沈み行く太陽はその照りつける光で影を伸ばしいく。やがて光は陰り闇が世を覆った。異物たちの時間だ。
大通りで騒ぎが起こった為か細路に人は存在しない。冷めきった風が吹き付け暖かかったアスファルトを急激に冷やしていく。冬の訪れだ。
風が吹き付ける。匂いを嗅ぎ付けた畜生共が風に惹かれてやって来た。光を透過する少女もそのうちの一匹だ。
少女にはその匂いに記憶があった。最早思い出とすら言えない掠れきった記憶だが、懐かしさを覚えるほどにはこびりついている。
それはかつて自身を救った少年の匂いだった。顔も声も姿すらも忘れてしまったが救われたという事実と、青く澄みきった匂いだけは覚えていた。
風が吹く。幸せを運ぶ少女を呼び寄せる。こっちだぞ、と。
惹かれた少女が足を踏み入れたのは進入禁止エリア。亜驚家の負の遺産である廃工場群。親から近寄るなと言われ一度も来たことのない未知の世界。それを認識せず少女は匂いを辿った。その匂いは少女にとって10年も前から無意識に追い求めていた存在である。景色なぞ気にする余裕はなかったのだろう。
太陽が地に沈み月が顔を覗かせる。街灯もない薄暗い細路を心許ない光を頼りに少女は彷徨う。匂いの濃い方へ歩みを進める。
辿り着いた先には殺人鬼と死にかけの物体がいた。傍目から見れば壁に寄り掛かる子供に何者かが手をかざしているだけである。ただ、そう思うには血の生臭い匂いが強すぎた。
消え去りそうな命を救うのならば、ここで少女は踵を返してヒーローや警察に連絡すべきであった。間違ってもその蛮勇さでもってヴィランに対峙するべきではなかった。
少女は間違えた。その選択が最悪を招くことも理解せず思うがままに行動した。濃い匂いが記憶を刺激したのだろう。今まで忘却の彼方に放置しておいたものが存在感をもって脳裏に浮かんでくる。少女の根本を支える少年の言葉が頭の中で反響した。「君だけのヒーローになる」と。
少女は駆けた。散らんとするその命を救うために。
少女は願った。無力な自分でも何かはできるはずだと。
少女は想いを馳せる。今度は私の番だと。私がヒーローになってみせると。皆のヒーローじゃない、貴方だけのヒーローになると。
無謀だが勇敢だ。思慮浅くとも想いがあった。故に少女は一人のヒーローとしてヴィランに攻撃した。それは数ある選択肢のなかから蹴りという最悪の選択肢であった。雲が流れ月光を遮る。光のない世界でヴィランの背中を強打した実感だけがあった。
ヴィランはその衝撃に折れた足では耐えきれなかった。突然だったため向けていた指先の個性を引っ込めることが出来なかった。だからこそそれが起きるのは必然だったのだ。ヴィランの指先はなんの抵抗もなく、少年の眼を貫いた。
ヴィランは指から感じる生ぬるい感触に呆然とする。死にかけの物体が痙攣を起こし死に行く光景を間近で眺めていた。ヴィランは思った。自分が殺したのだと。
そして何を勘違いしたのか少女は追撃を行った。暗がりだったのもあるのだろう。ヴィランが少年に危害を加えていると思ったのだ。別に悪いことじゃない。未熟な少女が状況を全く把握できていなかった。それだけだ。
ヴィランの心理状態は最悪の一言に尽きる。ヴィランは少年の命を直接手に掛けるつもりなんて毛頭なかった。何せ少年の体は異様なほどに頑丈であったから。個性でも使ったのだろうか、手首を失った時ほんの数秒で血が止まっていたのだから。皮膚を剥いだぐらいで死ぬはずがないと勝手に思っていたのだ。故にこそヴィランは少年があっさりと死んだことに驚愕した。
ヴィランは無防備のままに不可視の拳を受け地に倒れる。正常ではないヴィランは無意識に個性を使用した。思わず力んでしまったのだ。個性は少年の左目から顎まで裂傷させ、地につくために開かれた手で左肩から手の先まで丸ごと削り飛ばした。
「大丈夫!? 速く逃げ…よ……」
雲が流れ月光が差しこむ。写し出される光景を少女は見てしまった。磔にされた少年の有様を。無様に死に絶えるその姿を。残酷な光景が容赦なく少女の目に焼き付いていく。
「うそ……でしょ…」
絶望を目前にした少女は呆然としてしまった。救おうとした命が散ってしまった虚しさが。自分もこうなるかもしれないという恐怖が。そして何よりも自分がやってしまったのだろうかという疑心が。少女の体を縛り付ける。もう二度と立ち直らせないように、懸命に少女の心を絞め殺そうとする。
「貴女のせいだ」
そして醜いヴィランはそれを見逃さない。
「俺はそいつを殺すつもりなんてなかった。少しだけ傷を付けるだけだったのに」
心の穢れた存在は自身と真逆の者が幸せに生きるのを許さない。
「貴女が悪いんだ。貴女が俺の背を押すからこうなった」
自分にない純潔を羨み、妬み、妄執して挙げ句の果てに沼に引きずり下ろそうとする。
「貴女はヒーローを気取っているつもりだろうけど、ヴィランの方がお似合いだよ。ヴィランの手助けをするヒーローなんて存在してはいけないからな」
そうして自分と同じ惨めで醜い者を作り上げるのだ。
「なあ、分かるか? 俺は今日でもってヴィランになったんだ。
貴女はそんな
ヴィランは求めているのだ。他人の不幸を。自身と同じ存在になることを。
「私はヴィランよ。何の罪のない人を殺したのだから。
そしてそれを手助けした貴女もヴィランよ」
なんと醜い生き様だろう。この者は自分より下の人間を見つけて安堵している。大切にするべき尊厳を足蹴にし、踏みにじることに悦楽を見いだしているのだ。それで自分の存在価値が向上することもないのに。どうしてそこまで恥を晒せるのだ。
少女は立っていられなくなった。力なく地に崩れ落ち透明な肌に泥が付く。何かの液体が混じった泥だ。少し生ぬるい。
脳が現状を理解したくないようだ。少年の血溜まりに沈む少女は呆然としたまま涙を流している。一筋、また一筋と月光に照らされてキラキラと反射する。
少女の心は軋みを上げて今にも壊れてしまいそうだ。ヴィランはそれが堪らなく嬉しい。一種の情欲すら覚えるほどに。何せ同類が増えるのだから。自身の手で作り出せるのだから。
「安心しなさい。私はそんな貴女でも受け入れて上げる。
だって、同じヴィランだもの」
ぴくり、と少女の体が反応を示した。
ヴィランは確信している。少女の心は壊れたと。かつての自分と同じように、打ちのめされ理解することもなく全てが終わるのに耐えられなかった。短絡的な思考がそう決定づけた。
だからこそ気づけなかった。少女の涙は流れていないことに。体の震えが止まっていることに。
「……たとえ、わたしが罪深くても。打ちのめされて心を壊しても。情けなく生き延びても。これだけは言えるわ。
絶対に!! 貴女のようなヴィランにはならない!!」
だがそんな脆弱な精神に基づく考えなど通用しない。少女の瞳に火が灯る。消えかけていた火だ。打ちひしがれてなお輝こうとする姿は正しくヒーロー。断じてヴィランなどではない。
怒っているのだろう歯の擦れる音が聞こえる。睨み付けているのだろう強い視線と圧を感じる。見えなくともその激情が手に取るように分かる。
ヴィランの行動は失策だと言えるだろう。ヴィランが何かをするでもなく、少女の心は勝手に壊れたはずだから。悪意のある言葉は時によって正義の心を刺激するものだ。
何時だってヴィランはヒーローの炎を消そうとする。浴びかける言葉が冷水になるか、それとも煮えたぎる油となるかはヒーロー次第だ。前者であれば炎は消え失せ、無益に死ぬかヴィランに寝返るだろう。後者であればその炎はより一層燃え盛り、ヴィランを打倒せんと血気盛んに歯向かうだろう。
少女は後者であった。未熟ながらもヒーローとしてヴィランに歯向かった。
方やヴィラン。力が有りながらも心が弱かった者。
方やヒーロー。力が無くとも想いを糧に強く在った者。
これは明確な差分である。
つまるところ少女は見せつけたのだ。ヴィランがヴィラン足らしめる原因を。はっきりと分かるように。
ヴィランは心が弱かった。個性の有無に関わらず従来として弱かった。そこに強大すぎる力を宿した故に、身を磨り減らし心を脆くした。留めきれぬ負荷が心を静かに決壊させ人知れずヴィランへと変貌した。
少女は泥だらけの手を固く握り締め、よろめきながらも立ち上がり拳をヴィランに向け相対した。泥にまみれようとヒーローの輝きはくすむことなくヴィランを照らしつける。
ヴィランの心に亀裂が入った。純正な輝きを目の当たりにし、自分もその強さが欲しいという嫉妬と、何故こんな事になっているのだという自責の念が心に負荷をかける。ヴィランは頭を壁に打ち付けることでその思いを断ち切った。痛みで誤魔化したのだ。そうしなければ再度心を壊すことになったのだから。
ヴィランは睨み付ける。ヒーローとして立ち上がった少女を。そこにあり得たかもしれない自分の姿を幻視し、そして二度と訪れることのない未来として残像すら残らず消え失せた。残ったのはくそったれな現実とこびりついた悪き心だけだ。
ヴィランはその悪き心でもって目の前の正しき者を抹殺せんと動きはじめた。このくだらない茶番を終わらせるのは頬打ちひとつで十分だ。強大な力は少女の頭部を消し飛ばすのだから。なに、先程やってのけたことだ。すぐに終わるだろう。
だがそんな目論見は脇腹が抉れたのと共に霧散した。背中を地面に強く打ち、吹き飛ばされたのが分かった。ヴィランの脇腹を抉ったのは風の弾丸。今しがた降り立ったヒーローの個性だ。
風が吹き付ける。風が引き寄せる。風が嵐を呼んだ。
「……息子よ」
運ばれてきたの生き物だったモノの父親。悲壮感に満ちた顔でソレを見つめる。
風が吹く。厄を運ぶ男に囁く。手遅れだったな、と。
上手く書けなくて歯痒い気持ちだ