──セノウ、北方熱の猛威止まらず……村民の半数以上が感染か──
「……はぁ」
息抜きのつもりで開いた日刊フィルガルト新聞の見出しに、今一番見たくない文字列を見つけてしまい、思わず溜息が出る。続きを読む気にもならなかったから、くしゃくしゃと乱雑に折りたたむ。デスクのパーテーションに引っ掛けられた丸い時計は既に九時を指していた。
机に突っ伏すと否が応でも目に入る、山積みにされた資料にも嫌気が差す。今週中に片付けてしまいたいレポートやレジュメが溜まっているというのに、ペンは遅々として進まず、文献に目を通す気力すら湧いてこなかった。今日も朝からこの研究室に缶詰めしているというのに、埋められたのは原稿用紙に二、三枚だけ。資料に向かおうとしては気が散ってしまい、飲んだコーヒーの杯数だけが際限なく増えていた。
もっとも、私が期日までにレポートだの論文だのを提出出来なかったところで、そのことを咎める人は誰も居なかっただろうけれど。セノウを恐怖のさなかへと追いやっている不治の伝染病──大陸中のセノウの位置から北方熱と名付けられた──は、今やフィルガルト大陸全土の関心を集めていたし、私がそのセノウの出身者だということも、私は一度も言った覚えが無いのに、いつの間にか同僚のほとんどが知るところとなっていたのだから。
セノウ出身の友達の中には、疎開先で謂れのない嫌がらせを受けている人も居るみたいだったけれど、私の研究室の人たちはおおむね気を遣ってくれていた。私が三か月ほど前に北方熱で両親を亡くして以来、気が抜けたように研究が進まなくなり、万全の状態で発表できるはずだった学会をキャンセルした時も、周りの人たちは焦らなくていいと言ってくれた。もっとも、中には露骨に腫れ物扱いして避けてくる人も居ないではなかったけれど。
ただ問題なのは、私が以前持っていたはずの、このフェイマル大学でのサウスフィルガルト文学の研究への熱意を失いかけていることだった。いま故郷の漁村が伝染病で壊滅的な被害を受けているというのに、私は毎日大学の建物に籠って、遠く離れた土地の空想上の物語の分析に勤しんで、一体何の役に立つというのだろうか。結局は自分のちっぽけな知的欲求を満たし、あるいは同好の後輩たちにその知識を伝えることぐらいしか意味が無いではないか。その疑問は両親の死以来沸々と大きくなり始め、もはや北方熱が終息したとしても収まることは無いように思えた。フェイマルで両親の病の報せを受けた私は、感染の危険から故郷へ戻ることも出来ず、今日まで墓前に花を手向けることすら出来ていなかったのだから。
両手に頬を押し付けたまま窓の方へ顔を向けると、暗闇の中に窓ガラスに付着した細かい水滴が浮かんでいた。フェイマルはこの時期霧雨が多い。今日は晴れると天気予報を見たから洗濯物を干してから大学に来たのに、この分だとまた洗濯をやり直しだな。誰も居ない散らかった大学の寮室に戻るのが、ひどく億劫に思えた。
「ようラーフィア、あんまり根を詰めるなよ」
ふと背後から声を掛けられ、はっと体を起こす。
「あ、アズグレイ先生、まだ残ってたんですか」
透明さの中にも鼓膜を直接震わせるような芯のある声。見上げると、肩のあたりまで伸ばした透けるような銀色の長髪の合間から、柔らかく微笑む両目が覗いている。カモシカのように長い手足ときめ細かくシミ一つない肌は、女性の私でも羨ましく思ってしまう──アズグレイ先生、その人だった。今外から帰って来たところなのだろうか、ワイシャツの袖口は雨に濡れ暗く染まっており、頬のえくぼには細い水滴が伝っていた。
もうみんな帰ったものとばかり思っていたから油断した。変な独り言なんて喋っていなかっただろうか。
「センセイ、なんて付けなくていいさ。俺もラーフィアと同じ、まだ学生研究員なんだから」
「ですけど、畏れ多いですよ。あれだけの業績を残してらっしゃるんですから」
そう言って冗談っぽく笑う。そういえばこうして自然に笑うのは今日初めてのことだった。ちっとも作業は進まないのに、焦りと義務感から机に向かうことだけはやめられないせいだ。
アズグレイ先生は、その野暮ったさと無縁な幽玄たる美貌だけでなく、人を惹きつけるような天性の魅力があった。幼い頃から勉強も魔術も得意だったけれど、愛想が無いだとか怖いだとか事あるごとに言われ続けてきた私にとって、それは憧れでもあり嫉妬の対象でもあった。
その上学業でも抜群の成績を残し、来年からは晴れて大陸一の名門校であるノーステリア大学の教授職に就くというのだから、一体天は何物を与えるのか。
「アズグレイ……さんは、今から帰るところですか?」
「いや、俺はもう少し残るよ。ちょっと総合図書館で調べ物してたんだ。」
アズグレイ先生は右手に提げた図書館の手提げ袋をくいと挙げながら言った。私は文学、アズグレイ先生は歴史学で、専攻している分野は少し違っていたけれど、図書館で史料に没入している先生の姿はしばしば見かけた。何でも簡単にこなしてしまうイメージのある先生だけど、その能力は地道な努力に裏打ちされているのだろう。よく同級生の女の子たちが、アズグレイ先生はイケメンだとか天才だとか甲高い声で喋っていて、私は冷めた目で見ていたような覚えがあるけれど、私だって本心はあの女の子たちと変わりなかった。
だけど今は、これ以上研究だの学業だののことを考えていると、頭が割れてしまいそうだった。先生が持っている本の山を直視したくなくて、足元に目を伏せる。年季の入った研究室の木床には、指先で掴めそうなほど大きなホコリがいくつも落ちていた。
「……セノウのことか?」
「……ええ、まあ」
思いもかけず核心を突かれ鼻白んでしまう。一方で、不思議とその言葉は私の裡に抵抗なく沈んでいった。近しい友達でも気を遣ってか、セノウのことを正面切って問うて来るようなことはなかったし、無神経な学科のオヤジ教官に聞かれた時なんかは思いっきり不愉快な顔をして追い払ってやったというのに。
私は、自分が故郷のことを誰にも話したくなくて、ただ放っておいてくれることを望んでいるのだと思っていた。誰かに相談するなんて考えもしなかったし、そもそも何を相談していいのかも分からなかった。それが、こうして先生に問いかけられてみると、本当は誰かに話を聞いて欲しくて仕方なかったのだと認めざるを得なかった。先生の口から故郷の名前を聞いた途端、胸の重い氷が溶けていくような気がしたのだから。先生はきっと最初からお見通しだったのだろう。
「良かったら、屋上にでも涼みに行かないか?籠りっぱなしじゃ疲れるだろ?」
先生は手提げ袋をずしりと机の上へ置く。左手首から飾り気のない銀色の細い腕時計が覗いた。
「屋上?でも、今雨降ってますよ?」
「ああ、テラスみたいになってて、屋根もあるんだよ。良かったらどうだ?」
そうなんだ。この大学に入ってもう五年、この棟に籠るようになってもう一年が経っているというのに、全然知らなかった。講堂と研究室、それに食堂ぐらいしか用事の無い私がおかしいだけで、みんな普通に使っているのだろうか?
「……そうですね、お伴します」
夜の屋上にアズグレイ先生と二人で居た、なんて誰かに見られたら、また変な噂を流されるな。そんな考えが脳裏をよぎったけれど、それならそれで構わないと思った。どこか窓が開いているのか、細い糸のような雨が柔らかく土を撫でていく音が部屋の中まで聞こえてきた。
*
外壁から突き出した庇の下に据え付けられたベンチに、アズグレイ先生と並んで腰を下ろす。フェイマル大学のシンボルである時計塔の上に昇った月が、空一面を薄く覆った雲にその姿をぼやけさせている。
錆びた鉄柵の向こうには、フェイマル市街から放たれる光が暗く沈む夜の海へと弧を描いて連なり、更にその先には対岸のアネート港が雨に煙る姿も望むことが出来る。
「賑やかなもんだな。俺の実家なんて、夜の7時も過ぎれば真っ暗で怖かったくらいだが」とアズグレイ先生が呟く。
このフェイマルとアネートは、狭く切れ込んだ海峡を挟んで対を成すように発展した港町で、有史以来サウスフィルガルト一帯の産業の中心地となっている。大陸の南西部を占めるサウスフィルガルトは必ずしも都市の発達した地域ではなかったが、その中でもこの双子の街は、大陸中を行き交う商人たちの交易の要衝として、またその古くからの歴史に裏打ちされた学問の拠点としても、各地から多くの人を集めていた。
先生の言う通り、私の故郷とも全く違う──。
「アズグレイさんのご実家って?」
「イーストプレーンの方だよ。山奥で何もないところさ」
そうなんだ。そういえば、先生の出身の話って、聞いたこと無かった。フェイマル大学に入学して二年目の夏頃だっただろうか、文化史のゼミで知り合って以来、専攻は違えど研究対象の似通っていた私たちは、授業や学問に関する話は何度も交わしてきたけれど、プライベートに立ち入る話をした覚えはほとんど無かった。
あの頃既にアズグレイ先生は、学生の身分でありながら教授陣の右腕として次々と業績挙げていて、研究者としての将来を嘱望される存在だった。それでいてスラリとした長身に、世俗離れしたようなルックスまでも兼ね備えていて、周りの学生みんなの憧れの的だったし、私も雲の上の人のように感じていた。そして、それは同じ研究室に所属し、頻繁に顔を合わせるようになった今も変わらない。だからこそ、学問上の関わりを離れて先生に個人的な悩みを相談したり、先生の個人的な事情を詮索したりすることを畏れ多く感じていたのだ。それを思い返すと、今こうして先生と、研究の話をするでもなく夜の屋上で二人寛いでいることが何だか不思議に感じた。
「……アズグレイさんは」
「ん?」
「やっぱり、最近の私はおかしいと思ってましたか?」
湿った風が頬を撫でていく。
「……ああ、そうだな」
「ごめんなさい、心配お掛けして」
「いや、誰だって落ち込むさ、あんなことがあれば……」
先生は、頬杖をついて講堂の方をじっと見つめながら言う。
「落ち着くまで、研究は少し休んでもいいんじゃないか?」
「……でも、大学にでも来ないと、他に行く場所も無くて」
「……そうか」
やはりアズグレイ先生にもお見通しだったのだ、と言うより、気付かれない方がおかしいとは思うけど。
北方熱が毎朝新聞紙上を騒がせるようになり、セノウに居る両親や旧友たちとも連絡が付かなくなる以前の私は、自分で言うのもなんだけど、優秀な学生だったのだ。もちろんアズグレイ先生には及ばないけれど、試験やレポートの成績で同じ専攻の同級生に負けたことはほとんど無かったし、この前投稿した論文だって、いわゆる名門の学会誌に掲載されて賞まで貰ったのだ。それは、私がサウスフィルガルト文学の幻想世界に惹かれていたのと同時に、私生来の負けず嫌いで、半端な成績では納得出来なかったからでもある。スカスカの原稿でプレゼンしたり、あまつさえ締め切りを破ったりするなんて、以前の私なら許せないことだったのだ。
だけど今は、どうしても目の前の課題に取り組む意味が見出せなかった。結局私は、私自身の出世欲にかまけて、あの故郷の寂れた漁村を見捨ててきたのではないか?
「そうだよな、俺たちがこの街に居るのは、学問のためなんだからな……」
本当に先生の言う通りだ。他のいい加減な同級生みたいに、港近くの繁華街で馬鹿騒ぎすることも無かった私は、このフェイマルで他に行くべき場所など無かった。だから私は、今日も朝から研究室のデスクで……。
「……すまないけど、一本吸ってもいいか?」
そう言ったアズグレイ先生の左手には、黒光りする革製の煙草入れが握られている。
「アズグレイさん、煙草吸うんですね」
意外だった。先生が、あの大学裏の交差点にあるくたびれた煙草屋で小銭を出していたり、不良学生の溜まり場になっている実習棟横の喫煙所でたむろしている姿がイメージ出来なかったから。
「あんまり人前じゃ吸わないようにしてるんだけどな。ラーフィアは、煙草大丈夫か?」
「ええ、全然お構いなく」
私が答えると、先生は細い指先に挟んだ紙巻き煙草の先端にオイルライターを近づけ、静かに火を点す。ライターは灰で黒く煤けていて、年季を感じさせる。
「……その、私も一本頂いても?」
「ん?なんだ、ラーフィアも吸うんだな」
「私も一人の時しか吸わないです。女が煙草なんて、って言われますし。……先生と同じですね」
実のところ、煙草は私の数少ない娯楽の一つだった。寮の前を流れる小川を眺めながら、ベランダの手すりに凭れかかって紫煙をくゆらせる一時、私は日々の些事から解放される思いがした。
先生が煙草を吸い込み、それから深く息を吐く。私も先生に貰った煙草を吸う。私が普段吸っているのよりも渋味が強くて、喉にピリピリとした刺激を与えていく。だけどその煙は滑らかに気道に取り込まれていき、悶々とした考えに沈んだ頭が穏やかに静まっていく気がした。
アズグレイ先生の右手と、私の左手。二か所から昇る煙が、螺旋を描いて夜の闇に溶けていく。
「ノーステリア大学に行かれるんですよね」
何気なくそう問うと、アズグレイ先生は不意を衝かれたように少し目を見開いた。
「……ああ、なんだ、知ってたのか」
「凄いじゃないですか。卒業してすぐあそこに赴任されるなんて、滅多に聞かないですよ」
「……偶然だよ。たまたま同じ分野の教授が退職したから、ポストに空きが出来ただけさ」
と、先生は言うけれど、単なる偶然のはずがない。ノーステリア大学史学科といえば、昔からフィルガルト歴史研究の第一線を担ってきた研究機関で、大陸中の学者の憧れの的だったのだから。フェイマル大学も研究環境として悪い所ではなかったけれど、卒業後すぐにノーステリア大学からお呼びが掛かるなんて、少なくとも私は聞いたことが無かった。
「……それに、まだ行くと決めたわけじゃないんだ」
ところが先生は、手元で赤い光を放つ煙草の火を見つめたまま、事も無げにそう言った。
「え?どうしてですか、ノーステリア大学より良い条件のところなんて、滅多に無いと思いますけど……」
私が問うと、先生はもう一度煙草を口元に押し当てる。
「……ラーフィアと同じかも知れないな」
先生は低い声で言う。
「……同じ?」
私は先生の真意を掴みかねた。先生はつい二か月前にも学会誌に論考を掲載したばかりで、最近は学位論文執筆のための資料収集に没頭しているようだったし、半年後に控えた卒業の後も、そのまま歴史学者の道を邁進するものだと思っていた。
歴史学者なんて、目指す人数の割にポストはすごく限られているから、なろうと思っても中々なれるものじゃない。そんな中にあっても、花道とも言えるノーステリア大学の教授職に採用されたなら、もう研究者としての将来は確約されたものとなるはずなのだ。そこにどうして、迷う余地が出てくるのか?
──私と同じというのは、先生もまた、何かに迷っているということなのか?
「まあ、決まったら研究室の面々には報告させて貰うさ。その時には送別会でも開いてくれよ」
話を切り上げるように、先生は携帯灰皿に吸い殻をグリグリと押し付けながら立ち上がった。
「さあ、もう帰ろうか。ラーフィアはどうする?帰るなら送って行くぞ?」
私もそれ以上問いかけることが出来ず、先生が差し出してくれた灰皿にまだ半分残っていた煙草を押し付ける。先生の銀髪が霧雨にしっとりと濡れ、滑るような光沢を放っていた。
「……そうですね、方向同じでしたっけ?」
「俺は海岸沿いの方だから、大学寮なら帰り道だよ。ほら、雨が強くなる前に帰ろう」
フェイマルの雨季は長い。空では先ほどまで姿を覗かせていた月が、今はもう暗い雲に隠れてしまっていた。確か、明日も朝から雨の予報だったはずだ。
*
難なく一流の研究者になるのだと思っていたアズグレイ先生でさえ、何か進路に迷う所があるらしい。それならば私が躓くのも、当然といえば当然のことなのかも知れない。だけど私は、これから先一体何をどうしたいのだろう?
もしかすると先生も同じく抱えているのかも知れないこの考えは、先生と並んでフェイマルの教会通りを歩いている間もずっと、頭の中で渦巻き続けていた。