僕の少年期は家のなかで完結していた。なまじ、引っ越し先の教育に関する施設が全て揃っていたから、外に出る意味がなかったからね。運動だって勉強だって、でかい家のなかで出来ることだから。
父はあの医者のおっさんを雇ったらしく、僕の専属医師となった。定期的に家を訪問してきては検査をしている。個性因子は日にちに増していっているようで、もしかしたら個性発現してんじゃね?と漏らしてた。
習い事も全て家で教わった。なかでも音楽系統に才能があったらしく、比較的容易に習得した。僕が音の美しさに魅了されたのもあるのだろう。オーソドックスな楽器は大抵弾けるようにしている。特にヴァイオリンが好きかな、うん。
スポーツとか体術とかそういう運動系のものは長く続かなかった。最初のうちは楽しいんだけどすぐに飽きがきてほとんど半年でやめちゃったんだよね。まあ、半年もやってればそこそこの技術は身に付くし、復習と称して使用人さんをボコボコにしているから忘れないと思うけど。
四歳の頃からこんな生活を始めて、はやくも七年過ぎ去った。在籍しているはずの小学校には一度だって登校していない。流石に飽きてきたので中学校は通うことにしたのだ。家で出来ることはやり尽くしたしね。外ででしか出来ない人間関係の構築でもやってみようかと思ったのさ。
でも不思議なことに僕の回りには誰も近寄って来ないんだ。おかしいな、いつでもニコニコしているつもりだし、怖がらせるようなことはしてないんだけどね。皆照れ屋さんなんだよ、きっと。……なんかこれ大分前にも同じこと言った気がするな。
なんにせよ、中学校には暇潰しに来ているようなものだから割りと適当なんだよね。どうでもいいって思っているせいか、一年間同級生と会話しなくても気にしていなかったんだ。笑っちゃうよ、まったく。
中学二年生の秋頃と言えば修学旅行だろう。行き先は日本の首都である東京だ。ここはかなり辺鄙なところだからか、都会にいけるって皆大はしゃぎだ。何を学びにいくのか全く理解してないから、彼ら的には遊びに行くのと同義なのだろう。目的自体があやふやなのも頂けない。僕もあまり理解できないしね。
出発前日の夕食時に父が話しかけてきた。
「……修学旅行、東京だったな。私も仕事で東京に行くことになっている」
だから?って話だけどね。困ったときは連絡しろって言外に言っているんだ。相変わらず面倒な人だけど父親としてはいい人さ。母の代わりかもしれないけど愛は愛だろう?
***
朝早くから飛行機に乗って東京へ。初めてのフライトにざわめく機内を背景に窓の外を見た。流れていく風景を眺めていると、デジャブまたは既視感のようなものを僕は感じていた。これはあれだ、四歳の頃お引っ越しの時と同じだ。もう少し小さかった気もするけど飛行機は飛行機だろ。そういえば昔は東京に住んでたね。あの女の子、元気にしてるかな。
四時間ほど空の旅を満喫して東京に足を踏み入れた。お天道様が真っ直ぐ光を降り注ぐなか、アスファルトの上を歩いていく。到着したところはプロヒーローのサイドキッカーの事務所だ。学校が電話を掛けまくるなか唯一オファーがとれたらしい。暇なんじゃろか。
かなり広い事務所だ。総勢二十五人の生徒が入っても余裕だ。どうやら本格的に教えるらしく、四人一班で班別に教授するようだ。
友達はおろか話すような人もいない僕に班なんて組めるはずもなく、一人虚しく立っているだけだ。少人数ですることのメリットはたくさんあるけど、あぶれてしまう身にもなってほしいよ。どこかに組み込むなんて生易しいこともなく、マンツーマンでセッションすることになった。くそったれ。
編成を終えるとそれぞれが個室へと消えていく。僕の教師役は父と同年代辺りのおっさんだ。僕への目線が妙ではあるがビジュアル的にはいい人っぽいね。見た目なんて全く信用できないけど。おっさんはコーヒーポットからコーヒーをコップに注ぎながら、僕に話しかけてきた。
「コーヒーで大丈夫だったかな?」
「ええ、水で大丈夫です」
すまない、僕はコーヒーが苦手なんだ。うわっ、て顔をされたけど、あんな苦いものを飲む気にはなれないよ。カフェオレならいけるけどね、うん。
おっさんは僕の対面の席に座った。どこにも資料が見あたらないし、紙もペンも置かれていない。一体何を教えるつもりなんだろうね。少し尋ねてみようか。
「ここで何をするんで?」
おっさんは口を開いた。
「その前に質問したい。私が言う質問は話す内容に直結してくるのでな。心に浮かんだことを正直に答えてくれると私は嬉しい。私は嘘つきは嫌いだが誤魔化そうとするやつも嫌いだ。正直者であることを期待しているよ」
「馬鹿の基準を知らないもんでね。おっさんが教えてくれるのかい?」
「………」
ちょっとしたジョークを言っただけですごい形相で睨んできた。いやだなぁ、お茶目さを少し出しただけじゃあないですか。一々気にしてたら禿げちゃうよ?
「別に答えるだけなら良いけど、下らないことだったらトイレに行かせてもらうよ?」
「ちゃんとした話だから存分に漏らしたまえ。さて、君に聞きたいことが何十とあるが、これだけは聞いておかなければならない。君はこれまでの人生において幸福だと感じたことがあるか?」
当然のことを聞いてきた。質問の意図が掴めないが言われた通り、正直に答えようではないか。
「そりゃあ勿論」
「ならばどんな時に幸福だと感じた?」
「常日頃から感じているさ。僕は恵まれた方だと思うよ? 人並み以上の生活を送れているしね。これ以上求めたらそれこそ罰が当たる」
「私は君が馬鹿ではないことを知っている。常に監視の目があることは気づいているのだろう? この会話とて何処かで聞かれているはずだ。こんな生活が人並み以上だと? 冗談も休み休みに言いたまえ。自由のない人生なんぞ幸せには絶対にならん」
父は恨みを買いやすい人間だ。今も昔もそこだけは変わらなかったらしい。その人の息子である僕にも当然目をつけられている。復讐だとか正当な報いだとか、喚いている輩が襲ってくることもあった。ボディーガードが着いているのは当然の帰結だろう。
「父は過保護なんだ。それに心配性でもある。一日姿を見せなかったぐらいで禿げちゃうくらいにね」
「父親の言う通りにして自分の人生を不意にするのか? 親を継ぐことは美徳であるかもしれないが、負の遺産もついて回ることを考えなくてはならない。時には遺産を継いだせいで命を落とすこともある。
二度目だが言おう、私は君が馬鹿ではないことは知っている。馬鹿ではないなら気づいているはずだ。あの男が引いたレールは地獄へと繋がっていると」
「僕がいつ終着駅のない線路を走った? あなたから見れば父が引いたレールかもしれないが、これはれっきとした自分自身が敷くレールだ。昔からそうだし、これから変わることもない」
僕の道には終着駅が存在する。近い未来に到着する程直ぐそこにある終着駅が。僕がなにか飽きないものを見つけなければ、きっと僕は自決することを選ぶだろう。退屈な人生に絶望するあまり、父への申し訳ない気持ちを残して悔いて死ぬのだ。自分のことだ。そうなるという確信がある。
「そうか、君は自分の道を歩んでいるのか。どうやら君は、自身の人生において選択する権利を所持しているようだ。それは知らなかったな。情報収集能力の低さを痛感したよ」
頭痛でもするのか額に手を当てて唸っている。難しい顔をしてなにかを思案した後重々しく口を開いた。
「ならば何故父に倣うのだ。自分の道なのだろう? 父の道に沿って歩いているだけじゃあないか。父親にお膳立てされた道を悠々と歩いているのと何ら変わりはない。行き着く先は同じだと言うのに、何故頑なにその道を歩むのだ。それが私には理解できない」
「僕が毎日を無意味に過ごしていくなか、気づいたことがある。生きるには意志の力が必要だと。それ以外は必要ないと。僕には才能がある。僕には金もあれば仕えているものにどのようなことも命令できる立場にある。僕は凡その欲望を満たすことができる人間だ」
僕は天から祝福を受けた存在だと誰かが言った。だが、中身だけはどうにも恵まれなかった。与えられたもの全てを持て余す人間は、何も遺すことなく消えていくものだ。そうだろう?
「なのに僕は何もしていない。何故だと思う? 意志の力が弱いからだ。意志が弱ければ流されるままに生きていくしかない。奇妙なことに、力が湧いた途端どこかに吸いとられるように消えていくんだ。だから、僕の命は最後の力──自分を殺すという勇気──を使い果たした時に終わるのさ」
言葉が溢れてくる。この止めどない思いを口に出さずしていられようか。出せば出すほど心の底から溢れてくる。出したところで何かが変わるはずもないのに。
「無駄に残っているプライドが無様な自分を見たくないと暴れるんだ。そう、これは意地なんだよ。父の道に沿っていても、例え行き着く先で火に焼かれようとも、この道は自分の選択の結果なんだって胸を張れるんだ。それはとっても幸せなんだって、感じるんだよ実際」
おっさんの顔がどんどん険しくなっていく。その選択は間違っていると目で訴えてくる。だが何も言わない。黙したまま僕を見つめている。もはや何を言っても無駄だと言わんばかりだ。それもそうだ。僕にありがたい言葉をかけたところで、響く余地のない心では動くことはないのだから。手遅れってやつなんだろうね、きっと。
「これが僕の答えだよ。満足してくれた?」
「……ああ、満足だ。満足だとも。満足しているとも。どうやら君はどうしようもない人間のようだ。自身の精神状態がおかしいことを自覚しながらも、それを甘んじて受け入れてあまつさえ死のうとしている。これほど終わっているとは思ってもいなかった」
絞り出すように紡がれた言葉には、後悔や悲しみや怒りを孕んでいた。ごちゃ混ぜになったそれらは何を悔いているのか、何に悲しんでいるのか、誰に怒っているのか、判別がつかない。だが、そんなことなど気にかけている余裕なんて僕にはない。
「満足したんだから、今度は僕が質問するよ。あんたは僕のことをよく知っているようだし、父とも知り合いのようだ。態度からわかる。だからこそ聞くけど、あんたと僕にはどんな関係性があるんだ? 知り合いの息子に気をかけるにしては度が過ぎているのでね。さっきから気になってしょうがないんだ」
目の前のおっさんを見ていると胸の奥がざわつくのを感じる。その顔に見覚えがあるから、きっとどこかで会っているんだろう。だがそれだけじゃあない。おそらくもっと大きい何かがあると、確信めいた思いがあった。
しかしながら、おっさんは口を紡いで何も喋らない。困った顔をしているから何も言わないんじゃあなくて、何を言ったら良いのかわからないようだ。口を開いたかと思えばすぐに閉じてしまう。決意が揺れて目が虚空を泳いでいる。
長い時間をかけてようやく決心がついたのか、まっすぐ僕を見据えて声を発そうとしたその時。コンコンとノックが鳴り響いた。ドアの向こうからくぐもった声が聞こえてくる。
「もうそろそろ時間になります。怪しまれないうちに退出した方がよろしいかと」
タイムリミットを伝えてきた。なんと間の悪いことよ。それに関しては父と良い勝負をしている。
「すまない。心の整理がまだ終わっていないんだ。こんな事態になることは予想していたから、話したいことを紙に纏めて綴ってある。受け取ってくれ」
おっさんは懐から封筒を取り出して僕に差し渡した。分厚さから五枚以上は入っているだろう。
「それには私の妹──つまり君の母親のことについて書いておいた。君の父親は母親のことを一切君に知らせようとしなかった。君には知る権利があると私は思っている。じっくり読んでもらえると私は嬉しい」
衝撃的なことを言われた。おっさん僕と血縁者なのかよ。見覚えがあると思ったのは自分の顔と少し似ていたからか。せっかく封筒を渡されたが、僕はこんなもの読む気なんて微塵もない。今さら知ったところでなんになるんだって話だよ。封筒を鞄に突っ込んでドアノブに手を掛けた。
「私はもう君を許している。それだけは覚えていて欲しい」
後ろからの声に僕は返答として乱暴にドアを閉めたのだった。