ウィザード・ディテクティブ~魔術探偵ホタル   作:天木武

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Episode 3-3

 

 

 翌日、穂樽は2日前にも訪れた駅にいた。だが目的はその時のような張り込みではない。

 今の彼女の格好は持ち得る服の中で見た目を重視して選んで着飾り、バッグも普段使っているものから比べればかなり小さいハンドバッグ。彼女としてはファッション性をかなり考慮した格好だった。ただ眼鏡だけは以前使っていたコンタクトを破棄していたせいで代用が効かず、ぼやけた視界でいるのもストレスになるためそのままだった。

 

「ごめんよ穂樽。もしかして待たせた?」

 

 と、その時聞こえてきた声に、一瞬体を強張らせる。かつてよく聞いた、だが耳に残る優しげで心安らぐようないい声に、穂樽は笑顔と共に顔を向け、明るい声を返した。

 

「いえ。私も今来たところです、先生」

 

 その笑顔の先。ダンディといえる顔立ちに、相手の心を落ち着かせるような微笑を浮かべて立つ1人の男性がいた。穂樽にとってかつての恩師。同時に彼女が片思いを抱きつつも、先日平山朝子との密会の場を目撃した、水元朋幸その人だった。

 

「びっくりしたよ、急に食事に行かないか、なんて電話かけてくるんだから。……なんだ、眼鏡かけるようになったのか?」

「ちょっと視力落ちちゃいまして……。ああ、立ち話もなんですから、お店に行きながら、あと食べながら話しませんか?」

 

 穂樽の提案に水元は肩をすくめて答える。

 

「そういう無駄を省くところ、変わってないな。……まあいい。君の意見を採用しよう。お店はすぐ近くだ、早速行こう」

 

 水元が顔を逸らして進行方向へと向けたところで、一瞬穂樽の表情から色が消えた。だが軽く頭を振るとすぐにそれまで通りの明るい表情に戻り、先を進む恩師の隣へと足を進める。

 

「それでその眼鏡だ。視力が落ちたって?」

「はい。本当はコンタクトにしようと思ったんですけどやめたんです。目に直接入れるのが怖いのか、なかなかうまくいかなくて……」

「ほほう。なんでもそつなくこなす君らしくもないな」

 

 穂樽ははにかんだような笑顔を浮かべ、眼鏡の角度を直しつつ尋ねる。

 

「似合いませんかね……?」

「そんなことはないぞ。知的な女性、という君の雰囲気にバッチリだ」

「相変わらず口がお上手ですね、先生」

「ははっ! 俺は世辞のつもりはなかったがな」

 

 笑う水元につられるように笑顔をこぼす。どう見てもあくまでかつての教授と教え子との他愛も無い会話。先日見せた穂樽の荒れ様は、まるで嘘のような雰囲気だった。

 

 予約したという店は駅からさほど離れていなかった。同時に比較的リーズナブルな店のようであった。とはいえ、店内にはやはりそれなりの雰囲気が漂っている。こういう場に慣れていないかつての同期を連れてきたらおそらく固まることだろう。だが何度か経験のある穂樽はそうはならず、慣れた様子で案内されたテーブルへと腰掛けた。

 料理は前もってコースで予約時に決めていたらしい。ワインが注がれたグラスを手に、水元が穂樽へと微笑みかける。

 

「じゃあ、久しぶりの再会を祝して。乾杯」

 

 軽くグラスを合わせ、ワインを一口。煙草を吸うようになって味覚は少々鈍くなったが、それでも味が全くわからないわけではない。とはいえ、生憎ワインの良し悪しを細かくわかるほど上品な舌は持ち合わせていない。まあおいしいか、という月並みな感想しか出てこなかった。

 

「ふむ……。意外といけるな、このワイン」

「そうなんですか? 私にはよくわかりません」

 

 ワイングラスの中身を改めて見つめる。今の言葉通りわからない、という風に彼女はグラスを回した後で、もう一口ワインを口へと運んだ。

 

「まあ色々嗜むといい。ワインだけでなく、な。なかなか面白いぞ」

 

 そう言って水元もワインを呷り、グラスを空ける。ウェイターに目で合図をし、追加のワインを注がせた。

 

「さて、それはそうと。俺を急に食事に誘うなんてどうしたんだ?」

「いえ。一昨日の夜、たまたまこの辺りに用があったんですが、偶然先生を見かけまして」

 

 その言葉に、水元は目に見えて動揺した。新たに注いでもらったワインに口をつけようとしたがその手が一瞬止まり、表情も強張っているようだった。

 

「……一昨日の夜?」

「はい。教え子と思われる方と歩いているところを見かけたんですよ。それで先生はよく講義が終わった後に、学生と食事会とか行っていたなと思い出したんです。そうしたら急に懐かしさを感じてしまって。以前は卒業後も先生のところに伺うことがあったのに、最近それもできなくなっていたし、折角なら昔を思い出しつつお食事でも出来たらなと思ったんです」

 

 フッと水元の緊張が解けたように見えた。次いで一口ワインを呷り、苦い表情で答える。

 

「……なんだ、見られちゃったのか。そう、彼女も君同様俺の教え子でね。今の君とのようにちょっと食事をしたんだよ」

「ああ、やっぱりそうでしたか。……でも大丈夫ですか? 奥様や知人の方に見つかったら、勘違いされるんじゃ?」

「今、君ともしていることじゃないか。教え子と食事するぐらい、別に問題でもないだろ? まあ確かに嫁さんに見つかったら、何か言われそうだけどさ」

 

 困り顔と共に水元がそう言ったところで、1品目の前菜が運ばれてきた。色鮮やかな料理を目で楽しんだ後で舌でも味わい、美味と感じつつ穂樽は話題を切り替える。

 

「そう言えば、先日公開されたあの映画見ました? 先生、映画お好きでしたよね?」

「お、やっぱり穂樽も見たのか。君も意外と映画好きだったものな。なかなか面白かったが、俺に言わせれば……」

 

 2人の話は他愛もない雑談へと移っていく。在学中、ゼミが終わった後に学食や近所のレストランで、他の生徒達と共に気兼ねなく話した頃のように。

 懐かしさを感じる。当時を思い出す。ずっと尊敬し、憧れ、慕ってきた存在。バタ法に務め始めてからも、しばらくは5時ピタで定時上がりをして講義に顔を出しに行っていた時期もある。そんな恩師との、久しぶりの食事だった。

 

 料理はなかなかに美味だった。たまには少々値の張る料理店に来ることはあるが、不規則な生活に加えてガサツになりつつあるために適当に食事を済ませることも多い。加えて煙草を吸うようになったために味覚が鈍くなったのもわかっているが、そこを差し引いても美味しい料理だった。

 水元は博識な人物だ。料理についての薀蓄(うんちく)も持ち合わせているし、その料理の名前の由来、材料についてなども詳しい。そういった話が随所に混じっているのを聞くと、やはり感心してしまうのだった。

 

 大学時代を彷彿とさせるような会話と共に進んだ食事は、気づけばコースの料理がほぼ出尽くすほどになっていた。メインの料理もほぼ食べ終え、あとはデザートが控えているばかりである。

 だがそのメインをまだ少し残した状態。そこで穂樽は食事の手を止め、不意に表情を強張らせて口を開いた。

 

「先生」

 

 これまで同様の話だろうと、大して怪しむ様子もなく「うん?」と水元は返す。

 

「実は……。私はひとつ、先生に重大な隠し事をしていたんです」

「どうした急に?」

「その隠し事をいつか告白したくて、でも出来ずにいて。それで先日先生を見かけた時に……言わなくちゃいけない、そう決心がついたんです」

「ははあ、それを言いたくて俺を食事に誘ったのか。なるほど、君にしては突然だと思っていたが、合点がいった。で、それはなんだ? 言ってみなさい」

 

 まだ教授の様子は普通だった。グラスのワインを一口呷る。それを机に戻したタイミングを見計らって、穂樽は切り出した。

 

「……私は、ずっと先生のことを慕っていました。いえ、そんな言葉では私の気持ちを言い表しきれません。……私は、先生に恋をしてしまっていたんです」

 

 完全に予想外だったのだろう。普段どこか余裕にあふれた雰囲気を漂わせている彼が、この時ばかりは目に見えて固まった。

 

「ですが、先生は家庭がおありの身です。そんな方に恋するなど、許されるはずがない。そうわかっていてもなお……私は自分の気持ちが止められませんでした」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。……穂樽、君にしては珍しいな。随分と面白いジョークだ」

「私の目が、嘘や冗談を言っているように見えますか……?」

 

 赤いメタルフレームの眼鏡のレンズ越しに2人の視線が交錯する。穂樽の瞳はどこか憂いを帯びており、冗談の類ではないということは水元は容易に察せた。

 しばらく見つめあった後で彼はその視線を逸らす。どう答えたらいいか、迷っているようだった。

 

「……こんなオジサンを好き、か」

「変ですか?」

 

 やや間を空け、「いや」と彼はそれをまず否定する。

 

「その気持ちは嬉しいよ。男は、年を取っても結局は男だからな。……だがさっき君が言ったとおり、俺には家庭がある。それに、教え子とのラブロマンスというのもなかなか興味深いものではあるが……。実際に、となると話は別だ」

「許される行為ではない、と?」

「余り感心出来た物ではないな。それでも君の気持ちはわかる気はする。……しかし、さっき君自身が言った『慕っていた』という感情じゃないか、とも思える。君はまだ若い。それ故一時の感情が……」

「先生」

 

 話を遮り、穂樽は僅かに身を乗り出した。憂いを帯びた表情がより色っぽく、照明によって艶やかに映し出される。

 

「私は……先生になら抱かれても構いません」

「ほ、穂樽! そういうことを口にするんじゃ……」

「これでも、私の気持ちは伝わりませんか……? これだけ言葉を重ねてもまだ足りないなら、あとは肌と唇を重ねるしかない……。私はそんな風に思うんです。……先生は、そうは思いませんか?」

 

 一度視線を逸らし、水元は無言を貫いた。しばらく彼を見つめていたが、答えがないとわかるとそれをノーというサインと感じ取り、穂樽も乗り出していた身を椅子へと沈め直す。

 

「……そうですか。きっと私がウドだから、ですね」

「いや、待ってくれ。それは違う。ウドだなんだは、今は関係ない」

「じゃあ教授と教え子との恋がいけないと」

「それもあるが、俺に家庭があることの方が大きい。それは君だってわかってくれるだろう?」

 

 頷く代わりに、穂樽はワイングラスの中身を口へと運ぶ。味などどうでもいい。間がほしかった。

 

「……もしも、先生が未婚だったなら、私と付き合ってくれましたか?」

「そうだな……。もしもの話で申し訳ないが、それはやぶさかではない」

「その時は……私は先生の子を産むことも許してもらえますか?」

「どういう意味だ? 愛する者同士なら……」

 

 そこで水元は言葉を一旦切った。まるで、何かに思い当たったかのように。

 

「仮に、私が先生との子を産めば、7割の確率でウドの子が誕生します。世間のウドに対する目は冷たい。場合によっては親にもそれは及ぶでしょう。……先生はそれを許可してくれるのか、と尋ねたいのです」

 

 目に見えてわかる、水元の狼狽。だが僅かに視線を宙に彷徨わせた後で、彼は落ち着きを取り戻したように切り出した。

 

「……もし俺と君が結婚していたら、の話だが、当然肯定だ。愛する者同士が互いに望んでの子なら、是非もないだろう」

「……そうですか」

 

 そう言うと、穂樽は天を仰いで大きく息を吐き出した。それで話が終わったと水元もわかったのだろう。少し緊張が解けたように話し出す。

 

「今さっきの君は、随分とらしくなかったな。自惚れかもしれんが、俺は慕われてぐらいはいるのかもしれないと思っていた。だが、そんな目で見られていたとは予想もしていなかったぞ」

「懸命に隠してました。家庭のある先生にこの気持ちを伝えれば、きっと困らせることになるだろうと思っていましたから」

「それを急に告白したのか? 以前の君ならそのまま胸に留めておいたと思ったのだが……。変わったな」

 

 水元はワインを一口呷る。穂樽はそれをどこか冷ややかに見つめ、相手に聞こえるかという声量で搾り出すように呟いた。

 

「変わるんですよ、人は。……時には、自分の意思と関係なく、強いられる形で」

 

 テーブルに目を落とせば、メインの料理がまだ少し残っていた。だがもう食べようと言う気にはならない。食事の時間は終わり、同時に、「穂樽夏菜」でいる時間も終える。

 

 これ以上、嘘で塗り固めた自分を演じ続ける必要はない。それまでの「穂樽夏菜」から本来の、偽りのない彼女へと凍りつかせていた心が戻っていく。

 次に視線を上げたとき、彼女の顔に先ほどまでの色を秘めた憂いの表情は全くなかった。代わりに獲物を狙う狩人のように、鋭い視線で向かいに座った相手を見つめる。

 

「先生。もう1つよろしいですか?」

「どうした? まだ何かあるか?」

「はい。先ほどのことに加えて、まだ隠していたことがあるんです」

 

 ため息をこぼし、ワイングラスを持ったまま水元は返す。

 

「なんだ、まだあったのか? この際だ、全部ぶちまけてみろ。その方が気が楽だろう?」

「では遠慮なく。……先日確かに私は先生と教え子と思われる女性をこの辺りで目撃しました。そして申し訳ありませんが、後をつけさせていただきました」

 

 ワインを飲もうとした、水元の手が完全に止まった。壊れた人形が音を立てて動いたかのように、ぎこちなく首が穂樽の方へと向く。

 

「お、おい……。ちょっと待て……」

「先生は教え子と言った女性と随分と仲良さそうに腕を組んだままラブホテルが立ち並ぶホテル街へと入って行き、そのままその中の1件へと消えていくのを、確かにこの目で目撃しました」

「ま、待て! 穂樽、頼むから待ってくれ!」

「いえ、待ちません。まさかその手の建物に入って何もなかった、ということはありえませんよね? 教え子との恋を感心せず、家庭がある身だと私に言ったにしては、随分と矛盾する行動に思えてなりません。理由をお聞かせ願えますか?」

 

 慌ててワイングラスを机に戻した目の前の男の顔は完全に青ざめていた。数年間憧れ続けて来たにしては、その顔は随分と頼りなく穂樽の目に映った。

 

「……穂樽、君も俺とのその関係を望むのか?」

「質問を繰り返しましょうか? 私は理由が聞きたいだけです。何故その教え子と関係を持ったのかという理由を」

 

 机に目を落とし、しばらく水元は考え込んだ様子だった。ややあって口を開く。

 

「……彼女も既婚者だ。そしてその夫は魔術使い。だが先ほど君が言ったとおり、片親が魔術使いなら子もそうなる確率は7割。彼女は我が子が魔術使いとして生まれてくることを怖れ、望まなかった。故に旦那と寝ることはほとんどなかったそうだ」

「そこで先生に相談した、と?」

「……そうだよ。彼女は君同様熱心に俺の講義を聞いていたし、在学中にも合コンで出会った優良会社の彼氏と将来結婚するかもしれないと言っていた。そんな過去があった上で受けた相談の時に彼女に迫られ……俺もつい、一度限りの過ちを犯してしまったんだ……」

「そうですか」

 

 穂樽は比較的相手の腹の内を読めると思っている。常に笑わないような、感情を押し殺し続ける相手の場合はそれは難しいが、そうでなければ出来ないことはない。そして平静さを保つことが困難な状況なら、なおさらそれは容易だった。

 よって、もうここから先の質問は必要ないと彼女は判断した。これ以上、かつて恋した男性の愚か過ぎる言葉を聞いていたくなかった。

 

「すみません」

 

 うな垂れる水元をよそに、穂樽がウェイターを呼ぶ。反射的に彼は顔を上げていた。

 

「なにかご用でしょうか?」

「灰皿って、いただけます?」

 

 ウェイターが眉をひそめ、それから丁寧に頭を下げる。

 

「申し訳ございません、お客様。当店は全席禁煙となっておりまして……」

「あら、そう。残念」

 

 言葉と裏腹、さほどそうでもなさそうに述べた後で、穂樽は手元のワイングラスの中身を全て空けた。その様子にウェイターが次の一杯を勧めようとする。が、彼女はそれを手で制した。

 

「穂樽……。煙草を吸うようになったのか?」

「はい。人は変わるものですから。それになにぶん、ストレスの多い仕事ですし」

「そうか……。弁魔士だったか。大変だな」

「いえ、弁魔士バッジはもう返しました。今は、少し違う切り口からウドの力になりたいと、こういう仕事をしています」

 

 ハンドバッグから財布を取り出し、そこから名刺を1枚、相手の手へとではなく、机へと差し出した。それを受け取り「探偵」という文字を目にした瞬間、水元の瞳が大きく見開かれた。

 同時に、彼は全てを悟った。先日自分を見かけたというのは偶然などではなく、意図的な必然だった。そして彼は、自分自身の口で探偵を相手に不倫の事実とその理由を自白してしまったのだと。

 さらに財布から1万円札を取り出し机に置くと、穂樽は無言で立ち上がった。まだデザートは残っている。が、そんな甘いものなどもう口に入れたい気分ではなかった。

 

「ま、待ってくれ穂樽!」

「申し訳ありません、これで失礼させていただきます。……これ以上、嘘を重ねる滑稽な先生を見ていたくありませんので」

「嘘だと?」

 

 冷ややかに穂樽は彼を見下ろした。「はい」と抑揚のない声で答える。

 

「一度の過ちのはずありませんよね? 朝子さんの旦那さんは、薄々不倫を勘付いていた、と言っていました。それにさっきの先生の言い分だと……彼女の在学中から肉体関係があったのでは、とも勘繰ってしまいます」

「ち、違う! それだけは断じて……!」

 

 その続きを水元は口に出来なかった。「人は変わる」、先ほど穂樽はそう言った。その言葉を裏付けるような、初めて見る彼女の微笑を彼は目撃したからだった。それは不気味に妖艶であり、嘲笑的であり、同時に強い侮蔑の色を含んでいた。

 

「今のは完全に墓穴ですよ、先生。さっき渡した名刺に書いてありましたよね? 私の肩書き、『探偵』って。……あいにく、弁魔士を経て探偵とかやっていると、人と接する機会が多いせいか、意外と腹の内……嘘を見抜けるものなんですよ。特に、平常心を失っている状態の人ならなおさら、です。……今のその先生の慌てようから、嘘だということは容易にわかります。もっとも、私の本業に則って裏を取れば、数日もあればはっきりするかと思いますけど」

 

 死の宣告とも取れるその言葉に、相手は愕然とした表情を浮かべるしかなかった。しかし、ややあってそこに怒りの色が滲んで来る。

 

「お前は……。お前は俺を陥れるために、今日誘ったのか? さっきのも、全部演技か!?」

「ええ、そうです。ただ、演技か、という問いに対しては9割はそうだ、と答えましょう。さらに付け加えるなら私自身の心にけじめをつけたかった、それが全てです」

 

 はっきりと、穂樽は言い切った。ギリッと歯を鳴らし、水元は怨嗟を込めた視線を向ける。

 

「この……悪女が……!」

「悪女? それはあなたの不倫相手におっしゃってください。私に向けるのでしたら『魔女』とでも言うべきでしょう」

 

 今述べた、ファンタジー上の存在よろしく、クックックと含むような笑いをこぼす。その口は、次に「何と言っても、魔術使いの女ですからね」と自嘲的に付け加えた。

 

「その『魔女』である私よりも、大学時代からマークし続けた男と結婚、その裏であなたと寝ていた女の方が、私なんかよりよほど性悪で悪女に思えてなりません。そして、そのことを知っていて、さらには自身の家庭があるにも関わらず関係を続けていた、あなたもあなただと、私は酷く幻滅しました」

 

 その穂樽の反論に、もう水元は何も返せなかった。(こうべ)を垂れ肩を落としたその姿は、彼女がかつて恋した男性からは遠く離れていた。

 

「……先生、今日はありがとうございました。確かに謀っての誘いだったのは事実です。けれど、久しぶりに話せて楽しかった、これは本心です。そして、さっき9割と言った残りの1割の部分……。あなたに恋をしてしまったと言った、私の言葉も嘘ではありません。言われたような一時の感情だったというつもりもありません。いけないとわかりつつも、数年間もずっとこの胸の中に押し留め、思い続けていましたから。

 でも同時に……私の抱いていたあなたに対する恋は、幻想だったと知りました。私はあなたを通して自分の中で理想の姿に近づけようと勝手に美化をさせ、それに恋をしていただけだったのかもしれません。けれども、それに気づくことが出来ました」

 

 水元は顔を上げない。その彼を見つめる冷ややかな視線は変わらないながらも、穂樽は僅かに頭を下げた。

 

「……さようなら、水元先生。もう、2度会うことはないでしょう」

 

 その言葉を最後に、席を離れる。それを止める声はもう背後からかからず、彼女は悠然と店を後にした。

 

 

 

 

 

 数日後、依頼主である平山が訪れた。穂樽はまとめた報告書を彼へと手渡し、さらに不倫相手本人の口から出た決定的証拠として、レコーダーを用意していた。これは彼女が水元と食事した際、ハンドバッグに忍ばせ一部始終を録音していたものだった。

 平山は不倫の事実に落胆すると同時に、不倫相手が穂樽と接点があったことに大いに驚いた。「不倫相手の方が彼女を幸せにしてくれるなら離婚しても構わない」と言っていた平山だが、相手が家庭持ちと知ると悩んだ様子だった。

 それでも、「彼女と相談して、それから決める。場合によっては子供を諦める」と、あくまで当初と似たような、相手重視の主張を繰り返すだけだった。穂樽は「それは優しさではなく、相手を甘やかしているだけではないか」と諭し、もう少し肩を入れようとした。しかし、頑なそうな姿勢は変わりそうにない。結局諦め気味に「何かあったらバタフライ法律事務所の弁魔士を紹介できるから、困ったら連絡を入れてほしい」と伝えるのが精一杯だった。それでも、平山は丁寧に礼を述べ、そして去っていった。

 

 平山が帰った後、穂樽は部屋で煙草を蒸かしていた。しかしどうにも気持ちがまとまらない。依頼人は遅出とはいえ出社前に来たために朝早めだったのだが、時計を見てシュガーローズのオープン時間は過ぎていることを確認する。この依頼を受けてからしばらくの間、どうも行こうという気分になれず1階に顔を出していない。マスターである浅賀(あさか)に全てを見抜かれ、心が乱れそうで怖かったのだ。

 だがその依頼もようやく終えた。もう弱みがこぼれてもかまわない。コーヒーでも飲んで、場合によっては彼に話を聞いてもらって、これまでの気持ちを晴らそうと1階へと降りて行った。

 

 案の定、オープン直後で客は誰もいなかった。マスターの浅賀と挨拶を交わしてブレンドを注文し、指定席の1番奥の椅子へと座る。

 

「浮かないね?」

 

 席について水が出てくると同時、付き合いの長い浅賀は、一目で穂樽の様子に気づいたらしい。「ええ、まあ」と適当に相槌を返した彼女の前に灰皿が出される。

 

「吸っていいよ。お客さんいないし」

「……すみません。ありがとうございます」

「代わり、と言っちゃなんだけど……。もしよかったら何があったか聞かせてもらってもいいかな? ……穂樽ちゃんがそこまで沈んでるの、おそらく初めて見ると思うからさ」

 

 煙草の箱とライターを机に置きつつ、意図せず穂樽はため息をこぼしていた。

 

「そんなに沈んで見えます? これでもクライアントの依頼完了して顔合わせ終わった後なんですけど」

「僕はなんだかんだ穂樽ちゃんとの付き合い結構長いからね。上辺は懸命に強がってるみたいだけど、その下の心を必死に隠そうとしてるように見えるよ。……ここ数日、うちに来るのも避けてたみたいに思えたし」

 

 図星だ、と彼女は苦笑を浮かべた。やはり浅賀には全てを見抜かれていた。しばらく意図的に避けていて正解だったとさえ思える。今日で平山の一件は一応の終わりを迎えたわけだが、依頼を完了するまでの間は心を出来るだけ凍りつかせていたかった。

 

「やっぱり浅賀さんには敵いませんね。全部お見通しですか。……ええ、おっしゃるとおりです」

 

 煙草に火を灯し、一旦煙を吸って吐き出す。それから穂樽はかつての自分の恋と、今回の依頼である浮気調査の対象の不倫相手がその人物だったこと、そして最終的に決別したことを全て告白した。

 不思議と恥ずかしさはなかった。元々いつか浅賀には話す日が来るかもしれない。そんな予感もあった。年上趣味なせいもあるのかもしれないが、穂樽は彼に対して親近感を抱いていたし、信頼もしていた。そして、ある種水元に対して抱いていた感情と同じく、慕っている思いもあった。

 

「……結局私の抱いていた恋は幻想でした。彼は私が思っていたような男性からはかけ離れていた。……でもそう思うと同時、もしあの女じゃなくてあそこにいたのが私だったら、と思ってしまう心もあるんです。浅ましい女だと自分でも思います。そこまでわかっていてもなお、彼に抱いてもらえたとしたら、そのひと時だけは心からの幸せを得られたんじゃないかっても思ってしまうんです。

 私の思いは片思いで叶うことはなかった。『見てるだけでよかった』なんて表面上で言い繕いつつも、その実ただの一度もこの心が満たされたことはなかった。……せめて一度だけでも、夢を見たかったという心を、どうしても消し切れないんです」

 

 もしかしたら浅賀に軽蔑されるかもしれない。煙を燻らせながらそうも思った。しかし自分の心の内を吐き出したかった。誰にも言えずに溜め込んでいた本当の気持ちをぶちまけ、少しでも楽になりたかったのは事実だった。

 

「……僕は、随分と穂樽ちゃんに信頼されてるんだね。その話を聞いての感想としては不適切だろうけど、少し嬉しいよ。そこまでを打ち明けられる存在だと思われてるんだな、って」

 

 コーヒーを煎れる手を止めず、浅賀はそう告げた。対して意外そうに穂樽は尋ねる。

 

「浅賀さんは、こんな私を軽蔑しないんですか?」

「するわけないじゃない。恋をする、体を求める。それは本来、子孫繁栄という動物の本能から派生して生まれたことだとも考えられる。そして、恋愛感情を抱けるのは人間だけの特権なんじゃないかな。だとするなら、穂樽ちゃんのその思いもまた、実に人間らしい反応だと、僕は思うよ」

 

 ああ、優しいというのは本来こういうことを言うのだろうと穂樽は思った。今現在自分が傷心にあり、そんな心の隙間を埋めたいという思いもあるだろうと、頭の冷静な部分は分析する。だがそう分析してなお、浅賀の言葉は甘美に響いた。

 年上趣味、といわれる自分の嗜好。そしてそんな年上の男性からかけられた優しい言葉。「浅ましい女」と自分を自嘲しつつも、湧き上がる思いを抑え切れなかった。こんな「悲劇のヒロイン」ぶってる自分に冷たい一言でも浴びせてもらえれば、頭が冷えて、普段の自分に戻れるかもしれない。そう思うと、煙草を揉み消しつつ、次の言葉を止められなかった。

 

「……浅賀さん。傷心の私のことをそこまで肯定してくれるのなら……。もし、私が慰めてほしいと願ったら、私を抱いてくれますか……?」

 

 今度は浅賀はコーヒーを煎れる手を止め、穂樽をまっすぐ見つめた。その視線は蔑みの色を含んでいるわけでもなければ、憐れみの色を含んでいるわけでもない。腹の内を読むのが得意なはずの穂樽でさえ、何を思っているのか全く読み解けなかった。

 その目を見て後悔が押し寄せる。「面白い冗談だね」と茶化されるか、「それはよくないよ」と叱責されるか。その辺りだろうという事前の予想に反し、どちらでもなかった。そして万が一にも、先ほど述べたことを了承するような目でもなかった。

 

「……ごめんよ。そうやって慰めることは出来ない。もう2度と会うことはできないけど、僕は今でも彼女を愛している。だから、その思いを裏切るようなことはしたくないんだ」

 

 それは、予想していたどんな言葉よりも穂樽の心に鋭く深く突き刺さった。同時に、「悲劇のヒロイン」を気取って、仮に探偵でありながらもそんな初歩的なことにすら気づけなかった自分を呪った。実に愚かな質問だった。「浅ましい女」、そう、まさしくその通りではないかという自己嫌悪に陥る。

 

「恋の傷にもっともよく効く特効薬は、苦いコーヒーである」

 

 そんな心を見透かしたかのように不意に聞こえた浅賀の声は、先ほどまでのような感情を読み取れない色からは遠かった。普段通りの、心落ち着く優しい声だった。

 

「……初耳です、それ。誰が言った言葉ですか?」

「僕さ。……はい、ブレンドお待たせ」

 

 平然と、しかし堂々と告げられたその言葉に思わず穂樽は吹き出し、声を上げて笑った。同時に、何かが吹っ切れた気がした。

 

「……あれ? そんな変なこと言った?」

「あ、浅賀さん……それいいですね! 今まで聞いてきた苦さを正当化する理由の中で、1番うまいですよ!」

 

 笑い続ける穂樽に対し、拍子抜けした表情の浅賀。少し困った様子でその先を続けた。

 

「そ、そうかな? ……でも、ちょっとは穂樽ちゃんも元気になってくれたみたいで安心したよ。あとは僕のコーヒーを飲んでもっと元気になってれると嬉しいな。治療魔術使いなのに、こうやって傷を癒してあげることしか出来なくて申し訳ないけどね」

 

 今回は事情が事情だっただけに、思った以上にセンチメンタルになっていたのかもしれない。笑いを抑え、さっきの自分は、あまりにらしくなかったなと、特効薬のコーヒーを口に含む。良薬は口に苦し。とはいえ、さすがにもう少し飲みやすくしようと、薔薇の模様の描かれたシュガーポットから砂糖を1杯だけ入れた。

 今日は少し苦めのコーヒー、だがそれでいい。これが今の自分にとっての特効薬。「浅ましい女」、あるいは「悲劇のヒロイン」を気取っている自分を、ウド探偵の穂樽夏菜へと戻してくれる薬なのだから。

 心の中で普段の自分を取り戻させてくれた浅賀に感謝しつつ、穂樽はまだ苦味の強いコーヒーを口へと運んだ。

 

 

 

 

 

インプロパー・リレーション (終)

 

 

 

 




インプロパー・リレーションはこれで完結です。
原作7話の「妻のいる大学教授に片思いをしている」という設定と、「人は自分の意思と関係なく変わらなくちゃいけないときが来る」という穂樽の台詞。ここから妄想を膨らませた結果、懸命に心を押し殺していた恋の相手がそもそも不倫をしてしまっていた、というありきたりな気もするアイデアに行き着きました。
さらに彼女が探偵となったためにそれを自身の目で目撃してしまい、最終的には相手と決別するという、ある意味で原作の設定の延長線上にあるような今回の話は、早い段階から構想を練っていました。

とはいえ、ちょっと穂樽が可哀想すぎるような描き方をしてしまったかもしれません……。

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