亜驚家の男になった時、ヒーローとしてヴィランと相対する時、息子が産まれた時、妻を失った時、数十年振りに友と顔を合わせた時、亜驚風士はどうしてか人生について考えてしまう。これで本当に良かったのかと。
そしてそれを思考の隅に追いやって結論を出すこと無く、忘れるまで他の些末な事柄に没頭するのだ。亜驚風士が幾度となく繰り返してきた愚行であった。
亜驚風士は選択することを諦めた男だった。それは産まれた時からそうだったかもしれないし、生きてきた道によって身に付いた習性なのかもしれない。
それが男として情けない事に、変わりは無いが。
思考を渦巻かせながら彷徨っていた亜驚風士は、ピュウと吹く秋風を受けて足を止めた。風が運んできた非日常が醸し出す空気を、ヒーローとして培ってきた経験が感じ取ったのだ。
目的地を定め、確かな足取りで歩を進める。スイッチを切り替えたかのような亜驚風士の変わり様に、訝しげに眺めていた周囲の人々は少し距離を取った。
自身の個性である指先の穴から空気を取り込み、肩部に内在する空気袋を膨らませながら敵地に赴くその姿は、正しくヒーローの姿であった。
***
ヴィラン出現の報せが駆け巡り、一つの区画に交通規制と避難勧告が行わた。現地はヴィランに抵抗する少年の個性によって火災が発生し、非常に危険な状態である。
しかし、周囲の人々はそんな事知った事かと言わんばかりに野次馬根性を見せ、手をこまねいているヒーローとヘドロ状のヴィランに抵抗する金髪の少年を情報端末に記録するので夢中だった。
膠着状態に焦れたのか、緑髪の少年がヒーローの包囲網を潜り抜けて飛び出した。勇気と蛮勇を履き違えた緑髪の少年の行動に、人々は色めき立って非難と呆れの声を上げ、より一層端末を握る力を上げた。
そんな危機感の欠片も存在しない人々を、亜驚風士は一足で飛び越える。駆け足でヴィランへ向かいながら、自身の人差し指をヴィランに向けた。
標準を定め、圧縮した風弾を指先から射出する。極小の不可視の弾丸は金髪の腕を掴む緑髪の脇を通り抜け、ヘドロのヴィランの中心部にて破裂した。
爆裂四散するヘドロの肉体が周囲に降り注ぎ、人々は悲鳴と怒号を上げながら退散していく。吹き飛んで来た二人の少年を、亜驚風士は掴み取って地面に下ろした。
「あっ、あなたは……ッ!? もしかしてあのアングラ系ヒーロー『グリーハンズ』……ッ!? 十の指先にあるそれぞれの穴から空気を吸引し肩甲骨の裏側にある空気袋で蓄積圧縮射出する事が出来る個性"深緑の手"! 一見弱く見えるけどその実凶悪な個性で指毎に様々な種類の風弾を射出可能であり現時点で判明しているだけでも右親指のスナイパーライフル右人差し指のグレネード右中指のカマイタチ右薬指のバーニング右小指のガトリングそして何より強力なのが左手指全てを使って掌に真空空間を生み出す個性名でもある必殺技"深緑の手"! 発生するその強力な圧力は石炭を押し潰してダイヤモンドにしてしまったと謂れのある凄い技だ! 確か十年前に北海道の方に移住して活動地を変えたはずの『グリーハンズ』が何故こんな離れた土地に……ッ!? ああっもしかして───」
「ゲホゲホッ! ペッ! ……チッ、キメェ」
「ハッ! そうだヘドロのヴィランがまだ……ッ!」
亜驚風士は右手の指で空気を吸い込んでヘドロを引き寄せ、左手の真空空間に移していく。その滑らかな動きには類稀なセンスと血の滲むような努力が伺えた。
「真空空間であろうと生存可能とはな……。中々強力な個性だ」
プロとはこう在るべしと言わんばかりのその姿に、緑髪の少年は感激と羨望をごちゃ混ぜにした視線を注いぎ、金髪の少年は不機嫌そうに睨み付けた。恐らく、緑髪の少年の頭脳内では心のノートに大量の情報を書き連ねているだろう。その学習意欲だけには目を見張るものがある。
「やぁ、随分と遅れてしまった様だねっ! でも安心しn「チッ」すみませんでしたぁ!」
そこに突如として降り立つ巨漢。重役出勤の『オールマイト』が空のペットボトルを携えてやってきた。哀愁を仄かに漂わせる風貌に、やらかした事を察した亜驚風士は舌打ちをかまし、差し出されたペットボトルを分捕った。
この男、ヒーロービルボードチャートNO.1のヒーローであろうとお構い無しである。
「……ヴィランは既に確保済み、周辺の火災は鎮火、建物の倒壊は今し方ヒーローが対処している様子。オールマイト、今からあんたがやることは一度捕まえたヴィランを取り逃がした結果、被害を拡大させてしまった事を始末書に書くだけだ」
「ウグゥ!! それは、その……面目無い……」
「相変わらず詰めの甘い男だ。そんな調子でこの先ヒーローとして活動していけ──」
「あ、ああぁあの!」
緑髪の少年に遮られた亜驚風士はそちらへ顔を向けた。戦々恐々とした緑髪の少年が全身を震えさせながら直立した状態で挙手をしていた。
「その! オールマイトは悪くなくて! 僕が……僕が悪いんです! 一度捕まえたのに、僕の身勝手な行動でオールマイトの邪魔をしちゃって……! それで……あの……」
「言っておくがな、キミ」
亜驚風士はヘドロヴィランの入ったペットボトルをオールマイトに放り、緑髪の少年に体を向ける。膝を折って目線を合わせ、緑髪の少年の肩をガッシリ掴んだ。緑髪の少年が汗を大量に吹き出しガタガタと体を震わせようと、亜驚風士は構わず話を続ける。
「ヒーローたるもの一度首根っこを押さえた輩を手放す事など、有ってはならない事だ。例えキミの様な鍛えてすら無い貧相なガキに邪魔されたとしても、破ってはならない絶対的なヒーローとしての条件だ。そう、絶対だ……!
この惨状を見ろ。あの焼け焦げた道路を、あの倒壊した建物を、そこいらで後始末に追われる者たちの苦労を。これは全てヴィランがいなければ生じなかった被害だ。キミがどの様な行動をしたのか私の知った事では無いが、負の連鎖を生み出してはならない事だけは肝に免じておけ」
「うっ……で、でも、ぼくは……僕は、オールマイトみたいなすごいヒーローに……」
「なら良く聞け、ヒーローからの有難い忠告だ」
そう言い切った後、亜驚風士はオールマイトを強引に引き連れて後始末の手助けに行った。緑髪の少年など、仕事の邪魔になるちっぽけなガキとしか見ていないと言わんばかりに。
緑髪の少年はそれに酷くショックを受け、狼狽し、足から生気が抜けていくかの様に崩れ落ちた。
亜驚風士は曲がりなりにも古くから居るヒーローであり、オールマイト同様数多くの巨悪を打ち倒してきた生きた偉人である。現代においてそれを知る者は少なくなったが、緑髪の少年の様に知っている者は知っているのだ。
そんな憧憬を持っていた人物からぞんざいな扱いをされる辛さは、推して知るべしだろう。
「うーん……亜驚氏が親切心から言ってるのは分かるけど、ちょっと言いすぎなんじゃあないかな?」
「夢を見ていいのは努力を怠らなかった者だけだ。燻ぶったまま腑抜けてしまった奴が夢を叶えるなど、全くもって現実的ではないと私は思うだけだ。以下も以上も無い」
「私はそうは思わないよ」
ガシャッ、と制御を失った瓦礫が亜驚風士の足元に落ちる。亜驚風士がオールマイトを見れば、何やら決心したかのような面持ちで亜驚風士を見つめていた。
「遠くからだったけど、あの少年が友を助けるために行動する必死な姿が見えたんだ。あの姿を見た以上、私はあの少年をタダの夢見がちな男の子とは思えなくなった。
あの子はもうヒーローさ! 身体はまだ未熟だけど……あの少年の心は既にヒーローなんだ! 自分の命すら顧みないあの自己犠牲精神は、誰にも負けないパワーがある!」
「オールマイト……私は今、お前に恐怖を抱いている。底知れない恐怖をだ……。一体何をする積りだ。あのただ力が無いだけで心意気が善良な少年に、何を仕出かす積りなのだ」
「亜驚氏、私は決めたのさ。あの少年に決めたんだ」
オールマイトは最早、亜驚風士の返答など求めていなかった。単なる決意表明。不意打ち気味にかまされたそれは、亜驚風士に引き留める言葉を出させなかった。
オールマイトは目にも止まらぬ速さで瓦礫の山を整理した後、走り去った緑髪の少年を追いかけて行った。
「やっぱり、私はお前が怖い。今も、昔も。あのまま放っておけば、あの少年は辛く苦しいながらも命の危険の少ない人生を歩めたものの……。
オールマイト……お前があの少年にしようとしていることは、濃密な死の危険と醜悪な人の悪意に晒される悪路に引き摺り込むことなのだ。それが如何に恐ろしい所業なのか……喜んで受け入れたお前には理解できないだろうな」
日が傾き、周囲が茜に染まる。夕暮れ時だろうとヒーローとしての仕事は終わらない。亜驚風士はパトロールを続けようと歩き出すが、すぐに止めなければならなくなった。
普段から全く活用出来ていない携帯が、僅かな振動を起こした。亜驚風士は不慣れな手つきで自身の息子から送られてきたメールを確認し、文面を流し読みして発信場所を確認した瞬間駆け出した。
亜驚風士には兄が居る。カスみたいな個性と潤沢な亜驚家の遺産を手にした結果暴走し、工場一つを爆発させて当主の座を降ろされた典型的な無能である兄が居た。現在は使用人として飼い殺されてるが、今重要なのはそこではない。
工場一つが爆発したのだ。多数の死者が出たし重症を負って後遺症を抱える者も出た。悪評が立ち込めた結果工場の再稼働は不可能であった為、やはり廃業者が大量に出た。
工場関係者には多大なる禍根が今尚根強く残っている事は自明の理だ。
そんな所に亜驚家当主の息子である
無論、ヒーローとしての経験からだ。
「(チッ、静岡にまで足を延ばすんじゃあなかった。仕方ない"飛ぶ"か)」
亜驚風士は指の穴から空気を限界まで吸引し、左手に真空の空間を作り右手の中指を当て空気を放出。中指の極細の縦穴から出るカミソリの様な風は真空によってコーティングされ、極薄の鞭を形成した。
近くの電柱に巻き付け、鞭の空気を吸引する。吸引した分だけ体は引き上げられ、その勢いを使って空に浮かび上がり、左手の全穴から空気を一挙に放出した。
長年の弛まぬ個性訓練によって、全力の放出は三秒程度の滞空時間を亜驚風士に与えた。そして、空気の吸引は一秒を満たさずに空気袋を満タンにする事が出来る。空気が許す限り、亜驚風士は空を吹っ飛んでいけるのだ。
だがしかし、ジェット噴出しようと人の体には限度があった。オールマイトの様に音を超える速さで跳ぶことは出来ない。静岡の北東部から東京の西部に着くまでに十数分の時間を要した。
―――事が済むには、その時間は十分に過ぎた。
風が吹く。空を飛ぶ亜驚風士に吹き付ける。嘲笑を思わせる音で、間に合わないと知らせる様に。