楓味亭の裏口から銀我は夜の街へと飛び出す。
愛用のマウンテンバイクを疾駆し、辿りついた荷津崎ひろ子のマンションのドアに、鍵はかかっていない。
そっと中へ入ると、もぬけの殻。
荒らされた形跡こそないものの、ダイニングテーブルの上に置かれた一枚の紙片が嫌でも目に付く。
広告の裏に住所だけ殴り書きされただけのそれは、家主が何かのトラブルに巻き込まれたことを証明していた。
再度マウンテンバイクを駆りながら、銀我は馴染みの仲介屋へと電話。
少なくともこの携帯の電話番号をひろ子に教えたものがいる。
なのに仲介屋が電話に出る気配はない。
銀我の中で、一気に危険度が跳ね上がる。
ちらと警察に連絡しようかとも思ったが、ひろ子が名指しで電話を寄越したことに思いとどまる。
仮に電話が使えたなら、彼女自身が警察へと連絡をすればいい。
それが出来なかったことと、わざわざ銀我に来てほしいと懇願したことに、何かしらの理由が存在するはず。
銀我はマウンテンバイクを停めた。
広告に書かれた住所を頼りに辿りついたのは、人気のないオフィス街の真っ只中。建設中のビルがある一角。
建設会社のシートが張り巡らされた工事現場が指定場所らしい。
ちらりとシートの隙間から中をのぞくと、常夜灯が周囲を照らしている。
土の山、積み重ねられた資材、置かれたままの重機。
その向こうに建造中らしいビルは、おおおよそ四階ぶんほどの高さまで組みあがっている。
隠れる場所には事欠かない。
建設途上とはいえ、内装も出来ているであろうビル内にでも潜まれれば、見つけるのはやっかいだろう。
はっきりいって罠の可能性が高い。
しかし、駆け出しの揉め事処理屋を誰が罠にかけようとする?
誰かに恨みを買った覚えがない、とは言い切れないが…。
迷っていても仕方がない。
銀我はシートの隙間から建設現場へと足を踏み入れる。
途端に、四方から強烈な光が降り注いだ。
夜間作業用のライト。
スタジアムのように周囲は余すことなく照らし出される。
そして銀我は見つけた。
ビルの手前。
しゃがみこんで横座りしているひろ子の姿を。
後ろに両腕が回されているところを見ると拘束されているのか。
うな垂れて顔を伏せているのは気絶でもしているらしい。
すぐ目前に晒された依頼主の姿はあからさますぎる。
これ見よがしの餌なのか、それとも。
「!!」
ひろ子に向けて一歩踏み出した銀我の前に、不意にそれは出現した。
目深にパーカーを被った大柄な影。
ひろ子の姿を覆い隠すように。銀我の歩みを阻むように。
「…誰だ、あんたは?」
声を投げつけつつ、銀我の全身の毛穴が開いていた。
違う。
こいつは街のチンピラや不良たちとは全然違う。
感じるのは、もっと深い何か。凄みとも強さとも見当のつかない底深さ。
ゆえに直感的に銀我は悟るしかなかった。
こいつも、オレと同じ裏世界の同業者―――!?
目深に被ったフードのせいで大男の表情は伺えない。
太い二の腕は肩までむき出しで、両手につけた分厚い皮グローブを打ち鳴らしている。
身構えつつ、銀我の頭は忙しく回転。
この迫力、喧嘩屋? まさか戦闘屋?
どうしてそんなのがここにいる?
考えられるのは、この間決着をつけたはずのひろ子のストーカー。
警察に突き出されたことで更に逆恨みをし、復讐するために裏世界の人間を雇った?
すべて推測。
肝心の被害者が気を失ったままでは、正答を望むべくもなく。
しかし筋は通っている。現状に説明がつく。
でなければ、わざわざ銀我を呼びつける必要も理由もない。
構える大男。
終始無言な様子に、不気味な迫力を感じる。
この大男を雇った誰かは、どこかでこちらを見ているのか。
だが、今はそのことを気にかけても無意味。
とにかく、この大男を叩きのめし、依頼主を、ひろ子を助け出す。
あえてシンプルにすべきことを定める。
それに、いずれ裏世界の人間同士で戦りあうことになるのは必須。
ちょうどいい機会、と値踏みするにはやや難あり。
額を流れる汗を拭いながら銀我は思う。
こいつ、強い。
崩月流は習い始めてまだ一年。それまで八年以上続けてきた空手に、祖父銀正の教えてくれた喧嘩のテクニックが手持ちの武器。
勝てるか、などと逡巡するのは無意味。
勝つ。
勝てばいい。
至上最高の揉め事処理屋となるために、負けてなどいられるか。
眼鏡を外す。それから、あらためて大男と対峙。
銀我よりおよそ頭一つ分は高い。
先手必勝とばかりに繰り出す右回し蹴り。
同時に大男も右回し蹴りを放つ。
空中で交差する双方の蹴り足。
重い衝撃。
が、吹き飛ばされることはない。
男は蹴りの重さ、銀我は蹴り足の速さで、威力は拮抗している。
「らあッ!」
すかさず後ろ回し蹴り。
受けに回る大男の腕はまるで岩を蹴っているよう。
更に蹴りを繰り出すも全てブロックされる。
連撃が途切れた瞬間繰り出された前蹴りを避けるため、後方へ大きく跳ぶ銀我。
やはり強い。
が、付け入る隙がないわけでもない。
スピードと身軽さではこちらが勝っている。
フェイントを繰り出して相手の蹴りを誘発。
その蹴りを掻い潜り、相手の懐に飛び込む。
タックルでマウントを取れれば、体格差を考慮しても勝機あり。
やや重心を下げる銀我。
男の蹴りが来るのを待つ。
間合いはやや遠め。崩月流で学んだ瞬発力は、無類の踏み込みの速さを発揮する。
フェイント。
男は蹴りを出す態勢。
この間合いでは、蹴り足は届かない。
とすれば、この蹴り自体が相手のフェイントだろう。
どっちにしろ構わない。懐に飛び込んでしまえば―――。
「!?」
男の蹴り足は大地を抉った。
跳ね飛ばされる無数の小石と砂。
まるで散弾のように身体に食い込む。
咄嗟に顔を防御した銀我の反射神経もさることながら、一気に間合いをつめてきた男はすぐ目前。
銀我の作戦を看破したのかどうかは分らないが、結果として読み勝ったのは男の方。
強烈なタックルで地面に叩きつけられる。柔らかい砂地だったのは不幸中の幸い。
一息つく間もなく馬乗りで叩き落とされる拳。
ガードを固めた上からも突き抜けて響く重さ。
無言の乱打。無言ゆえのプレッシャー。
ろくな反撃もせず、銀我は蹂躙される。
衝撃に、どうにか意識を手放さないよう歯を食いしばる。
「くっ!」
留めとばかりに大きく振りかぶられた拳。わずかの隙。
倒れこんだときに握り込んでいた砂を男の顔面向けて投げつける。
少しだけ男がひるむ。すかさず渾身の力を込めて背後に反り返り、馬乗りから脱出。
銀我の驚愕すべき素早さとしぶとさ。
賞賛に値する代償として、体力を大きく削られている。
肩で息をする銀我に対し、態勢を立て直した男に全く乱れはない。
彼我の体力差は明らか。
ならば―――どうする?
「…まともに
口の中の血と吐き出しながら、銀我は低く笑う。
劣勢にも関わらず、なぜか血が沸き立っている。
これは喧嘩だ。試合じゃない。
喧嘩は地の利、道具を使ってなんぼのもの
銀正の教えが耳によみがえる。
横にある機材置き場に銀我は飛び込む。
後を追ってきた男の前に突き出したのは鉄パイプ。
もちろん銀我に槍術の心得はない。
しかし、間合いを取り、牽制し、男の攻撃を捌くことに使うことが出来る。
男が自らも鉄パイプを取ろうとするが、先回りして掴んだ手を銀我は打つ。
小回りの方はこちらが上だ。
男が苛立ったように腕を振り回すが、それを掻い潜り、鉄パイプを打ち付ける。
腰の乗らない一撃はダメージを与えることが目的ではない。
体力を少しでも温存し、かつ男を更に苛立たせるのが目的。
もう組み合うだけの体力は残っていない。倒すには一撃で。
鉄パイプで牽制し、男が一気に間合いをつめてくる。
突進しながらの拳。
チャンス!
拳を掻い潜りながらの浴びせ蹴り。
見事なカウンターが男の左肩に炸裂。しかし間合いが近すぎて威力は減殺。
立ち上がり間合いを取る銀我の前で、男はダメージを受けた様子がない。
体格差はそのまま耐久力へと変換される。
銀我の方は急所に当てなければ意味はない。
「ちッ」
タイミングは悪くなかったとばかりに舌打ち。
脱力し、苛立ったような素振りは芝居。
鉄パイプを地面に突き刺して吼えたのは、次への布石であり、そして賭けだ。
大きく間合いを取り、一転銀我は男に向けて走った。
鉄パイプを踏みつけて跳躍。
大きな放物線を描きながら身体を前方に回転。再度の回し蹴りは、着地点にいる相手の目にはどう映る?
さっきの一撃に味をしめたゆえの再攻か? それともヤケクソの特攻か?
男は身構えたまま。
体格差にものを言わせ、空中にいる銀我を叩き落とすのか、それとも受け止めるのか。
こちらの一撃をかわした上の選択権は向こうにある。
そう思わせるための先ほどの一撃。
相手がそう確信しているならば、そこに銀我の付け入る隙がある。
「うおおおおッ!」
体重が乗って加速した振り下ろしの踵が宙を薙ぐ。
完全にその間合いを外し、突っ込んでくる男は体当たりで銀我を迎撃するつもりだろう。
そしてそれこそが銀我の狙い。
足を振り下ろした勢いそのままに、そり返した背筋の力を解放。前方に叩きつける。
ぐちゃ、という鈍く水っぽい音。
銀我の全力を込めた前方回転式の頭突きは、見事男の鼻先へと命中していた。
急所への完全な不意打ち。
鼻血を撒き散らし、どうと背後へ倒れこむ男。
無様に着地して、銀我もそのまま地面に転がる。
呼吸が盛大に乱れていた。一気に汗が噴出す。
先ほどの浴びせ蹴り自体が牽制で、二段構えの頭突きが銀我の本命の一撃。
それがこれほど図に当たるとは。
上体を起こし、倒れ伏した男を見る。
まともに組み合えば、ほぼ勝ち目はなかっただろう。
それでも勝った。
オレの勝ちだ…!
男の身体越しに、ひろ子の姿が見えた。
そうだ彼女を解放しなきゃ…。
不意に視界を黒いものが過ぎた。
間髪おかず、首に衝撃。締め上げられる。
「がっ!」
油断した。
目前には、鼻血で顔の半分をそめた男の姿。
銀我の首を交差した腕でぎりぎりと締め上げてくるその顔は、フードが除けられて全て見えた。
見開かれた両眼に、血が泡立っている。
どう見ても尋常じゃない表情。
だけどこれは…。
首を圧迫され苦悶する銀我の中に生じた違和感。
銀我の首を吊り上げたまま、男は叫ぶ。
「なあっ、これでいいんだろ!? こいつを殺せば解放してくれるんだろ!?」
「!?」
なにを言っているんだコイツは!?
唐突に銀我は理解する。
コイツの目。
これは何かに怯えている目じゃないのか…?
突然、男の身体がガクリと揺れた。
首の圧迫から開放された銀我は、無様に地面に着地。
酸素を求めながら、それでも必死で頭をめぐらすと、泡を吹いて昏倒する男の姿が見えた。
そして男の向こうにはひろ子の姿が。彼女の手にはスタンガンが握られていた。
ひろ子さん、自分で逃げ出したのか…?
喉がまだ自由にならず声が出ない。目線だけで、それでも安心を伝えた銀我だったが。
「あ~あ、やっぱり値段相応の安っぽい喧嘩屋よね」
倒れた男の頭をつま先でガシガシと蹴飛ばすひろ子。
…なんだ? 何をしているんだ?
「でも銀我くん。君は当たりね。さっきの戦いは、お姉さん、すごく痺れちゃった♪」
混乱する銀我を前に、ひろ子は膝を折って瞳を覗き込んでくる。
「本当、君っていい素材よね。うん、とっても切り刻み甲斐がありそう」
どういう意味だ?
というか誰だこの人?
目前の彼女は何者なんだ?
呼吸は戻らない。声も出ない。
見つめ返す瞳の奥に横たわる暗黒。
混乱する銀我の中で、鼓動が別のリズムを刻む。
全身が震えた。
歯の根がガチガチとなる。
これは―――恐怖?
そう自覚するより早く、首筋に衝撃が走る。
銀我の意識はそこで暗転した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ふん」
目前の少年の首筋にスタンガンの柄を叩き付けて昏倒させ、ひろ子は一息ついた。
敢えてスタンガンを使用しなかったのは、後遺症を心配してのこと。
痺れの残る筋肉だと、切り裂く手ごたえが物足りなくなる。
「それにしてもこっちの役立たずを片付けるほうが骨ね」
村上銀我と名乗る少年なら、なんとか自分で引きずっていくことも可能。
しかしこの図体ばかりデカイ喧嘩屋はそれも無理。
やはりいつもどおり身体を八等分くらいにして、それから運ぶしかないか―――。
ひろ子は腰の後ろに手を伸ばす。
ベルトに固定された皮ケースに仕舞われたのは愛用のナイフ。
まさにその柄を掴もうとしたその時。
「あ、銀我ちゃん見っけ」
場違いなほど明るい声。
その声の持ち主は、真夜中にも関わらず制服を着ていた。
つかつかと工事現場へと入ってくる女子高生。
更にひろ子を見つけるとにこやかに挨拶。
「こんばんはー」
咄嗟にひろ子が反応できないでいる目前で、女子高生は昏倒した少年を肩に担ごうとしている。
「もう銀我ちゃんたら。あれほど危ないことしちゃ駄目っていったのにー」
「ちょっとアンタ! 誰なの!? なんのつもり!?」
ひろ子は声をかける。
色々と展開が予想外過ぎて、反応が追いつかないゆえの月並みな誰何。
「あ、あたしはこの子のお姉さんで真白っていいます。だから連れて帰りますね」
「冗談じゃないわよ、その子は―――」
切り刻んで、私が楽しむのに。
ついでにアンタも切り刻んであげる。
そう続けようとした台詞は、冷たい言葉に阻まれる。
「いい加減にしてくれませんか、荷津崎ひろ子さん」
「!?」
再度ひろ子はナイフへと手を伸ばす。
向こうはこっちのこと知っている以上、通りすがりの一般人ではありえない。
「別にあなたが誰を切り刻もうがあたしに興味はありません」
チラリと昏倒した喧嘩屋に視線を送る真白と名乗った女子高生。
「でも、さすがに六十六代目からの依頼があったので対処しなきゃならなくなりました。
だけど銀我ちゃんを連れて帰らなきゃならないし、後日にまた仕切りなおしということで」
「はあ!? わ、私には何を言われているのかさっぱり」
真白は深々とため息をついて、
「荷津崎ひろ子=NITUZAKI HIROKO。ZANTOU KIRIHIKO=斬島切彦。
バレバレですよ、そんなの。
斬島の名前を『ざんとう』って音読みさせるあたり、斬島の姓は捨てられても切彦の継名は捨てられないってことですか?
最近の中学生でも、もう少し捻ったアナグラムにすると思いますケド」
「てめえ!」
ひろ子はナイフを抜き放つ。
同時に口調も変わった。
周囲のライトを受け、ナイフが七色に煌く中、真白は全く動じた様子は見せない。
むしろ軽く首を捻りながら言う。
「要は切彦のなりそこないってことでしょう?」
ひろ子は跳んだ。
それは彼女にとっての屈辱。
挫折と侮蔑の記憶。
ゆえの禁忌。
それを平然と口にする、目前のこの女は、殺す。
切り刻んで殺す。
切り裂いて殺す。
切り抉って殺す。
切り嬲って殺す。
殺す殺す殺すうッ!
斬島は全ての剣士の敵。
そう忌まわれるのは、斬島一族の特性は技術を超越した刃物の使用法にあることに由来する。
各種剣派の奥義とされる斬鉄。
文字通り鉄すら両断する剣術を、斬島一族はただの包丁でやってのける。
そこに技術や習熟性は存在しない。
先天的に刃物の扱いに特化した能力は、血の滲むような剣士の鍛錬をあざ笑うが如く。
同じ刃で打ち合えば刃そのものを切り裂き、年端もいかない子供が苦もなく熟練の剣士を打ち倒す。
ゆえの斬島。
全剣士にとって存在すら許容できない魔性の一族。
その一族に連なる女が夜を舞う。
右手に握られたナイフで、当然のように斬鉄すら可能。
目標は、目前の女子高生。
えらくスタイルがいいことが更にひろ子の怒りを誘ったが、大河に水が一滴増えた程度。
激情のままの攻撃に見えて、斬島の能力は的確に作用している。
相手は弟を抱えたままの格好でろくにかわすことは出来まい。
むしろ庇うだろう。
振り向いたところを鎖骨を切断し、胸部中央、肋間神経を刺激しつつ身体を斜めに斬り下げる。
もちろん致命傷にはならないよう調整。が、激痛で戦闘不能に陥るのは間違いない。
ただ斬るだけではなく、どのように人体を解体するか。
斬島の技術との歪つな嗜好の融合は、殺すことなくいかに相手を斬り刻めるかという能力へと昇華。
その過程で、人体の急所は言うに及ばず、苦痛を与える箇所の存在にも習熟。
ひろ子の今までの仕事と実験の成果といえる。
―――斬った!
確信を持って腕は振りぬかれた。
しかし。
キン! と半瞬遅れの澄んだ音。
何の音? と見上げたひろ子の目前で、ライトの光を反射しながらくるくると回転する刃の先。
そんな馬鹿な。
斬ったのに、斬れてない!?
折れた刃を見れば、それは明白。
しかし斬鉄すら可能な刃が折れるとは一体どういう!?
斬り付けたはずの対象は、静かにそこに佇んでいた。
制服が首筋から切り裂かれてはいたが、出血も何も認められない。
覗く柔肌に、ひろ子は違和感を覚えた。
多くの人体を斬り裂いてきたがゆえの、常人ならざる違和感。
そして唐突に理解する。
斬鉄すら可能な刃を弾き返すそれは、鉄より硬いのだということを。
我知らず戦慄するひろ子に、真白は静かに告げていた。
「星噛製陸戦壱式百四号試作型《真田丸》。なりそこないに斬ることが出来るかしら―――?」