————ああ、これは夢だ。
目の前に現れた、最愛の妻。その姿に思わず目を潤ませながら、碇ゲンドウは自分が眠りについた記憶を夢の中で思い出した。
目の前に居るのは完璧にあの頃のままの妻の姿。老いた自分を置き去りに、永遠に止まったままの妻のイメージに、ゲンドウは夢と知りながらも思わず手を伸ばしてしまう。
目の前の妻のイメージは、そんな彼の手を取って————思いっきり、つねり上げた。
「イダァ!?!!?」
「ふふふっ。びっくりした? あなた」
「……ユ、ユイ……?」
「久しぶり。……私は、ずっとあなたのそばにいたけど」
「……何が、何が起こっている……!?」
「エヴァ初号機と貴方のシンクロ。ひいては、私とあなたのシンクロ。……貴方がその腕に埋め込んだ物の影響ね」
「馬鹿な、アダムにそんな力は……まさか……!」
「そう。それはアダムではないわ。……サキエル。もう出てきても良いわよ?」
そう言ってクスクスと笑うユイに困惑するゲンドウ。だが、彼はその場に現れたもう1人の存在を見て、ようやく全てを察した。
「ルイス・秋江……第3使徒の計画か、これは」
「そうなるね。……初めまして碇ゲンドウ。挨拶ついでに一言良いかな? 君の奥方の精神構造はどうなってるんだ……?」
そんな言葉と共に、溜息を吐くルイス、いや、サキエル。ゲンドウはその発言に対し真意を問おうとするが、それより先にユイが口を挟んだ。
「だってサキエルが居れば、私がエヴァから出なくてもゲンドウさんと話せるでしょう? ならエヴァの中に居る方が効率がいいわ。シンジのことも助けてあげられるし、寂しがりなゲンドウさんはこうやって慰めてあげられるし。ね?」
「……碇ゲンドウ、誓って言うが、僕は碇ユイのサルベージを条件に君と交渉する予定だったんだ……本当なんだよ……?」
「使徒を利用する計画を立てるとは流石はユイだ」
「ああなるほど? 似た者夫婦なのか君達は。頭の良いバカ的な。シンジ君がマトモに育ったのは奇跡なのでは……?」
「サキエル、そう拗ねないで? 貴方の願いにも協力するって約束したでしょう?」
「……はぁ。まぁ、うん、では契約通り頼むよ碇ユイ。僕はもう疲れたから後は君達で話し合ってくれ。僕は子供達に癒されて来る」
そう告げて消え去るサキエルの表情は実にウンザリとしており、『碇ユイ』という規格外との遭遇に対して『不快指数が上昇したため撤退』を選んだ彼の擬似感情プログラムの状態を表していた。
碇ユイ。頭脳の化け物であり、人類を救う計画を立てた天才博士であり、シンジを愛するが故に『人類の救世主にしよう』と考えてしまうやべー奴。
そんな彼女にコンタクトを取り、ゲンドウとの会談をセッティングしただけで、サキエルには随分疲労が蓄積してしまったのである。
「……さて。あなた」
「ああ」
「私に会う為に、色々頑張ってくれてたのね。……でもりっちゃんを泣かせたら可哀想よ?」
「……ああ」
「それと、シンジの事は……ゲンドウさんの可愛い指数を低めに見積もった私が悪いわね。私がちょっと居なくなっただけで、こんなに弱々しくなっちゃうなんて、私が居なきゃダメな人……ふふふ」
「……可愛い指数……?」
「ゲンドウさん、キャパ越えるとアワアワしちゃって可愛いんだもの。だから、ゲンドウさんのメンタルのキャパを見積ったんだけど……シンジの存在が、癒しだけではなく重荷になる事を考慮に入れるべきだったわ。……シンジの事、愛しては居るけど怖くなっちゃったのよね。神様に取られるぐらいなら自分で手放しちゃおうって」
そう指摘されたゲンドウ。その心に、この11年燃え盛り続けていた神への怨嗟を、ユイはあっさりと指摘する。
————奪うのならばなぜ与えたのか。
————神が奪うのならば、私が神となる。
————もう何も奪われたくない。
そんな悲嘆と憤怒で、突き進み続けた11年。奪われる事を恐れて、自ら手放したシンジ。
神に至るべく立案した人類補完計画。
そして、その他全ての暗躍は、ゲンドウという男の、神への怨嗟が原動力。
だがしかし。今彼は、その神の尖兵であるはずの使徒によって、唐突に再び、『与えられてしまった』のだ。
奪われたくないものを、再び手にしてしまった。
シンジを手放した時でさえ、もはやこれ以上の喪失には耐えられないと思っていたのに。
今再び、ユイを喪えば、今度こそ壊れてしまう。自分の精神は崩壊してしまう。それをわかって居ても、それでも。ゲンドウはユイに手を伸ばし、抱き締めずには居られなかった。
自分が手にした唯一の愛であり。自分が捧げた唯一の愛であり。そして、自分との愛の結晶を、息子として世に残した女性。
手を伸ばさぬ事など出来ず。しかしその喪失を予期した心は、今既に自ずからボロボロになって行く。
そう。ゲンドウという男は。弱い男なのだ。
彼が望んだ生活は、妻が居て、息子がいて、そして自分がそれを見て居られればそれで良かったのだ。
小さな、小さな家庭だけがゲンドウの心であり、それを叩き潰されたからこそゲンドウは狂ったのだ。
……きっとそれは、ユイの選択だったのだと理解している。だが、ゲンドウがユイを憎めるわけもなく、彼はそもそもユイにその選択を強いた神を呪った。
「ふふふ、可愛い人。でも安心して。これからはずっと一緒よ。……貴方と私。2人でシンジを助けてあげましょう? だって私たちは、あの子の両親で、あの子は私たちの愛の結晶なんですもの」
「……ユイ……?」
「ゲンドウさん。私と一緒に、エヴァに残りましょう? 大丈夫。後のことは、サキエルに頼んだから。……私達は、シンジを世界に産み出したけれど、親としてはどこまでも失格。だから、もっと相応しいあの優しい天使に後は任せて、シンジの『力』になるの」
「それは……私は……」
「……赦されることではないわ。きっと。私達は生命の理に叛いたのだもの。今もそう。堕天した天使を利用してまで、宿命を覆そうとしている。……人類の滅びの運命に打ち勝とうとしている。でも私達は、その為に全てを犠牲にし過ぎたわ。りっちゃん、ナオコ先輩、キョウコ。冬月先生も。そして名前も知らない人達も」
「ああ……」
「だからきっと、補完計画は失敗なの。救うべき人間を、傷付け過ぎてしまったのだから」
「……ユイ」
「でもね。……逃げて良いのよ、ゲンドウさん」
「……」
「逃げちゃダメだ、そう唱え続けて、自分に無茶を強い続けて、もう疲れてしまったでしょう? ……だから、逃げても良いの。貴方の罪も、私の罪も、決して消えない。でも、その罪は世界を救う『力』そのものとして償えば良い。私も、貴方も、シンジの力そのものになって————あの子が、世界を救うのを助けましょう」
そう提案する、ユイに手を引かれ、ゲンドウは一歩、また一歩と精神世界の奥に歩き出す。
その先は、自身の身を捨てる道だと理解してなお。
「ユイ……君に手を引かれて歩くのは、シンジを自然公園に連れて行った時以来だな」
「貴方があの子を肩車して、私は貴方の手を引いて……懐かしいわね」
「ああ」
「ねえ、ゲンドウさん」
「なんだ」
「話したいことが、たくさんあるんでしょう?」
「ああ」
「じゃあきっと、永遠に魂を囚われても————寂しくないわ」
「そうだな……ユイ」
「なぁに」
「愛している」
そんな言葉と共に、ゲンドウの私室で『パシャリ』と水音が響く。
LCLに塗れたそのベッドの上で、むくりと起き上がったのは、白と赤の色彩を持つ少女のような青年のような、天使の姿。
「碇は行ってしまったか。羨ましい奴め」
「君がもっと早くに伝えていれば、そうならなかったかもな、冬月コウゾウ。……さて。では加持君から聞いているとは思うが君にも協力してもらうぞ。僕の『人類“補間”計画』に……まぁ碇ユイの入れ知恵なんだが」
「……もとより俺は、ユイ君の計画の果てを見たいだけだ。否やは無いさ」
「君も大概狂っているな。……子供達に癒される前に、ある程度の事後処理だけはしておくか」
そう言って肩をすくめたサキエルは、碇ゲンドウの引き出しからネルフ総司令官の制服を取り出すと、それを身につけ、総司令室に移動する。
特務機関ネルフはこの日、秘密裏な斬首作戦によって、使徒の手に落ちたのであった。