どこか遠慮がちにドアをノックする音に、銀我はそっとノートPCを閉じた。
時刻は午後10時半を過ぎたあたり。
家族でこんな扉の叩き方をするのは一人だけ。正直顔も見たくない相手だったが、努めて平坦な声を出す。
「…どうぞ」
「悪いな。邪魔するよ」
入って来たのは予想通りの人物。ぷんと濃厚なカツオダシと焼き豚の香りが漂う。
父だった。きっと明日の仕込みを終えてきたばかりなのだろう。
紅真九郎。
まるで赤の他人の名を呼ぶように、銀我は心の中で呟いてみる。
血縁上は紛れもない父親。にも関わらず、素直に父と口に出して呼んだことなど何度あっただろう?
勝手に部屋の中央に胡坐をかいて座る父。
じっと銀我が眺めていると、居心地の悪そうに身動ぎをする。
ちらりとこちらを見上げ、すぐに視線をそらすといったオドオドとした姿は、父親の威厳というものから遠くかけ離れたもの。
無意味に部屋の中に視線をさ迷わせ、挙句首にかけていたタオルを両手の中で弄ったりしている。
いい加減銀我もイライラしてきたころに、ようやく父は口を開いた。
「その…なんだ。最近、学校の様子はどうだ?」
「…別に」
「…そうか」
切って捨てるような銀我の反応。
会話のキャッチボールに協力する気などさらさらない。
うんと子供のころ、父親と遊んでもらった記憶は皆無。むろん本当のキャッチボールをした記憶さえなかった。
もののごころがついた頃には、近所の空手の道場に通っていた。
他の子供との付き合い方を教えてくれたのは、祖父である銀正のほう。
そんな銀我の幼い記憶で鮮やかなのは、さめざめと泣く母の姿だけ。
その原因は父にあるはずと、銀我は確信している。
「それじゃあ別の悩みとか」
「ないよ」
どう好意的に解釈しても銀我の返事は吐き捨てるといった表現の一歩手前。
なのに父は怒ることはなかった。むしろ困惑を深めるように俯いている。
なんでそんなに情けない顔するんだよ?
銀我は落胆。
落胆は憤りへと変換され、更に侮蔑の根に水を注ぐ。
「そうつっけんどんにするなよ」
父は困ったようにバリバリと頭を掻いて苦笑。
「銀子…いや、母さんや真白には止めとけっていわれたけどな、最近おまえは夜遊びも多いし、ここは一つ男同士で腹を割って…」
話さないか。
きっと父はそう続けようとしたのだろう。
だが、既に銀我は背を向けていた。
「勉強するから」
それきりで、あとは振り向かない。
銀我の成績も素行も優等生。
学業方面から説教へ繋げるような切り崩しは困難。
無視されてもしばらく父は逡巡するように佇んでいたが、結局「…勉強、頑張れよ」と一言おいて部屋を出ていってしまった。
父が去ったあと。
銀我は憤然やるせなしとばかりに机を拳で殴りつけた。
畜生。
台無しだ。
せっかく今日は師範代と稽古して楽しかったのに。
全部が全部台無しだ!
頑丈が取り柄の罪のない机が悲鳴を上げる。
構わず更に銀我は拳を叩きつける。
学校の様子だって?
別の悩み?
…あんたが言うのか?
オレと大して歳が違わない頃に、母さんを妊娠させたあんたがそれを言うのか!!
高校在学中に、幼馴染と関係を持ち孕ませた。
紅真九郎の悪行を列挙しろといわれば、銀我がまず第一に挙げるのがこれ。
経済的にも自立していない、しかも学生という身分でのこの行為は、一般常識、道徳的にも弁護の余地はない。
この場合、男の方の責任がより大きく問われるのは当然。
だが、父は無事高校を卒業している。
それはなぜか?
母が庇ったから。
周囲に妊娠が発覚する前に自主退学。優秀だった母の最終学歴は高校三年にあがる寸前の中退に留まっているのはこれに由来する。
そんな母の献身にも関わらず、父の選択した職は裏世界に身を置く揉め事処理屋。
しかもかの悪宇商会に所属していたとあっては、いったいどんな悪行に手を染めたものか。
幼い息子を抱え若すぎる母が泣いていたのは、身を呈して庇ったはずの連れ合いの行動に心を痛めていたからに違いない。
仮に、百歩譲って揉め事処理屋として大成でもしたならばいざ知らず、現在の職業はしがないラーメン屋の親父。
何かしらの原因で挫折し、裏世界から足を洗い、本人はいわゆる堅気に戻ったつもりなのだろう。
…それが贖罪のつもりか?
だったら最初からラーメン屋でもやってればいいだろう!?
“何も全う出来ない中途半端のロクデナシ”
これが銀我の父に対する評価。
そんな銀我が揉め事処理屋を営む理由に、父に対する対抗意識など1ミリグラムも存在しなかった。
あるのは、もっと崇高な、あるいは大きな野望。
かつて存在したであろう揉め事処理屋・紅真九郎の悪行の数々を、自分が新たな揉め事処理屋としての業績で上書きする。
仲介屋に仕事を斡旋してもらう際、村上銀我ではなく渋々ながら紅の姓を名乗る理由はこれ。
父の汚名をそそぎ、新たな“紅”を業界最高峰の揉め事処理屋の名として、裏世界に刻むのだ。
そう、かの柔沢紅香のように―――。
そしてもう一つ、銀我には目的があった。
机の二段目の引き出しの奥から引っ張り出した貯金通帳。
順調に揉め事処理屋の仕事をこなしてきたことにより、結構な金額が貯まっている。
実家を出ての自立。
いずれは母も呼んで、一緒に暮らす。あんなロクデナシの父親は、一人寂しく生活するのが似つかわしい。
銀我は常々そう思っているのだが、どういうわけか姉と母親はそろってロクデナシに甘い。
きっとあれは、駄目人間を放って置けないという母性本能。
銀我はそう解釈するに至った。
いわゆるヒモと呼ばれる男が存在するように、父も同類の臭気を放つ人間に違いないのだ。
そんなケースは、無理にでも引き離してやらなければ、待っているのは共倒れ。
とにかく共依存みたいな関係のままではお互いのためにならない。
ロクに働かない男から日常的に暴力を受けているくせに、どうしても面倒を見続けてしまう女性を無理やり引き剥がした仕事を思いだす。
(といっても、男を叩きのめして、女性の方を飛行機の距離のある実家へ帰らせただけだが)
明朗な目的と、それに至る手段に、確かな手ごたえ。
その流れを踏まえるならば、今の銀我はまさに順風満帆。
そんな銀我でも、年頃の悩みは十分に抱えている。
父に相談する気などさらさらないが、それでも父に関わりあいがあることに大きく不満である。
もちろん、何の間違いであの人があんなロクデナシに関わっちゃったんだろう? という意味で。
崩月散鶴。
現在崩月流を学ぶ銀我にとっての師匠。
子供の頃からの知り合いで、朗らかで爛漫としたお姉さん。
そして銀我の初恋の人で、今なお恋慕し続けている
7歳ほど年上だが、少し天然の気質がある彼女は、見た目よりさらに少女じみて見える。
そんな意中の人と色々とイタシたいのが、銀我の唯一の歳相応の悩みといえるだろう。
更に将来的な話となれば、それは裏世界に紅の名を刻むということより大それた野望に思える。
それでも、いつかは。
だけど少なくとも腕っ節で敵うようにならなきゃ、告白すら論外だよな…。
勉強そっちのけで青春の悩みを謳歌する銀我の目前で、携帯電話が着信音を奏でる。
発信元は非通知。
銀我は眉をしかめた。
この携帯は、主に仕事の連絡用に購入したもの。
専ら馴染みの仲介屋や斡旋屋との通話にしか使ったことはなく、連中が非通知でかけてくることは考えづらい。
少し迷い、出てみることにする。
息を潜め、受話器を耳にあてた途端、
『銀我くん!?』
誰何の声は、誰の携帯番号であるか分ってかけて来ているものであること。
そしてその焦りの声に聞き覚えがあった。
つい先日仕事をこなしてきた依頼人の声は、電話越しでも間違えることはない。
「ひろ子さん? どうしたんですか、ひろ子さん!?」
『お願い、すぐに来て…!』