朝を告げる雀たちのさえずりが聞こえる中、のっそりと身体を起こした重音は寝ぼけ眼のまま首を傾げた。
いつの間にか、ふかふかの羽毛布団に包まれて寝ていた。身に着けた服も脱獄してきたときのものではなく、これまた暖かな寝間着に変わっている。
もしかして夢の中にいるのかとも思った。春の朝特有の穏やかな暖かさが、それを助長する。
しかし全力で飢餓を訴える腹の具合が、嫌でも重音に現実を意識させた。かすかに漂ってくるおいしそうなトーストの香りが、覚醒を促してくる。
「……ボク……? 昨夜は……確か……」
懐かしい、けれど初めて聞いた音楽に勇気をもらい、夜の雨の中をひたすら歩き続けていたことは覚えている。
ただ、いくら重音が超再生の”個性”を持っているとはいえ、限界はある。特に疲労や空腹は別枠の問題であるため、途中で限界が来たのだ。
だからとりあえず寝ることにして……でも雨ざらしの場所で寝るのはさすがによくないと考えて、目についた適当な家の軒先に転がり込んで横になった。記憶はそこで途切れている。
つまり、寝ている間にこうなったのだろう。そこまで考えて、重音は不機嫌になった。
「めちゃくちゃ疲れてたって言っても、ここまでされて気づかないのはダメすぎじゃん……」
そして頭を抱える。己の迂闊さが腹立たしかった。空腹だからか、その怒りは無駄に鋭く燃え上がる。
とはいえ、いつまでもそうしているわけにはいかない。なんとか怒りを飲み込んで、この場所を調べることにする。
重音が寝かせられていた場所は、狭くはあるがきちんと整えられた部屋だった。ただし調度品の類はほとんどなく、想定外な来客のために急遽整えたような印象はぬぐえない。
そのため特に目を引くものは室内になく、必然的に重音はすぐ部屋を出ることにした。そして、漂ってくる食事の匂いを辿って廊下を進む。
少し進めば、やがて生活音が耳に飛び込んできた。
食器同士がかすかに触れ合う音。水が流れる音。
そんな何気ない、しかし重音にとってはほとんど経験のない日常の音だ。
それに導かれるようにして、重音が踏み込んだ部屋で彼女を待っていたのは……。
「おや、お目覚めかな。よく眠っていたね。まさかベッドに入れて秒で寝るとは思わなかったよ」
のりの利いたワイシャツに、嫌味のない上品なスラックス。銀色の頭髪に銀色のカイゼル髭を光らせて、優雅にティーカップを手にする男。
余裕たっぷりに見えて、重音を認識した瞬間にびくりと身体を震わせながらも、顔色だけは変えなかった壮年の男。
その男の姿に、重音は目を丸くした。彼女は男のことを知っている。
「……ジェントル?」
「やあ、おはよう。いかにも、ジェントル・クリミナルだ。まさか君とこんな再会をするとは思っていなかったがね」
だからその名を呼べば、男……ジェントル・クリミナルもまた、どこか自嘲気味に肩をすくめて応じて見せた。
そう、ジェントル・クリミナルである。かつて不幸な出会い方をして以来、重音から一方的に絡んでいた相手だ。
彼がいるということは……と重音が視線を台所のほうへ向けた瞬間、
「あら、起きたのね? ほら、そこ座んなさいよ。朝ごはんすぐに用意するから」
小さな身体の女が、ひょこりと顔を出した。ジェントル・クリミナルに深い愛を捧げ続ける女、ラブラバだ。
かつてヴィランの中の小物としてくだらない動画の投稿に明け暮れ、しかし重音……当時はまだ襲だった彼女との出会いをきっかけに、誰もが思わぬ飛躍を遂げたヴィラン……もとい、ヴィジランテコンビ。そんな二人が、重音の前にいた。
「……なんで?」
「なんでも何も……我が家の軒先で少女がずぶ濡れで倒れていたら、普通は保護するものだろう? ましてや顔見知りとなればなおさらだ」
だから思わず聞けば、返事は実にあっさりともたらされた。
その言葉の意味が理解できず、重音は改めてジェントルの顔を凝視する。
別に、この家が彼の家であるということが理解できなかったわけではない。すごい確率の偶然があったものだとは思うが、それくらいのものだ。どうせ本拠地と言うわけでもないだろうし。
だから重音は理解できなかったのは、後半。なぜなら、確かに両者は顔見知りではあるが、決していい意味でそう言える間柄でもないはずなのだから。
重音からすれば、それなりに好感を持つ相手ではあった。しかしそれは一方的なもので、ジェントルたちからすればはた迷惑なものでしかなかっただろうと彼女自身が思っている。
何せ襲だった頃、散々に振り回してきたから。
何度も何度も追いかけまわして、ヴィラン連合に引き入れようと執拗な勧誘をしていた。泣かせたこともあるし、ぶん殴ったことだってある。
そんなことをした人間を、なぜ拾って助けたのか。重音にはそれがわからなかった。自分がそうされる資格があるとは、思えなかったのだ。
むしろ、殺されても文句は言えない立場だとすら思う。世間的にはヴィランなのだし、誰もがそうするだろうと重音は思っていた。
「ジェントルのひろーい心に感謝しなさいよ! ジェントルじゃなかったらあんたなんて、とっくに刑務所に逆戻りなんだから!」
彼女の想いを代弁するかのように、ラブラバが口を挟む。
が、そう言いつつも、彼女は手にしたトレイに食事を載せてこちらにやってくるところだった。おまけにそれを、重音に近くに配膳する始末。その左薬指には、窓から注ぎ込む陽光を受けてきらりと光るリングがあった。
「悪いけど、我が家の朝は洋食って決まってるの。メニューに対する文句は受け付けないから、そこんところ忘れないように!」
ぷりぷりと頬を膨らませながらラブラバは言うが、しかしその態度ほど内心は荒れていない。少なくとも、重音にはそう感じられた。
おかげでますますわからなくなってしまった。
だからだろうか。もう一度ジェントルに向けられた彼女の顔は、困惑しすぎて崩れそうになっていた。
「……なんで、ボクに。こんな」
「なぜ? なぜ、と聞いたのかね? そんなもの、決まっているじゃないか」
だが、ジェントルのほうこそわからなかった。そう問われる理由が、わからなかった。
「困っている人に手を差し伸べるのは、人として当然のことだからだよ」
なぜなら彼は、落伍したとはいえ元ヒーロー志望。落伍した最大の原因も、失敗したとはいえ誰かを助けようとしてのこと。
おまけに一度は道を踏み外してヴィランに堕ちたものの、今していることは一種の義賊。歴史に名を残したいという強欲めいた大望こそあれど、確かに彼の性根は善性のものだった。
「……今まで、散々困らせてきたのに?」
「女性には振り回されるのが男の甲斐性と言うものだよ……いやその、辛くなかったと言えばウソになるけれどね!」
ハハハと笑う彼の言葉に、嘘はなかった。後半の情けない吐露も含めて、何もかも。
フォースを通じてそれを理解した重音は、起きてから今まで張っていた緊張の糸を切った。
はぁー、と深いため息をつき……それから、警戒して損したと言わんばかりに椅子にどかりと腰を下ろした。そのまま、目の前に並ぶトーストたちに遠慮なくイチゴジャムをぶちまけると、一気に口に頬張る。
「ちょっと、それはさすがに行儀が悪いわよ」
「行儀? なにそれおいしいの?」
「あんたねぇ……」
その態度に、ラブラバが呆れたようにため息をつく……が。
「悪いけどそういうの教えてもらえるところで育ってないんだよねぇ」
重音のこの返しに、思い切り顔をしわくちゃにした。ジェントルも同様である。
……この二人、実は重音の生い立ちをそれなりに知っている。まだ二人が今のような名声を得ていなかった頃、重音に少し追い回されただけで死にそうな思いをしていた頃に、少しでも早く逃げるため彼女の情報を集めたことがあるからだ。弱点があるならそれを突こうと思い立ったのである。
そのための手段と道具なら、ラブラバがいればすべて事足りる。そして彼女のコンピューター技術、特にクラッキングに関する技術は超一流であり……結果、見事重音の過去を踏み抜いてしまったというわけだ。
二人はこれを知り、思い切り泣いた。そして、地獄のシゴキじみた重音との鬼ごっこに真剣に向き合うようになった。
彼らの実力が急激に伸びたのは、実はその頃からだったりする。彼らが今回重音を助けたのも、それが理由の一つだ。
つまるところこの二人、基本的にヴィランの才能がないのである。
しかしいまだフォースの制御が拙く、特に人の心に疎い重音は、二人が今顔を曇らせたことに気づけない。基本的に視野が狭いため、目の前の食事に夢中になっていたということもある。
だから彼女は、食べ終わるその瞬間まで二人が暖かくもどこか悲し気な視線を向けていたことを知らない。
「……それで? 一応事情はラブラバが調べてくれてわかっているが、脱獄してきたということでいいのかね?」
そんなどこか寒さの漂う朝食が終わり、ラブラバが食器類を片付けるため台所に去ったタイミングで、ジェントルが口を開いた。
「ん……まあ、そんなとこ」
「よくもまあやったものだ。メイデンもあっただろうに」
「転弧お兄ちゃん……弔がナントカ大臣ってやつの命令で……色々あって死んじゃってさ。それだけなら我慢できたと思うけど……それ聞いてラッキーとか、バカな死に方とか言って喜んでるやつら見たらプッツン来ちゃって」
「んぶっふ」
そしてぶつけられた返事に、彼は思い切りむせた。想像の何倍も斜め上を行く回答だった。
「で、気づいたら刑務所吹っ飛んでて」
「なにそれ怖い……いや気持ちはわからなくもないが! わからなくもないけれども!」
「
「んんんんん!!」
ジェントルの良心に、痛恨の一撃。効果は抜群だ。あくまで淡々とした語り口が、その威力を底上げしている。
「……それで、どうすればいいのかわかんなくなっちゃって。あっちこっちうろうろしてたんだ」
しかも二連撃である。ジェントルのライフはもうゼロだ。
「……ボク……これからどうすればいいんだろ」
もとい、三連撃であった。ジェントルは死んだ。
そのまま顔を覆い、悶え、天井を仰ぐというオーバーリアクションを連続するジェントルに、重音は首を傾げる。
相変わらず、自分を案じる人の心に疎い少女であった。疎いからこそ、彼女はジェントルの反応を拒絶反応と認識する。
だから、もうヴィランとして動くつもりのない彼女は、この辺りが潮時だと判断した。
「……ごめん、ヘンなこと言った。忘れて」
「忘れられるものなら忘れたいところなのだがねェ……!」
「まあ、だよね。……だからボク、もう行くよ。その……ありがとね。……えと、この服は返せばいい?」
そして、おもむろに寝間着を脱ごうとして。
「ステイステイステイ脱がないでお願いだから! 君は女の子だろう!? 少しは羞恥心というものを……アッ、その顔はもしかしなくとも何もわかってない顔だね!? ラブラバ! ラブラバーッ! ヘルプ! ヘェルプ!!」
全力でジェントルに制止された。彼の三十年近い人生の中でも、恐らく最速に近い勢いであった。
彼に呼ばれてやってきたラブラバも、似たようなものだ。彼女はジェントルの手を煩わせることには怒りながらも、重音の言動自体には怒ることなく着替えと脱衣所の場所と使い方を説明する。
しかしなぜそうされるのかまったく理解できなくて、重音はぽかんとしたまま説明を右から左に受け流すばかり。最終的にラブラバは業を煮やし、着替えを強引に押し付けてきた。
「なんで……」
着替えを胸に抱えたままの姿勢で、重音はジェントルに問う。
本日三回目の問いかけ。ジェントルは、これに真摯に応じた。
「襲くん……
「それは、……そう、だけど」
どうすればいいのかわからない。
まさにその通りで、図星を突かれた重音はうつむく。
そんな重音の肩に、ぽんとジェントルの大きな手が置かれた。重音が今までほとんど経験したことのない、柔らかく暖かい仕草だった。
「ならば、しばらくうちにいるといいさ。……私が教えてあげよう、
そして向けられた言葉に思わず顔を上げた彼女の正面で、ジェントルがきらりとしたウィンクをして見せた。
しばらく呆然と、彼の顔を見る。近くでラブラバがやきもきしている。
やがて、重音はゆっくりと。けれど確かに、頷いた。
「う……ん……。ありがとう……」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれる。それを受け止めて、ジェントルは再び笑う。
こうして重音は、不思議な縁に……あるいはフォースに導かれて、ジェントルたちのもとに身を寄せることになったのだった。
原作でも結構なキーパーソンとして第二次全面戦争編に登場した二人ですが、本作でもわりとキーパーソン。そんなジェントルとラブラバです。
実はこの展開、二人が初登場するシーンを書いてるときに決まりました。つまり、彼らの登場と共に重音のエンディングが決まったと言っても過言ではない。
この道を指し示せる原作キャラは、彼らしかいないだろうということで。
だから本作において二人が要所要所で顔を出していた、というわけでしたとさ。