Episode 2-1
Episode 2 シュガーローズ・コーヒー
◇
「だから探し物をちょこっとやってもらうだけなんだ。あんた魔術使いだろ? なら簡単にぱぱっと出来んだろうが!」
「ですから、ウドと一口に言いましてもその人によって使用できる能力が異なるんです。私の魔術は砂を操る自然魔術ですので探し物を簡単に出来るわけではありませんし、仮に使えたとしても魔術に頼りすぎると魔禁法に抵触する可能性も……」
「そんなの俺が知ったことじゃねえっての! だったら『魔術探偵所』なんて紛らわしい名前つけてんじゃねえ! 魔術使い如きが客引きのためにご大層な名前にしやがって!」
「お言葉ですが、私がわざわざこの名前にしてるのは客引きのためだけではありません。ウドに対する偏見のために困っている同胞が少しでも気軽に訪問出来れば、という私の願いが強くあるんです。ウドのことをどうこういう前に、少しは私達に対して、それが無理でも魔術と魔禁法について理解していただければと思わずにはいられませんね」
ファイアフライ魔術探偵所の事務所内。1組の男女が激しく言い争っていた。片方はサングラスをかけて金髪の、見るからにガラの悪そうな男。もう片方は赤縁のメタルフレームから冷たい視線を怯むことなく男へと向けている事務所の女所長、
「何が魔術使いに対する理解だ! 異端の化け物共が!」
「それは少々聞き捨てなりません。その物言いではそちらはウドを……私を信頼に足る人物だとは認識して下さらないようですね?」
「当然だろうが!」
「でしたらお引き取りください。もはや私が依頼を受ける道理も義理もありません。もっとも、化け物と蔑んだ相手に金を払ってまで力を借りるほどのちっぽけな自尊心しかないのであれば、私も同情して手伝ってあげないこともありませんが」
「この……!」
「……失礼、言葉が過ぎました。ちっぽけな自尊心ではなく、受け入れてくださるのですから寛大な心ですね。代わりに、化け物と言ったことを既に忘れるほどの貧弱なおつむが追加されることになりますけど」
元弁魔士ということもあり、舌戦はお手の物だ。いいように言われ続けた男は怒りの表情も露わに、ビルの壁へと拳を叩き付けた。
「怒るお気持ちはわからないでもないです。が、破壊したら器物損壊で提携先の法律事務所に相談することになりますので、お控え願えますか?」
「うるせえ! 2度来るかこんなところ!」
「そうしてください。その方が私もそちらもよろしいでしょうから」
「くたばりやがれ、クソアマ! 魔術使い風情の分際で!」
捨て台詞を残し、乱暴にドアを閉めて男は出て行った。ため息を大きくこぼしてパソコンデスクに腰を寄りかからせ、「ニャニャイー! 煙草とライター!」と途中から奥の居住スペースに避難していた使い魔へと声を投げかける。ドアノブ式のドアを、台座を使うことで高さを補ってであろうか器用に開け、穂樽の指示通り煙草の箱とライターを担いで猫の使い魔は姿を現した。
「……やっと帰ったニャ?」
「ええそうよ。まったくてめえがくたばりやがれってのよ。うちはなんでも出来るわけじゃないっての。裏で暗殺稼業をしてる女子高生とか、宇宙人をぶちのめす何でも屋辺りと勘違いしてんじゃないの?」
使い魔から白地に緑のラインの入った煙草の箱とライターを取り上げる。そのまま本来なら吸うのを控える事務所であるにも関わらず、彼女は1本咥えて火を灯した。
「穂樽様、事務所じゃ控えるんじゃニャいのかニャ?」
「ニャニャイー、塩をまく、って知ってる?」
「はいはい、その代わりというわけかニャ」
「そうよ。煙でこの部屋を清めておくの」
過去にも何度かあったもっともな理由をつけ、穂樽は深く煙を吐き出した。が、それでも気が収まらず思わず空いていた方の拳をパソコンデスクへと叩き付けた。思わずニャニャイーがビクッと体を震わせる。
「……人が
「ほ、穂樽様、言葉遣いが悪いニャ」
「私が意外と頭に血上らせやすいの知ってるでしょ? それでも出来るだけ理性的に言いくるめようと努力したんだから、ちょっとは言いたいように言わせなさいよ。……あの手の輩はいつになっても腹立つわ、ほんと」
憎々しげに吐き捨て、次いで煙も吐き出す。
「……でも穂樽様の言い様も火に油注いでた気がするニャ」
「何か言った?」
鋭い視線を受け、このままだと自分にも矛先が向きかねない、とニャニャイーは知らん振りを決め込む。それに対して穂樽も言及せず、一気に煙草を燃やして深く深く煙を吐き出すだけだった。
そもそも、事の発端は先ほど帰っていったサングラスの男が「探し物をしてほしい」と訪ねてきたことから始まる。あまり態度がよろしくないのは見た瞬間に察せた。さらに穂樽を見て「とっとと所長呼んでくれ、受付の姉ちゃん」と言った時点で、彼女は既に僅かに眉を引きつらせていた。
自分がここで働く唯一の調査員で所長であることを告げると、彼は訝しむ視線を穂樽へと投げかけていた。いや、厳密にはサングラスに阻まれて視線は見えていないために穂樽の想像でしかないのだが。
彼女が席に案内しようとしても時間がかかるものじゃないだろうからとそれに応じず、「探し物を魔術でちょっと見つけてほしいだけ」「魔術は万能ではない」という双方のやりとりが始まった。そこからエスカレートして、最終的にさっきのような口論となってしまっていたのだった。
「……ウドの力になりたいからってこの名前にしてるとはいえ、ああいう奴が来るとしんどいわね、ほんと」
「お気持ちは察するニャ……。でも煙草臭いニャ」
「ウドへの偏見が強すぎるのは事実よね。確かに私達は魔術という普通の人にはない力がある。それは使えない人から見れば脅威でしかないかもしれないし、羨望の対象なのかもしれない。それを魔禁法によって制限する。それもわかるわ。
だけど、その締め付けがかなり強いわけで、私達は罰則を受けたくないなら基本的に魔術は使わないようにしている……。そんなウドがほとんどのはずなのにね」
ニャニャイーの抗議は当然の如く無視された。穂樽は普段はほとんど使わない、来客用に用意してある事務所の綺麗な灰皿に灰を落としつつ、ニャニャイーに聞かせるでもなく独り言を続ける。
「例えば車でいうなら、道路交通法という法律があるわけで、スピード違反や信号無視をしてそれを破れば捕まるわけじゃない? 魔術も一緒。社会正義に反する形で使えば基本的に同じような具合で罰金か、あるいはそれ以上の罰則がある。でも車は乗っていても文句は言われない。
一方私達ウドは魔術を使わなければ普通の人間と変わらないはずなのに、それと知れると存在するだけで冷ややかな目で見られることすらある。こっちは望まずこの力を持っている人すらいるっていうのに、よ。……まあ便利過ぎる文明の利器と比べるのもちょっと間違ってたかもしれないけど」
でもこうでも文句垂れないとやってられないわよ、と付け加え、一気に残りの葉の部分を燃やした。煙草を揉み消して穂樽は最後の煙を吐き切った。
ようやく少し落ち着きを取り戻した、と感じたところで時計を見る。時刻は11時を少し回ったところ。丁度いい時間帯だ。
「下でお昼食べてくる。気が収まらないから
「わかったニャン。私はあのやかましいのが帰ったこの静寂を楽しみつつのんびりお昼寝してるのニャ」
携帯と財布、あと一応煙草とライターを確認し、上着を羽織って穂樽は事務所を出る。鍵をかけ、看板をクローズに切り替えてから階段を降りていった。
1階の喫茶店、シュガーローズはまだ昼時に少し早いこともあって客はいなかった。これ幸いと穂樽は扉を開け、店内へと足を進める。
「おや、穂樽ちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは。お昼食べに来ました」
「はい、ありがとね。日替わりでいい?」
シュガーローズのマスターである浅賀は一見強面なその表情に笑顔を浮かべ、穂樽に尋ねる。耳に優しく響く声の問いに頷いて了承の意図を示しつつ、彼女は指定席である1番奥の席へと足を進め、腰を下ろした。
「……さっきのガラの悪そうなサングラスの人、穂樽ちゃんのとこに行った人?」
水を差し出しつつ、浅賀は尋ねてきた。さすがはビルのオーナー、その辺り抜け目ないのはさすがと感心する。
「そうなんですよ。まいっちゃいました。『魔術使いなら探し物ぐらい簡単に出来るだろう』とかって。こっちの話を聞く耳全く持ってくれなくて」
「とか何とか言って、穂樽ちゃんも穂樽ちゃんでヒートアップして煽っちゃったんでしょ?」
それは、まあと、穂樽は苦笑を浮かべつつ曖昧に返事を返す。
「でも最初に『受付の姉ちゃん』って言われてさっき言った話になったら、第一印象からして最悪ですよ」
「気持ちはわかるけどね。まあしょうがないんじゃないかな。結局僕達ウドのことは、普通の人にはなかなか理解してもらえないし、どうしても偏見の目は強いからね」
それは無論わかっている。が、どうしてもやりきれないのは事実だ。穂樽は比較的客観的に物事を見ることが出来る、とよく言われる。それでもやはり亀の甲より年の功。より人生経験の豊富な浅賀ほど達観的にはなれないと思っていた。
そんな感じであったために机の頬杖をつき、無意識の内にムスッとした表情を浮かべていた。が、不意にそれを見ていた浅賀が吹き出したように笑いをこぼす。
「……どうしたんですか? そんなに私の顔変でした?」
「いや、そうじゃないんだけど。……あ、ごめん。それもあるな」
「どっちなんですか」
追求されて「ごめんごめん」と浅賀は重ねて謝罪の言葉を述べてから続けた。
「確かに随分と不機嫌そうで、失礼ながら顔が面白いとも思ったけどね。でも今笑ったのは、穂樽ちゃんがこの上に越してきて間もない頃。確かうちに初めて来たときも、似たような感じだったなって思い出したからなんだ」
言われて、ずっと不貞腐れた様子だった穂樽は、意図せず素の表情に戻っていた。記憶を呼び起こそうとするが、どうにもうまく思い出せない。
「……そうでしたっけ?」
「そうだよ。まだ今みたいに眼鏡もかけてなくて、煙草も吸ってなかった頃。初めて来たと思った依頼人が、難癖をつけてくるだけの人だから追い返した後、とかだったと思うけど」
そこまで言われてようやく穂樽も思い出した。確かに今浅賀に言われたとおり、ここに越して来て間もない頃。今のような眼鏡の代わりにコンタクトをつけ、煙草にも縁の無い時期の話だった。当人ですら忘れていたのによく他人の浅賀が覚えていた、と穂樽は感心する。
「思い出しました。……でもよく覚えてましたね」
「そりゃあね。このビルのオーナーだし、ある意味穂樽ちゃんはお隣さん、なわけだから」
言われてつくづくこの人には敵わないなと穂樽は苦笑を浮かべた。そしてさらに記憶を探り、より大切なことを思い出した。
「……ああ、そうか」
「ん? 何が?」
コーヒーを煎れる手を止めることなく浅賀は尋ねる。
「いえ、私と浅賀さんが今みたいに親密な仲になれたのって、その時の
「言われてみれば。そうかもしれないね。それがなくても仲良くはなれただろうけど、穂樽ちゃんって思ってたより話しやすい子なんだな、って感じたのは事実かな」
「なんですかそれ。私そんなに他人に壁作ってます?」
言いつつも、きつめな性格なのは自覚している。それにビジネスとして接客する以上、可能な限りは一定の距離を保つようにしている。その方が、第三者として客観的に判断できる、という彼女のなりの考えがあるからだ。
だが一方で、そう思うようにしているにもかかわらず、気づくとやけに肩入れしていることが多いのもまた事実な気がしていた。世話好きな性分では無いはずなのに、クライアントの面倒を見すぎるというか。結果、「割に合わない」と思うこともしばしば、という事態を引き起こしているのも頭のどこかで理解はしていた。
それはさておき、浅賀とこうして気軽に話せるようになったのは、さっき彼が言った「あの一件」がきっかけだろう。喫茶店に広がるコーヒーの香りで鼻腔を喜ばせつつ、穂樽はふと過去の出来事へと記憶を遡っていた。
◇
「あの一件」が起こったのは、穂樽がかつての職場であるバタフライ法律事務所を抜けた直後。元の住居からの引越しが終わり、いざ探偵として事務所を立ち上げ、心機一転変化した環境で頑張ろうと意気込んでいた時期の事だった。「急ぎじゃないけど、しばらく暇しないように」と事務所立ち上げ祝い代わりに適当に回してもらったバタ法からの外部委託の仕事をそれなりに済ませつつ、未だ訪問者が無いことを寂しく思っていた矢先であった。
扉が開いて現れたのは中年の女性だった。ファイアフライ魔術探偵所を立ち上げて初の訪問客。沸き立つ心を抑え切れず応対した穂樽だったが、傍らにいたニャニャイーに全く反応を示さなかったことは若干不安にも思っていた。使い魔はウドにしか見えない。その使い魔に反応を示さないということは、ウドではない可能性が高い。
彼女のその不安は的中した。女性の相談内容は旦那の浮気調査。だが「魔術で今すぐに解決しろ」と無茶な要求をしてきたのだ。魔術は万能ではないこと、下手に使用すれば魔禁法違反となる可能性があること、そもそも今回の依頼では魔術使用の必要性はなく通常の調査で済むことを穂樽は丁寧に説明した。すると「だったらわざわざ魔術使い風情に頼まない」と、その女性は一方的に出て行ってしまったのだった。
ウドに対するこの手の冷たい反応は慣れているつもりであったが、あまりにも直接的、かつ環境を変えてすぐのことだったために、穂樽は酷くショックを受けた。どうしようかと悩んだところで、ふと1階の喫茶店、そのマスターがこのビルのオーナーであり、同時にウドであることを思い出した。
彼と面識のあったため仲介役を買って出た、前の職場のボスであるアゲハと一緒に挨拶は済ませてある。そのときは見た目が強面だったために一瞬怯んだが、話してみて悪い人ではないと感じていた。だったら、相談に乗ってもらうのもいいかもしれない。それが無理でも、同じウド同士で話せれば少し気も晴れるかもしれない。そんな思いで、初めて穂樽はシュガーローズへと足を踏み入れたのだった。
「いらっしゃいませ。……えっと確か、上に越してきた探偵さん、だったかな」
「あ、はい。先日アゲハさんと一緒にご挨拶に伺わせていただきました、穂樽夏菜と申します。これからよろしくお願いします」
「浅賀です。こちらこそよろしくね。それで、今日はどういったご用件?」
「いえ、普通にコーヒーをいただこうかと思いまして」
「ああ、お客さんだったのか。これは失礼しました。……では改めて、いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
マスターにそう言われ、穂樽は店内を見渡す。カウンター8席、テーブル2席の小さな喫茶店。オープン直後の10時過ぎということでまだ客はいない。どこに座ろうか少し迷ったが、後から誰かが来てもいいよう、彼女は1番奥の席へと腰を下ろした。
「ご注文はどうします?」
「じゃあ……。オススメのブレンドをお願いします」
「かしこまりました。……探偵さん、うちのコーヒー飲むの初めてですよね?」
そう問われ、穂樽は僅かに首を傾げながら頷いた。
「僕のブレンドは苦いから覚悟しておいてね。砂糖を入れれば飲みやすくなるから、遠慮なく入れてくれていいよ」
「砂糖入れるの前提で、敢えて苦いの煎れてるんですか?」
「そうなんだよ。僕なりのこだわりでね」
変わった人だな、とその時の彼女は思った。しかしこだわりは人それぞれにあることだし、特に口は出さなくてもいいかとも思うのだった。
ここはコーヒーを本格的に煎れるお店らしい。故に少々時間がかかりそうだった。他に客もいないし、と穂樽はマスターにさっきの話でもして時間を潰そうと口を開いた。
「あの、マスターさんもウドなんですよね?」
「そうだよ。探偵さんみたいに全面に押し出してるわけじゃないから、気づかない人も多いみたいだし。実のところ僕自身あまりウドであることを喜ばしいと思ってもいないけど」
「あはは……」
わざわざ「魔術探偵所」という名前にしているのは、自分がウドですと告白してるようなものだ。そこは痛いところを突かれたな、と表情に苦いものが浮かぶ。
「なんでわざわざそんな名前に? それに以前はアゲハさんのところの弁魔士さんだったって聞いたけど。探偵になった理由も、よかったら聞かせてもらえないかな?」
コーヒーの準備をしつつ尋ねられ、穂樽は少し考えてから答える。
「ウドはどうしても肩身の狭い思いをすることが多いと思います。今まではその力になろうと弁魔士をしていた、という部分もあったのですが……。案件が魔法廷関連に限られてしまう。となると、受け入れる間口としては狭いと思うんです。でも探偵ならもっと広く事態に関われるのではないかと思ったから、あえて私がウドであることを明かして同胞が来やすいように『魔術』という文言を入れた、というのが理由です。
後半については……今さっき言ったことに加えて、私自身が個人プレー向きな性格なのと、今までと変わった切り口から、ウドに対する見方をしてみたいと思ったから、ですかね」
穂樽の説明を相槌を打ちつつ聞いていたマスターだが、聞き終えてからしばらくすると「……若いね」とだけ呟いた。思わず穂樽はそれに対してムッとした表情を浮かべる。
「甘ちゃんな考え方だ、と?」
「申し訳ないけど、少しはそう思うかな。弁魔士という比較的安定しているウド特有の職業を蹴って探偵というのは、かなりの冒険だと思う。
でも同時に、その決断は若いから出来るんだろうなってところもあるかな。それに、『今までと変わった切り口』というのは、僕好みでもある。だから、基本的にその考え方は応援するよ」
褒められてるはずがどうにもそう思えず、穂樽は頬杖をついた。だが言われてみれば、確かに自分の見通しが甘いのかもしれない。さっきのような客が来るだろうことは予想できたはずなのに、こうして腹を立てているのはその証拠とも言えるだろう。
「……やっぱ甘かったのかな」
「あれ、そんなに気にしちゃった? ごめんよ、悪気はなかったんだけど。それとも、何か嫌なことでもあったかい? よければ話を聞くよ」
まるで心を見透かされたかのようだった。だが心安らぐ彼の声色もあってか、今度は不思議と話を聞いてもらいたいという思いの方が先に来ていた。変わらず頬杖をついて少し不機嫌そうな表情のまま、さっきあったことをコーヒーの準備をする浅賀へと、彼女は話し始める。
「……なるほど、そんなことがあったわけだ」
「私も頭ではわかってはいたつもりでいました。過去に何度もそういう経験はありましたし、前の職場……バタ法で見かけたこともあったので。でも新天地でいざ、という矢先にあれは……。さすがにちょっときついものを感じてしまったんです」
「まあ……。気持ちは察するよ」
返ってきた言葉はそれだけだった。優しい言葉など期待していたつもりはなかったと思っていたが、今現在少し落胆している自分に気づき、心のどこかではやはり同情を求めていたのかもしれないと気づく。それに対して、先ほど「若い」と言われたことを思い出し、その通り自分は甘いんだろうなと彼女は思っていた。
「はい、お待たせしました。ブレンドです」
考えがネガティブになり表情が沈んでいたところで、不意に目の前にコーヒーが差し出された。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、少しマイナス思考だった考えが払拭される。
「よかったらまず一口、そのまま飲んでもらえるかな? それから好きなだけ砂糖で調節してもらっていいから」
妙なことを言うな、と穂樽はマスターを訝しげに見つめた。さっきは「遠慮なく入れていい」と言ったはずなのに。しかし苦いと自信を持って言うほどのコーヒーがどの程度か気になったのも事実だった。カップをそのまま口に運んで一口液体を流し込む。
「……ッ!」
吹き出しまではしなかったが、慌ててカップを置く。机の上の紙ナプキンを取って口元を抑え、穂樽はむせて咳き込んだ。
苦い。誇張も何もなく苦い。伊達にマスター自身がそういうだけのことはあると実感していた。
「どう? 苦いでしょ?」
「……苦いです」
「ははっ。ごめんね。じゃあ騙されたと思ってティースプーン山盛り2杯ぐらい砂糖入れて飲み直してもらえる? 今度は飲めると思うから」
半信半疑で穂樽は言われたとおりに薔薇の模様の描かれたシュガーポットから砂糖を入れ、再び喉へ流し込む。が、今度は先ほどの苦味は襲ってこなかった。代わりにマイルドになった味わいの中に、深みすら感じる。反射的に「おいしい……」という言葉が口をついて出ていた。
「それはよかった。ありがとう」
自慢のコーヒーを褒められて嬉しく思ったのだろう。彼はそう礼を述べる。だが穂樽は手にあるカップの中の液体をしげしげと見つめていた。
「不思議です。さっきはむせるほどの苦さだったのに……」
「同じコーヒーなのに、少し手が加わるだけで全く別なものになったように思える。……今の探偵さんは、砂糖を入れる前のコーヒーなんじゃないかな、って僕は思うんだ」
「砂糖を入れる前……?」
見た目はやはり少々怖そうではあったが、浅賀はそれを和らげるように僅かに笑顔を浮かべて続ける。
「僕の入れるコーヒーは苦い。最初は飲めたものじゃない、っていう人もいると思う。でも砂糖を入れるだけでそれは変わる。……人も同じじゃないかな。何か少しのきっかけ、あるいは経験で変わっていく。時につらいこともあるかもしれないけど、経験だと思って受け入れることで、少しずつ人は成長していくんじゃないかと思うんだ」
穂樽は静かにその話を聞いていた。視線を今の例え話に用いられた茶褐色の液体へと一度落とし、再び口へと運ぶ。やはりおいしい。砂糖を山盛り2杯、わずかそれだけでこのコーヒーはここまで変わった。
自分もこのコーヒーのように、今日の苦い出来事を糧に成長しろ、と諭されているように感じていた。人によっては厳しいと感じるかもしれないが、今の彼女にはそれだけで心が少し落ち着いた気がしたのも事実だった。
「……なんて、うまいこと言ったつもりでいるけど、実際のところはどうやって僕の苦いコーヒーを正当化するかを考えただけの話だから。あまり間に受けないでね」
お礼を言おうと思った矢先、そう付け加えられては穂樽も苦笑いを浮かべるしかない。それでも彼なりの照れ隠しではないかと、かつて弁魔士として色々な人を見てきて、多少は腹の内が読める彼女は思うのだった。
ありがたいアドバイスだと思う。でも当人はそのつもりはないと言った。なら、お礼を言う代わりにこの美味なコーヒーを煎れてくれたことにに賛辞を贈るべきだろうと、彼女はじっくり味わいつつ、コーヒーを飲み干した。
「ご馳走様でした。おいしかったです。少し、気分もすっきりしました」
「そう。よかった。お代わりは?」
いえ、と遠慮しつつ穂樽は立ち上がる。いい気分転換になったと思う。
「じゃあ、是非またいらしてね」
「お言葉に甘えて、そうさせてもらいますね。コーヒーもですけど、マスターさんもなかなか良い方ですし」
「ははっ! お世辞でも嬉しいよ。ありがとう」
彼女としては世辞のつもりはなかったのだが、念押しのように言うのも野暮だろうと、黙っておくことにした。そしてコーヒー代を払って店を出ようとしたその時――。
突然、建物が揺れるほどの爆音が響き渡った。喫茶店の窓ガラスが割れこそしなかったものの振動するほどの衝撃で、陶器類が音を立てて揺れたのがわかった。
「何……?」
「地震……じゃないよね。事故か何かかな……。すごい音だったけど」
穂樽が入り口のドアを開け、外の音を耳へと入れる。ここは大通りから少し離れてはいるが、それでもあの轟音と衝撃だ、事故だとしたらかなりの大ごとだろう。案の定、というべきか、「おい事故だってよ!」という人々の叫び声が聞こえてくる。
「何があったんですか?」
大通り側からビルの前の道路へと歩いてきた男性に穂樽は尋ねる。
「私も背後で起こったのでよくわかりませんが……。大型トラックが横転して歩道橋に突っ込んだとかなんとか……」
「怪我人は?」
聞いたのは穂樽ではなく、カウンターから身を乗り出すようにしていたマスターの方だった。
「さあ……。でも凄い音しましたからね。トラックがぶつかったんだとすると、誰かを巻き込んでるか、あるいは運転手が危ない可能性がありますけど……」
見に行こうかと思ったが、野次馬になるかもしれないとその場で一瞬迷う。しかし、背後から聞こえた声によって、自然と彼女の選択は決まっていた。
「ごめんね、探偵さん。一旦お店を閉めるから。申し訳ないけど出てもらっていいかな」
言うなり、外に出た穂樽に続いて彼も店を出て、鍵を締めて看板をクローズへと変える。
「え、あのマスターさん、どこへ?」
「事故現場。救急車が来るにしても時間がかかる。もし大怪我をしている人がいるなら、事前対策で助かる命もあるかもしれない」
迷いなくそう言い切って走り出した彼に、穂樽は不思議と興味が沸いた。事務所に戻るという選択肢を捨て、後に続く。
やはり自分の見立て通り、一見怖そうではある者の優しい人に違いない。改めてそんなことを思いつつ、彼女は彼の背中を追った。