◇
穂樽が大通りの交差点付近に着いたときには、もう遠巻きに野次馬が集まりつつあった。その人々の視線の先、少し前に耳にした通りトラックが横転して歩道へと乗り上げ、歩道橋の階段入り口部分を完全に潰している。
すぐ傍にはそのトラックに激突したか、あるいはされたのか。乗用車が破損した状態で止まっていた。ドライバーは国産車に乗っていたことを幸運に思うべきであろう。助手席は左半分ほど潰れていたものの、幸い運転席は大した被害がない様子だった。事実、乗用車の運転手らしき人物は事故を起こした愛車から外に出て運転席ドア付近にもたれかかっていた。頭から流血していたがさほどでもないらしく、ハンカチで頭を抑えている。
問題はそれよりもトラック側だ、と見た瞬間に穂樽は直感した。パッと見、怪我をしていると見えるのはその乗用車のドライバーのみ。歩行者が巻き込まれていないらしいのは幸いだろう。だが、より大きな事故になっているトラックの運転手が無傷とは考えにくく、さらにこの場に見当たらない。だとするとまだ車内に取り残されたままの可能性が高いと考えられる。
他に怪我人はいないらしいが、なにぶん野次馬が集まりつつあり状況把握はしにくくあった。どうしようかと頭を働かせつつ、穂樽は先に行ったはずの喫茶店のマスターの姿を探す。
彼はトラックの後続車と思われる、ハザードランプを点灯させて停車したままの運転手となにやら話し込んでいた。
「マスターさん」
かけられた穂樽の声に一瞬だけ彼女を見つめ、再び彼は視線を元へと戻す。「一応ハザードと発炎筒で後続に注意促しておいて」と車内の青年に指示したあとで、今度はちゃんと向き直って事故現場へと足を進めつつ話し始めた。
「彼は後ろを走行していたから一部始終を目撃してたらしい。幸い歩行者は巻き込まれてないみたいだし、交通量が少なかったからあの2台以外被害もない。ただトラックのドライバーがまだ中にいるらしいって」
「乗用車の方は見かけました。車の外に出て、頭から多少出血してましたが……」
「僕もチラッと見たけど、多分大したことはないよ。救急車が来ればいくらでも対処してくれる。それより自力じゃ動けないトラックの人の方が心配だ」
どうするんですか、と穂樽は尋ねる。それに対して返って来たのは即答だった。
「勿論助ける。この時間の応急処置が命を左右することがある。僕の場合は、それがより大きな意味でね」
意味深げなその発言に、もしかしたらかつては医者だったのだろうかと穂樽はふと思った。だとするなら彼の言うとおり、応急処置の重みが変わってくるだろう。
そう思いつつ、「どいてください!」と野次馬をかきわける浅賀に穂樽も続く。既に運転手の救助を行おうとしているのだろうか数名の男性が横転したトラックの周りに集まっている様子が窺えた。運転手の状況を確認するためにトラックへと近づく。
「運転手さんは!?」
「まずいな、こりゃ。さっきから呼びかけてるのに返事がない。引っ張り出そうにも見ての通り運転席側が下になっちまって助手席側もこの有様だ。強引に引っ張り出すのも無理だろう」
たまたま付近で工事でもしていた人だろうか。作業着姿の男性が横転したトラックのひしゃげた助手席側のドア付近から中を覗き込んでそう答えた。浅賀も助手席側へよじ登って中を覗き、「うわ……」と思わず声を上げる。
「これは命に関わる可能性が高い。早く助け出して容態を確認しないと……」
「無茶だぜ! 重機でも持ってこないと車体が起こせねえよ。大型ジャッキ辺りありゃあ運転席側の割れた窓とかから引きずり出せるかもしれねえけど、うちの現場じゃ今そこまでのものは使ってねえし……」
「フロントガラスを割ってというのは?」
浅賀が再び尋ねる。だが、彼は首を横に振った。
「ダメだ、見てみろよ。どのみち歩道橋部分が邪魔してる」
「ジャッキ……運転席側から……」
そんな2人のやりとりを聞きつつ、独り言のようにそう呟き、穂樽はトラックの前方を横切る。そこで歩道橋で見づらいながらもひび割れたフロントガラスの中に血まみれの男性を確認して僅かに眉をしかめてから、運転席側のドアの様子を確認した。
「無理だよ姉ちゃん、今の状態じゃ隙間がねえ。そっちからは諦めるしかない」
確かにその男の言うとおりだ。だが逆に言えば――。
「隙間があれば、引きずり出せるって事ですよね?」
「そりゃさっき言ったとおりそうだけど、現状じゃ……」
「皆さん降りてこちら側に来てください。ジャッキではないですが、私がどうにかして車体を押し上げます。その間に運転手さんを割れた窓辺りから引きずり出してください」
「どうにかして、って……」
作業着の男がそう言ったところで浅賀が何かに思い当たったように「……そういうことか」とこぼしたのがわかった。
「探偵さん、使える魔術は?」
「砂塵魔術です。本当は接触魔術か、このトラックごと素材に変えて重量減少と同時に生成できる
「え……。姉ちゃん魔術使いか!?」
その言葉には、驚きの中に僅かに未知の力に対する怖れのようなものも含まれていた、と穂樽は感じていた。だが特に何を返すでもなく、無言で頷くだけで答えとする。
精神を集中して魔力を込め、穂樽は両掌を額の前にかざす。気合の声と共にそれを振り下ろすと同時、アスファルトに覆われた下の層の大地が表層を突き破って隆起し、僅かにトラックを押し上げた。
「くっ……!」
予想以上の荷重に、思わず穂樽の顔が歪む。しかし負けじとさらに魔力を動員、押し上げる砂塵の量を増やしていく。それにつられ、少しずつ車体が押し上げられていく。
「すげえ! よし、今のうちに!」
「出来れば早くお願いします……! 思ったより……きつい……!」
浅賀を含め、手伝ってくれている数名の男達が割れていた窓から運転手の上半身を引きずり出していく。しかし中々下半身が抜けない。足が挟まっているらしい。
「姉ちゃんもうちょい踏ん張ってくれ! 足の位置調節する! そしたら多少強引でも引き抜くぞ! ……よし引っ張ってくれ!」
男達がぐったりとする運転手を抱えて懸命に引っ張る。少しずつ体が外に出てきるが、まだ完全ではない。
「まだ……ですか……!?」
食いしばった歯に力がかかり、冷や汗が流れ落ちる。穂樽自身、段々と限界に近づいていることは自覚していた。しかしここでやめてしまっては、まだ引っ張り出せていない運転手はおろか、手伝ってくれている人達まで危険にさらすことになってしまう。
「あと少し……! せーの!」
そこでついに、運転手の体が車外へと完全に出た。男達は数歩たたらを踏みつつも、どうにか運転手の体を抱えたままトラックから離れる。
一瞬間を空けて、全員が離れたことを確認すると同時に穂樽が脱力した。瞬間、隙間を作っていた砂塵が力を失い、トラックの荷重によって崩落する。
「すげえな姉ちゃん!」
「いえ……。それより運転手さんは……?」
賞賛の声をありがたく受け取りつつも半分聞き流し、穂樽は道路に仰向けに寝かされた運転手へと近づく。その姿を直視して、思わず目をそらしかけた。
頭部は血まみれで、右腕の曲がり方は明らかに折れており、さらにフロントガラスの影響だろうか、あちこちに裂傷が見られ、何より呼びかけに応じない。
浅賀は運転手の脈を確認をしていた。その表情が難しいものになっているのを見て、穂樽は状況的にはよくないと悟る。
「どうなんですか?」
「脈は微弱ながらもある。心肺も停止状態ではない。出血量も少なくはないけど許容範囲内だろう。……でも頭部を強打しての意識喪失、これが問題だ。衝撃から推測するにかなり揺さぶられたはず……。なら脳挫傷か脳内出血か。その辺りなら命の影響、さらに後遺症にも関わる。治療までの時間がかかるほど事態が悪化する、危険な状態だろう」
「おっさん……医者か?」
救出を手伝った男が問う。穂樽もそうかもしれないと思っていたのだが、彼は首を横に振ってそれを否定した。
「残念ながら、答えはノーだよ。……同時に僕は、医者から見ればもっとも忌むべき存在だから」
言うなり、浅賀は右手をかざし、横たわる運転手の頭へと近づける。
「な、何をする気だ?」
「応急処置さ」
その答えに「はぁ!?」と言う声が上がる。
「あんたさっき脳がやばいって言ったんだろ? 心臓マッサージやら止血ならまだしも、頭の中じゃ揺らさないようにする、ぐらいでどうしようもねえだろ?」
「確かに。……普通ならね」
「……そうか。マスターさんの使用魔術は……!」
コクリ、と浅賀は頷いた。かざした右手が輝く。
「治療魔術……。医者泣かせの魔術さ」
「そ、そんな魔術があるのかよ!? じゃあ医者いらねえじゃねえか!」
「そうでもない。あくまでこの魔術の効果は、対象の自然治癒力を高める程度。それも、使い手の使用魔力の割に合わないほど、すこぶる効率は悪い。……でも、応急処置になら充分使える。特に、脳へのダメージは心肺停止同様一刻を争う。後に障害を残さないためには、効果的といえる」
説明しつつ、魔術を行使する浅賀の表情は少しつらそうだった。代わりに、心なしか運転手の表情は安らいでいったようにも見える。
「……ここまでだな。年を食うと魔術を使うのがしんどくてしょうがない」
しばらく続いた魔術の行使をやめ、僅かに彼の肩が落ちた。慌てて穂樽が駆け寄ったが、目で心配はないと伝える。
「これで……大丈夫なのか?」
「1番深刻な頭へのダメージはね。あとは気道だけを確保して楽な姿勢にさせておいて、救急隊員の人達に任せちゃっても大丈夫だと思うよ。骨折も素人が下手に手を出さない方がよさそうな折れ方のようだし、外部への出血もさほどではない」
「マスターさん、詳しい様子ですけど……。あくまで元医者、ではないんですよね?」
確認するように穂樽は問う。それに対し、彼は笑顔で答えた。
「そうだよ。ただ使用魔術柄、どの程度の場合に使用すべきか。それを考えて色々調べているうちに詳しくなったってだけさ」
そう言って浅賀は肩をすくめる。疲労があるのだろう、ようやく立ち上がろうとするが、その速度はゆっくりだった。
「おいおっさん!」
と、そこで横から声が聞こえてきた。見れば、乗用車のドライバーが血が止まりつつあるらしい頭をハンカチで抑えつつ、2人の傍へと歩いてきていた。
「見てたぞ、あんた怪我治せる魔術使えるんだろ? だったら、俺の頭の怪我も治してくれよ!」
「……申し訳ないけど、断るよ」
きっぱりと、彼はそう言い切った。
「なんだと!? そのトラックの運ちゃんに使って俺に使わないってどういう了見だ!」
「僕が魔術を使うのは、基本的に非常時のみと決めている。医療関係者から商売を奪う気はないからね。確かにあなたは頭を怪我している。でも、見ればもう出血は止まりかけてるし、ここまで歩いて来て僕に怒鳴るほど元気がある。だったら、大したことはないでしょう」
「この野郎……!」
それに、と口を挟んで浅賀は続く気配のあった男の先の言葉を止めた。
「聞いた話じゃあなたが強引に右折してきて、直進するトラックがそれを避けようと急ハンドルと急ブレーキ。結果、路肩に乗り上げバランスを崩して横転、歩道橋に激突した。そこに遅れて避けそこなったあなたの車がぶつかったらしいとか。どうもそれを聞く限り、原因はあなたじゃないかなって思えてね」
「なっ……! 俺が原因だから、俺には使わないってのか!?」
「そういうわけじゃないよ」
浅賀は一旦そう前置きした。だが一見強面ながらほぼ常に優しい彼の視線が、この時だけは鋭くなった。
「……でもね、自分が原因かもしれない事故で相手が大怪我をしてしまった。その人に対する配慮を全く見せず、そればかりか僕に『あいつばかり』と言ってくるような厚顔な人は、どうしても好きになれそうにない。それに魔術を行使しようという気にもなれないな、っていうだけだよ。僕自身、望んで手に入れたわけでもないこの力を利用されるだけ、ってのは嫌だから、余計にね」
「てめえ……! 魔術使いが偉そうにペラペラと……!」
「横から失礼しますが」
不意にそこで割って入ったのは穂樽だった。
「あなたはこの方の治療魔術を利用しようとしているだけ、ひいては、私達ウドを軽視しているとしか見えません。でしたら、なおさら頼み込むべきではないんじゃないですか? 見下すほどの相手に頭を下げるなんて、無様にしか思えませんけど?」
理路整然と、しかしはっきりと言い切った彼女を浅賀は意外そうに見つめた。一方男は完全に反論出来ないと2人を睨み付け「……魔術使い風情が!」と台詞を残し、去って行った。
「あの手の人ってもっと捻りきかせられないのかしらね? さっきうちに来た人と同じこと言って。三流以下の捨て台詞だわ」
「……探偵さん、言うね。援護ありがとう。あそこまでバシッと言ってくれると、こっちとしてもちょっと気分よかったよ」
思わずクスッと穂樽は笑みを浮かべる。そういえば、ずっと「探偵さん」と呼ばれ、まだ名前で呼ばれてなかったとようやく思い出した。
「穂樽です、名前。なんか探偵さんって言われるのこそばゆいんで。よかったらそう呼んでください、マスターさん」
「ああ、そういえばずっと探偵さんって呼んでたっけ。じゃあ僕もマスターさんじゃなくて浅賀で。よろしく」
改めて自己紹介を終えたところで、ようやくサイレンの音が近づいてきた。救急車と、事故の見聞のためのパトカーらしい。
救急隊員はまず寝かされたトラックの運転手の元へと担架を持って駆け寄った。そこで容態を確認し、少し意外そうに顔を上げる。
「思ったより脈拍等が安定している。どなたか、何か処置をなされましたか?」
救助を手伝った男達が浅賀の方へと視線を送る。それを受け、やれやれと右手を上げて自分がやった、とアピールしつつ浅賀は歩み寄った。
「私です。治療魔術使いのウドです。脈拍、心肺はやや弱くなっていましたが大丈夫そうでしたし、外部への出血もさほどではないと判断しました。が、頭部内部の出血を含めた脳へのダメージが心配でしたので、そこにだけ魔術を行使しました」
瞬間、露骨に隊員の目に嫌悪の色が宿った。だがその視線を再び患者に戻し、そのまま続ける。
「……素人が勝手に、しかも魔術を行使したという事態は許容しがたいな。だが……我々の到着まで放っておけばより状況は悪化、死亡や後遺症の可能性もあっただろう。今述べた判断も妥当と思える。今回は結果的によかったが、感心できないことだということは忘れないように」
最後まで感謝の言葉がないどころか強い口調でそう言い残し、隊員はトラックの男性を救急車へと乗せた。一応乗用車の運転手も一緒に搬送されるらしいが、傷口を見た隊員と一言二言会話を交わしただけらしく、浅賀の見積もりはやはり適切だったのであろう。
「……わかってても、この対応はこたえますね」
「そっか。穂樽ちゃんうちに来る前もだっけ。1日に2回……さっきのも入れると3回か。……残念ながらもう1回も約束されてるけどね」
苦笑を浮かべた浅賀に対し、穂樽も同じ表情だった。その「もう1回」である、事故の見聞のために警察がやって来た。
「トラックの運転手を救出されたそうですが、魔術を使用したと伺いました。使用した方は?」
「私です。治療魔術です。あと、こちらの女性が救助でトラックを押し上げる際に砂塵魔術を」
「なるほど。……まあ大まかに話を聞く限り十条適用で不問になると思いますが、こちらも仕事ですので。一応魔術使用の事実が存在するということで、詳しい話をパトカーの中でお聞かせいただいてもよろしいですかね?」
2人は顔を見合わせる。予想していたとはいえ、やはりこたえると互いに肩をすくめあった。
「そちらの方々はトラック運転手の救出を手伝ってくださった方々ですね? 勇気ある行動に感謝と敬意を表したいと思います」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
敬礼ポーズを取った警官に、作業着の男が食って掛かった。
「感謝とか、それを言うのは大したことしてない俺達よりそこの2人だろ! なのにそれどころか、事情聴取ってなんだよ!」
「それは私達がウドで、魔術を使ったという事実があるからよ」
「お兄さん、その気持ちだけで僕は嬉しいよ。でもね、魔術使い……ウドというのは、残念ながらこういうものなんだ。この力は時に脅威にもなる。だからこそ、それを制限する魔禁法という法が必要であり、僕達は基本的に魔術を使用してはいけないのさ。……とにかくその気持ちと、あと手伝ってくれてありがとうね」
浅賀はそう言って笑みを向け、穂樽と共にパトカーへと案内されていった。
質問は実に事務的だった。さっきの救急隊員のような嫌悪感丸出しの態度や、高圧的な態度を取られるよりは遥かに楽だ、と穂樽は思いつつ受け答える。向こうも仕事だ。その不満をこっちにぶつけられるよりは、淡々とやってくれた方が効率も精神衛生上もいいだろう。
「……お待たせしました。目撃者の証言から穂樽さんはトラックの車体を持ち上げるため、浅賀さんは重体の運転手の応急処置のためにのみ魔術を使用したと証明されました。社会正義のための魔術使用と判断できますので、今回は魔禁法十条で不問ということになります。最後、こちらの書類だけ書いていただければ、あとはお帰りになっていただいて結構ですので」
とはいえ、やはり最後まで感謝の言葉は無しか、と思いつつ、穂樽は手渡された書類に個人情報を記入。最後に用意されたウドか否かの項目の「魔術使い」の部分へはっきりと丸を記した。
2人が解放された頃には、もうほぼ現場は収拾されつつあった。協力者の人々も見当たらず、事故車もレッカーが来て移動を始めている。思ったより時間を取られたと思いつつ、どうせ待っていても事務所に客は来ないだろうしいいかと、穂樽は前向きか後ろ向きかよくわからない思考でそれを誤魔化すことにした。
「穂樽ちゃん、いろいろあって気が滅入ってるでしょ? よかったら一杯コーヒー飲んでいかない? お昼も逃しただろうから、ランチも出すよ」
そんな折にかけられたその言葉は、彼女にとって嬉しかった。二つ返事しそうな勢いで了解する。
「じゃあごちそうになります、マスタ……浅賀さん」
「そうそう。浅賀ね。その呼び方でよろしく。同じビルの、お隣さんみたいなものだから、僕ら」
そう言って互いに笑い合う。そして2人はシュガーローズの中へと入っていった。
◇
「はい、ブレンドお待たせ」
不意に目の前に出されたコーヒーに、かつての出来事を思い出していた穂樽は現実へと引き戻された。眼鏡のレンズを通して見えるその茶褐色の液体は見るからに以前と変わらない。
そういえばあの事故に協力した後、戻ってきてからも席は1番奥だった。それからずっと、気づけばここが彼女の指定席になっていた。
ひとつ、小さく笑いをこぼしてから、穂樽はブラックでそのコーヒーを一口呷った。あの時、初めて飲んだ時からずっと変わらない、予想以上の苦味が口に広がる。
「あれ、ブラック? 穂樽ちゃん徹夜明けだったの?」
穂樽がこの苦過ぎるコーヒーをブラックで飲むのは基本的に徹夜明けのきつけ薬代わり、ということが多い。それ故思わず浅賀はそう尋ねていた。
「いえ。昔の私はどんなものだったのか、改めて確認しようと思いまして」
「うん?」
過去を思い出していた穂樽はいいとして、浅賀は何のことかわからなかったらしい。「昔は私をこのコーヒーに例えたんですよ」と補足してもよかったが、実質半分ぐらいは自分のコーヒーの苦さを正当化するために例えているというのもあるということを彼女はもうよく知っている。だからいちいち言わずにいいかと、普段通りの味わいにするためにシュガーポットを手元に寄せた。
美しい薔薇の模様が描かれた、砂糖の入った陶器。この店名、「シュガーローズ」の由来ともなったそれを見つめつつ、そういえばあの後の2度目のコーヒータイムのときに由来を聞いたんだっけと彼女は思いだした。そしてティースプーンで砂糖を山盛り2杯。味の変わったコーヒーを口に含み、これが今の自分か、とふと思った。
「浅賀さん」
「何?」
「私がここに初めて来た時……。一緒に事故現場に駆けつけて協力した時から、私は変わりましたかね?」
「ああ、その時のこと思い出してたんだ。だからずっと上の空だったのか」
しばらく唸ってから、マスターは女探偵を真正面から見据え、至極真面目な顔で告げた。
「眼鏡になった。似合ってるよ」
「あの……浅賀さん」
「煙草も吸うようになったね。ここでも時々」
「……浅賀さん」
半目気味にジロリと睨み付けられ、困った表情を浮かべつつ浅賀は笑って誤魔化す。
「冗談だって。……でも、変わったかどうかを判断するのは、僕じゃないんじゃないかな。穂樽ちゃん自身が自分で変わったと思うんなら、それは間違いなく変わったんだと思うよ」
穂樽にとって望んでいた答えからは遠かった。無論自分では多少なりとも成長しているつもりではいる。あの時と比べれば依頼も増えてきたし、着実に成功もさせている。代償として、さっき浅賀に言われた通り視力が落ちて眼鏡になり、気分転換代わりか煙草も追加され、結果ガサツになってしまったことは否めない。が、それもまた変わった、とも言えるだろう。
「でもね、変わらない人なんていないよ。そして人は自分の意思と関係なく変わらなくちゃいけない時も来る。……もっとも、これは穂樽ちゃんの持論だったとも思うけど」
言われてみればそんなことを言っていたなと穂樽は思い出した。つまるところ、さっきの質問自体がナンセンスだったのかもしれない。コーヒーを一口流し込み、彼女は僅かに笑みをこぼした。
「……でも浅賀さんのコーヒーは変わりませんね」
「あ、ほんと? それ意外と嬉しいなあ、実はそこそこ苦労してるんだよ。変わらない味を維持するのって大変だからね。……はい、ランチお待たせ。今日はツナサンドとポテトサラダサンドだよ」
差し出されたプレートに、意図せず視線を奪われる。いつ見ても美味しそうなホットサンドだ。
「ポテサラってことは、ミニサラダとサラダがダブるダブサラの日ですね」
「……そのネーミングで呼ぶの、穂樽ちゃんだけだよ?」
呆れ気味の浅賀をさて置き、穂樽はホットサンドを口へと運ぶ。コーヒー同様、これも変わらず美味しい味だ。「お隣さん」と呼んでくれるオーナーでありこの喫茶店のマスターでもある浅賀と仲良くなれてよかったと、穂樽はつくづく思う。
と、昼時ということもあってか、女子2人が来店したようだった。誰も来なかったらここで一服してもう少し浅賀と話してから帰ろうかとも思っていたが、長居して邪魔しては悪いだろう。さっき少し話せたことと昔を思い出したこと、そして何よりここのコーヒーとランチで嫌だった気分をかなり紛らわせることが出来た。
この美味しい昼食を食べ終えたら、減りつつある煙草を買い足して事務所に戻り、食後の一服は部屋でするとしよう。そんなことを思いながら、二切れ目のホットサンドを彼女は口へと運んでいた。
シュガーローズ・コーヒー (終)
治療魔術については、公式サイトのキャラ紹介によるとシャークナイト内に使える人物がいるようです。
万能過ぎると医者がウドに取って代わられてしまうので、本編の通り「自己治癒能力を高めて回復を促す程度」「効率が悪く、なんでもすぐ直せるわけではない」という設定を取りました。
でもこれを売りにしてる闇医者みたいなのは、あの世界だといそうだなとか思ったりします。
前話と違って探偵っぽいこともしておらず短編クラスの短さとなってますが、マスターの浅賀との話を描いた「シュガーローズ・コーヒー」はこれで完結です。