部屋の中に、落ち着いた女性の声が淡々と響く。彼女の話では、とある零細企業の株価は日を追うごとに上がっているらしい。他には、某国でクレーターのような穴がいくつも発見されたことや、監視カメラに一瞬映った白と黒の謎の生命体のことなどが語られている。コーヒーの香りに包まれながら、液晶から漏れ出る光を見つめる。
「十八世紀の巨匠、幻の最高傑作と謳われるシェミラ像は、当国の美術館では本日にて公開終了となります。その価値は数億ポンドとも言われていて、世界中の注目が集まっています」
紺のスーツを着こなす彼女が表情を綻ばせると、不意に画面が白く発光し、色彩は途切れてしまった。隣に視線を送ると、白髪の子どもが機械のボタンを押していた。黙り込んでしまった硝子を見つめる彼は、芸術には興味がないのだろうか。そろそろ行くぞ、と声を掛けられたが、応える代わりに先ほどの疑問を飛ばす。ゼオンには予想外の返しだったらしく、幾度か瞬きを見せる。
「いや、興味がないといえば嘘になる。なあデュフォー 、もしかしてシェミラ像を見たいのか」
彼らしからぬ表情に少し面食らったが、それを押し留める。ああ、そうだな。あれほど高価な彫刻は、きっと素晴らしい芸術に違いないだろう。そう答えると雷帝は目を細め、小さな息を漏らした。俺はティーカップの底を確認すると、静かに立ち上がる。
「お前と出会ってからは忙しない日々の連続だったからな。今日くらいは息抜きをしてもいいだろう。デュフォー 、シェミラ像を観に行くぞ」
僅かに残る液体を水場で流しながら、肯定の意思を彼に伝える。少ししてからドアノブを回し廊下に出ると、色や形の同じ扉がいくつも並ぶ。それらは歩く速度に合わせ、ゆっくりと視界を流れてゆく。そのうち賃貸でも探そうか、これから収入も安定してくるだろうしな。入り口付近のカウンターに佇む男に鍵を渡すと、両開きの黒い扉に見送られる。施設を出るとすぐに、眩い日に照らされた。
「なあ、デュフォー 。今頃ガッシュは拾われているだろうか」
そう小さく零す彼は、寂しげな表情を覗かせる。もしかすると、ここ数日ずっと気にしていたのかも知れない。弟の記憶を奪ってしまった後悔、その感情は、世界中を以ってしても彼にしか分からないことだろう。しかし、寄り添うことなら誰にでも可能だ。俺のただ一人の家族に向かって説明してやる。
「清麿の受け売りだが、魔物とパートナーは引き合ってしまうらしい。必ずいつかは出会うだろう」
お前も知っているだろうがな、と結ぶ。実際にゼオンは北極、ガッシュも清麿の父が勤めるイギリスから始まった。となると、どうあってもパートナーと巡り会うことは避けられないのだろう。もちろん、出会う前に負けるようなことが無ければ。
「それもそうだな、あんな森の中に他の魔物が迷い込むとも考えにくい。もし出会えなかったとしても、暫くは安全だろう」
少し明るさを取り戻した紫電の子は、幻の傑作に焦点を合わせたようだ。美術館の情報を確認すると、こちらを一瞥し、合図を出す。旗めく純白に飛び乗ると、俺達はゆっくりと背景に溶けていった。
……。
「本日のチケットは売り切れです」
ふと隣を覗くと、雷帝が怒気を滲ませている。そう、元々こいつは怒りに支配されやすい性格なんだ。復讐を取り上げたところで、そこまで変わってしまうわけではない。さて、どうしたものか。憤るゼオンに声を掛け、受付から離れる。
「今日が最終日だぞ。今を逃したら機会があるか分からない。……こうなったら、瞬間移動で忍び込むか」
ありがたいことに、彼の上がった熱も数秒たつと収まったようだ。確かに方法はそれしかないだろう。入り口でチケットを渡す人々が見えるが、彼らに襲い掛からないことに安堵した。近くの茂みに身を隠し、木陰で作戦を練っている最中だった。背後から、魔物の気配が近づいてくる。
「お前ら、まさかシェミラ像を盗む計画じゃないだろうな。こっちに来い」
目の前には、天に向かって鋭く伸びる銀髪をさわる青年が見えた。釣り上がった目の下には、ガッシュと似て機械じみた線が一本伸びる。面倒だな、と雷帝は虚空を見つめ、大きく息を吐いた。いや、このタイミングで話しかけてきたということは、もしかすると美術館の関係者かもしれない。彼にそう耳打ちすると、渋々といった態度で返答した。
「仕方ないな。もし関係者だとしたら、こいつを脅そう。ここまで来たら何がなんでも観るぞ」
その情熱はどこから来るのだろうか。以前の旅にて、何者にも屈服するのはプライドが許さない、などと嘯いていた雷帝を思い出す。そういった彼の信条は、今も存在しているらしい。像の守り人らしき魔物に着いて歩きながら、まるで旧友と久方ぶりに再会したような、不思議な心地をひとり静かに噛み締める。少しすると、人気のない裏路地に辿り着く。
「俺もシェミラ像を盗られるわけにはいかねえからな。覚悟しやがれ」
頭に針鼠を被ったような青年はそう勢い付けると、高く跳躍し拳を振り下ろす。それをいなすように、白のマントが踊る。芸術の街の片隅にて、両者の意地が滾り始めた。銀の針鼠は、ひとたびゼオンに肉薄すると、両の拳を乱舞させる。相対する銀の雷帝は、神業のように最小限の動きで躱してゆく。紫電の子を刈り取るように鋭く伸びた一撃は、春風を撫でるように空を切った。
「お前の本気はこんなものか。もっと楽しませてくれたらどうだ」
そうして背後に現れたゼオンのことは、目で追えなかったようだ。あいつ、頭が悪いな。今のは右足さえ見ていれば分かる動きだ。それにすら気付けないとはな。雷帝が右手での一撃を顔面に入れると、錆れた歩道を魔物が転がってゆく。感情のない面を見せる子どもを、起き上がった男は激しい剣幕で追走する。
「てめえ、チビのくせにやるじゃねえか。丁度いい、俺もイライラしてたんだ。とことんやってやろうじゃねえか」
まずいな、ゼオンは弱者に舐められるのを嫌う傾向にある。チビのくせに、などと言われた暁には、そいつをただでは帰さないだろう。彼を宥める答えを探していると、ふと違和感に気付く。あの魔物、パートナーがいないのにも関わらず、なぜ強気に出られるのだろうか。先程から、溢れんばかりの力が眠っているのは確かに感じるがな。
「この俺をただのチビだと舐めているのか。デュフォー 、遊びは終わりだ。一瞬で消し炭にしてやる」
そう宣言する雷帝からは憤怒が迸っている。彼は右の掌を突き出し、敵へと照準を定める。シェミラ像への手掛かりが欲しかったところだが、こうなっては仕方がないだろう。俺がザケルと発声すると、白銀の子から紫の雷が射出され、砂埃が巻き上がる。個人的には避けていることを望むが、あれ程の近距離で食らったら、立ち上がるのも難しいだろう。純白が嘆息を漏らす。
「呆気ないな。弱い犬ほどよく吠える、とはうまく例えたものだ。」
ゼオン、右だ。俺の出した指示は、砂塵の中の雄叫びに掻き消される。舞い続ける煙を縫って、針のように鋭利な一撃が雷帝の頬に炸裂した。仰反る強者は驚愕を顔に貼り付ける。視界が晴れると、銀の針鼠は何事もなかったように、不敵な笑みを浮かべていた。