ウィザード・ディテクティブ~魔術探偵ホタル   作:天木武

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Episode 6-3

 

 

 翌日、興梠は9時20分頃にファイアフライ魔術探偵所を訪れた。昨日の「9時頃」という表現がいかにも適した時間に、その小一時間ほど前に起きていた穂樽は自分以上に生真面目なんじゃないかと思うのだった。

 今日は昼過ぎ頃にバタ法に依頼人が来るという話である。自分のところに来て僅か1日でまた顔を出しに戻るというのも、なんだか不思議な感じがするな、と穂樽は思っていた。

 

 その後、適当に今後の話などをしてから移動となった。ファイアフライ魔術探偵所とバタフライ法律事務所はさほど離れてはいない。ただ、穂樽の事務所は駅から遠いために、バタ法を尋ねる際は短距離ではあるものの車を使っていた。徒歩でも小一時間ほどで行けなくはないが、そこまで運動不足だというつもりもない。

 助手席に人を乗せての運転、というのはそういえば久しぶりだと穂樽は思っていた。車内での他愛もない会話に、昨日当初ほどの警戒心はもう無く、改めて興梠は自分に打ち解けてくれているように感じていた。

 

 短時間のドライブは、穂樽が以前海外をドライブしたことがあるという話で盛り上がりかけたところで終わることとなった。近くのパーキングに車を止め、連日のバタ法訪問。扉を開けて中に入ると、抜田の挨拶とほぼ同時、「リンちゃーん!」という声が飛び込んできた。

 

「あ、須藤先輩」

「リンちゃん、おかえり! 久しぶりだね!」

「全然久しぶりじゃないでしょ。昨日も会ってるんだから」

 

 やれやれとため息をこぼして突っ込みを入れつつ、飛びついてくる対象が自分から興梠に変わったな、と穂樽は思っていた。鬱陶しさがなくて助かると思った彼女だが、同時にこれまでと違うのはなんだか――。

 

「寂しいのかな、なっち?」

 

 まるで自分の心を先読みされたように聞こえてきたもよの声に、思わず穂樽の体が強張った。

 

「べ、別にそんなこと思ってません!」

「とか何とか言っちゃってぇ。自分のポジションがリンリンに取られたーって、心じゃ泣いてるんでしょ?」

「そんなわけないじゃないですか。……そういうもよさんこそ、セシル取られたって思ってるんじゃないんですか?」

「……ええそうよ。あの子、許せないわよね」

 

 突然真顔になってボソッと呟いたもよの一言には凄みがあった。興梠もそれを感じ取ったらしく、セシルと話していたがビクッと肩を震わせて、怯えたようにもよの方を見つめている。

 

「やめてあげてください。……興梠さん、時々もよさん怖いって言ってましたよ」

「え、ほんと!? 冗談だよ、リンリン。本気にしないでね! ……うーん、セシルん取られたのは悔しいけど、ちょっと我慢して控えるか」

「取られてないでしょう。それに私はまだいいですけど、彼女冗談通じないタイプみたいですから。ほどほどにしないと、本当に怖がられますよ?」

「なっちはやっぱり本当は優しいね。というか、リンリンともうそこまで仲良くなったんだ。さっすがー」

 

 なんだかもよにからかわれている気がして、少し恥ずかしそうに穂樽は視線を逸らした。そんな様子にますますもよはにやけ顔を増し、追撃をかけようとした。

 

 と、そこで事務所のドアが開いた。入ってきた人物は事務所の人間ではない。おそらく依頼人であろう。受付の抜田と一言二言会話を交わした後、「アゲハさーん、クライアントの方がいらっしゃいましたー!」と言ったことで、間違いないと穂樽は判断した。

 

「あ、クライアントさん来たんだ。じゃあなっち頑張ってね。今回はセシルんがメインで、リンリンがそれをサポートという形みたいだから」

「それで証拠収集の実践も兼ねて私のところで研修、というわけですか。確かにそれだと情報の収集が手分けできるし、断続的に忙しいといわれてるセシルでも案件をこなせる。……なるほど、さすがアゲハさん。色々考えてる」

 

 呟いた穂樽の背中をもよが励ますように2度叩いた。それに送り出される形となり、応対用のスペースへと一足先に入り、ソファの背後に立って手帳を準備する。

 

「あれ、なっち座らないの?」

 

 次に興梠と共に来たセシルは首を傾げながらそう尋ねた。

 

「今の私は外様だからね。あなたと興梠さん、それにアゲハさんが座って丁度でしょう」

「でも、席が足りないんでしたら、この中で1番若輩の私が立つべきじゃ……」

 

 そう申し出た興梠だったが、相手にしないとばかりに穂樽に手の合図であしらわれた。

 

「あなたは本来ここの人間なんだからいいのよ。それに仕事柄立ちっぱなしは慣れてるから」

 

 まだ相手は完全には納得してない様子だと思ったが、穂樽は取り合うつもりはなかった。それこそがこの場において明確な弁魔士と探偵の線引き、そう思ったからでもあった。

 ややあってアゲハがクライアントと共に現れた。おそらく30代後半の女性、どこか疲れた色が濃く出ているのが目でわかる。その依頼人は目の前にいたのが見るからに若い女性2人と、背後に立つ1人という異色の組み合わせに困惑した様子だった。

 

 依頼人の名は梨沢杏(なしざわあんず)。穂樽の見立てどおり30代後半のウドの女性であった。夫もウドであるが、現在仲がうまくいっていないらしい。小学6年生の息子がおり、来年度には中学校に進学を控えている。そこを契機と考え、夫との離婚を考えているのだが、相談しようとしても取り合ってくれず、もしかしたら夫は不倫か何かをしているのではないか、とバタ法に相談に訪れたという話であった。

 

「夫は結婚当初は優しい人でした。いえ、結婚して10年ほどになる、しばらく前までそうでした。それが数年前から、突然人が変わったように様子がおかしくなっていったんです。家族間での会話は目に見えて減り、休日には行き先を告げずに出かけることは当たり前のようになって、それまで仕事が終わってから夕食時には間に合うように帰って来ていたのが常に遅くなり、どこかで食べてくるようになりました。どうしてか理由を尋ねても答えてくれず、問い詰めようとすると時には暴力を振るわれることもあって……」

 

 若い2人には少々刺激が強い話かもな、メモを取りつつ穂樽は考えていた。事実セシルは顔にこそ出していないものの、興梠は僅かに眉をしかめて渋い表情だった。そこで家庭内で何かあったかもしれないという昨日の興梠に対する仮説、そこにこの件が類似しているからかもしれないとも思う。

 が、彼女は軽く頭を振ってその考えを排除した。それをわかったところでどうしようもない。今気にかけるべきところはそこではない、目の前にいるクライアントの話だ。情報を聞き漏らさないよう、再び意識を目の前の相手の話へと集中させる。

 

「旦那様の異変に、何か心当たりはありませんか?」

 

 アゲハの問いに、依頼人の女性は静かに首を横に振る。

 

「いえ、特に何も……。私も息子も、何かをしたと言うわけではないと思っています」

「それで、不倫関係のことを考えた、と」

「そういうことになります。私達に理由がないのだとするなら、夕食をどこかでとってるみたいだし、あの人が個人的に何かがあってそういう態度になっていったと考えるのが妥当かと思いまして……。ですがあくまで想像ですので、そこも含めて、相談したいと思って訪ねさせてもらったんです」

 

 ふむ、とアゲハは顎に手を当てて考え込んだ様子だった。隣の若い2人も特に何も話そうとはしない。

 

「あの……」

 

 と、そこで依頼人の梨沢がアゲハに問いかける。

 

「なんでしょう?」

「疑うようで申し訳ないのですが……。私の件を担当してくださるのは、こちらの2人の女性ですか? 失礼ですが、その……まだ随分と若いようで……」

 

 まあそれは言われるだろうな、とも穂樽は思う。21歳と20歳、彼女はまだその年の時には弁魔士になってすらいなかった年齢だ。

 

「心配はご無用です。こちらの須藤は確かにまだ21歳と若いですが、17歳で史上最年少弁魔士となり、今年で5年目となるキャリアの持ち主です。既に多数の刑事事件裁判を含む、いくつもの案件の弁護をした実績を持っています。サポートに着く興梠の方は今年度採用しましたニューカマーですが、19歳で弁魔士となった、こちらも優秀な人材です。現在特別研修と専門の教育係ということで、かつてうちで勤務した後、現在探偵として調査関係においてスペシャリストのそちらの穂樽がついておりますので、万全の体制です」

 

 おいおい、と思わず穂樽は心の中で突っ込んでいた。それは自分を高く買いすぎだ。本来なら事務所内のメンバーでまかなえなくもなかっただろうとも思えてしまう。

 しかしアゲハの言葉は目の前の依頼人の信用を勝ち取るのに十分過ぎたらしい。彼女は目を見開き軽く頭を下げていた。

 

「これは失礼しました。……優秀な方々なんですね」

「私はともかく、この若い2人は間違いありませんよ」

 

 反射的に穂樽はそう口走っていた。アゲハに横目を流されながら僅かに笑みを浮かべられるのが、どうにも居心地としては悪い。

 

「……それで、旦那様の件ですが、もし不倫だと思われるのでしたら、その証拠になるようなものはありませんか?」

 

 アゲハの問いに、梨沢は首を横に振る。

 

「いえ……。家で夕食をとらなくなった、ということからその可能性を考えただけです。あと携帯を見ようとしても、彼は常に手放さないのでわかりません。逆にそこが怪しいとは思うのですが……」

「確かにそれはあるかもしれません。……どう思う、探偵さん?」

 

 そこで不意にアゲハは穂樽へと話を振ってきた。どう、と言われても自分よりあなたの方がわかっているでしょうにと心で悪態をついて苦笑を浮かべた後、さっき少し思い当たったことを尋ねてみる。

 

「旦那様の異変は、具体的に何年前ぐらいからですか?」

「何年……。3……いえ、4年前ぐらいだったかと」

「あなたも旦那様もウドですよね? ということは息子さんもウドで、来年中学でしたら11歳を過ぎているためにもう魔術は覚醒しているはず。息子さんの魔術覚醒の時期は、いつ頃ですか?」

 

 若い2人は意外そうな表情を浮かべて穂樽を見上げていた。おそらく意図がわからないのだろう。

 

「えっと……。小学4年の時だから……。2年前かしら」

「ではその時にはもう旦那様の異変は始まっていた、ということでよろしいですね?」

「それは間違いありません。結局魔術登録の際、夫は同伴してくれずに私が一緒に行きましたから」

 

 ふむ、と穂樽は小さく頷いてメモを取る。そんな彼女に「ねえねえ、なっちなっち」と目の前から小さめの声が飛んできた。

 

「今の質問、どういう意味?」

「……あんたねえ、依頼人の前よ?」

「あ、でもよかったら説明してくれませんか? 私も少し気になったので」

 

 付け足してきたのはその依頼人だった。彼女にまでこう言われては仕方ないだろう。ため息混じりに穂樽は口を開いた。

 

「息子さんの魔術が、言葉は悪いですがご両親にとって忌むべき種類だったとか、望んでいないものだった、という可能性を考えたんです。魔術の種類という話は、意外にも夫婦間の関係を揺らがせるようなものとなりうる、という事例は自分でも確認していますので」

「息子の魔術に関しては夫は特に興味も何も示しませんでした。魔術も砂塵魔術……。おそらく魔力を見ても優れているわけでも劣っているわけでもいないと思っています」

「砂塵魔術……。なっちと一緒だね」

 

 依頼人を前にしても相変わらずのセシルを一瞥し、穂樽は先を続ける。

 

「となると息子さんの魔術関係でもない。……改めて確認ですが、先ほどお話いただいた異変と、夕食を家でとらなくなった、携帯等を見せてくれない、という以外にこれといって不倫ではないかと強く感じる出来事はないわけですね?」

「そうですね……。とにかく私にも息子にも冷たくなったというか、あまり詮索されると怒るようになったというか、そういう印象があります」

 

 ありがとうございます、とメモを取りつつ答え、穂樽はもう十分、とアゲハに目で合図を送った。

 

「セシルちゃん、花鈴ちゃん、何かある?」

 

 少し間があってから、セシルは首を横に振った。

 

「いえ、セシルは特に」

「私も……同じです」

 

 それを受けてアゲハは話を進めた。いくつか事務的な話を進め、しばらく調査してみて不倫の可能性があるかどうかを判断、もしそうなら慰謝料等を踏まえての裁判も視野に入れる。違ったとしても、法的手続きを踏んだ上での離婚へと踏み切れる。その前に原因がわかって和解するなら、それでよしということになるだろうと説明した。

 

 しばらく話を続けた後で、依頼人の杏は丁寧に頭を下げて帰って行った。が、依頼人を見送った後も、穂樽は難しい表情を浮かべていた。

 

「穂樽ちゃん、どう見る?」

 

 その様子にアゲハが声をかけてきた。出されていたお茶を片付けようとしていたセシルも気になった様子で視線を移してくる。

 

「……私のカンですけど、不倫ではないと思います」

「根拠は?」

「だからカンですって。……まあそれなりに根拠はありますけど。今回のような場合、旦那がウドでないなら不倫は十二分にありうる。夫婦間の意見の食い違いで、夫はウドになる確率の高い子供を作りたくなくてセックスレス、その性欲の捌け口として不倫、というのはよく聞く例ですから」

「なっちが……そり姉みたいな単語を平然と口にしてる……」

 

 なぜか悲しそうにセシルがそう呟いた。思わず深くため息をこぼし諭すように話しかける。

 

「あのね、こちとらそういう仕事も多いから言ってるだけであって、好きでそういうことを言う下ネタ女王と一緒にしてもらいたくないの。……まああの人のおかげで免疫ついたってのはあるけど」

 

 と、そこでどこからか「誰が下ネタ女王だー!」という声が飛んできた。お前以外にいるか、と言い返したい穂樽だが、相手もそれなりに忙しいからそれ以上絡みにこないのだろうと考え、それは飲み込むことにする。

 

「……とにかく、既に子供を設けてる、そしてそれが原因でない。となると、あとは旦那次第、としか言いようがないです。でもその旦那が、不倫しているにしては堂々としすぎている。後ろめたいことをしているのなら、気づかれないように振舞うのが普通でしょう。ですがそれが感じられない。……どこか開き直ってるというか、自暴自棄な思考があるのではないかと思えるんです」

 

 意見を述べつつ、チラリと穂樽は興梠を仰ぎ見た。特に顔色に変化はない。もしかしたら穂樽が予想している彼女の家庭の話と似たようなものではないかと思ったが、やはり自分の考え過ぎだったかとアゲハの方へと視線を戻した。彼女は頷き、かつての部下の意見を聞き入れているようだった。

 

「自暴自棄、というのは、例えば会社でうまくいってなくて何かに逃げてる、とかってこと?」

「はい。ただ金遣いがどうのと言う話は出ていないのでギャンブルみたいなものはないかと思いますが、もしかしたら内緒で借金をしているのかもしれませんし、詮索を嫌うのはそのせいの行動ともとれなくもありません。あるいは酒や……法に触れてしまうようなもっといけないものに逃げている、ということも。無論、さっき言った自暴自棄の行き着く先には別な女性との交際、つまり不倫ということも考えられなくはないので、やはり現段階ではなんとも言えませんね」

「つまり実際に調べてみないとわからない、ということね」

 

 はい、と穂樽は頷いて肯定した。こうなれば、あとは自分達が動くだけだ。

 

「じゃあそのことは穂樽ちゃんと花鈴ちゃん、お願いね」

「アゲハさん、セシルは……」

 

 自分も何かしたいという思いが強くあったのだろう。だがそう尋ねたセシルに対してのアゲハの答えは、おそらく彼女が望むものからは遠かった。

 

「セシルちゃんは裁判になるとわかってから、資料作りなり動き始めね。最初は穂樽ちゃんと花鈴ちゃんに任せなさい」

「そんな……。じゃあセシルも2人と一緒に……!」

「あんまり大人数で動き回るのも考え物なのよ。本来ならあなたと興梠さんで調査をすべきなんでしょうけど……。私が抜擢されちゃったからね」

 

 せめてものアゲハに対する抗議を見せ、穂樽は答えた。だが相手は全く堪える様子はなく、それを微笑で受け流している。

 

「そういうわけだから、セシルちゃんはしばらく待機で。……その分、お母さんの件に力を入れなさい」

 

 ここまで言われてしまってはもう返す言葉もないだろう。納得しきってはいない様子だったが「……わかりました」と了承の言葉を彼女は口にした。

 

「じゃあ早速……」

「……の前に!」

 

 が、直後。穂樽の声をかき消して何か開き直ったようにセシルがそう切り出した。

 

「何?」

「お昼! リンちゃんとなっちと一緒に食べに行こうって思ってたの。それはいいですよね、アゲハさん?」

 

 さすがにこれにはバタ法の女ボスも苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「蝶野にそこまで指示する権限はないわよ。まあ丁度お昼だし、いってらっしゃい」

「やった! 行こう、リンちゃん、なっち!」

「はい!」

「……私の意見は無視なのね」

 

 諦め気味に呟きつつも、穂樽もお腹を満たしたいと思っていたのは事実だった。適当に乗っかるかと思ったところでもよも話を聞きつけたらしく近づいてきた。

 

「セシルん、もよよんも行っていい?」

「勿論!」

「ありがとー! セシルん大好きー!」

 

 いつまで経ってもこの2人は変わらないと穂樽は思う。が、直後、「……セシルんは渡さないからね」と真顔で興梠に告げたもよを見て、大人気(おとなげ)ないとも思うのだった。案の定、言われた相手は怖がっているように見える。

 

「もよさん、後輩いじめるのはよくないですよ? 本当にやめてあげてください。彼女怯えてるし、見てるこっちまでかわいそうになってきます」

「ふふーん、やっぱりなっちはいい子だねー」

「……あと確かにもよさんはここでは私の先輩でしたけど、年は私の方が上なんで子供扱いされるのもどうかと思うんですけど」

 

 抗議の声を上げても改善される様子はない。まあ今までもそうだったし仕方ないかと思うことにして、はしゃぐセシルと共に昼食に向かおうと彼女は思うのだった。

 

 

 

 

 

 昼食を食べ終えてからが調査の本番となった。まず穂樽は依頼人の梨沢杏の近所へと赴き、子供が彼女の息子と同級生の親から情報収集に当たった。何故そんなことをするのかと疑問そうな興梠に、「主観的情報では偏りが生じる可能性があるから、客観的情報を得たい」と説明してある。要するに無意識の内に自分に原因は無いと正当化している、あるいは気づいていないということもあるため、周りの意見を聞く、ということである。納得した興梠だが、訪問での聞き込みを始めてしばらくして、穂樽から役割をバトンタッチされるとかなり困った様子ではあった。

 

 その後再び移動し、今2人は依頼人の杏の夫、梨沢壮介(そうすけ)が勤める会社の入り口を臨めるベンチに腰掛けていた。この後対象が出てきたら尾行に移る。が、これからが本番だというのに隣の興梠はかなり疲れた様子でため息をこぼしているのがわかった。

 

「疲れた?」

 

 あくまで意識は会社の方へと向けたまま、穂樽が尋ねる。

 

「疲れました……。どうしても苦手なことなんで」

「でも交代して最初はぎこちなかったけど、最後の方はよかったじゃない? やっぱり慣れだと思うわよ」

「ですかね……。そうだといいんですけど」

 

 発破をかけようと褒めてはみたが、効果は薄かったらしい。もっとも今のは世辞でもなんでもなく、実際そう思っていたからではあったのだが。

 

「でもまあ、それだけの苦労をした甲斐は一応はあったと思うわよ。知人の人間の証言はほぼ総じて『小学校入学当初は明るかったが、それからしばらくして悩みを抱えたようだった』。ここに集約しているわ。依頼人の杏さんは保護者受けもいいみたいだし、彼女の主張は全面的に信じてもいいかもしれないわね。一方で夫の壮介についてほぼ情報が得られないというのは、彼が妻や息子と一緒にいる機会が少ないということの裏づけに他ならない。やはりこのまま彼を当たるしかない、ということがはっきりしたから」

「それはそうですけど……」

 

 しかし、どうにも興梠の表情は冴えない様子であった。特徴的な左右に跳ねた前髪が力なく垂れ下がっているようにも見える。

 

「どうしたの? 気分悪い?」

「あ、いえ。疲れはしましたけど、まだまだ大丈夫です。……私が思ったのは、梨沢さんの息子さんが魔術に覚醒してから、ちょっと不気味がって距離を置くようにしたという話を思い出して……。人って身勝手なんだなって」

「悲しいし残念だけど、そういうものよ。人とウドの誰もが分け隔てなく接するなんてのは、難しいことでしょうし」

 

 話しつつ穂樽は腕時計へと目を移した。時刻は17時。もし定時で上がるとするなら、この後目標の壮介が現れると予想できる。

 

「穂樽さんには申し訳ありませんが……。はっきり言って、私は人とウドがわかりあうことなんて夢物語だと思ってます。だから昨日夢がある方なんだな、って思って、ロマンチストって言ってしまったんです」

「その時にも言ったと思うけど、願うだけならタダって話よ。実際は確かに夢物語かもしれないと思ってる。ウド同士でだって、ぶつかり合うことはあるわけだし」

 

 隣で興梠が視線を落とすのがわかった。仮にも見張っている最中なんだから、と穂樽が注意しようとした矢先。彼女の口から「マカルとラボネ……」という単語が聞こえてくる。

 

「へえ、知ってるのね。私なんてつい数年前まで知らなかったのに」

 

 その一言に、興梠が一瞬身を震わせたのがわかった。

 

「……父が、少し詳しかったんです」

「そうなの」

 

 これ以上は踏み込まないでほしい。そういう雰囲気を隣から感じ取り、穂樽は続けて聞くのをやめた。やはり父親に対して、彼女はあまり良い感情を持っていないように思える。これからもあまり触れないほうがいいかもしれない。

 

 そんな風に考えていたときだった。意識を向け続けていた会社の入り口から現れた男の姿に、穂樽の視線が鋭くなる。

 

「あらあら。……この時間に帰れるのに夕食時に間に合わないというのはどうにも怪しすぎること」

 

 言われて、慌てて興梠も目を移した。見れば、対象の梨沢壮介が入り口付近から出たところで落ち着かない様子で辺りを見渡しながら携帯で何かを話しているところだった。興梠は慌てて立ち上がろうとする。が、穂樽が腕を掴んでそれを制した。

 

「ちょっと待って」

「何でですか? 目標が出てきたんだから……」

「私達の目的は尾行であって確保ではないわ。だから動き出すには少し早い。……それに対象、厄介そうね。かなりの警戒心を持ってる。あれだけ露骨に警戒しているというのは『常に自分は見張られている』みたいな被害妄想な面があるか、あるいは……本当にやましいことがあるかのどちらか。いずれにせよ、警戒心が相当強く見える以上、極力距離を置いて追うしかないわね」

 

 興梠は感心した声を上げたようだった。少し照れくささを感じつつ、相手が動き出したのを待って「行くわよ」と穂樽も立ち上がる。

 対象の壮介は常に早足だった。穂樽は慣れた足取りで追うが、不慣れな興梠はどうにか遅れないようにするのが精一杯で、時に小走りになったりもしていた。

 人ごみを掻き分けるように対象は早歩きを続け、やがて地下へと降りた。視界から見失う可能性を考慮して自然と2人も歩調を早め、どうにか逃がすことなく追跡していく。

 

「地下鉄……ですよね?」

「そう思うけど、家に帰るのにこの路線は使わないはず。……やっぱり何かあるわね」

 

 人が集中する改札を対象の壮介が抜けて、少し間を空けて穂樽が通過し、興梠も間に数人割り込まれながらようやく通り過ぎた時。

 

「興梠さん、急いで!」

 

 聞こえてきた発車のメロディと、同時に駆け出した壮介に穂樽は焦りを覚えた。追いかけたくともまだアシスタントが到着していない。人の波を掻き分け、ようやく合流出来たと同時に穂樽も駆け出した。

 

「どうしたんですか!?」

「丁度ホームに電車入ってきたのよ! 相手はこれに乗る気みたい!」

 

 慌てて階段を降りようとするが、既に電車から降りた客があふれて昇ってきており、どうにかホームに降りることができたときには、もう電車は行ってしまった後だった。一縷の望みを託してホームで壮介の姿を探すが、案の定もういないようであった。

 

「……ごめんなさい」

 

 自分のせいだと思ったのだろう。興梠がうな垂れる。

 

「いえ、今のは仮に私1人でも間に合うか怪しいタイミングだった。だから気にする必要はないわ。それに家と違う方向の地下鉄に乗った、というだけでも収穫よ。それから……相当手強いとわかったのも」

「手強い?」

 

 ええ、と相槌を打って穂樽は駆け下りた階段を昇りつつ答える。

 

「多分こちらの尾行は気づかれてはいない。でも、常時何かを警戒している。……異常なほどにね。そしてその気持ちは焦りにも似たものとなって行動に表れる。常時早足で歩いていたり、今の駆け込み乗車まがいの行動もそうと推察できるわ。ますますもって怪しいわね」

「怪しいって、依頼人の方が言っていた不倫じゃないということですか?」

「今日の一連の行動でその可能性はやっぱり低い気がしてきた。その場合愛人と落ち合う時間は余裕を持つはず。会社の入り口で電話をしていたのに、定時上がりの早足と駆け込み乗車というのは腑に落ちない。加えて……。愛人に会いに行くのにあんなに常時表情を強張らせておく必要ある? これから楽しいことが待ってるはずだというのに、よ」

 

 なるほどと興梠は唸った。しかし一方で穂樽はより難しい表情を浮かべていた。

 

「……これはちょっと本腰入れないときついかもね。興梠さん、明日から若干無茶するかもしれないけど、頑張ってついてきてね。きついと思ったら言ってもらえれば、まあ善処はするから」

 

 隣で相手が苦笑になったのがわかった。今日1日で既に大分堪えている様子であることはわかる。だがアゲハに預けられた以上、甘やかし過ぎるわけにはいかないと考え、明日からの調査に望もうと考えていた。

 

 

 

 




当初はこの話の後半部分を1話相当に引き伸ばしていたんですが、ちょっと冗長的かなということですっぱりカット。一気に縮めてここの後半に押し込みました。

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