星領学園一年A組、朝のHR―――。
「おい、紅。紅はいないのかー」
出席簿片手に出席を取る担任教師だったが、自席についたまま銀我は微動だにしない。
見かねた友人の一人が手を上げる。
「せんせー、銀我のやつならここにいますよー」
「おっ、なんだ、いるんじゃないか。呼ばれたら返事しろよー。欠席にしちまうとこだったぞ」
おどけるような口調の教師に、眼鏡の奥の険の強い目を向けて銀我は言う。
「村上です。オレの名字は村上で呼んでください」
「…しかし、そうはいうがな」
「夫婦別姓も認められているんですよ? だったら子供も母方の姓を名乗っても問題ないでしょう」
ああそれはうーむ、と教師は曖昧な言葉を羅列して、結局有耶無耶のうちにHRを終わらせてしまう。
「おまえも拘るねえ」
HR終了後話しかけてくる級友に、銀我は冷たく応じた。
「紅なんて、家族をかえりみなかったロクデナシの苗字だよ」
肩をすくめて友人は行ってしまう。毎度変わらないやりとり。
当の銀我自体、この拘りさえなければ、品行も良いし、成績も悪くない優等生。
ゆえに教師たちもどう取り扱っていいのか困惑しているらしい。
問題児と呼べない問題児。
今のところそんなレッテルが適当だろう。
午前の授業も終えると、銀我は教室を出て部室のある校舎へと赴く。
星領学園新聞部。
クラブ活動を義務化しているこの学園で、銀我の所属する部活だ。
既に部室には先客が数人いた。
単に活動熱心というわけでなく、学園内で唯一インターネット有線回線が引かれている理由による。
「よう、銀我」
新聞部部長が挨拶。後輩であることを差し置いても、姓で呼ばないあたり銀我の扱いを心得ている。
どーも、と軽く頭を下げ、銀我は部室に一台しかないデスクトップ型PCの方を見る。しかしすでに先客が使用中。
諦めて、おいてある今日の日付の朝刊を手に取った。
三面記事を流し読みして、ざっと内容を確認。
ストーカー男が捕まったという類の記事は見つけられなかった。
それも当然か。
病院勤めの看護婦が、死産した赤ん坊だけにとどまらず、新生児もさらってフライにして食べていた事件。
幼稚園児ばかりを狙う小学生の通り魔集団。
エスカレーターに割り込まれて激情し、母子を三階から突き落とした老夫婦。
綺麗に等間隔に切断されたバラバラ死体。顔の皮膚も綺麗に剥ぎ取られていて、身元の確認は困難。犯人は解体業者か?
週刊誌の中吊り広告も真っ青などぎつい内容の事件が、今日も紙面に踊っている。
ストーカーや痴漢程度の犯罪など扱ってはいられまい。
つまりはこれが普通の日常。
銀我の覚えている限り、ずっと昔からこんなニュースばかりだったような気がする。
不意に、うんと幼かったころ、母に尋ねた記憶が蘇る。
『ねえ、おかあさん。この世界にカミサマっているの?』
きっとあまりにも殺伐とした世界の空気を、幼心でも肌で感じていたからだと思う。
母は少しだけ驚いたような表情をしてから、優しい笑顔を浮かべたはずだ。
『ええ。神様はきっといるわ。いると信じてみんな一生懸命に生きている。
だからお父さんも一生懸命なのよ…』
ぽつりと涙をこぼしながらの母の台詞。
意味は分からない。
昔は知っていたのかも知れないが、忘れてしまった。
ただ一つだけはっきりと覚えているのは、その時、自分と母の傍らに、父はいなかったこと。
記憶の中の母はよく泣いていた。そしてその場面に父の姿はほとんどなかった。
急に忌々しくなった回想を振り切り、新聞を置いて銀我は立ち上がった。
そろそろ食堂も空いたころだろう。
大騒ぎの中で友人たちとワイワイ食事をするよりも、静かにゆっくりと食事を摂るのが銀我の好みだ。
部室から出ようと足を向けたまさにその時、外からドアが開く。
「やっぱり銀我ちゃんここにいたーっ!」
聞きなれた高い声。
銀我はとっさに逃亡を試みようとしたが断念。正面から相対する羽目に。
「ちゃん付けは止めろつってんだろ!」
「銀我ちゃん、はいこれ、お弁当だよ」
「だからっ」
「なに、どうしたの銀我ちゃん? おべんと、いらないの? お腹でもいたいの?」
全く動じる様子もなくこちらを覗き込んでくる女生徒の名前は
フルネームは紅真白で、銀我と双子の姉である。
「…食うよっ!」
姉自身より、周囲の興味津々といった視線に耐えられなくなった銀我は、半ばひったくるように弁当を奪取。
もはやヤケクソとばかりに手近な椅子に腰を下ろして包みをほどく。
プラスチックの蓋を開けば、俵型のおにぎりとから揚げ、ポテトサラダにほうれん草のベーコン巻き実に充実したラインナップ。
一食分の食費が浮くのは正直ありがたい。なにより悔しいことに真白の弁当は絶品だ。
いつの間にか正面の席に腰を下ろす真白から目線をそらすように、銀我は一気に弁当を掻き込む。
「銀我ちゃん、夕べ帰ってこなかったでしょ? 何があったの? お母さん心配してたよ」
「昨日は部長んとこで遊んで遅くなったから、じいちゃん家に泊まった」
部長とは予め口裏を合わせてある。それに夜遅くなったが、祖父である銀正の家に泊まったのは本当だ。
「でも、電話くらいいれられるでしょ?」
「ちょうど携帯の電池が切れたんだよ!」
銀我が乱暴に応じる間にも、真白は部長に「いつもお世話になってます」と如才なく挨拶をしている。
部長は、ああ、とか、うむ、とか頷いているが、部屋にいる他の部員たちは声もない。
みな真白に見惚れているのだ。
「それと、あんまり危ないこと、しちゃだめだよ?」
すわ昨日のことかと背中がひやりとした銀我だったが、真白が指摘したのは先週の出来事。
駅前で絡まれている星領の女生徒を助けるため、他校の不良五人を叩きのめした件らしい。
銀我自身は全く怪我はしていなかったが、不良五人全員はもれなくまだ病院のベッドの上で天井の染みを数えているはず。
内心で安堵する銀我に、
「女の子を助けるのは立派だけど、あんまり乱暴がすぎると散鶴さんに言いつけちゃうからね」
「し、師範代は関係ないだろ!?」
「崩月流はチンピラとのケンカに使う道具じゃないでしょ?」
〈崩月〉のところだけ少し声を低めて真白は言う。
常々道場でそう戒められているだけに、銀我は返す言葉もない。
色を失う弟に、真白にしてもそれ以上釘をさすつもりはないらしく、
「それじゃもう行くね。ちゃんとお弁当の容器は洗っておくんだよー」
これからも銀我ちゃんのことお願いしますね。
部室内の全員に軽く頭を下げると、颯爽と出ていってしまった。
あとには淡い柑橘系の甘い香りが残るのみ。
「…ったく、保護者面してんじゃねーよ」
弁当の残りを突きながら銀我はぼやいたが、「うわ、それおまえすげえ負け犬っぽい」との部長の声に憮然としてしまう。
「にしても素敵ですよねー、真白さん」
と、これは他の一年生の部員の声。
たちまち銀我の顔は苦々しいものになる。
「おまえタメ歳なのにあいつに敬語なんか使うなよな」
「いやいやあれは敬語使いたくなるって。年上のお姉さんって感じするもん」
姉なのは全くの事実なだけに、銀我はますます渋面を作らざるを得ない。
「おふくろの腹から出るとき、絶対あいつの方が俺を先に蹴りだしたんだ…」
「それは昔の考え方だろ。今は生まれてきた順番で兄、弟ってつけるんじゃなかったか?」
「だったらあいつが俺を踏み台にでもして先に出てきたんだよ!」
「どっちにしろ、おまえが弟って事実に変わりないじゃん」
部長の指摘は相変わらず過剰なまでに的確。
「くそ、昔は全然身体弱かったくせに…」
「時間の流れは残酷だねえ」
くっくと部長は笑う。
身長が165センチそこそこの銀我に対し、なんと真白は170を上回っている。
加えて銀我は筋骨逞しいという外見に程遠い。どちらかというと線の細いタイプだ。
対して真白の体型は、モデルもかくやと思われる絶妙のプロポーションを誇る。実際、街を歩いていて何度かスカウトもされたらしい。
そういう体型的な意味においては真白は両親の血が乏しい。
しかし双子の対比としては、この上なく決定的。平凡な体型の『弟』、モデル体型の『姉』、という印象は、二人を見知った誰もが真っ先に思い浮かべることだろう。
「あの抜群のプロポーションで童顔ってのは反則だよなー」
母親譲りの美人であることは、双子である銀我も認めるところ。
だけに真白の人気は凄まじく、ますます銀我のコンプレックスを刺激してくるわけだが。
「あんな目出度い名前のヤツが…」
「それは聞き捨てなりませんね。真白。いい名前じゃないですか」
その声に、銀我は思わず箸を取り落すところだった。
いや、銀我だけではない。部室にいた全員が声のした方を見て、あんぐりと口を開けている。
「ご無沙汰しています、銀我兄さん」
開け放たれた窓の向こうから丁寧に一礼する少年は、どう見ても小学生くらい。
いや、そんなことより。
「ちょっとここ二階なんだけど…?」
「ああ、これは失礼しました」
一生徒の指摘に、まるで何事もなかったかのように少年は窓越しに部室内へ足を踏み入れた。
パンパンとジーンズの誇りを払った逆の手には、スニーカーがぶら下げられている。
「ふむ、どうやら真白姉さんとは入れ違いになってしまったようですね。残念至極」
「…てめえ、何しにきやがった?」
「そう目くじらを立てないでください。ちょうど今日の五時限目は自習になりましたからね。早退して自主的に社会科見学ですよ」
全く銀我に臆する様子を見せないこの少年の名は星噛
銀我と真白とは古い付き合いで、ゆえに二人を姉さん兄さんと呼ぶ。ほとんど幼馴染に近い関係。
「まあ将来的には、真白姉さんは僕の花嫁になってもらいますからね。妻の通う学び舎となれば、往々に興味をそそられるものです」
昔から絶無はそう公言して憚らない。
銀我自身もうんと小さいころ「お母さんをお嫁さんにする!」などと言ったことを覚えているから、絶無の小生意気な発言もその延長であると単純に解釈していた。
部室の他の生徒たちも、相手が小学生とあってはそう解釈せざるを得ない。どこか微笑ましい表情で二人のやりとりを眺めている。
「おーおー、あんなので良ければ熨斗つけてくれてやるさ」
「となれば、銀我兄さんは僕の義弟ということになりますね。大丈夫ですよ、そうなってもちゃんと兄さんと呼ばせてもらいますから」
「言ってろ」
周囲の失笑を背に、銀我は目線だけで絶無に問いかけていた。
ただの気まぐれで自称将来の義兄がやってくることはありえない。他に要件があるか、それとも極め付けの気まぐれのどちらかか。
絶無という少年自体、クソ生意気なガキという評価は銀我の中では覆らない。
問題は、姓である星噛だ。
業界トップの人材派遣会社の運営に携わっており、絶無自身も後継者として特別な教育を受けているらしい。
必然的に雑多な情報に触れる機会も多くなると聞く。
そんな教育を受けたら、コイツも慇懃無礼な性格に育つよなあ、と半ば同情しないでもない銀我である。
なにより星の名があらわす通り、この星領学園の経営も、星噛の出資によるものだとか。
であるからこそ、好き勝手に出入りしても絶無が咎められることがないのかも知れない。
「さすが銀我兄さん。実は…」
「実は?」
「実は僕、給食を食べそこなっちゃたんですよね」
絶無の視線は、銀我の手元の弁当箱に集中。
「…食べかけで良ければ全部やるよ」
「ありがとうございます」
いそいそと銀我の隣に腰を下ろし、弁当に箸を伸ばす姿は年相応のもの。二人が並んで座っている後ろ姿は兄弟と思えるくらいそっくりだ。
「いやあ、真白姉さんのお弁当は甘露ですねえ」
舌鼓を打ちながら嬉々として食べつつも、低い声が銀我の片耳をくすぐった。
「―――あまり危険なアルバイトは慎まれたほうがよろしいですよ?」
さきほどの真白の指摘した方ではない。昨晩の揉め事処理屋としてのことを言っているのだ。
そう直感し、絶句する銀我に、
「
涼しい顔の絶無は、表向きは丁寧に口元をハンカチで拭っていた。
にこやかな表情はそのままに、無声音は続いている。
「無理に止めはしませんが、くれぐれも真白姉さんを悲しませるようなことはしないでくださいね」
「別にアイツが悲しもうがどうしようが俺に関係ないだろ…」
「ええ、兄さん自身には関係ありませんよ。率直に申し上げれば、兄さんが好き好んで死のうがどうしようが僕の知ったこっちゃない」
「――――!」
「でもね、兄さんに何かあると、真白姉さんが悲しむんです」
真白姉さんを悲しませたくありません。
それが、それだけが僕の最大にして至高の懸念事項なんですよ。
そういって絶無は呼吸を整えるように息を吸う。
その一瞬の間に、隠された巨大な感情のうねりを、銀我は垣間見たような気がした。
思わず絶無を正面から見直すが、そこにあるのは年相応の無邪気な顔。
…気のせいだったのか?
「とりあえず忠告はさせて頂きましたから」
ご馳走様でしたと元気いっぱいに立ち上がって、
「それでは、兄さん、ご機嫌よう」
来たときと同様に、二階の窓から外へ出て行ってしまう。
「…おまえってさ、凄い姉ちゃんに変な弟までいるんだなあ」
部員の飽きれるような揶揄するような声にも、銀我は身じろぎもしない。
頬杖をついて窓の方を向いた姿勢のまま、銀我は内心で頭を抱えていた。
真白に諭されたことに対する懸念ではない。
絶無の忠告に対する不安でもない。
あるのは、深い憤りだけ。
…どいつもこいつも、何でオレがしようとすることにケチをつけるんだ!?