苦しい。
気持ち悪い。
綾波レイという少女が、エヴァを蝕むバルディエルの侵食に関して感じたのは、痛みよりも怖気と言うべきだろう。
己の内側を無遠慮に這い回る使徒の感触。到底心穏やかに居られるものではなく、シンクロをカットしてしまえるのならそうしたい程に、気分が悪くなる。
だが、サキエルからのアドバイスは、逃走ではなく闘争の道を指しており、レイは最も頼りにしている自身の『保護者』の言に従って、不快感を抱いたままに自身の愛機と感覚をより深く共有するべく、意識の内へと潜って行く。
エヴァの中へ。シンクロの先へ。
そうして潜り続けるレイの前に、黒い巨人のイメージが現れた。
『貴方誰?』
自分を見つめる巨大な巨人。その存在に誰何した直後、レイはそれが自身とシンクロしているエヴァンゲリオン零号機なのだと理解した。
巨人がレイを見つめ、レイは巨人を見つめ返す。
そして、その見つめ合いの中で、レイはふと口を開いた。
『貴方は私ね』
その直後、目の前の黒い巨人に覆い被さる黒い皮が、べろりと剥ける。
素体を覆う伸縮装甲の下にあったのは、白い肌、青白い髪、赤い瞳。綾波レイ。
自分と同じ顔の巨人を前にすれば、恐怖や不快感を感じても良いはずだ。精神状態によっては発狂してもおかしくないだろう。
だが、レイは彼女自身でも不思議なほど、その巨人に恐怖を感じなかった。
むしろ、零号機が自身の姿を取ることは彼女にとって当然であるとすら思えるのだ。
その感覚は、今までの訓練でシンクロを重ねてきたが故の事。己の半身の様に慣れ親しんでいる存在が己の姿を取るのは当然だというわけだ。
だがしかし。
すっかり黒い皮を破り捨てた『相棒』に対しレイは少しばかり眉根を寄せた。
『胸、大きいのね』
————ふふふ、好きでしょう?
たゆゆん、と揺れる巨峰。明らかにレイの知る中で最も巨乳な葛城一尉のFカップを凌駕するそのボディバランスは、思わずレイが自分の胸に両手を当ててその大きさを再確認してしまう程に大きかった。
零号機の中で何か思う所があったのか、精神世界においてレイの似姿を取った零号機は、唯一胸元だけにオリジナリティを発揮したのである。
そして、レイにとってその効果は非常に大きかった。
『巨きい大きいおっぱい……!』
————私と一つになりましょう?
『……ゴクリ』
レイちゃんホイホイとしてあんまりに優秀だったその巨大で強大なお胸様へ、ふらふらと誘蛾灯に惹かれる蛾の様に近寄っていくレイの精神。
そうして、文字通り山の様なその柔らかそうな胸元に飛び込んだレイは、相棒に『本当におっぱいで釣れるなんて』と呆れられつつも、零号機の精神と自らの精神を完全に結びつける事に成功する。
レイにとって、母性とは焦がれて止まない憧憬の対象。チルドレンで最も『親』と縁遠い彼女にとって、最も深く、最も強固な心の壁は自身の出生へのコンプレックスだ。
その壁を打ち壊す、母性の象徴こそが、零号機がその精神体に投影した規格外の爆乳だったのである。
母性への渇望、親子関係への嫉妬混じりの憧れ。
それを曝け出し、剥き出しの心で零号機に飛び込んだレイは、引かれていた一線を飛び越えて、シンクロのその先へと自ら潜り込んでいく。
* * * * * *
惣流・アスカ・ラングレーの本質は、幼女である。
そんなことを本人の目の前で言えば確実にブチ殺されるが、事実としてアスカという少女の根っこには、いつだって親に置いて行かれたあの日の幼女が恨めしそうな顔をして人形を睨みつけているのだ。
自分に与えられる筈だった愛を奪うものが憎い。自分が一番でなければ許せない。
そんな彼女にとってエヴァというのは自己証明のツールでしか無かった。
だが、それも過去の話。
『ママ! ママ! お願いアタシに応えて!』
そう呼びかければ、弐号機に宿る自身の母親が目覚めるのだと、既に彼女は知っている。
今や彼女にとってエヴァは自身の母親だ。だからその胸に飛び込んで行くのは何も怖くは無い。
だから何処までも何処までも飛び込んで、母に身を委ね、その優しい匂いのする胸元に抱きついた彼女は、しかし母が少しばかり躊躇っている事を理解した。
『どうしたのママ? 一緒にあの気持ち悪いのを追い出そ?』
————アスカちゃん、良いの? これ以上エヴァに踏み込んだらきっと貴方はヒトに戻れなくなる。もう普通の人間として暮らせないのよ?
『それって……子供産めなくなったりするの?』
————いえ、そういう訳では無いけれど、ヒトとは別種の新しい生命体に……。
『じゃあ別に平気ね! アタシはシンジをお婿に貰うんだもの。シンジも今頃きっとママの言う新人類に成ってる頃よ』
————お嫁に貰われるんじゃなくてお婿を貰うの?
『あら、ママって意外と日本的ね? いやまあユーロでも一緒か。でもアタシとシンジはアタシがシンジを貰うので合ってるのよ! シンジはいざってときはカッコいいけど、普段は可愛いんだからアタシが守ってあげないとね! いつだってシンジの1番はアタシなんだから!』
————そう。……ふふふ。ごめんなさい、ママが心配性だったみたい。アスカちゃん、ママと一緒に、エヴァとのシンクロの先に行きましょうか。
『もっちろん!』
そう応えた直後、アスカは母に手を引かれ、深層心理に広がる向日葵畑の奥の奥へと駆け出して行く。
* * * * * *
碇シンジは、ブチ切れていた。
モニターが暗転するその直前、彼が目にしたのは使徒に侵食される弐号機と零号機の姿。
自身の機体である初号機もまた、その侵食を受けているのだと理解して尚、シンジを激昂させたのは『アスカを手に掛けようとする』使徒の行動だったのだ。
忿怒。激憤。怒髪天。
眉間に皺を刻み、こめかみの血管をビキビキと立てたその表情は、いつも『母親似』の柔和な表情を浮かべるシンジが間違いなく『碇ゲンドウの息子』なのだと思わせる凄みのある表情で、完全に据わり切った眼は、赤い非常灯が灯ったプラグ内で、青と緑の人魂の様にギラギラと輝いている。
『寄越せ……返せよ、アスカをッ……僕に、僕に力を寄越せッ! 父さんッ! 母さんッ!』
咆哮。或いは絶叫。
獰猛な雄叫びをあげる我が子に対し、ユイとゲンドウは、答えるより先に、彼の求める力の源へと我が子を導いた。
シンクロモードの反転により、目覚めていた『エヴァ初号機』そのもの。
緑に輝く眼を持つ黒い巨人。その眼と同じ眼を片目に宿すシンジは、平常時なら恐れ、怯えて居たであろうその巨人に対し、真正面から睨み合う。
力が欲しい。アスカを助ける為の力が。
もちろんレイやカヲルを助ける事も忘れては居ないが、シンジにとっての1番は、出会ったあの日からいつだってアスカなのだ。
だからこそ、碇シンジは無限大の力を渇望し、眼前のエヴァンゲリオンの魂そのものに、より深く、より強くシンクロを行なっていく。
黒い巨人の輪郭が溶け、自身の輪郭が溶け、魂の空間で混ざり合い、魂の座であるエントリープラグの中で、渾然一体となって融合する。
もはやエヴァンゲリオン初号機とは碇シンジであり、碇シンジとはエヴァ初号機だ。
その領域に到達したシンジの肉体がエントリープラグ内から消失すると同時に、プラグ内に残されたマリは揺蕩うプラグスーツを掴み取る。
「ワンコ君。いや、碇シンジ君。キミ結構ちゃんと男の子じゃん。————じゃあちょっと、お姉さんも手伝ったげようかにゃ」
既にモードは反転しており、『デバッグコード』の受け付けが可能な状態。ならばマリは躊躇なく、エヴァ初号機にかけられた『最低限のリミッター』すらもブチ抜くまでだ。
「裏コード、666! ザ・ビーストにゃ! いっけぇワンコ君!」
その直後。
世界に、神の児の咆哮が轟いた。