ウィザード・ディテクティブ~魔術探偵ホタル   作:天木武

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Episode 3-2

 

 

――穂樽、君は本当に優秀な学生だね。

 

――あ、ありがとうございます!

 

――夢は弁魔士だったかな? 君なら、きっとその夢を叶えられると思うよ。

 

――はい! 頑張ります!

 

 

 

 

 

「……クソッ」

 

 脳裏によぎった甘い過去を振り払うように短くそうこぼし、喫茶店のテラス席で穂樽は吸っていた煙草の煙を吐き出した。今頃調査対象の朝子と「先生」は食事をしている頃だろう。今彼女がいる店のすぐ近く、いかにも高級そうな店に入っていったところまで尾行し、彼女はここで出てくるのを待つことにしていた。

 

 水元朋幸(みなもとともゆき)。今回の依頼対象である平山の妻、朝子の「不倫相手」と目される人物の名は、調べるまでもなくそうだとわかっていた。穂樽にとって忘れられるはずもない。いけないと思い懸命に己の心を押し殺しつつも片思いを抱いてしまった、家庭を持つ大学教授。あのダンディで、優しく素敵なオジサマとして、当人はウドでなくとも穂樽に分け隔てなく接してくれた恩師は理想の男性像のはずだった。だがその彼が調査依頼対象のけばけばしい女と仲睦まじくしている様子は実に不愉快で、理不尽で、彼女にとっては苦痛そのものだった。

 とはいえ、穂樽もプロだ。請けた仕事はこなす義務がある。どうにか心を落ち着け、2人の尾行をしていた。まだ不倫と決め付けるのは早い。

 そもそも、よく考えてみれば穂樽と朝子は学年こそ違えど大学が一緒、そして直接顔を合わせたことはないがゼミも一緒なのだ。奇妙な偶然ではあるが水元は共通点といえた。そして互いに教授と教え子、久しぶりに再会してちょっと街を歩いて食事、という可能性もありうる。いや、そうであってくれという祈るような気持ちで穂樽は後をつけ、2人の姿をデジカメに収めていた。

 だが繁華街の高級店を歩き回り、楽しそうに話し、あまつさえ腕まで組む様子はまさに不倫している愛人同士のようにしか見えなかった。休日にウィンドウショッピングを楽しむ恋人そのものだという錯覚すら覚える。故に、時間を追うたびに穂樽のフラストレーションは溜まる一方だった。

 

 そんな折、2人は食事店に入っていき、ようやく一息がつけると穂樽は付近の喫茶店の喫煙席に陣取り煙草に逃げた。だが普段は気分を晴らしてくれるメンソールの効果が一向に感じられない。鬱屈した気分のまま、ただ彼女は煙を燻らせていた。

 

「穂樽様……」

 

 バッグの中の使い魔は心配そうに主に声をかける。だが、余裕のない彼女は冷たい返事を返していた。

 

「黙ってて。……今話す気分じゃない」

 

 ニャニャイーが心配する気持ちはわかる。だが、こうでもしないと、いや、こうしていても彼女の気持ちは治まらなかった。どうにか場所をわきまえて理性で抑えてはいるが、それも危うい。この後尾行を続け、もし決定的瞬間を目撃することになったとしたら。

 その時自分がどうなるのか、そもそもそういう事態すら考えたくないと穂樽は思考をやめることにした。同時に今吸っている煙草がもう無くなるとわかると火を揉み消し、すっかり冷めたコーヒーを流し込む。普段ならここでシュガーローズの味と比較するぐらいの余裕はあるだろうが、今はそんな気持ちすら起きなかった。なおも次の1本を吸おうと白地に緑のラインの入った煙草の箱を開けたその時。

 斜向かいのレストランから2人が出てくるのが目に入った。砂のセンサーからも移動しているのがわかる。

 

 だが穂樽の心にはこのまま追ってもいいのだろか、という思いも浮かんでいた。教授と教え子が久しぶりの再会、そして少し街を歩いて食事をした。今ならまだそう思い込むことも可能だ。

 しかしこの後も尾行を続け、それで言い訳の効かない決定的瞬間を目撃してしまったら。

 そんな風にも思ったが、そうか否かを確認するのが今回の依頼だ。尾行しないという選択肢はありえないと、眼鏡を今の赤いメタルから予備の黒セルフレームへと切り替え、髪を後ろで1つにまとめた。これだけで顔を知られていても印象は大きく変わるだろう。軽い変装を終えると穂樽は喫茶店を後にし、距離を詰め過ぎないようにしつつ、2人の尾行を再開した。

 

 時刻は既にいい頃合、顔合わせを経た男女が情事へと発展するには適した具合に夜も更け始めようとしている。意気揚々と歩く2人をつけつつ、穂樽はただただ、自分の考えてしまった最悪な展開にならないよう祈るばかりだった。

 

 しかし、現実は非情で残酷だった。2人が歩いていった先は完全にホテル街。まだベテランとは言いがたいとはいえ、そこそこの経験を詰んだつもりの探偵としてのカンは、間もなくこのまま2人はホテルに消え、決定的瞬間が訪れると告げている。だが彼女の思考、いや、願望はそれを必死に否定しようとしていた。

 相反する2つの思いを抱いたまま、それでも物陰からデジカメを構えた。それは探偵としての、無意識の行動だったのかもしれない。

 

 そして、僅かな穂樽の希望を無惨に打ち砕くように、腕を組んだ2人はホテル街の中の建物の1つへと姿を消した。

 

 数度シャッターを切りつつ、レンズの映像を映す液晶が歪んでいる、と穂樽は働かない頭でそう思った。が、直後、それは自分の目が涙で溢れていたせいだと気づく。撮った画像を確認することなくデジカメの電源を落とし、バッグへと放り込み涙を拭った。踵を返し、俯いたまま重い足取りで歩みを進める。

 本来なら2人が出てくるところまでカメラに収めたほうがいい。しかし、今の穂樽にはこれ以上ここに留まることなど到底出来そうになかった。

 

「……先生」

 

 恩師の敬称を口にし、再び涙が流れる。心を失った、虚ろな人形のように、穂樽はおぼつかない足取りで車へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 帰りの車内、穂樽は終始無言だった。代わりにチェーンスモークで火を消した傍から次の煙草に火を灯し、間を空けることなく延々煙草を蒸かし続けていた。煙が充満し続ける車内で本当なら口を挟みたいニャニャイーだったが、どこを見ているかもわからない、余りにも空虚な瞳を見てしまっては、何も言葉をかけられなかった。過去これほどまでに自分の主人がショックを受けた姿を見たことがあっただろうか。どうしていいかわからず、ただただバッグの中にうずくまることしか出来なかった。

 

 もっと酷かったのは事務所兼自宅に戻ってきてからだった。相当に落ち込んでいるのは目にも明らかだったため、ニャニャイーはこのまま穂樽がベッドに突っ伏して寝て忘れようとするものだと思っていた。

 しかし、それは全く違った。

 部屋に入ってソファにバッグを放り投げ、穂樽も腰を下ろした後。車の中とは真逆、抑えていたらしい彼女の感情が爆発した。一瞬時間が空いて彼女の拳が机へと叩きつけられたのをきっかけに、それは始まった。

 

「なんでよ! なんで……! なんで先生があんな……! ふざけんじゃないわよ!」

 

 ここまで抑えてきた分の反動か、再度拳を叩きつける。ついさっきまでとまったく違う態度に、ニャニャイーはただ狼狽えることしか出来なかった。

 

「私は懸命に我慢してたのに……! 先生と不倫紛いの恋なんていけないことだと思って、ずっとずっと堪えてきたのに! なのにあんな女と……! クソッ!」

 

 三度机を殴りつけ、不意に穂樽が立ち上がる。向かった先は台所の収納棚だった。扉を開け、中にあったウイスキーを手に取る。瞬間、何をするのかを悟った使い魔は毛を逆立たせて主人へと駆け寄った。

 

「穂樽様! ダメニャ!」

 

 足元に飛びついた使い魔の制止を無視し、蓋を開けたビンに直接口をつけて液体を一気に流し込む。高度数のアルコールが喉と食道を焼くが強引に飲み続け、しばらくして耐え切れずにむせて咳き込んだ。

 

「そんニャ強いの一気に飲んだら体壊すニャ! 死んじゃうニャ! やめてニャ!」

「うるさい! 私なんてどうなったっていいわよ! 好きだった人のあんな姿見せられて……どうしろって言うのよ!」

 

 止めようとするニャニャイーを手で払い飛ばし、ヒステリックな声を上げてなおもウイスキーを呷る。だが少し飲んだところでやはり咳き込み、嗚咽と共に彼女は力なく膝から崩れ落ちた。それは、普段のクールな様子からは全く想像出来ない姿だった。

 

「私は……私は本当に先生のことが好きだった……! 尊敬してたし、憧れてた……! 妻がいる相手に恋するなんていけないことだとわかっていても、それでも思いを止められなかった……。懸命にこの胸だけに押しとどめて、いつかこんなことやめようやめようと思って仕事に身を置いて忘れようとして……。なのになんで! なんでよ……!」

 

 顔を床に突っ伏す。そのまま穂樽は床に拳を叩きつけつつ、声を上げて泣いた。

 

「先生は……先生は私にとって理想の男性だった……。格好良くて、いつも優しくて、堂々としていて……。なのに不倫してあんな女と……! あんまりだわ! こんなの、あんまりよ……!」

 

 子供のように泣きじゃくり始めた穂樽の手元から、そっとニャニャイーがウイスキーを取り上げる。精神状態も不安だが、それ以上に急性アルコール中毒なんてことになられたらもっと困る。声をかけたいが、今は気の済むまで泣かせた方がいいかもしれない。いや、むしろどう慰めの声をかけたらいいかもわからない。使い魔は特に何をするでもなく、ただ心配そうに穂樽を見つめることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 穂樽が意識を戻した時は、もう夜は明けていた。普段と違う背中の感触からソファで横になっていたと感じる。同時に耐え難い頭痛にみまわれ、思わず眉をしかめつつ体を起こした。

 

「……っつ。そうか、私確か……」

 

 帰ってきた後、喚き散らしてウイスキーを自棄気味に呷り、床に突っ伏して泣いていたところまでははっきり覚えている。しばらくそうしつつニャニャイーに無理矢理水を飲まされていたが、ようやく少し落ち着いた頃。今度は入れ替わるように急激な吐き気が襲ってきてトイレに駆け込んで篭っていた気がする。

 戻ってきた時には机にコップに入った水と胃薬が用意されており、それを飲んで横になったところまでは、目の前にある空のコップと胃薬の錠剤の入ったビンからかろうじて思い出せた。それと合わせ、その時は何も被らずに横になったはずなのに、今は薄手の毛布がかけられている。水と薬と合わせて、ニャニャイーが気を利かせてくれたのだろうと予想するのは容易だった。

 その使い魔は机の上で丸まって寝息を立てていた。礼を言いたかったが起こすのも悪い。時計を見ればまだ朝早い。とりあえず頭痛をなんとかしようと、熱いシャワーでリフレッシュすることにした。

 

 不思議と、昨日ほどの激情は沸いてこなかった。シャワーを浴びながら泣くという絵の方が、涙をシャワーが誤魔化してくれるようで女子としては似合うのかもしれなかったなどとふと思う。しかしそんなことを考えるだけの心の余裕が出来たからか、出てくるのは乾いた自嘲的な笑いだけだった。

 

 あれが現実なのだ。真実なのだ。その目で確かめた以上、疑う余地はない。嘘だと思っても、証拠のための画像としてデジカメははっきりと捉えている。ならば、もう受け入れるしかない。自然と、そういう思いに至っていた。

 だが一方でその失意とはまた別。わきあがる感情を感じてもいた。頭痛に眉をしかめながらもシャワーの流れる足元を見つめつつ、ゆっくりとその感情を受け入れていく。熱いシャワーと裏腹、その心は生まれ出た思いと共に段々と冷えていくのを感じていた。

 

 しばらく浴びたシャワーを終えて体を拭いた後、下は下着を履いただけ、上はそれを隠すように丈が長めのシャツを着ただけで浴室を出る。どうやらシャワーの音で目が覚めたらしく、さっきまで寝ていたニャニャイーが机の上に座って主人の帰りを待っていた。

 

「穂樽様、おはようニャ」

「おはようニャニャイー。……昨日はごめん。そして、ありがとうね」

 

 心からの謝罪と感謝の気持ちをこめて穂樽は礼を述べる。それに対し、使い魔は謙遜した様子だった。

 

「使い魔として当然のことをしたまでニャ。……でもその格好はちょっとどうかと思うニャ」

「あら? 女子として男を誘惑するいい格好だと思わない?」

「……ただだらしニャいだけにしか見えニャいニャン」

 

 使い魔が軽口を叩いてくれるということは、傍から見て多少は昨日のダメージも収まったように見えるということだろう、と穂樽は考えた。しかし当然心の中の傷が完全に癒えたわけではない。それでも、昨日よりはかなりマシになったようには思えていた。

 それよりも、と僅かに眉を引きつらせて左手で頭を抑える。シャワーのおかげか二日酔いと思われる頭痛は大分引いたが、まだ痛みは残っている。吐き気がないだけまだマシと自分に言い聞かせ、机の上のグラスを右手に冷蔵庫へと向かう。

 

「ニャ? 頭痛いのニャ?」

「ええ。多分二日酔いね。昨日酒に逃げて無茶な飲み方したから。……しかも吐いちゃったし。まあシャワーで相当楽になったけど」

「頭痛薬用意するかニャ?」

「胃がボロボロの現状で、何も入れずに胃に来る頭痛薬飲むのは自殺行為よ。水飲んでしばらくしてれば収まると思うわ」

 

 冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターをグラスに注ぎ一気に飲み干す。さらにもう1杯分注いでから、グラスを手にソファへと穂樽は戻った。煙草の箱に手をかけ、しかし中身を出すことをやめて水を一口呷る。

 

「やめたのかニャ? 珍しいニャ」

「二日酔いで煙草吸うと悪化するのよね……。昨日散々吸い過ぎたし、今日はちょっと我慢するわ。実のところまだメンソールで喉が麻痺気味だし」

「これからもずっとそうするといいニャ」

「それは出来ない相談ね」

 

 さらに水を呷ってグラスの半分ぐらいまで飲み、穂樽は大きくため息を吐き出した。それを見て、ニャニャイーは今度は少し不安そうな表情を浮かべて尋ねてきた。

 

「……心の方は落ち着いたかニャ?」

 

 本当はずっとそれを聞きたかったのだろう。また余計な気を使わせてしまったと思い、極力暗い雰囲気にならないように、しかしどこか自虐的に穂樽は答える。

 

「さすがに完全に、は無理ね。でも昨日よりかなりいいわ。……認めたくないけどあれが現実、真実なんだから。とにかく仕事はこなさないと。私は昨日のことをまとめて、依頼人に報告する義務がある。ま、それはほぼ証拠が揃ったといってもいいから、あとはまとめるだけで済むことでもありそうだけどね」

 

 強がっている、とニャニャイーにはわかった。思わず「穂樽様……」と心配そうに声をかけたが、彼女は軽く笑って心配ない、という意思を伝える。だが直後、その顔が引き締め直された。

 

「でもね、それ以上に……」

 

 残っていた水を全て飲み干し、グラスを机に置く。その目は鋭く、何かを秘めていたように見えた。

 

「私自身が、この件に、自分の心にケリをつけなくちゃいけない。人は自分の意思と関係なく変わらなくちゃいけないときが来るのだとしたら……。私にとって、きっとそれは今なのよ」

 

 穂樽はバッグから携帯を取り出す。だがそれは使用機会の多い仕事用の携帯ではなく、プライベート用の方だった。

 一度深呼吸し、操作を始める。そして呼び出し音が終わると、努めて明るい声で彼女は切り出した。

 

「もしもし? 朝早くにすみません、今お時間大丈夫ですか? ……あ、ありがとうございます。……はい、穂樽です。どうもお久しぶりです、先生(・・)

 

 




穂樽が妻のいる大学教授に片思いをしていることが公式設定、ということは前話の後書きで述べましたが、公式に存在する設定はそこまでのはずです。
ですので、その人物が不倫しているということは勝手にくっつけた設定です。なお、名前や性格も明らかになってないのでオリジナルです。

ちなみに監督のブログに書かれていることですが、当初の梅津監督の構想では、穂樽は妻のいる大学教授と泥沼の不倫の恋にはまっている、という設定だったらしいです。が、スタッフ一同の猛反対を受けて、片思いという設定に直したんだとか。

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