埋め合わせはするから、とシンジとレイに約束したのはつい先日。アスカとデートをしに行った折のこと。
その『サキエルに埋め合わせをさせる権利』をいち早く行使したのは、シンジであった。
その要求は、買い物への同行。ネルフからの給料で前々から買いたかったものがあるとの事で、車の運転担当としてサキエルを指名したのである。
そして現在、サキエルとシンジは目的地の新横浜市に向けてドライブ中なのだが……助手席に座るシンジは、ソワソワと落ち着かない様子であった。
「シンジ君、どうしたんだい? 何やら気まずそうだけども」
「いや、サキエルが、その……」
シンジの言いたい事は至ってシンプル。今日のサキエルは女の子モードなので、少しばかり緊張しているのと、サキエルの格好のあざとさだ。
天使というか使徒であるサキエルに性別なんて無い、というのは頭では理解しているが、今日のサキエルは『男のロマン』が詰まった『妄想の中の女の子』のような姿をしているのだ。
服装は、ノースリーブの白いメッシュワンピースで、うっすらと肌色が透けており、今日はよく晴れているので日除けとして鍔の広い麦わら帽子を被っている。もっとも、今は運転中なので帽子は後部座席に置かれているのだが。
いざ出かけるぞ、という時に玄関に立つサキエルを見たシンジからすれば『だ、男子が妄想するけど実際はなかなか見かけないやつだ……!?』となってしまったのも仕方ない。特にワンピースの方は微妙に透けそうで透けないせいか下手な全裸より扇情的だ。運転中でも、窓からさす日差しが服を透かし、ハンドルを握る腕が動くたびにどうしてもその肌色に目がいってしまう。
まぁこの格好は、昨晩のシンジの夢に出てきた薄ぼんやりした女性のイメージが着ていた格好に意図的にサキエルが寄せているので、シンジのテンションを上げる目的だったのだが……今朝パンツに夢精していたシンジ君本人としては、『嬉しいけどなんだか気恥ずかしい』のである。
美少女が2人に天使が1人というハーレムじみた状態にあっても、その鋼の精神力でひっそりとオナニーをして衝動を発散させているシンジだが、それでもまあ、こうして無防備な姿を晒されると興奮はしてしまうものだ。
だがそこは、アスカが一番風呂を好んでいるせいで風呂に入る前に洗濯機の中に可愛らしいブラが見えたり、寝ぼけたレイが下着姿でトイレに行っていたりという、日常の誘惑に耐えているシンジなので、興奮を表に出すような事はしない。
しないが、『これってもしかしてデートなんじゃ……?』と考えて耳の端を赤く染めてしまうのは不可抗力というものだ。
サキエルもそれはわかっているし、性欲は典型的な生存衝動なので推奨こそすれ咎めはしない。
なので、あくまで自然体で、シンジに質問を投げかける。
「そういえば、今日って何を買いに行くんだい? シンジ君が行きたいって教えてくれたお店は楽器店っぽいけど。えーと、ヤマハミュージックだっけ?」
「え、あ。……ヤマハのサイレントチェロが欲しくて」
「ほう、シンジ君、チェロが弾けるのかい?」
「5歳の時から、先生に勧められて惰性で……でも、折角弾けるんだし、学校も無いし、暇潰しに練習しようかなって……でも本物はとにかく音が大きいから……」
「なるほどそれでサイレントか」
気持ちが前向きになった事で趣味を楽しむ余裕ができた、という事なのだろう。
「うん。それにアンプとかエフェクターにも繋げるみたいで色々弾けるかも?」
「おぉ〜。……僕も何か楽器でも始めようかな? 法則性のあるものなら得意なんだが……」
そう言うサキエルに、シンジは一瞬考え込むと、すぐに答えを返した。
「じゃあやっぱりピアノじゃない? キーを押せば絶対にその音が出るから」
今までのシンジなら、求められてもすぐに回答できない事の方が多かった。だが、それは『周囲に意見が聞き入れられた試しがなかったから』だ。サキエルが現れ、レイやアスカと暮らすようになってからは、その傾向は随分とマシになり、自己主張も増えてきている。
そして、それは同時にシンジが『意見を断られる事は、自己を拒絶されることと同一では無い』のだと学ぶきっかけとなっていた。
「おお、確かに法則性抜群だね。ぜひ勉強してみたいが……でもピアノは大きいだろう? 持ち運べないし僕の部屋は無いしで、持て余す気がする」
サキエルとアスカに顕著だが、彼らは断るのならきちんと理由を口にする。そしてそれは、あくまで『シンジの意見を受け止めた上で、断っている』のだ。
だからこそ、シンジは、恐れる事なく代案を口にできる。
「うーん、じゃああれかな。アコギはどう? フレットがちゃんとあるから弦楽器では弾きやすい部類だし、弾ける曲も結構多いと思うよ」
「ほほー。確かに立てかければ場所も取らないし、初心者向けの教材も多そうだね。買ってみようかな。ありがとうシンジくん」
そして、1度目の不満点を反映した代案は、サキエルにすんなりと受け入れられ、シンジは礼を述べられた。
……こうした些細なやりとりも、実を言えばサキエルは『ネットで調べれば良い』のだから無理にシンジに訊く必要はない。サキエルによる情操教育の一環、と言うのがシンジやレイ、そしてアスカへの会話には要素として含まれるのだ。
だが、教育意図があったとしてもコミュニケーションの喜びにシンジが目覚めたのは事実である。
「どういたしまして。サキエルも楽器やるなら、セッションとか出来たら良いな……」
「バンドでも組むかい?」
「レイやアスカと?」
「お、既にメンバーに心当たりがあるとはさすがリーダー」
「え、僕がリーダーやるの? ……いやまあバンドやると決まったわけでもなんでもないんだけど」
「音楽ならむしろ個性より協調性がリーダーに求められるからね。音楽性の違いで解散しないように」
「あはは、確かに。……エヴァに乗ってばっかりが人生の全部じゃないもんね」
「そうだね。その点シンジ君の今日の選択は、色々と人生を豊かにするかもしれないな」
「チェロが? どうして?」
「楽器を弾ける男子ってカッコいいからね。モテるかもしれない」
「モテるって誰に?」
「……アスカちゃんとか?」
「アスカかぁ」
「おや、不満かな?」
「いや、アスカって可愛すぎるし何でも出来るから……そりゃあ、こう、好きになってもらえたら嬉しいけど、自信がないというか」
「じゃあやっぱり、良い機会だね。シンジ君のカッコ良いところを見せられれば、自信もつくんじゃないか? ————あと、アスカちゃんは頼りになる男性が好きらしいよ」
「……うーん」
————道は険しいなぁ。
などと思っているシンジだが、その行為自体が、既に今までのシンジでは考えられない行為である。
努力によって女の子の心を射止めようという前向きさは、彼の内に閉じ込められていた『リビドー』の発露。
しかも『アスカの事が好き』という事実をきちんと受け止められているのは、大きな事だ。
自分と他人は違う。違うけれど、きっと分かり合える。
シンクロの真実やATフィールドの意味を体感した事で自我境界線を確立しつつも、同時に他者とのコミュニケーションに希望を見出すことに成功したシンジは、自身でも自覚しない内に『芯のある男の子』になっていたのだ。
「まぁ、僕の見立てではシンジ君には十分に勝機があるね。————あとは、プライドも実力も高いアスカちゃんが素直な気持ちで甘えられるぐらいの頼り甲斐を身に付けるだけさ」
「それ勝機あるの!?」
「あるある」
そんな会話を繰り広げ、向かった先の楽器店で無事にサイレントチェロとアコギ、いくつかのエフェクターとアンプを手に帰還したシンジとサキエル。
その夜、楽器購入を聞いたアスカのリクエストで行われたシンジの独演会は、それなりに好評であり、シンジ君の恋には、少しばかりの進展が得られたのだった。