_____いくらなんでも遅い、遅すぎる。
七海は自身の手首に付けていた腕時計を貧乏ゆすりをするようにして指で何度も叩いた。
既に陽が沈んでから数十分が経っていたが、蘆屋が帰ってくる気配は一向になかった。それどころか蘆屋の気配すら感じられないのだ。
彼女の特性上、何かあっても“命に問題はないだろう”。しかしなるべく何事もなく帰してやりたい。これが七海の想いだった。
そして、森の外で待機している補助監督に連絡を入れようとしたその時だった。
ドシャ!
何かが破壊される音と同時に、目の前を黒い何かがとんでもないスピードで横切る。そしてそれはそのままスタンドガラスを突き破り、外の噴水へと落ちていった。
七海はそれが何であったのかを察して慌てて落ちた先へと急いだ。噴水は赤く染まっていた。
「哲邇君!!!」
「あー、クッソ…!私は大丈夫です!!それより七海さん、」
脇腹に大きなガラスの破片が刺さった蘆屋が七海に向かって何かを叫ぼうとする。
しかしそれは叶わず、七海を何かが襲った。
七海は素早く身に付けていた鉈を手に取り迎撃する。相手はパワーが無いようで力で押し返すとすぐに距離を取った。
「相手は子供で、さらに“呪霊”ではないです」
水から上がってきた蘆屋が七海に伝える。七海は当然驚いた。
「あれがまだ生きている人間であると?」
「接近した時、あの身体自体には呪力を微塵も感じませんでした」
蘆屋は悔しそうに唇を噛み、その小さな口からはさらに血が溢れた。
「…とにかく、私たちには終わらせてあげる義務がある。そうですね?」
七海が少しずり落ちていたサングラスを上げ直す。蘆屋も腹のガラスを引っこ抜いて頷いた。
「おかぁさん…おとぅさぁん……………!!!」
子供が蘆屋に目にも留まらぬ速さで飛びかかる。蘆屋は左脚に重心を置き、寸前でそれを軸に避ける。そしてそのまま子供の頸に触れようとするが、子供はすぐに振り返り蘆屋の手を食らおうとした。
が、それは叶わず、子供の口には七海の靴先が入り、そのまま蹴飛ばされる。子供が立ち上がれずにいるところに蘆屋は素早く近付き、今度こそ子供に触れた。
そして刀を抜き掌を斬りつける。傷からは血が滲んでくる。蘆屋は躊躇なくその傷に指を突っ込み、血を絡め取ると子供の前で六芒星を描いた。
「___א(アレフ)」
そう呟くと、苦しむ子供の身体はぼうっと青白い光に包まれ始めた。
「ああああ…ああ!!!」
子供が恨めしそうに蘆屋へ飛び付く。しかし、子供は彼女に危害を与えることはおろか、触れることすら叶わなかった。
「すまない…、もっと早く気付いていれば助けてあげられたのに……………」
蘆屋は、苦しみから解放されたい、そんな一心で彼女を殺そうと必死に足掻く子供に謝罪した。
「ב(ベート)」
蘆屋は掌から流れる血を気にすることなく、固く刀を握った。
そして、ぼんやり光を帯びた刀を子供目掛けて振り下ろした。
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子供の顔は傷だらけではあるものの元に戻っていた。やはり私を動揺させたあの顔は術式によるものだったようだ。
宿主が死んだ今、術式は解かれた。呪霊ではなかった子供は目の前で遺体として転がっていた。
子供を抱き上げようとしゃがむ。しかし身体は言うことを聞かずに前のめりになった。
「哲邇君」
七海さんが駆け寄り私の身体を支える。視界もぼやけてきた。
これでは死ぬのも時間の問題だろう。一級術師だというのに、あれしきの動揺で呪霊でない命に致命傷を与えられるとは笑い話だった。
「七海さん、詳細はまた後で話します」
血塗れの左手で右脇のリボルバーを取り出す。撃鉄を引き起こす。
それを見て七海さんは顔を顰めた。
「手当てすれば必要ないんじゃないですか」
私は七海さんに離れるように指示すると、彼は私を木にもたらさせてから距離を取った。
私は力の入らなくなってきた左腕を持ち上げ、銃口を顳顬に軽く当てた。それは誰が見ても慣れた手塚だった。
「硝子さんに悪いでしょう」
「それじゃあ、“また後で”」
そう言い残して、私はトリガーを引いた。
銃声に、森に止まっていた鳥たちが騒めいた。
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何十回、何百回。もうそこまで来れば痛みは感じない。
心臓を潰され、内臓をぐちゃぐちゃにされ、顔を握り潰される。
やがて骨すら残されず、意識だけが取り残される。
子供の頃はいつも泣いていた。
やがて、永遠に続くように思われた闇が終わる。闇の終わりの先には仄かな光が見えるのだ。
重く疲れた身体を引きずって出ようとする。いつもはもっと足取りが軽いはずなのだが、今日はそういうわけにはいかないようだ。
そして出る直前に、いつものように背後からこう声をかけられる。
すまない、すまない、と。
声の主は泣いていた。
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目を開ける。そこは補助監督の車の中だった。動こうとするがどういうわけか身体が重い。しかしずっとここで休んでいるわけにもいかないし、いかんせん事が終わったのかが気になってならなかった。
かけられていた毛布を置いて、車の外へ出る。
子供の遺体がちょうど引き取られていた。
あの子供の顔が変わっていたことが気がかりで、伊地知さんに調べてもらおうと思っていたがやめることにした。
家族を奪われ苦しい思いをし、命をも奪われた子供を死後も辱めることは到底許される行為ではなかったからだ。
そうして開きかけた口を閉じて、私は子供が乗せられた車を、その姿が見えなくなるまで見送った。
「気が付きましたか」
七海さんが寄ってくる。
「はい。その後のことを任せてしまいすみません。…どういうわけか、いつもより手こずりました」
私は“一度”死に、再び生き返った。
不死身____これこそが私にかけられた“呪い”だった。
子供の頃のある出来事がきっかけでこの体質を得た私は、重傷を負うたびにリセットして、すぐにまた万全の状態で相手と戦うというスタイルを取っていた。それが蘆屋哲邇にとっての強みでもあった。
だがしかし、今回は何故かリセットが上手くいかなかったらしく、起きたのは三十分程経った後だった。
「構いません。貴女が無事なら何よりです。…しかし、五条さんにも報告した方が良いかと思います」
「分かりました」
私はにっこりと笑顔を見せて頷いたが、七海さんは納得した顔をしなかった。
そして任務の方も、結局後処理もしなければならないということで、今夜は解散でまた明日出直すことになった。
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あの家にはドイツ人の夫婦が住んでいた。
ドイツ人の夫婦は数年前に屋敷に越してきて、間も無くして日本人の子供を養子として迎え入れ、普通の家族のように幸せに暮らしていたらしい。
しかし、任務の何日か前を境に、屋敷からは三人の姿がなくなった。
三人は呪霊によって殺されたのだ。
あの時は暗くて見えなかったが、その後の調べで地下室の奥には父親と母親と思われる遺体があったことが判明した。
その遺体は、この前私があたっていた事件と同様に無惨に扱われていたらしい。
恐らくその呪霊は、その過程を子供の前で行い、散々怖がらせた後に同じようにしたのだろう。
何故彼らが選ばれたのか、どうしてあの子供の顔が一瞬変わっていたのかまでは分からなかったが、それでも良くないことが動き始めていることは確かだった。
私は久々にあの場所で紅茶を飲んでいた。
あの頃よりも腕は落ち、不味かった。それとも死ぬたびに味覚も失っているのだろうか。
好きだったクッキーも、いまはぱさついていて食べる気にはなれなかった。
一口食べて残りを皿に戻そうとすると、頭の後ろから手が伸びてきて、そいつはそのままそれを口に放った。
「何のつもりだ」
「食べないなら勿体無いだろ」
五条は口についたかすを親指で拭い、人差し指と擦り合わせてその辺に捨てる。そして反対側の席にどっかり座った。
「何かあったんでしょ」
「…七海さんから何か言われたのか」
「いいや。ただ顔が暗いから」
にこにこと話す目の前の男に、私は盛大な溜息を吐いた。
嫌でも十年以上の付き合いだ。見破られても仕方がないだろう。
「五条、お前はこの私の限り無い死に限りはあると思うか?」
「あるはずだよ」
五条はもう一枚クッキーを口に放り込んだ。
「あの天元様ですら穴が存在するんだ。だから終にもあるはずだよ。
ただそれがいつ見つかるかは誰にも分からない。一年後かもしれないし、十年後もしくは百年後かもしれない」
何故、こうも面倒な呪いをかけられたのか。もう何度も経験したから言えることかもしれないが、自分が死ぬ分には全く抵抗が無かった。
しかし、自分以外の誰かが死んでいくのを見るのはどうしても慣れなかった。
「でも絶対大丈夫だから」
五条はそう付け加えた。
私は思わず笑った。世界最強の男が保証してくれるのだ。何と心強いことだろうか。
彼は少し不満そうに、かつ不思議そうに私をじっと見つめた。
「…私はもう行く。そこの残りは食いたいのなら食え。食わないのならその辺の鳩にでもやれ」
私は立ち上がり、私服のシャツの襟を正した。休みは最後がいつだったか思い出せないくらいには久しぶりで、これはクローゼットの奥から引っ張り出したものだ。
「終もなかなか金遣いが荒いよね…こんな高級クッキーを鳩にあげちゃうなんて………。その歳から豪遊はお兄さん感心しないな」
「ならお前が鳩のフリをしてでも食べればいい話だろ」
「この僕を鳩扱いできるのは君くらいだよ」
五条はやれやれ、と掌をひらひらさせると、口ではああ言っていたのに皿を持って食べながら去っていった。
その後ろ姿が滑稽で、思わずくすりと笑った。
そこで、私は一つ大事なことを思い出す。
「(___あ、伝えそびれた)」
それはこの間の一件で起こった、子供の顔が一瞬だけ別人のものに変化したことだった。
私は今まで、不意を疲れてリセットを迫られるような失態を犯すことは無かった。一級術師の肩書きを持つ以上、それなりに強いからだ。
そんな私が呪霊の成り損ないに遅れをとったのは、あの子供の顔が知り合いの顔に変わったからであった。
蘆屋瀰。伯父である蘆屋貴彦の息子___つまり私の従兄にあたる人物だ。
迷惑なことに、彼がこの世を去ったことで蘆屋家の継承者の権利は私に回ってきたのだ。
そんな故人の顔を、僅かな時間と言えどあの子供に“書き換えた”人物があそこにはいた。
これは、確実に奴が近付いていることを示す。
と、まぁこれを報告しようと思っていたのだが、今更あの背中を追いかけてわざわざ話すのも面倒だった。
報告したところで祓えるわけでもなければ対策できるわけでもない。
そして私は、一度軽く伸びた後、誰もいなくなった庭を後にしたのだった。
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_____東京某所。
月が青白く輝く夜、二人の男が人工的な光を灯す広大な街を見下ろしていた。
「どうやらこの条件も違ったみたいだ」
恍惚とした表情を浮かべながら、男は人差し指と親指の腹で摘んだ眼球を眺めていた。その眼球は日本人特有の焦茶の色ではなかった。
「君のお目当てのものはアレしかないってこと?」
継ぎ接ぎの男が聞く。男はにっこりと微笑んだ。
「そうみたいだ」
すると、継ぎ接ぎの男も嬉々とした表情を見せた。
「彼女の存在は俺の考えも証明してくれるんだ。なおのこと向こうに置いておくには勿体無いなぁ。きっと彼も手元に置いておきたいだろうし」
「焦りは禁物だよ、真人」
男が継ぎ接ぎの男のことを“真人”と呼び、左手の人差し指を口に当てる。その下の口は緩やかな弧を描いていた。
「僕はこれに十年近くを投資したんだ。___いや、千年!千年だ。だから失敗はできない。この子たちのためにもね」
そう言った男の身体から無数のぼんやりとした光の玉が飛び出す。それは小さいものから大きなものまで多種多様だった。
そして、男は目の前に飛び出した弱々しい光を放つそれをぎゅっと握り潰した。
「君もなかなかの悪趣味だよ、“晴明”」
真人が、もう一人の男の名を放つ。
晴明と呼ばれた男は、「君に言われたくないさ」と笑った。
そのまま、静まることのない街は何事もなく夜を明かしたのだった。
皆様こんにちは、作者の佐藤です。
本作品『沈丁花に祝福を』を読んでいただきありがとうございます!
主人公のイメージを描いたのですが、載せ方が分からず投げ場のない状態になっております…。もしよろしければ、どなたかご存知でしたら教えていただけると幸いです!