◇
深夜の公園の暗闇を、美しい真紅の炎が切り裂く。その尾を引く無数の火球が着弾する先に穂樽の姿がある。彼女は自分の足でもって数発を回避、残りは自身の魔術である砂塵魔術によって舗装されたアスファルト下の砂を呼び出してぶつけ、どうにか防御しようとした。だがそのうちの一発が防御を突き破ってくる。視認すると同時、体を捻って回避を試みたが、左腕をかすめ、熱で鋭い痛みが走った。
「くうっ……!」
苦痛に顔を歪めつつも、視線は目の前の相手、自分の意志を失っている興梠へと向けられている。感情も何も無い表情の彼女は、次に弁魔士バッジに触れてから掌の上に大きめの炎の塊を作り出し、手刀でそれを払うという動作を取った。散弾を撃ち出すショットガンよろしく、炎の礫が拡散して穂樽の下へと飛来する。即座に回避は不可能と判断。両手を額にかざしてから振り下ろし、大地を隆起させて防御用の壁を作り出してその後ろへと身を隠す。だがかなり小粒であるにもかかわらず、数発が厚い壁を貫いてきた。
「嘘でしょ!?」
悲痛な声を上げると同時に、すんでのところで穂樽は残された壁の後ろへとどうにか退避。やりすごしたところでこれ以上の連続攻撃を防ぐために、牽制にしかならないとわかりつつも砂の塊を相手目掛けて放った。が、予想よりも呆気なくあっさりと、興梠が腕を振って作り出した灼熱のカーテンの前に全てがかき消されてしまう。
「ほらほらなっち、どうしたのー? もっと頑張らないと負けちゃうよー?」
少し離れた位置にあるベンチから飛んできた揶揄するような声に、穂樽は僅かに心を苛立たせた。傍らに意識のないセシルを寄りかからせつつ、機嫌良さそうに座って自分達を眺めるもよの様子を見てなおさら心がささくれ立ちそうだったが、どうにか堪えて目の前の相手に意識を集中しなおす。
現在双方の手は止まり、少し間ができている。だが鮮やかな炎を両手から宙に浮かべる相手に、穂樽は思わず歯噛みしていた。
興梠がかなり強力な魔力の持ち主であることはわかっているつもりだった。が、想像を遥かに上回る力に動揺せずにはいられなかった。確かに総合的に見ればセシルの方が優れているのかもしれない。しかし魔炎魔術に特化している彼女は、その一点においてなら穂樽の知るどんな魔術使いよりも優れた攻撃的な力の持ち主であった。それは初撃、平凡に見えた火球に自分の魔術で砂塵を集めてぶつけ、押し負けるどころか勝負にすらならず飲み込まれた時点で悟っていた。
以後穂樽は防御より回避を優先した。自分の魔力を動員して防御に回したところで、相手の驚異的な攻撃力の前に粉砕される。ならば魔力の消耗を出来る限り抑え、致命傷だけを避けるようにだけすればいい。その上で隙を突いて攻撃する。そう割り切り、回避に比重を置いた結果、相手も対応すべく今さっきのように低威力で広範囲の攻撃を多めに使用するよう切り替えてきていた。
しかし低威力、といえど防御を余裕で抜いてくる。しかも、ある程度コントロールされているのかもしれないが、興梠は全力の攻撃を仕掛けてきていないようにさえ思えた。あくまで余興、もよを楽しませるための演出。舐められている、とわかっても穂樽は怒りよりも安堵が先に出てくるほど、状況は一方的だった。
どうすれば勝つことが出来るのか。それも相手に可能な限り怪我を負わせず勝つにはどうしたらいいか。隙を突くという方針ではあるが、その隙が見当たらない。かといって手を変え品を変えで攻撃を仕掛けてみても、灼熱のカーテンによる絶対的な防御の前に全てがシャットアウトされてしまう。断続的な波状攻撃、フェイントを織り交ぜた時間差攻撃、背後からの不意打ち等、色々試してもみたが全て防ぎ切られた。
同時に穂樽の疲労も溜まりつつあった。直撃こそ無いが、掠めた部分はジンジンと痛み、それが原因で集中力が途切れれば魔術にも影響が出兼ねない。また、回避に専念しているせいで既に息が上がりつつもある。長期戦は不利だ。しかし打開策が見つからない。
悩める穂樽をあざ笑うかのように、それまで両掌の上で炎を遊ばせるように揺らめかせていた興梠が動いた。炎と共に両手を前へと突き出し、呼応するように赤い揺らめきが膨れ上がる。
瞬間、焦りが穂樽の心を占めた。あれは以前踏み込んだ廃ビルの中でマカルのウドに対して見せた、さらには今日も何度か行っている使用法だとわかったからだ。しかし込められている魔力がおそらくこれまでよりも多い。威力が跳ね上がっているに違いない。
彼女の予想を裏付けるように、両手から弾幕さながら、広範囲に渡って無数の火球が放たれる。しかもそのサイズは過去のものより大きく、そして数も多くなっていた。
下手に動けば逆に当たる。穂樽は魔力を動員して砂を集積させ、これまで以上に分厚く防御の壁を生成。その裏に身を隠し、攻撃が止むのを待つ選択を取った。そんな穂樽目掛け、容赦なく火の玉は襲い掛かる。壁に着弾すれば破壊せんと揺らし、側面や背後に炸裂すれば熱風と地面の礫を浴びせる。
そのせいで集中が揺らいだか、あるいは底上げされた威力の影響か。防御用の壁が耐えかねて崩壊した。次を生成するために意識を集中しようとするが、数発の炎の弾丸が自分目掛けて飛来するのを、穂樽は目撃してしまった。
避けられない。防御も間に合わない。そう思った時、絶望感と激痛が同時に彼女を襲った。
「あぐッ……! うああああああッ!」
一発目は右足の
「あーあ、当たっちゃった。なっち大丈夫ー?」
大して心配していないような問いかけに反論する気さえ起きず、歯を噛み締めて痛みを必死に堪える。抑えた左腕は吹き飛ばされてはいなかった。が、火傷と爆傷が酷く、動かそうとすれば痛みが走る。むしろ、そこより傷自体は軽いものの右足の方が問題だと、顔を歪めたまま視線を動かす。立てなくは無いが、これでは走ることは出来ない。逃げを封じられた以上、絶体絶命の状況に陥ってしまった。
「その足じゃもう走れないかな? ……でも運がよかったね。もし一発目でよろけなかったら、二発目は体に当たってたよ。そうしたら……死んじゃってたかもね。私にとって傷を治すぐらい簡単だけど、さすがに死んじゃったら難しいんだよね」
聞こえてくる言葉も半分ぐらいしか耳に入らない。万事休すかと穂樽の心に諦めの気持ちが浮かんでくる。
「諦めちゃうの、なっち? セシルんを私に渡さないんじゃなかったの?」
「う……。くっ……」
強がりの言葉すら出せない。体に走る痛みと同じほど心も折られた穂樽は、ただ呻くことしか出来ずにいた。
「……その程度だった、か。ちょっと残念。じゃあこれでさよならかな。……リンリン、とどめさしちゃって」
主の無慈悲な指示に応じようと、操られた興梠が弁魔士バッジに触れる。握っていた手を開いて炎を生み出す一連の動作を、少し汚れた眼鏡のレンズ越しに穂樽は眺めていた。あれを放たれれば自分は焼き尽くされるか、爆散するか。いずれにせよ、死が待っていることに変わりはない。だがそんな絶望的な状況に反して彼女の心はどこか達観していた。どうせ死ぬなら、最後に煙草でも吸って一服するのも悪くないかもしれない。自虐的にそう思って右手を無意識にポケットの中に入れた、その時だった。
何かに思い当たったように目が見開かれ、虚ろだった穂樽の瞳に活力が取り戻された。そして呻き声を溢しつつ、ゆっくりと体を起き上がらせる。
諦めたくない。セシルを勝手にさせるわけにはいかない。浅賀のコーヒーをまた飲むという約束を破りたくない。
このまま寝転がっていても何も変わらない。だったら、ダメで元々。散る前にやれるだけのことをやってやると、開き直って立ち上がった。
「お、立った立った、なっちが立った! いいよいいよ、そうじゃないと面白くないもんね!」
茶化すようなもよの声を聞き流しつつ、左足に重心を預けて立ち上がった穂樽は右手をかざした。攻撃の姿勢を見せようとしているのに相手は先手を取らない。余興として楽しむために、最後の抵抗を防いだ上で反撃へと転じる考えかもしれない。
だがむしろ好都合だった。足の傷で動けない以上、後手に回るのは不利でしかない。次の攻撃に全てを賭けるべく、穂樽は意識を集中させた。
周囲の砂塵がかき集められる。気合の声と共に塊となって撃ち出され、興梠へと迫る。対するは絶対的防御の灼熱のカーテン。炎を浮かべていた右手を横に振るい、これまで同様防御の幕を作り上げる。その前に穂樽の魔術が全て防ぎ切られかけた。しかし、そのタイミングを穂樽は待っていた。
不意に穂樽は魔術の行使を中止し、右の上着のポケットから何かを取り出して投げつけた。残っていた砂塵によって相手はそれが確認できなかったのかもしれない。あるいは防御用の幕がまだ残っていたために対処を取るまでもないという判断だろうか。
直後、砂塵の攻撃を防ぎ切った興梠の目の前で小さな爆発が起こった。残っていた炎へと穂樽が投げつけた何か――ライターが引火したのだ。操られているとはいえ相手は人間、予想外の爆発に反射的に目を閉じ、手で顔を覆う。
それが、ここまでの中で興梠が見せた唯一の隙だった。既に穂樽は次手を打っている。視界の外、背後からの攻撃。気づいた相手が防御のカーテンを展開するより早く、砂礫が背中へと叩きつけられた。
バランスが崩れたところに最後の一手。足元を這うように突き進んだ砂の塊が、急角度で打ち上げられる。アッパーカットのように顎を捉えた一撃は、華奢な興梠の体を僅かに浮かせ、そのまま背中から倒れこませた。
「やった……」
攻撃は狙い通りに入った。ライターの爆発で隙を作り、背後からの攻撃でバランスを崩させながら防御を阻止し、顎を狙って
果たして興梠は立ち上がらず、荒い息で肩を揺らしながら穂樽はその様子をただ眺めていた。そこで不意に、手を叩く音が聞こえてくる。
「お見事。この勝負、なっちの勝ちだね」
ベンチにセシルを座らせたまま、もよは穂樽に拍手を送りながらゆっくりと近づいてきた。そして意識を失っている興梠へと手をかざし、再び穂樽の方へと顔を上げる。
「……何をしたんですか?」
「心配しなくていいよ。目を覚ますと面倒なことになるから、そのままちょっと眠ってもらっただけ。……それにしてもなっち、見事な土壇場の逆転劇だったねー。まさかライターで活路を開くとは思ってもいなかったよ」
「今日ばかりは喫煙習慣に感謝せずにいられませんね。こういう形で使うことになるとは思ってもいませんでしたが」
右手で痛む左腕を押さえ、右足を引き摺りながら穂樽は倒れた興梠の傍に立つもよの元へと近づき始めた。その様子をどこか嬉しそうに見つめつつ、もよは話しかけてくる。
「これでペナルティ分はチャラだね。さ、あとはなっちの最終解答の時間だよ。私の正体は何者か。……もうわかってるんでしょ?」
近づいた穂樽は足を止め、大きく深呼吸した。人ならざる者を正面から見据え、口を開く。
「……10年前にセシルが麻楠の召喚魔術によって蘇生された際、彼女の魂と共に人知れずこの世界に潜り込んで来た存在。それが、あなたの正体です。そうじゃありませんか、堕天使ルシフェル」
もよの顔から笑みがこぼれる。だがその中に普段見る奔放さはなく、妖艶さを秘めたものだった。それから静かに肩を震わせ、笑い声をこぼす。その声もまた、普段のもよのものとは違う。いや、人のものですらないと穂樽は感じ、小さく体を震わせた。目の前の相手は、穂樽が知っている姿からかけ離れ、顔には悪魔的なシルエットを浮かび上がらせている。
『……愉快、実に愉快。そして見事だ、
充血したかのような赤い眼と人間にあるはずのない鋭い歯。加えて本来の彼女の声からほど遠い声色に、正体がわかっていてなお穂樽は目の前の相手の豹変が信じられなかった。
『どうした、何を怖れる? 我の正体を見破った貴様の勝ちだ。手は加えん』
「それが……あなたの本当の姿、ルシフェルの姿ということですか?」
らしくなく声が震えている、と自覚した。魔術が存在するなら悪魔が存在してもおかしくない、と思ったことはある。召喚魔術の話を聞いてもなんらおかしいとも感じなかった。それでも存在を認めた上で初めて目にする存在に、穂樽は緊張を隠せずにいた。
『いかにも、と言いたいところだが、我は本来意識体の存在。見た目が変われど、あくまでこれはこの世界で活動するために作り出した器に過ぎない。もっとも、この器は須藤セシルの潜在意識の中にあった人間の姿を参考にしてはいるがな』
「セシルの潜在意識の中……? そうか、幼い頃の小田さんがもよさんに似ていた気がしたのはそれが理由で……」
ルシフェルは含んだような笑いを響かせ、穂樽の言葉を肯定した。
『貴様は我との戯れで、見事に我を満足させた。約束どおり須藤セシルは諦めるとしよう』
「……質問してもよろしいですか?」
『なんだ?』
「セシルをもらう、というのは具体的にはセシルの魔力を奪い去る、という意味でよかったのですか?」
やはり目の前の人ならざる者は笑っていた。問答を楽しんでいるようでもあった。
『おおよそ間違えてはいない。しかし我は本来器を持たぬ身。故にその器として須藤セシルの肉体をもらい融合する、という言い方のほうが正しいな。結果として魔力も我のものになる、というわけだ』
「それって……4年前に麻楠がやろうとしていたことじゃ……」
『……あの男も愚かな人間だ。あの程度の力を借りずとも、須藤セシルの潜在魔力と我の力だけで事は成し得る事が出来た。もっとも、あと一歩というところで邪魔が入ったわけだが』
「つまり麻楠は初めから空のくじを引かされていた、ということですか」
麻楠が拘置所で穂樽に話した内容は本当だった。ルシフェルは彼が召喚儀式を行う前から人間界に潜んでいた。
しかしそうだとするとどうしても解せない、と穂樽は僅かに眉をしかめた。それに気づいたのであろう、ルシフェルがまたしても小さく笑う。
『まだ疑問があるようだな? 言ってみよ』
「では遠慮なく。あなたの言い分ではいつでもセシルを『もらう』ことが出来たはず。にもかかわらずあの時から既に4年が経っている。この間が空いているという、その理由はなんですか?」
『なるほど、いい問いだ。理由は2つある。1つ目は時を待った、ということだ。すなわち須藤セシルがより強大な魔力に覚醒する時、そして……当人も気づかぬうちに徐々に我が須藤セシルの精神や肉体を支配していき、融合しやすくなる時だ』
思わず穂樽は目を見開く。セシルの気づかぬうちに精神や肉体を支配していた。その事実は十分驚愕に値するものだった。
『どうやら誤解しているようだが、須藤セシルの蘇生は麻楠の功績ではない。我の力によるものだ。それ故、気づかれること無く次第に支配することが出来たのだ。しかしあれ以降、魔力の覚醒に大きな変化はなかった。結果としてこれは無駄だった。だがそれはもっと早くにわかっていたことだ。加えて我の支配ももう十分、行動を起こそうと思えばいつでも可能だった。そこで2つ目の理由が出てくる。麻楠史文の言葉を借りるなら悪魔の気まぐれ、とでも言っておこうか。貴様達卑小な人間を見ていることが愉快になってきたのだ』
「……私にゲームを吹っかけてきたのも、それが理由ですか」
いかにも、とこれを肯定する。さらに相手は続けた。
『卑小な人間が懸命に足掻く様は実に愉快だった。そしていつしか我も人間と同じような感覚を持っていたのかもしれん。……しかし鮮度というものは失われていくものでな。このままいずれは須藤セシルも肉体的、魔力的に衰え始める。それより先に、という思いがあった。加えて、奴の母親も戻るかもしれぬという話ではないか。そうなればより困難になると考え、この時期を選んだ』
その言葉に、穂樽は反射的に小さく笑いをこぼした。それに対し、ここまで常時笑いを含ませていたルシフェルの雰囲気が変わる。
『……何がおかしい』
一転して声色は固くなっていた。だが先ほどは緊張していたはずの穂樽は、今度は堪えない。
「申し訳ありません。……悪魔の気まぐれ、で片付けるにはどうにも人間らしすぎる、と思ってしまったものですから」
『人間らしすぎる、だと?』
「ええ。人間と同じような感覚を持っていたのかもしれない、とおっしゃりましたし、セシルの母親の件も考えるなど、どうにも人間臭さを感じます。そんなこと本来なら考慮にすら値しないことかと思ったんです。何より……わざわざ私にゲームを吹っかけてきたのは、本当は私に止めてもらいたかった、そのための口実が欲しかったんじゃないか、とも思えたんです。いかにも人間らしい発想だな、と」
相手はしばらく何も返さなかった。だが先ほどまでと同様、笑い声を溢してから言葉を発した。
『なるほどなるほど。無礼な物言いではあるが、興味深い。許そう。確かに人間と接する期間が長かったがために、我も人間のようになってしまったかもしれぬな。そのことは否定すまい。人間に馴染み、足掻く姿を目にし、その中で人間として存在していることも悪くないと思ったのは、事実ではあるからな』
穂樽は薄々気づいていた。「悪魔の気まぐれ」だけでは無いであろうと。隣の芝生は青いのだ。人智を超える力を持つものが、遥かに劣る人間に興味を持つことなど、なんらおかしくは無い。古より言い伝えられている、よくある話ではないかとも思える。
『しかし、それ故少々残念ではあるな。須藤セシルを諦めるのであれば、我はこれ以上ここにとどまる理由も無くなる。……ああ、安心するがいい。その前に傷は治してやる。それから我に関する記憶と記録も消させてもらおう』
「待ってください。それじゃ……天刀もよという存在はどうなるんですか?」
『あれは元々我がこの世界で行動するために作り出した仮の姿。故に我の帰還と共にその存在も消える。だが先に言ったように記憶は消していく。最初からそのような人間はいなかったということになるだろう』
「そんな……」
穂樽は僅かに表情を曇らせる。それに対して訝しげなルシフェルの声が響いてきた。
『何を気にかける必要がある、卑小なる人間よ。言ったではないか、最初から天刀もよはいなかったことになる。その存在すら知覚できないのであれば、別れを悲しむなどという人間的な感情を味わわずに済むではないか』
全うとも思える指摘に、穂樽は凛とした声で答える。
「確かに結果だけを見ればそうかもしれません。ですが人間は、結果だけのために生きているのではないとも思うのです。結果だけを見るなら、人間はいずれ死ぬ。あなたからすれば、我々の生など瞬きする間にも等しい、短いものかもしれません。だけど、その時を懸命に生きているのです。
これからのことを考え、もよさんのいないバタ法を想像すると寂しさを感じます。私は彼女と過ごしたバタ法での日々を忘れたくありませんし、セシルや他の皆もきっとそうだと思います。……だけど、はっきり言って今回の件はかなり頭に来ました。それでも、全てをわかった今、もよさんに対して消えてほしいとまで強く憎むことはどうしても出来ませんでした。明確な敵意を抱いていた相手ではない、セシルを諦める、そうわかっただけで、どこかホッとした気持ちがあったことは否定できません。可能ならこれまでの関係をこれからも続けていきたい。今はそう思う気持ちが強く生まれています」
黙って聞いていた堕天使は、穂樽の話が終わったとわかると小さく笑い声を響かせた。
『面白いことを言う。だが我は人ならざる者ぞ? なのに寂しいと言うか? 我にこの世界に残れと言うか?』
「その通りです。ですが、私は堕天使ルシフェルに言っているのではありません。バタフライ法律事務所のパラリーガル、天刀もよに言っているんです」
声を上げて、目の前の相手は笑った。同時に禍々しかったその容姿が、穂樽のよく知る明るい表情へと戻っていく。
「もよさん……」
名を呼ばれても天刀もよは腹を抱えるようにして笑っていた。ようやくそれが落ち着いてきた頃に穂樽を見ながら口を開く。
「……あー笑った笑った。なっち面白ーい。今回の件で散々酷いことしたのに私と過ごした日々のことを忘れたくない、これまでの関係をこれからも続けていきたい、だって。リンリンが言ったとおり、本当にロマンチストなんじゃない?」
「もうそれは否定しません。これまでも十分言われてることですから」
「そこは否定しないと。それじゃなっちツンデレじゃなくなっちゃうじゃん」
「誰が何ですか」
再び声を上げてもよが笑う。いつものようなやりとりをどこか懐かしく感じ、釣られるように穂樽も微笑を浮かべていた。
「やっぱりなっち面白いよ。……でもごめんね。さっきのは出来ない相談なの」
しかし笑顔と共にそう言われた一言に、穂樽の表情は凍りついた。
「そんな……! どうして!」
「だってもよよん悪魔だしぃ。怖いんだよ、危ないんだよ?」
「それは……!」
「だからね、相容れない存在なの。ウドと人間の問題より、遥かに無理な話。なっちはウドと人間がいつかは手を取り合えることを願ってるみたいだけど、まさか人ならざる者と取り合える手があるなんて思ってもいないでしょ?」
穂樽は無言と共に視線を落とす。そんな彼女に「それにね」と声が降り注いだ。
「悪魔は気まぐれなの。だから気が変わらないうちにセシルんを返して、私は消えるね」
「もよさん……!」
「大丈夫、さっき言ったとおりなっちの傷は治してあげるから。その上で私がいたことなんて綺麗に忘れてるようにするからね」
届かぬ主張とわかりながらも穂樽はなおも声をかけようとした。だがそれが出来ない。いや、体すら動かない。もよの力によるものだということはもう疑う余地もなかった。
「ごめんね、なっち。でもさっきの言葉、嬉しかったよ。私も一緒に過ごせて楽しかった」
もよの右手が穂樽の前にかざされる。やめて、と心の中では叫んでいるのに、それが声になることはなかった。そして目の前にある右手から生み出された光の中で、穂樽はもよの笑顔を確かに見ていた。
「じゃあね。バイバイ、なっち」
◇
バタフライ法律事務所は普段と変わらない1日を迎えていた。その昼前、入り口の扉が開かれる。万能受付嬢の抜田が視線を移し、馴染みの相手とわかると僅かに表情を崩して声をかけてきた。
「こんにちは、穂樽さん。いつもお疲れ様です」
「いえ、こちらも依頼無いときは食い
どこまで冗談かわからない返しに、思わず抜田の表情に苦いものが浮かぶ。が、直後、「なっちー!」というかつての同期の声が聞こえてくると、今度は穂樽の表情にそれが浮かんでいた。
「……あんたねえ、興梠さんの前だから先輩面するんじゃなかったの?」
「そんなことしなくてもリンちゃんは私のこと認めてくれてるから。ね?」
「は、はい!」
すっかり若手迷コンビとなってしまったセシルと興梠のやりとりを見て、穂樽は大きくため息をこぼす。
「興梠さん、この子あんまり調子付かせないほうがいいわよ? 色々ルーズだし、すぐ魔禁法違反するし。多分あなたの方がしっかりしてるから、ちゃんと面倒見てあげて」
「ちょっとなっち、セシルのこと子供扱いし過ぎ!」
「十分まだ子供でしょ」
セシルから飛んできた反論に短く返しつつ、穂樽は鼻で笑って交わした。同時に、次にセシルへの援護射撃が飛んでくるだろうとも予測する。
「コラなっち! セシルんのことをいじめるなー!」
予想通り、と穂樽はその声の主へと視線を移す。
「わかってますって。
口を尖らせたままの
全てが凍りついたように止まった。例えでもなんでもなく、その場にいる全員の動きが止まっている。いや、厳密には全員ではなかった。唯一その中を悠々と歩く、その力を使った張本人――天刀もよだけは、止まった時の中で穂樽の傍へと歩み寄ろうとしていた。
「聞こえてないと思うけど、私の完敗だよ、なっち。セシルんをもらうのは諦めるね。それから、先週1週間のことは綺麗に工面したから、私以外誰も何も覚えていない。苦労したんだから、感謝してよ? ……でもね、バイバイとか言っちゃったけど、もうちょっとだけセシルんと、そしてなっちや皆と一緒にいることにしたの。なんて言っても、悪魔は気まぐれだからね。……同時に、悪魔は嘘つきでもあるんだよ」
クスッともよは奔放さだけを含む笑みをこぼす。それから穂樽の右の首元へ優しく唇を触れさせた。
「それじゃもうしばらくよろしくね、女探偵さん。たまにここに顔を出す時を楽しみにしてるから」
独り言のように言いながら、もよは元の場所へと戻っていく。その瞬間を待っていたかのように、止まっていた時が動き出した。
「ひゃんっ!」
同時に穂樽の間の抜けた声が響き渡る。彼女は右の首の辺りを押さえていた。
「ど、どうしたんですか、穂樽さん!?」
驚いたような興梠の問いに、穂樽は首をさすりながら答えた。
「今、首の辺りにヒヤッとした感覚が……」
「なっちが……『ひゃんっ!』だって……! ねえ聞いたリンちゃん? 今のなっち……」
笑いを堪えるようにセシルがそう煽ってくる。思わずキリキリと穂樽は眉を吊り上げた。
「うるさいわね! あんたでしょ、今何かやったの!」
「知らないよ! セシルじゃないもん!」
「2人とも落ち着いてください……」
口論になりつつある穂樽とセシル、それを止めようとする興梠。その3人を見つめつつ、もよは僅かに笑顔を見せていた。
「……穂樽ちゃん? 楽しそうにしてるところ悪いんだけど、そろそろ来てくれないかしら?」
そこで聞こえてきた、静かながらも有無を言わせぬ口調に、穂樽は「す、すみません!」と反射的に謝罪の言葉を返していた。次いで「あんたのせいよ」と小声で漏らして穂樽は足早にアゲハの元へと向かおうとする。
「なっち、後でお昼食べに行こ? そこでセシルんと仲直り。いいでしょ?」
遠ざかろうとする背にもよの声がかかる。穂樽は足を止めて振り返り、ため息をこぼした。
「もよさんにそう言われちゃ断れませんね。つき合わせてもらいますよ」
「でももよよんがそういう提案してくるなんて珍しいね。どうしたの?」
セシルのこの問いには穂樽も同意だったらしい。アゲハのところに行かなければいかないとわかりつつ、どうやらそれだけは聞こうと答えを待っているようだった。
そんな2人の様子にもよは僅かに口の端を上げる。そしてウインクを見せながら、明るい声で告げた。
「だってもよよんは、セシルんもなっちも大好きだからね!」
フォーリン・エンジェル (終)
フォーリン・エンジェル、これにて完結です。同時にこの作品も完結にしたいと思います。
原作アニメが徹底してセシルを描くストーリーだったので、サブのキャラ、特にいいキャラをしていながらいまひとつ出番が無いように思えた穂樽に焦点を当てて書いてみたい、と思ったのがこれを書こうとしたきっかけになります。
当初はエピソード1に当たる話を中編で書いて終わろう、と思っていたのですが、それすら書けるかわからない。だったら考えた設定を流用してサイドストーリー的に短編を書こうとなったのが、現在のエピソード0になります。
しかし実際に書き終えてみると意外と書けるとなって本格的に着手。エピソード1を書いている最中に、エピソード3に当たる大学時代の教授への不倫紛いの恋の結末や、もよの正体に迫る今回の話などを思いつき、いくつか分けて書いてみようとなって、このような形になりました。
終わってみると30万字強となっていました。足りない頭を絞ればまだアイデアは出てきそうな気もしますが、ありきたりな話になってしまう可能性もありますし、大体アニメ終了から1クール程度経った頃なので、この辺りで締めようということでこの話を持ってきました。
最後に、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。好き勝手書いた話ですが、楽しんでいただけたのなら幸いです。