恋の駆け引き after OPENING 作:しおり@活字は飲み物
銀子ちゃんと付き合い始めてから、あっという間に半年以上経った。
子どもの時からずっと一緒にいて、銀子ちゃんのことなら、なんでも知ってるつもりでいたけど、恋人になって改めて知ったことも結構あった。
俺が思ってたより銀子ちゃんは甘えたがりだし、誰もいないところで二人きりの時は結構自分からも積極的にイチャイチャしてくるし、将棋以外には興味ないんだと思ってたけど『恋人らしいこと』をするのに憧れてたらしい。
それから…
俺が思ってたより、俺のことが好きみたいだ。
次のデートで何するかは大体銀子ちゃんが決めるんだけど、例えば雑誌で行きたいデートスポットが特集されてるページを指差して…
「今度のオフはここに行くわよ! ……八一はあんまり興味ないかも知れないけど、ずっと一緒に行きたかったんだもん……ダメ?」
な〜んて、最初は照れ隠しでツンツンしてる癖に、急に上目遣いで甘えた声出してかわいいこと言うんだもん、断れっこないよね。無理ムリ!! ふふふ……
そんな感じで、二人での将棋の研究会や練習将棋もきちんとやりつつも、いわゆる『恋人らしいデート』にも時々行っている。
そうは言っても交際してることを公表しちゃった俺たちは、今やワイドショーや週刊誌を賑わせる芸能人みたいになっているから、気楽に外出するのは難しい状況だ。特に駅での待ち合わせや電車での移動中は人目につきやすいらしくて一度バレるとデートどころじゃなくなることもある。
そもそも芸能人レベルに知名度が高くて、人一倍目立つ外見で、しかも超かわいくて超美人な銀子ちゃんと公共交通機関でデートスポットに向かおうとすること自体が無理・無茶・無謀な話なのかもしれない。
そうなると『唸るほど金あるんだから毎回タクシー使えよ』って話になるんだろうけど、噂話好きなタクシー運転手さんにうっかり乗り合わせるとそっちの方が後々厄介なのだ……
一度デートの帰りに《浪速の白雪姫》ファンの運転するタクシーを引き当てちゃって、移動中ずっと根掘り葉掘り質問され続けたから慌てて研究部屋に着く前に降りたんだけどさ。その人に適当に返事した内容が回り回って週刊誌に掲載される……なんてこともあった。それからは研究部屋の場所も特定されないようにタクシーを使う時でも離れた場所から乗り降りするという防犯対策を取らざるを得なくなったりと、ほんと、いちいち面倒なんだよね……
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八一と付き合い始めてから半年以上経った。
子どもの時からずっと一緒にいて、八一のことならなんでも知ってるつもりでいたけど、恋人になって改めて知ったことも結構あった。
私が思ってたより八一は甘えたがりだし、人前でも隙を見て所構わずイチャイチャしてくる。将棋以外には興味ないんだと思ってたけど、私のしたかった『恋人らしいデート』も意外と満喫してるらしい。
それから…
私が思ってたより、私のことが好きみたい。
おしゃれなカフェでケーキを食べてる時とかに、向かいの席ですごくニコニコしてるからなんでか聞くと、
「うん? 俺の彼女、めっちゃかわいいな〜と思って。ほら、こっちの苺のタルトも美味しいよ。あーん♡」
とか言って、人前でもイチャイチャしてくるんだもん。ほんと、困っちゃう。えへへ……♡
でも、『空銀子と付き合ったせいで、九頭竜が弱くなった』なんて、冗談でも絶対に言われたくない。だから今まで以上に二人でいる時はVSや研究も積極的にして、その息抜きに外でデートするようにしてる。
とはいえ『恋人らしいデート』をしようにも、意図せず芸能人みたいになってしまって、気軽に外出できなくて困ってるのよね。
梅田とかいわゆる人通りの多いデートスポットに行く時は一応帽子を被って変装っぽいことはしてる。でも電車で移動して目的地の最寄駅に着いた途端にうっかり「銀子ちゃん」って八一が名前で呼ぶのを周囲の人に聞かれてバレてしまい、ギャラリーに取り囲まれて目的地まで行けずにお出かけデートを諦めてタクシーでトンボ帰り。結局いつも通り研究部屋で将棋三昧……みたいなことも何度かあった。
まぁ? 八一が私のカレシだってたくさんの人に見せびらかせるのは、むしろ望むところだから? 人目なんか気にせず行きたい所に行くようにしてるし、デートしてる写真をこっそり撮られても正確に報道してくれる分には週刊誌に載ったって別に問題ないし? むしろよく撮れてるツーショットはこっそり集めて保存してるし、私としては願ったり叶ったりなんだけど?
大体もう、将棋連盟のホームページで公式発表しちゃったし? 確かにその時は凄い勢いで週刊誌だのワイドショーだのが騒ぎ立てたけど、マスコミなんて『疑惑』だから騒ぎ立てるんであって『事実』だって確定しちゃえばネタとしての鮮度が落ちるみたいで二、三ヶ月で落ち着いてきたし。でも、根拠もないのに破局説を展開する週刊誌には超ムカつくから毎回厳重抗議しなきゃいけない。
それから、最近厄介なのはマスコミよりもいわゆる《浪速の白雪姫》ファンなのよね……デート中なのにサインだの握手だのは状況によってはまだ我慢できるとして、あまつさえ本人は聞こえないように言ってるつもりなんだろうけど、『クズ竜とまだ付き合ってたんだ!?』だの『早く別れてオレと付き合ってほしい…!!』だの勝手なことを言ってくるから、聞こえないふりして直接反論しないように我慢するのが大変。腹に据えかねて楽しいデートの気分じゃなくなったから、予定変更して研究部屋に戻って将棋で憂さ晴らしするってことも、実はある。
そんな感じで、タイトル戦が終わって年が明けてからはお互い忙しいながらもデートにも彼氏彼女らしいことにも慣れてきていたんだけど…
2月の後半に入ると私は高校の期末試験で一応テスト勉強もしなくちゃいけなかったし、八一は順位戦が終盤に差し掛かって、今度こそ全勝で昇級しなくちゃって意気込んで珍しくピリピリしていたから、二週間くらい会えない日が続いた。
新四段の私が順位戦に参加できるのは去年の9月に昇段していたとしても今年の6月からだから、せっかく必死の思いで
でも、今出来ることをするしかないし、追試なんかで時間を取られるのは無駄でしかないから期末テストまではさすがにテスト勉強に集中した。
英語の勉強はまぁ、頑張った。
今後の将棋界の発展を考えれば、日本以外への普及も視野に入れていかなきゃいけないじゃない?
それに、ハネムーンとかはやっぱり海外とかに行きたいし。日本だと人目が気になって満喫出来なさそうだし。この前初めての竜王防衛戦で一緒にハワイに行ったけど、あれは仕事だったしアイツは全然観光できなかったから、ハワイにもう一度行ってもいい。でも、日焼けは嫌だからビーチじゃないリゾートに行ってもいいな……
って言うか、ビーチじゃないリゾートってどこ?
無事期末テストが全部終わったら私は春休み。あとは八一の順位戦さえ終われば閑散期に入るからやっとのんびり二人で過ごせる! と思ってたんだけど……
春休みに入る前に将棋会館に呼び出されて、追試がないかどうか会長直々に確認されて、ないってバレたら最後、各地で開催される春休みの子ども将棋イベントを中心に地方出張をぽんぽん入れられてしまった。確かに地方の将棋イベントを盛り上げるのも普及という棋士の仕事の中では重要な位置を占める。私は高校に通っているから、普段は要望が来ていても断っていると言われてしまえば、拒否することなんてできない。それでもなんとか春休みは将棋の個人研究に専念するつもりだったって猛抗議してかろうじて数日に一度は休みの日をねじ込んだけど、全然のんびりって感じじゃなくなってしまった……
そんな状況だったから、八一の順位戦の最終戦の日は八一は東京遠征、私は地方の出張先に泊まっていた。ネットの速報で結果は分かったけど、インタビューとか色々忙しいんだろうからこちらから連絡したりはしない。それでも今晩八一から連絡してきてくれるって確信があったから、ホテルのベッドに横になって、うとうとしながらもスマホが震えるのを今か今かと待っていたら……
私の予想通り、八一が電話をかけてきてくれた。
「もしもし。銀子ちゃん?」
「うん」
「終わったよ」
「お疲れ様」
「うん。そうだ! 急なんだけど、来週からガッシュクに行ってくるから」
「は? 合宿?」
「そう。急に思いついたんだけど、今しか時間が取れないから二週間くらい行ってくるね」
「はぁ!? 二週間も誰と……はっ! 待って。これって詳しく聞いちゃダメな話よね。絶対言わないで!」
「うん? あっ! そ、そうだね……」
「じゃあ、明後日会ったら、また当分会えないんだ……」
「ゔっ……そ、それが……さっき調べてみたら、銀子ちゃんが大阪に帰って来る時乗るって言ってた新幹線より前に、俺は出発しなきゃ間に合わないみたいで……入れ違いに、ナリマス……」
「えっ? 明後日会えないの?」
「う、うん……そうなるね……ごめん……」
「…………じゃあ、次どうする?」
「とりあえず、合宿終わった後の日曜はどう?」
「その日なら一日オフだけど……」
「よかった! あっ!ごめん、供御飯さんが打ち上げが始まるって呼んでるから行かなきゃ! また連絡する!!」
ポロロンって軽い音と共に通話が切れた。
大阪に帰ればすぐに会えると思って頑張ってたのに、さらに二週間も会えないって言われた。『合宿に行く』っていうからには将棋の合宿だろう。
恋人とはいえプロになったからには同じ土俵の上で戦う対戦相手同士。
いつか敵になる相手だ。
お互いに明かせない手の内は当然あるし、それこそ誰とどこで合宿するかなんて超重要な企業秘密みたいなもの。むしろ『九頭竜八一が誰かと将棋合宿をする』って情報自体が、相手が前みたいにJSでもない限りはトップシークレット。『JS合宿』の方が超トップシークレットな気もするけどね!
八一が自分から教えてくれないなら、それ以上追求するなんて礼儀に反するし、八一は良くても相手の棋士の情報を間接的に聞き出そうとするような卑怯なマネはできない。研究仲間から口止めされてる可能性だってある。八一は今東京にいるし、もしかしたら相手は歩夢くんで一対一でのVS合宿なのかもしれない。
だけど……
八一のタイトル戦が終わってからも、お互い忙しかったから言い出せなかったけど、今年の春休みは付き合い始めてからやっと来た初めての閑散期だし……
やっとゆっくり二人で一緒にいられるんだと思ってたし、八一とお花見とか、その…イッパク、リョコウ…とかだって行きたいと思ってたのに……
そうは言ってもいくら女性初のプロ棋士になったからって、新四段なんかじゃ超トップ棋士の仲間に入れなくて当たり前。むしろ私の立場じゃ、そんな超トップ棋士である八一と普段から研究会ができてることこそ、有難がらきゃいけないんだって事を痛切に思い知らされた気がした。
仕方がないことだって、理性では十二分に理解しているつもりではある。
あるんだけど……
高校が春休みに入ってクラスメイト達はウキウキと青春を謳歌してるのに、私は地方の将棋イベントにばっかり駆り出されて、自分の研究も中々出来ないし、私との研究会やデートよりその合宿の相手を優先されたみたいで、なんだか、将棋でも恋人としても置いてけぼりにされたような気持ちになってしまった。
付き合って半年くらい経つし、もしかして八一の方は倦怠期に入ってて、飽きられ始めたんじゃないかとか、将棋のレベルが違いすぎて愛想を尽かされたんじゃないかとか不安になって、夜一人ベッドでぐずぐず泣いてみても、答えは出ないし。
桂香さんに相談してみたけど『大丈夫、心配ない。ノロケ、ウザい』的なことしか言ってもらえなくて……
それまでは会えなくてもほとんど毎晩電話してたのに、かけてこないし。
メッセージアプリには連絡が来てたけど、下手にこっちから八一の様子は聞けないし、何話せばいいか分からないから。
『銀子ちゃん、今何してるの』
『将棋』
『元気?』
『普通』
こんな感じのツンケンした返事しか返せなかった。
せっかくの春休みなのに、彼氏がいるのに、何で私は暇さえあればひとりぼっちで研究部屋に篭っているのか。一頻り悲しくなった後はだんだんイライラしてきて、その苛立ちを将棋の研究にぶつけることにした。
とは言っても公式戦は当分ないし、八一との研究会もできないお陰で、最近疎かになってた個人での研究がすごく捗った。
ほんと、もう、すごく。
この二週間で考えた研究手を来期何としても八一との公式戦で使って憂さ晴らししてやる!
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東京での順位戦の最終局が比較的早く終わって、インタビューまでの間が空いて一人でぼーっとする時間ができた。長かった順位戦も終わったし、これから三月の閑散期に入るから銀子ちゃんとデートしまくれるぞ!! せっかくだし、一泊くらいなら旅行に行くとかも許されるかな……ふふふ……未成年同士だけど一応親公認なんだし……ぐふふ……とかアレコレ妄想が捗りまくる。
でもまたデート中にファンサを求められたり、タクシーの運ちゃんに根掘り葉掘り聞かれたりするのはヤダだなぁ〜と今までのデート中のゴタゴタまで思い出してしまって、それなら、やはり今しかないのではと思い立って急遽二週間程、自動車教習合宿に行くことに決めた。
元々夏休みにJS研の思い出作りができるよう、18歳の誕生日前に教習所に通って免許が取れるようになったらすぐに取ろうと思ってたんだけど……
運良く帝位戦に勝ち上がっていけたから教習所に行く時間が作れなくてズルズルと遅くなってしまった。
一応トラックとか農耕用の車を運転する可能性も踏まえてマニュアルで取った。棋士になった以上は農家になるつもりはないけど、小さい頃にじいちゃんと『運転免許取るならマニュアル』って約束したからね。親父が米作りを再開したし、急に助っ人として駆り出される可能性もなくはないし。
早速予約を取ろうと何件か問い合わせしてみたけど、春休みシーズンでどこも混んでるらしくて4月以降の予約しか空いてなかった。ダメ元で夏頃検討していた教習所にも連絡してみたら、運良く数日後から開始の日程にキャンセルが出たばかりだと言われたので、その場合で予約することにした。
その場の勢いで決めちゃったから、あいやあいを預かってもらう予定の桂香さんには事後報告になっちゃったけど、今後の移動が楽になるならと歓迎してもらえた。
せっかく銀子ちゃんも学校が春休みでゆっくりデートをできる時期ではあったけど、年間通して見ると対局が落ち着いていてまとめて時間が取れる時期は限られてるから仕方がない。
それに銀子ちゃん自身は学校の長期休み中こそ忙しいらしい。子ども向けの普及イベントが各地で多数開催されてるから、イベントに来て欲しい棋士No. 1の呼び声も高い《浪速の白雪姫》も、普段は学業優先で免除されてる地方のイベントに引っ張りだこみたいだ。
俺の順位戦が終わった日もまさに地方に出張中だった銀子ちゃんには予約ができた後電話で『合宿に行く』って話したら、なんか『将棋合宿』だって勘違いしたっぽいけど、誤解は解かないでそのまま話を合わせておいた。
免許取り終わった後のデートの約束は取り付けたから、その時に車で迎えに行って銀子ちゃんをビックリさせようと思ったかったから。
清滝家に預かってもらうあいや桂香さんにも、なるべく内緒にしてもらうように頼んでから免許合宿に出発した。
免許合宿自体は一日中座学・実習・座学・実習・復習・テスト勉強で息つく暇もなかったけど、将棋以外のことをこんなに長く真剣に勉強したり、屋外での技能実習に集中したりしたことはなかったからすごく新鮮だった。
合宿所の食事も美味しかったし、同年代の人達が多くて、お互い名前なんか名乗り合わないけど毎晩ワイワイ学科試験の勉強をしたから、高校生とか大学生気分が体験できたのも楽しかった。
それでもふとした時に自然と将棋と銀子ちゃんのこと考えちゃうのは職業病というか、多分もう俺にとっては①空気 ②将棋・銀子ちゃん ③水、くらいの優先順位で、なくなったら生きていけないものなんだろうなと思った。
教習所は田舎の山の方だから合宿所に帰るとスマホの電波が通じにくくて、電話もうまく繋がらなくて正直困ったけど、日中教習所内ではメールの確認やメッセージアプリの送受信はできたからなんとかなった。付き合い始めてから会えない日は毎晩のようにしていた銀子ちゃんとの電話が出来ないのはもどかしかったけど。
合宿中はあまり連絡が取れないことはメッセージで銀子ちゃんにもぼかしつつ伝えていたんだけど、いつもよりもそっけないのが気になった。でも多分地方イベントに駆り出されてない空き時間は将棋の研究に夢中になっているんだろう。最近個人研究の時間が足りないってボヤいてたし。
合宿所の仲間と励まし合いながら毎日毎晩、学科試験の勉強をして、なんとか無事最短日数で運転免許を取ることができた。
合宿から帰って来た翌日に、銀子ちゃんとの久しぶりのデートをする予定を立ててたから、免許が取れたらレンタカーを借りて練習がてらドライブに行こうと思ってたんだけど……
彼女と長期間離れるのに、『どこで・何をする』のかなんて重要なことを下手に隠すのが、大悪手であるということを身をもって思い知る羽目になるのだった……
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八一の合宿期間が終わって、久しぶりのデートの日がやって来た。
デートの時は大体私がどこで何するか決めて会う前日に待ち合わせの約束をするんだけど、昨日は八一の方から連絡してきて、待ち合わせ場所を私の実家の前にするって言い出した。しかも、行き先は八一が決めてあるそう。わざわざ実家まで来て、デートプランまで考えてくれるなんて今まではしたことなかったのにどんな風の吹き回しだろうと思ったけど、もしかしたら今まで忙しくて出来なかっただけで、閑散期で余裕ができたからかもしれない。あとは、会えなかった分の埋め合わせにエスコート、してくれるつもりなのかも……
私がしたいデートプランを一緒に楽しんでくれるのも嬉しいけど、こういう感じで全部相手にお任せするのもなんか理想の『デート』っぽくてドキドキして、昨日の夜は中々寝付けなかった。
それでなくても久しぶりのデートだし、一ヶ月ぶりくらいに会えるからワクワクしながら支度をして待っていたら、スマホが震えて『家の前に着いたから出てきて』ってメッセージが来た。
はぁ!?
なんで家の前まで来といて玄関まで迎えに来ないのよ!?
弟弟子のくせに、ちょっとカレシになったからって偉そうに!!
でも休日で両親も家にいるし、親公認とはいえ一々挨拶だなんだで時間が取られるのももったいない。イライラしながらも靴を履いて、家の玄関の扉を開けたら、目の前に赤い車が停まっていた。
こんな住宅街の民家の前に堂々と路駐? もしかしてまたマスコミじゃないでしょうね……って不審に思ってたら、その車の窓が開いて中からすごく久しぶりに見る八一が顔を覗かせてニヤニヤしながら手を振っていた。
運転席に座って。
うんてんせき??
「久しぶり。お待たせ」
「……くるま?」
「うん。レンタカーだけど。合宿で免許取ってきた。びっくりした?」
「めんきょ??」
事態が飲み込めていないうちに、家の中から様子を伺っていた母が私の後ろから顔を出したから、八一も車から降りてきて、私をそっちのけで二人で挨拶を始めてしまった。
八一がいつもと違ってよそ行きな口調で母と話しているのをぼーっと聞いていると、
「お久しぶりです。先日はありがとうございました」だの、
「そうなんです! 免許合宿に行ってたんですよ〜ほら、私と銀子…さんが一緒に電車に乗ると、余計目立ってファンに囲まれた時に危ないじゃないですか? タクシーは別の危険があったので。 自分の車で移動できればもっと自由がきくかな〜と思って」とか、
「いえいえ、もっと早く取りたかったんですが、この時期しか時間が取れなくて。お花見とかも一緒に行きたいんですが、この辺はまだみたいですね〜」なんて明るく話してる。
そして気づいた時には車の助手席の方に誘導されて、ドア開けてもらって座らされていた。
閉めるよ〜って声とバタンとドアが閉まる音で我に返ると、既に私は車の助手席に収まっていて、フロントガラス越しに八一が母に会釈をしつつ運転席の方に向かっていくのが見えて。一瞬見えなくなった後運転席のドアがサッと開いて小慣れた様子で私の『彼氏』が乗りこんできた。
『車の助手席に座ってたら、運転席に彼氏が乗り込んできた』
テレビドラマのワンシーンか何か??
「ほら、銀子ちゃん、シートベルト締めて。それじゃ、行ってきます。帰りはここまで送ってくる予定なので、ご安心ください!」
若葉マークの初心者にしては柔らかい動き出しで車を発進させて、大通りに出たところで八一に話しかけられて、再度我に返った。
「ふぅ。やっぱ、カノジョの親御さんへの挨拶だと思うと緊張するね。俺、変じゃなかったかな?」
「がっしゅく…」
「うん?」
「将棋の、合宿だと……」
「ごめん、ごめん。隠すつもりはなかったんだけどさ。合宿って言っても将棋じゃなくて、運転免許を取るほうの合宿に行ってきました!」
徐々に『合宿』の意味が分かってきて、さっき八一が母に話していたことと付き合い出してからずっと困っていたこと、今の状況がジグソーパズルの最後のピースがパチッとはまった時みたいに全部繋がって見えてきたら。
八一が長かった順位戦が終わった直後に、貴重な閑散期の二週間を何の為に使っていたのかが理解できたら……
そしたらもう、止められなかった。
「久しぶりのデートで急に車に乗って迎えに行ったら驚いてくれるかな〜と思ってさ。桂香さんやあいにも軽く口止めしてたけど、怒んないでよ? どう? ビックリした? ……ってええええ!? なんで泣いてるの!?」
交差点の信号待ちで停車して、ようやく私の方を見た八一が目にしたのは、多分ぽろぽろと目から水滴をこぼす私の姿だったんだと思う。
「え!? ちょっと待って!? 泣くほど怒ってるの!?」
「ぐすっ…だって…やいちが…」
「なんで!? 何がいけなかったの!? やっぱり内緒にしてたのがダメだった!?」
「ずずっ…あゆむくんと、ひみつの、がっしゅく……」
「はぁ!? なんで今歩夢!? 全然関係ないよ??」
「すん…分かってるわよ! 私とのデートの為に…くるま……でも……うう…ぐすっ…」
「あ、青になっちゃったよ! でもこんな状態で運転なんて無理だし! わぁ!? 後ろの車、クラクション鳴らして急かさないでよ!!」
「やいちの、バカバカバカ!!うぇ〜ん!!」
結局、路肩におっかなびっくり一時停止して、宥めようと触ってくる八一を振り払ってボカスカ殴ってはみたけれど、自分でも八つ当たりだって分かってる。
勘違いして、勝手に嫉妬して、寂しがってた自分が恥ずかしくて、腹が立って、それが自分で分かっていても、そんなにすぐには切り替えられなくて。
最悪の出だしで泣いたせいで目も腫れてるだろうし、ドライブデートを満喫なんて気分じゃないから、とりあえず八一には私の研究部屋に向かうよう命令した。
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本当は運転の練習がてら桜が咲いててお花見ができそうな近場の公園に行こうと思って、カーナビに目的地登録までしていたんだが、全くそれどころではなくなってしまった。
騙されていたと怒り心頭に発している銀子ちゃんは、狭い車内でも暴れるし、謝っても許してくれないし。
結局、銀子ちゃんの命令でドライブデートは諦めて、銀子ちゃんの研究部屋に向かうことになった。電車や徒歩でなら目を瞑っていても行けるくらい何度も通っている慣れた場所だけど、いざ車で向かうとなるとどうの道を通ればいいか分からなくて、カーナビの音声案内に頼ってはみたものの住宅街だから道幅は狭いし、一方通行もあるしで、結構大変だった。
流石の銀子ちゃんも、若葉マークの緑と黄色も眩しい免許取り立ての初心者がビクビクしながら運転している時に、あえて殴りかかるような自殺行為には出なかったものの、ハンドルを握っている間中ずっと俺の上着の裾を掴んだまま、涙を溜めた目で俺を睨んでは、「バカやいち」、「最低」、「頓死しろ」をループしてた。
研究部屋のあるマンションの駐車場に車を置いてから801号室に辿り着くまでも、ずっと「騙された」とか「嘘つき」とか言いながらドスドス脇腹とかを突いてきて、それなのに繋いだ右手はぎゅっと握って絶対離さないんだから、本当に困った。かわいすぎて。
研究部屋に入って完全に二人きりになってからも、それこそ一か月ぶりくらいご無沙汰なのにチューも俺からのハグすらさせてくれない。それなのに手は繋いだままだし、殴ったりつねったり、要はどこかしら触ってくるという新手の拷問方法を編み出したらしい。
あまりにもかわいいから、もういっそ俺に文句を言う為にとがらせてる柔らかい唇をキスで塞いで、すぐそこにあるベッドに押し倒しちゃいたい衝動に駆られたけど、流石に今回は俺の対応に問題があることは確かだから自重した。
そんで、結局いつも通り、二人で将棋をした。
何局も、何局も。
途中でレンタカーを返しに行くついでに夕飯を買ってくる以外は、昼前から日が暮れて、夜になるまで。
十何局も、何十局も。
俺が免許合宿中に疎かになっていた分を取り戻すくらい。
銀子ちゃんが眠気に勝てずに駒を取り落とすまで。
完全に船を漕いでるのに「もう寝よう」って言っても「まだ指す」って子どもの頃みたいに駄々をこねる銀子ちゃんを宥めながらベッドに連れて行って。
そこでやっと抱き枕役として抱きしめることを許されて、銀子ちゃんが完全に寝入ったのを見計らってお休みのキスをひとつだけ頂いた。
一ヵ月ぶりくらいのデートなんだから当然ですがモチロンそのつもりでいたわけだけど、俺自身も免許合宿で疲れてたし将棋を指し過ぎてへとへとだったから、そんな下心はすっかり忘れて熟睡した。
師匠の順位戦が終わるのを一緒に見届けてから寝落ちした、子どもの頃みたいに。
初めて桜ノ宮で泊まった、あの時みたいに。
俺の謝罪が渋々受け入れられて仲直りが出来たのは、結局翌朝起きてからまた銀子ちゃんが満足するまで将棋をした後で、許すにあたって銀子ちゃん的には俺が前にしたのを参考に『お仕置き』をしたつもりらしいんだけど……
「さ、さみしかったんだから……バカ……」
やっと本音を口にできた銀子ちゃんの、俺を見下ろしてくる潤んだ青い瞳も、薄明かりに照らされて際立つなめらかな曲線を描く肢体も、それはそれは美しくて、めっちゃエロかった。
『お仕置き』の目的を果たせてたかはともかく、癖になりそうなくらいヤバかった。
どうヤバかったかは…………
ご想像にお任せします。