような剣を構えていた。
「私は違う、あなたの願いは叶えられない」
「いいえ、いいえ、いいえ、諦めるにはまだ早い。死してようやく叶う祈りもありますから、どうか是非、命を賭して抗ってみてください」
「……話が通じないタイプか……」
「我らは所詮
数段とは言えこちらが高所、有利はあるか。
いや。この剣鬼にその程度でアドバンテージを得ようと考えるのが間違いだ。
例え私が最上段にいても、彼女にはなんら不利ではないはず。
圧倒的な実力差。
覆しようのない、絶望的な隔たりがあった。
迫る大剣が私を切り裂く刹那、白銀の疾風が吹いた――
「ああ、ようやくサーヴァントが――」
「させんぞセイバー!!」
ぶつかり合う金属の音で窓がひび割れる。
どろりと濁った魔力を滲ませる血色のセイバーに、澄み切った白銀の剣を執る騎士が立ちはだかる。
彼は私を庇うように背を向けて、肩越しに目線を送ってくる。
先に行け、そう促された。先ほどの気迫が嘘のような柔らかな瞳に頷いて、今度こそ階段を駆け上がる。
ここが二階で、目的地は最上階。
あと四階分も昇らなければならないが、五階でないだけ幸いだ。
どのフロアも殺戮の真っ只中。リノリウムの上は血の海だった。
昨日廊下ですれ違った上級生が。
今朝正門で見かけた下級生が。
さっき同じ校舎にいた同級生が。
怪物たちに襲われている。
命乞いも抵抗も虚しく、人形は刃と化した腕を振り下ろす。
血飛沫が壁と天井を彩る瞬間だけは目に入れず、迷いなく上を目指していく。
走っても走っても終わりは来ない。
フィルム映像を巻き戻すかのように、同じ光景が続く。
「みんな突き刺される――」
「みんな潰される――」
「みんな溶かされる――」
「「「みんな、
地獄と化した学園。
ほつれたテクスチャの隙間から侵食を始める黒い
今度こそ生徒会も容赦なく、すべてを遅い始めた。
通り過ぎた階はノイズに沈む。
もう自分がいま何階にいるのか分からなくなるほど逃げて、変化が訪れた。
「な、なんだよこれ!? どうなってるんだよ!? ライダー! ライダァー!!」
慎二の悲鳴に、脚が方向を変えた。
廊下へ飛び出せば、ノイズに飲まれつつある慎二と目が合う。
恐怖に目を歪め、助けを求めてこっちへ手を伸ばしている。
ただ、助けてという言葉を、口にしないまま。
あ、あ、と。震える唇に阻まれてか、あるいはプライドに妨げられてか、声にならない声が漏れている。
あれは助からない。
下手をすれば、自分もノイズに飲まれてしまう。
理性で分かっているのに、身体は正直だ。
慎二を助けると決めて、とっくに走り出していた。
「おま、え――」
まさか私が慎二の手を握る日が来ようとは――!!
冗談めかしてみても、状況は最悪のままだ。
いや、それどころか、目の前でさらにドン底へ転げ落ちていく。
「馬鹿かよハクノ!! お、お前、気づいてないのか!?」
「自分は大馬鹿だって気づいてる!!」
「そうじゃ、ないって――!!」
掴んだ手をふりほどかれ、引く勢いのまま尻餅をついた。
恐怖のあまり泣き崩れた顔で、慎二は私を嘲ってくる。
「だからお前は凡人なんだ! 見ろよコレ! どう見たって、本体じゃないだろうが!!」
ノイズではなく、慎二の脚に絡みついたソレ――腐った肉に埋もれた目が、こちらを凝視している。
焦点の定まらない視線は、私を逃すまいと必死に悶えているようで。
「行けよ! 行っちまえよ! コープってのは、互いに助からないと意味ないんだよ!!」
正真正銘の化物が動く前に、再び私は逃げた。
親友に背を向けて。彼を助けたい自分に背を向けて。
まもなく消え去るだろうトモダチになにも告げられず、再び走り始める。
永遠に思えた階段は、間もなく終わった。
鍵の掛っていない扉を肩で押し開け、屋上へ転がり出る。
夕焼けの校舎はどこにもない。
すべてを押し潰そうとする夜から、洪水のようにあの影が流れ落ちている。
空が溶け落ちたような黒い滝は、幸いにもここへは来ていない。
周囲を見渡しても、目に入るのはノイズに沈んでいく校舎ばかり。
一日を過ごした聖堂も、時計塔の部分を残して呑み込まれている。
高さの概念も生きているらしく、影の水位はまだ校舎の半ばだった。
「こんなところまで来るなんて。
唐突な呼びかけは冷ややかに。しかし、私の身体は何故か熱い。心臓は脈打ち、燃える血潮が血管に満ちる。
「馬鹿な人。せっかく忘れさせてあげていたのに、思い出してしまうんだもの。でも、許してあげます」
天上から、甘く蟲惑的なトーンの声が響く。
無邪気で邪悪な、少女の声。
「戦うコトも、
「だから、何も考えず、このままお人形さんのように眠りなさい。私が貴方に、聖杯を与えてあげる――」
「ほら――だから、諦めなさい。
声は慈愛に満ちて、意図が読めない。何もしなくていい、ただ受け入れればいいと少女は語る。声は脳に幾度も、諦めを命令する。
まるで意味が分からない。
ただ世界が終わっていく。
残った足場に逃げ込みながら呑み込まれた生徒たち同様、手足を震わせることしか出来ない。
「そう。それでいいの。おとなしく眠りなさい。どうせ――どうせ貴方たちはみんな、
ああ。そうか。
諦めを囁く声。
だがそれは許されない。
強い鼓動、吐き気の正体は『怒り』だ。
酷薄に世界を『無価値』と評した何者かへ、私はとてつもなく反発している――
奥底から沸き上がる怒りに身を任せる。
ただ逃げるのではなく。活路を見出すために、給水塔の足下へ。
ここで目を背けてはいけない。
諦めてはいけない。
いや、諦めるわけにはいかない。
この抵抗が無駄に終わろうと。
世界から逃げられないと分かっていても、この手脚に血が通っている以上は。
「人間にどれ程の価値があるかは分からない。でも、それでも――」
他人が人様の値打ちを決めるなんておこがましい。それはただの傲慢だ。
だから、私は走った。
一直線に目の前へ、地面を蹴った。
ただ、諦めたくなくて、屋上から飛ぶんだ。
大それた覚悟なんかじゃなく。
聖堂と校舎の間、高さを稼いだ分だけフェンスは低くなっている。
声の動揺が背を押した。
せめてお前の思い通りにならない方法で――
そんな、ささやかな抵抗を、声の主は嘲笑う。
「ざぁんねん♡ そんな程度のアイデアで、世界を揺るがそうなんて笑っちゃいます♡」
浮かんだ笑顔は邪悪の具現化したソレ。
嘲笑と憐憫で世界を冒涜し、嗤い狂う魂に筆を任せ、すべてを黒で塗り固めた悪意の肖像。
逆しまになって、私と一緒に墜ちながら、その邪悪は刃を振り下ろした。
ようやく落ち着いたこの心臓を一撃が貫く間際――
誰かが、私を見下ろしているような気がして――
特殊タグ芸人になりました。
せっかくなのでLAST ENCORE要素も入れてみる。
原作と比べて西川ニキのスタイリッシュな曲調は斬新でしたね。