駅裏の寂れた通りに面した場所にそのラーメン屋はあった。
『楓味亭二号店』
そして店主の名は紅真九郎という。
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「もやしネギラーメン、チャーシュー麺あがり!」
真九郎は出来上がった丼を二つカウンターの上に置いた。
お盆を抱えた銀子が、下げてきた丼と入れ違いで二つの出来立てラーメンを運んでいく。
夕方の書入れ時。店の中の客入りは八分といったところか。
下げられた丼を流しへ移動しながら顔をしかめる真九郎。
片方の肉もやしラーメンはスープまで全て平らげられていたが、片方のしょうゆバターラーメンは半分以上残されている。
しょうゆバターは最近追加した新作だ。
すわ不評だったかと客席に目を走らせれば、ちょうど会計を済ませて出ていく客は、若い男女の二人連れ。
注文したのは確か女性の方だったはず。
…女性にはやはりしつこかったのか?
いやいや、普通にダイエットしているだけかも。男のほうにつき合わされただけで。
でもダイエットしてるなら、最初からしょうゆバターなんて注文するか…?
「なにぼーっとしてるの!?」
銀子の低いけど鋭い声は、周囲の客を慮ってのこと。
「いやちょっと経営努力的な…」
「いいから注文!」
険しい顔でカウンターに叩きつけるように置かれたのは注文伝票。
そのくせ、客の替え玉の注文には、にこやかな笑顔で応じている。
…もうちょっと優しくしてくんないかな。
あらたな麺を寸胴鍋に放り込みながら、実は真九郎の内心は満更でもない。
まだ高校生だったころの銀子を思い出して懐かしくさえある。
この場所に店を構えて早三年。
結婚して間もなく十六年になるが、苦労の連続だった。
正直、苦労という表現も似つかわしくないほど過酷な数年間があったが、そのことに関してはお互いに極力触れないようにしている。
―――それでも、あんたと一緒になって後悔してない。後悔なんかしてやらない。
銀子の台詞に、どれだけ救われ、勇気づけられたことか。
ただ、その台詞を口にしたときの銀子の表情は血を吐くようだったことが、真九郎の心に深い痛みとともに刻まれていた。
それが、こうやって昔にも似たキツイ表情を向けてくれるまでになっている。
彼女の中でそれなりに余裕が出来てきているのだろう。
そのことにホッとする真九郎だが、その理由は他の誰にも語ろうとは思わない。
銀子と二人だけで共有する辛い記憶。同時にそれはかけがえのない温かい絆でもあるから。
「はいよっ、替え玉お待ち!」
真九郎がカウンター越しに客に替え玉を渡している間に、銀子は愛想よく食べ終えた客を送り出している。
『楓味亭』の看板娘は幾ばくかの常連客も二号店に引き連れてきてくれたので、開店当初の客入りも上々。
実にスムーズなスタートダッシュを切ることができた。
それが今では、立地条件が悪いにかかわらず、売上は商店街にある本店を上回ることもある。
それというのも―――。
「ただいまー!」
元気いっぱいの声に一気に店の中が華やいだのは、きっと気のせいではない。
「おう真白ちゃん。今日もかわいいねー」
ビール片手の常連のおじさんに、うふ、ありがとー、と愛想よく微笑む娘。
ついでにお酌なんぞをしてからカウンター横を通って自宅の方へ。
間もなくブレザーを脱いだ制服の上にエプロンを着けながら戻ってくる。
「洗いものたまってるしー。あたしが注文とるから、お母さんは厨房へ入ってー」
はいはい、ありがとうね、と苦笑しながら厨房へと入ってくる銀子。
そんな銀子と娘を眺めて思わず顔をほころばす真九郎だったが、
「…なにニヤニヤしてんのよ?」
ジロりと銀子に睨まれてしまった。
「ほらお父さん、注文だよー」
「お、おう」
中学に上がってからほぼ毎日店で立ち働いてくれる娘を、真九郎は本当にありがたく思っている。
楓味亭二号店は二枚看板だと評されるとおり、真白目当てで常連になった客も多い。
それを証明するかのように、客席はたちまち満席。
テキパキと注文をさばく真白に、真九郎も釣られるように奮戦。
19時すぎには早々に本日のスープも売り切れ。最後のラーメンを出し終えてようやく一息をつく。
真九郎は煙草を吸わないので、こっそり冷蔵庫からビールを取り出して一服。
「もう、お父さん、それ売り物でしょー?」
たちまち娘に見咎められたが、唇の前に指を持ってきて静かにしているように懇願。
銀子に見られたらまた何を言われるか。
その銀子はレジ打ちに忙しく、どうやらこちらには気付いてないようだ。
急いで残りのビールを流しこんで、真九郎は後片付けと明日の仕込みの準備を開始。
今日の売り上げも上々。
ラーメン屋としての生活が安定してきているのは単純に素晴らしいと思う。
もっともそれは妻と娘の尽力によるものが大きいことは、真九郎もわきまえていたが。
肝腎のラーメン自体も本家『楓味亭』の味をしっかりと継承しているつもりだけれど、常連に言わせると少しコクが及ばないらしい。
そのあっさりさが若者受けしているとの分析も出来るが、本家に対しプラスアルファがなければ、このさき客数を伸ばすことは難しいだろう。
ゆえに新メニューの開発など、経営努力に腐心する真九郎であったが、
「お父さん、やっぱり納豆チャーシューラーメンは評判悪いよー。今日は三つしか注文されてないし」
「………」
実のところ周囲の評判は芳しくなかった。
「あんたって、結構バカ舌なのかも知れないわね」
と、これは銀子。
「九鳳院のあの子の弁当も美味しそうにモリモリ食べていたし」
「おいおい、そんな昔のことをな…」
はるか昔の高校時代。
九鳳院紫がもたせてくれた弁当は、どう好意的に解釈しても生焼けと焦げたものの詰め合わせ。
それでも無下にできず、強がって全部平らげた記憶が蘇る。
「そういえば紫さん、最近ご無沙汰だねー」
稀にリムジンを横付けして食べにくる和装の麗人は、娘である真白にとっても馴染みだ。
真九郎の作るもやしラーメンを絶賛する一方、新メニューは酷評することが多い。
「あいつも色々と忙しいんだろ」
今の紫は文字通り九鳳院の一翼を担っている。その都合で国外を飛び回ることも多いと聞く。
住む世界が完全に違っているわけだが、未だ接点を保てているのは幸運には違いない。
かたや超セレブの紫に対し、今の真九郎はラーメン屋の店主という庶民生活に落ち着いていた。
後悔は全くない。
結局のところ、自分の身の丈にあっていると思う。
いみじくも昔の銀子の指摘は慧眼だったというわけだ。
“あんた、昔、なんていったか覚えている?
大きくなったら銀子ちゃんと一緒にラーメン屋をやりたいって、そういったのよ?
その程度が、あんたの器。あんたの限界。”
激しい口調の裏に、どれだけ自分を案じる気持ちが込められていたのか。
今の真九郎には分かりすぎるほど分かりすぎて、申し訳ないくらいだ。過去に戻れたら、当時の自分をぶん殴りたいほどに。
そんな銀子に従ったわけではないが、揉め事処理屋も引退して久しい。
かつてのようにその日の暮らしに汲々とすることもなくなった。むしろこちらの生活の方が人として正当というべきだろう。
幼馴染の妻に、可愛い子供たち。
つまり、これが家族であり、誰も欠けることなく一緒にいられる幸福。
今の生活に、真九郎は全く不満はなかった。
不満はなかったが、それなりに頭が痛い問題も生じている。
この店の経営的な将来も不安だが、そんなことより―――。
「ただいま」
最後の客と入れ違いになるように引き戸を潜る小柄な学生服姿。
息子である銀我だ。
「銀我ちゃん、お帰りー」
姉である真白にはちらりと不機嫌そうに一瞥。
「お帰りなさい」
母である銀子には、小さな声で「ただいま」と応じる。
「おう、遅かったな。お帰り」
父である真九郎は完全に無視。
まるで存在しないもののように前を行き過ぎてしまう。
そのままズカズカと自宅の中へ姿を消した息子の背中を見送って、真九郎は複雑な表情を浮かべるしかない。
「真白、悪いけど、暖簾仕舞って戸締りをお願い」
「はーい」
ぱたぱたと娘は店の外へ。
それを確認してから銀子はそっと真九郎に寄り添ってくる。
「大丈夫。反抗期よ。麻疹みたいなものだから」
真九郎の抱える悩みは、いわゆる男親としての悩みだ。
懐いてくれる娘に対し、息子の方は水と油とばかりに敬遠されまくっている。
その息子の心理が、真九郎には今一つ理解できない。
確かに銀子の言うとおり、反抗期というものは知識では理解している。
学生時代に、同級生の様子からもある程度察していたつもりだ。
でも、俺って反抗期なんてあったっけ…?
考えてみればこれは無理もないこと。
なにせ思春期の大半を、真九郎は崩月の家でやっかいになっていたから。
日々の修業で徹底的に扱かれ、疲れ果て、気力さえ根こそぎ奪われてしまえば反抗心など芽生えるはずもなく。
それでなくても家族を失った真九郎にとって、崩月の家はひたすら温かい恩人たちの住まう場所。
そんな恩人たちに迷惑をかけてはならないと自制していた結果もあったかも知れない。
とにかく、自分の経験則に当てはまらない以上、なぜ息子が木で鼻をくくったような態度をしてくるのか分からない。どう息子に接していいのかも分からないのである。
「きっとご家族が生きてらっしゃったら、あんたもあんな風になっていたわよ」
そういって笑う銀子に、根拠は? と尋ねると、昔のあんたとそっくりだから、という答えが返ってきた。
「…似てるかな?」
子供二人、どちらかというと自分より銀子に似ていると思う。
「だから、大丈夫」
と銀子は繰り返し、真九郎の肩にそっと手を置いてくれる。
娘はまだ戻ってこない。
真九郎は銀子の手に自分のそれを重ねてみた。
銀子の手はひんやりとしていて、少しだけ気恥ずかしかった。