自室に戻った銀我は、鞄を部屋の隅に投げ捨て制服の上着を脱ぐ。
「あのクソ親父…」
あんな当たり前のような父親面をしやがって。
人畜無害なふりしやがって…!
奥歯を噛みならし、乱暴にノートPCのスイッチを入れる。
パスワードを打ち込み、自動的にネットブラウザが立ち上がる。表示されたのは、いわゆる匿名掲示板。
ただの掲示板サイトではない。
いわゆるアングラ系というやつで、特定のパスコードがないとアクセスすら不可能。
そこで交わされる情報は陰謀論、犯罪予告、インサイダー取引情報、薬物交換会など千差万別。
銀我は新聞部部長に、このサイトとパスコードを教えてもらった。
部長自身、何かしらの新聞記事のネタになると考えてのことだったが、あまりにも危険極まりない内容に見なかったことにしたらしい。
ちょっと見るだけだぞ? 見たらさっさとパスは捨てちまえ。
結果として、銀我は部長の忠告を無視することに。
確かに眉をしかめたり目をそむけたくなるような情報が錯綜していたが、それ以上に得るものがあった。
情報を吟味し、リンクを辿り、その果てに知ったこの社会のもう一つの側面。
裏世界。
表の世界と対をなす、もう一つの世界。
様々な人種が、様々な職種を生業としているのが特徴と言えるかも知れない。
殺し屋、護り屋はいうに及ばず、奪還屋、喧嘩屋、救出屋など多岐に渡り、それぞれがもつ能力は常人の想像を遥かに凌ぐという。
そんな裏世界に、伝説の人物がいた。
柔沢紅香。
史上最高最強の揉め事処理屋。
その、鮮やかを通り越して極彩色ともいえる膨大な業績の数々に、銀我は魅せられた。
揉め事処理屋を営もうと思った一因となったことも否定できない。
だが、最も大きな理由は―――。
トントン、と唐突にノックされる自室のドア。
「銀我ちゃん、ご飯だよー」
姉である真白の声に、なぜか焦りながら銀我は返答。
「か、帰る途中で喰ってきたからいらねーよ」
「そう? あ、もうお風呂も出来ているけど?」
「あとで入るから!」
「んー、了解ー」
気配がドアから遠ざかる。
かと思ったら、声だけが戻ってきた。
「明日は稽古日だからね。十時には出かけるからねー」
そうだ。そういえば明日は崩月の道場での稽古日だった。
わーってるって! と乱暴に返しておいて、銀我は頬が緩むのを自覚。
稽古はそれは厳しいが、それに勝るご褒美がある。
ひたすら高揚しそうな思考は、マウスのクリックとともに落ち着いていく。
表示されるは裏世界の情報。
最近起きた事件や、それにまつわる情報を追うだけで、一時間は軽く過ぎる。
揉め事処理屋を営む上で、銀我も仲介屋や斡旋屋と情報のやり取りはしているが、個人的な情報の収集も必須なのだ。
一通りページを見て回ってから、銀我はとあるサイトのブックマークを開く。
そこにあるのはかつてあった情報の残骸。もしくはその寄せ集め。
断片的であるにも関わらず、伺い知れる情報は驚愕に価する。
柔沢紅香の活躍を何ものでも切り裂くような光と表現するならば、対を成すような重厚で深い底知れぬ闇。
悪宇商会。
あらゆるダーティな職種を網羅した、裏世界最大の人材派遣会社。
極め付けの悪評とそれ以上の畏怖に彩られた記録の数々は、表の世界の重大事件への関与すら仄めかしている。
…全く、オレが知らないと思っているんだろうか?
銀我の独り言は、今日会った年下の幼馴染に向けられている。
星噛絶無。
悪宇商会最高顧問の欄に記された名前も“星噛”。
むしろその名前は、裏世界でも特別なネームバリューを誇るらしい。かつて大きな力を持った家系のひとつとして。
そんな星噛であるならば、現在の裏世界の情報にも知悉しているのは道理。
揉め事処理屋として活動している銀我の動向を調べるのも造作もないことだろう。
その上でわざわざ遠回しな忠告なんぞ嫌味にしか思えない。
苛立ちはそのままに、銀我は更にページをスクロールさせる。
そこに記された文字に、銀我はまた呟いた。
先ほどのものより更なる怒りと侮蔑をこめて。
…全く、オレが知らないと思っているんだろうか?
同時にそれは、銀我が揉め事処理屋を営む最大の理由。
表示されたのは壊れたファイルで、読み取れなかったり文字が崩れているものも多い。
その真っ黒な背景に、そっけないほど白く浮かび上がり読み取れるフォントが一行。
悪宇商会所属 揉め事処理屋 紅真九郎
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「はッ!」
裂帛の気合いが張り詰めた道場の空気を破る。
踏み込んだ爪先は、板張りの反発力を十分に獲得。
そのまま勢いをつけて前方に回転し、反対の足が大きく宙を薙ぐ。
銀我渾身の回転浴びせ蹴りだ。
手ごたえは、まるで真綿に包まれたような感触。
爪先を取られた優しい感触は、たちまち膝あたりまで登ってくる。
やばい! と思った次の瞬間、世界が更にもう一回転した。
「ぐうっ!」
足を受け止められたあげく抱えられ、床に叩きつけられる。
どうにか受け身を取ることに成功したが、全身を打った衝撃に跳ね起きるのは不可能。
「ここまでですね」
優しく穏やかな声。
うっすらと目を開けた銀我の視界に映るのは、腰を折った妙齢の女性の微笑。
「あ、りがとう、ござ、い、ました…」
根性で上体を起こして正座。深々と頭を下げたが、内臓がもんどり打っていて呼吸も落ち着いてない。
対して対面に座った女性は、呼吸どころか汗一つ掻いていなかった。
崩月流師範代、崩月散鶴。
セミロングの前髪の片方の一房を、赤い紐で結っている。
道着に袴という格好の彼女の佇まいは、道場に不釣り合いなほど柔らかい。
まるで陽だまりで微睡む猫のよう。
そんな印象も一瞬で虎へと切り替わることを銀我は身をもって知っていた。
「変則的な攻撃としては悪くないですが、連撃としての隙が甘すぎます。次回の稽古までの課題としておきましょう」
にっこり微笑まれ、銀我の胸は痛みと別の理由で苦しくなる。
「どうしました、銀我くん? 顔が赤いですよ?」
「だ、だだだ大丈夫です、はい!」
痛みをこらえて無理やり背筋を伸ばす。視界の隅に、同じく道着と袴姿で正座した真白が笑いをこらえる風に見てくるのがムカつく。
「それでは本日はここまで。銀我くんは先にお風呂へいって汗を流してくださいね」
散鶴はそこで真白に目配せをし、
「私たちは道場の掃除をしてから行きますから」
「いえ、師範代こそ先に…!」
「女性のお風呂は長いのですよ? そんなに待たせたら、銀我くんが風邪をひいてしまうでしょう」
「あれ? ひょっとして銀我ちゃん、あたしたちと一緒に入りたいとかー?」
「うっせえ黙れ!」
真白を一喝しておいて、けっきょく銀我は素直に従うことにした。
汗まみれのままでいれば、本当に風邪を引きかねない。
「失礼しますッ!」
気合いの入った挨拶を残して銀我が立ち去ったあと。
どちらが示し合わせるでもなく散鶴と真白は立ち上がり、道場の更に奥へと向かう。
一見、壁としか見えない場所がスライドして現れたのは、まったく別の広い空間。
天井も床も剥き出しのコンクリート製は先ほどの道場と全く異質の雰囲気を放つ。
あるところはひび割れ、または穿たれ、削られ、血痕のあとすら生々しい。
そんな殺伐とした空気にも関わらず、中央で向かいあう二人の女性の姿は可憐ですらある。
そして―――空気が弾けた。
打ち交わされる拳。
捌く手足。
その動きは、もはや舞にも似て。
あまりにも高レベルな人間同士の組手は、一種の芸術性すら喚起するという。
いま、二人の間で取り交わされる技の応酬は、まさにそう表現するのが相応しい。
「ぶっちゃけて聞きますけど、銀我ちゃんの素養はどうなんですかー?」
「素質はありますね。他にも何か齧っているでしょう?」
そんなやりとりの最中にも関わらず、穏やかな口調で会話を交わせる彼女らをどう評すべきだろう?
「あー、それはたぶんお爺ちゃんですねー」
銀我と真白の母方の祖父である村上銀正の若かりし頃は名うての喧嘩師。
結婚を期に拳を封印したし、事実それ以降全く拳を振るったことはなかったが、孫には甘くなるらしい。
銀我に対し、こっそりと喧嘩のテクニックを伝授しているとか。
「いいセンスをしています。でも、それだけですね…」
散鶴の発言は、一種の残酷さを伴う。
しかしそれは、崩月の家に生まれついたものにとって確固たる現実だ。
銀我本人には伝えていない。伝えられない。
崩月流の本来の修練場はここであり、先ほどの道場での鍛錬など、崩月流を修める上では準備体操に過ぎないということを。
結論から言えば、銀我の学んでいるのは崩月流ですらないのである。
嵐のような組手の終わりは、始まりと同様に唐突。
濃密極まりない時間は、10分ほどだったろう。
流れるような動作で正座をし、お互いに礼。
真白の方がより深く頭を下げるのは、師事する人間に対する礼儀ゆえ。
「ありがとうございました」
優しく見守るような表情で礼を受けた散鶴の笑顔が、不意に切り替わる。
「真白さん」
「はい」
「あなたは正しくは崩月の一族ではありません。ですが、戦鬼としての能力は及第です。いえ、むしろもっと大きなその力は―――」
真白がまっすぐ見つめてくる。
散鶴は正面から受け止める。
二対の視線が静かにぶつかった。
それから、散鶴の表情はまた変わった。
「―――余計な心配でしたね。あなたがその力の使い方を誤るはずがありません。その力の全ては」
「はい、銀我ちゃんのために」
臆面もなく言ってのける真白を前に、散鶴の顔も綻ばずにはいられない。
「うふふ、そこまで銀我くんのことが好きだなんて、ちょっと妬けるかなあ」
「いくら好き好き好きーでも、姉弟では結婚できないんですけどねー…」
横を向いてチッと舌うちを漏らす真白は、果たしてどこまで本気なのか。
「というわけで、不肖の姉としては、弟の恋を応援したいんですけどー」
「へえ、銀我くん、好きなひといるんだ。青春だね。きっと学校とかでモテモテなんでしょう?」
無邪気に言ってのけた散鶴だったが、たちまち眉をひそめた。
なぜなら目前の真白が、正座の格好のまま横転していたから。
そんな弟子の胸中の呟きまで、さすがの散鶴にも知る術はない。
…がんばれ。がんばれ銀我ちゃん………!