雪、根源、浮き世にて―― 作:花月の袴
白銀の世界。冬の訪れを刻み付けるように雪花が舞う。吐く息は色付くも、山の景色に溶け込み消えた。残るのは体躯が踏み締めた疾走の
――ポタッ……ポタッ……
そこに、脈絡のない
生在る者が息を潜める時の中で、揚々と彩りを飾るそれは、酷く不釣り合いに見える。だが、同時に不思議と惹き付けられた。血潮とは生への渇望。脈動し、鼓動となって活力と為す。それ故に、人が朱に奮する事は至極真っ当であるのだ。
だからこそ、だろう。内象にて燃ゆるそれらが溢れる事に、人は恐怖を憶える。
「ケホッ……ケホッ……」
雪原の大地に、ひとつの影が映し出された。
対極なまでに艶やかな黒髪。華やかさを強調するかのように彩られた着物。万人が見れば高貴な家立ちの者だと、口を揃えて言うのだろう。故に、だ。そんな少女が自然の理に抗おうとする姿は異質に過ぎる。白い素肌に伝う一筋の血はさながら、死化粧の紅の様だ。見つめれば見つめる程、その少女に対する疑問は尽きない。
今にも消えてしまいそうであるが、不思議と悲しそうには見えない。むしろ、それを望んでいるのだろうとすら思える程、彼女の瞳からは生気が失われていた。
「……ぁ…………」
とさり、と軽い音が山中に響く。限界を迎えたのだろうか。動こうとする様子は無い。倒れたからこそ認識できた事ではあるが、少女の足は霜焼けていた。そう、素足で歩いていたのだ。一体何故、そんな状況になってしまったのだろうか。
「か……あ、様……わた、しは……」
――もう、無理です。
呻くように漏れた言葉から読み取れる感情は黒。陳腐な表現ではあるが、それは「絶望」そのもの。過言だと
やがて、目を瞑る少女。誰も咎める者はいない。それが摂理であると、ただ自然は受け入れるのみ。そこにはひとつの生が終わるという事象があるだけだ。自然は誰にでも平等であるが故に、最も残酷な有り様を示すのだ。
そして、眠る少女の脳裏には、人生の欠片が一頻りに駆けていく。所謂、走馬灯なのだろうか。寒さが直に抜けていく様だった。意識と感覚が失われていっている事が、少女には認識できない。今までの辛い感情が抜けていくような気がして、温かいとすら感じていた。
ああ……眠い――。
微睡みが深くなる様な、不思議な感覚に身を任せてしまいたい。そうする程、楽になっていく。少し怖いけれど、もう……疲れた。
心内は言い訳がましいと理解しているが、止めるほどの理性など尽きていた。逃げたい。消えてしまいたい。構わないだろう。だって、少女には……私には――
――何も、残ってないのだから。
『本当に、そうかしら?』
……えっ?
問いかけが、聞こえる。気がするのではない。されたのだと、少女には確信ができた。根拠など、まるでない。ただそうであると、認識したのだ。響いたモノを暗闇で探るように、目を見開いた。埒外の意識下に、心が吹き返している。
『貴女は、本当にそれで満足? 失っただけで幕を閉じて良い?』
続く問いかけは、不思議にもすとんと胸に落ちた。だからこそ、小さな怒りが湧いた。自分が間違っていると責められているような気がしたのだ。もう、辛いのは御免だと再び目を瞑る。
『そう……なら、聞き方を変えましょうか』
今更、何を聞かれようと変わらない。疲れたのだから休みたい。放っておいてほしい。世捨てる様な文言を次々と並べ立てた。言い聞かせているとか、そんなんじゃない。心から、心底そう思って――。
『貴方が好きだった事は、何かしら?』
ピタリと息が止まったような気がした。
どうしてそんな事を。そう問い掛ける間もないまま、脳裏には記憶の欠片が映し出される。真っ先に浮かんだのは母の微笑み。そして、点と点の間に線を引くかの如く、情景として繋がっていった。
体が良くなったら、色んな所を巡りましょうか。きっと、楽しい事がたくさんありますから――。
――回る
はい、お薬の時間ですよ。
あら、飲みたくないですって? ふふっ、では今日のお話は無しかしらー……やっぱり飲みたい? よろしい……大丈夫、辛いのは今だけよ。すぐに良くなるわ――。
――――廻る
……これで遠い外つ国のお話はお終いよ。面白かったかしら?
えっ、そこへ行くことができるのか……ですか? そうねぇ……病が治れば――いいえ、きっと行けますよ。いつか共に参りましょうね。
ですから、そんな悲しい顔はしなくていいのよ。安心しておやすみなさい――。
――――――まわる
逃げな、さい……! 母は、後から追い……ますから、 辛いでしょうが、今は走るのですッ……! 大丈夫です……直ぐに行きますから、安心、なさい……。
ケホッ……良い、ですか? どんなときでも、諦めてはなりませんよ……。あなたが、強い子であることを……母は、知っています。ですから、今はお行きなさい……! 生きて、歩いてゆけばきっと……あなたが見たかった、光景が……見つかるはずです……。
大丈夫です。母はいつも、あなたのことを見守っていますから――。
――――――――終る
「ぁ……あ……ッ!!」
分かっていた。
分かっているからこそ、蓋をしていた。
遠ざかっていく悲鳴も。
家が焼け落ちる瞬間の音も。
最後に見た微笑みさえも――。
「ああああ………ッッ!!」
全て、思い出した。
自分が本当にしたかったことなど、そのときに道を失ったのだ。叶わなぬ夢へと成り果てた事など、理解していた。母と共にいられるだけで、幸せだったのに。蓋をしていても、心のどこかで理解していたから、目を瞑ろうとしていた。
けれど、それらの絶望に加え、思い出してしまったのだ。幸せをくれた人の願いを。最後の微笑みの意味を。私が望まれているものを――。
「…………や……」
何も返せなかった。注がれるだけだった。慈愛の全てを、受け入れるままに終わってしまった。
「……い……やぁ……」
だから、せめて守りたい。捧げられたものに報いたい。最初で最後に託された願いを叶えたい。
「…………死ぬ、の……嫌……ッ!」
いきたい。行きたい。生きたい。イキタイ――――。
望まれたのなら、そうでありたい。掛け替えのなかった人が、遺してくれたもの。それが私自身だというのであれば、死ぬわけにはいかない。思いを無碍にする事だけは絶対に――。
『…………叶えてあげられるわ。けれど、それはとても辛い道程になる。それでもいいの?』
構わない、と答えるように頷いた。
例えどれだけこの身が傷ついたとしても、生きれていけるのならそれでいいと。
自分に幸せが訪れる場所を見つけれるのなら、他には何もいらないのだと。
そう、決めたのだから。
『……分かった。それなら
ふわりと、声が体を包み込んだ。
嫌悪感など微塵も感じない。透き通った水と一体になったかのような感覚。患っていた病の感覚すら消えていくようだ。けれど、依然として体は冷たいままであった。むしろ、今までの暖かさが失われていく。そこで、少女は体の感覚が戻り始めていることに気づいた。
『代わりに、
戻る感覚とは裏腹に、何かが抜け落ちていく。それが大事なものなのは分かっていた。だから、やめてと言いたかった。けれど、そうしてしまったら駄目になってしまう気がする。判断材料が曖昧なものしかなくなっていく様な――。
……あれ、何が大事なんだっけ? 私の大事なもの……わた、し? わたしは……誰なの?
『気をしっかり持って。貴女は生きたいんでしょう? そのためには深く呼吸をしなさい。そう、もっと深く……深く……全身を使って息をするの。生きていればきっと誰かが見つけてくれるから――』
声が、聞こえなくなっていく。
ひとりになってしまうだろうか。それは嫌だ。こんなに寒い中で、独りぼっちになりたくない。寂しいよ、行かないで。あなたは私を知っているんでしょう。お願い、私を置いていかないで。
『大丈夫よ、私はいつも傍にいるわ。見えないだけで、貴女の近くにいる。またこんな雪の日があるのなら……きっと会えるはずよ』
本当……? 本当にまた会える?
『ええ、約束よ。だから、生きなさい。どんなに辛くても、貴女は自分の思いを探すの――』
不思議にも、消えゆく声は少女の胸の中に納まっていくようだった。少女が思い出せることは、何もない。自分が信じられるのは、あの声だけなのだ。だから、必死に息を吸って吐いてを繰り返す。
言われた通りに沢山の空気を吸い込めば、寒さが和らいでいく気がした。深く息を吐けば冷たさで意識が冴えていくのを感じる。
息を吸う、息を吐く。息を吸う、息を吐く。何度も、何度も、何度も――。
けれど、幼い体には負荷がかかるようだった。徐々に呼吸は乱れ、呼吸そのものが辛くなっていく。少女は心が折れそうになるたびに、声の人を思い出した。
続けていれば、きっとまたあの人に会える。どんなに辛くても、最後はきっと寂しくなくなる。だから、呼吸を整えて、再度続ける。そして、力を振り絞って近くの大樹に身を寄せた。
ここなら、雪が自分に積もらない。少しは楽になる。それでも、呼吸は続けなくてはいけない。止めてしまったら凍えてしまう。眠ってしまえたらどんなに楽なのだろう。辛くて辛くて仕方がない。けれど、あの人に会えなくなるのはもっと嫌だ。あの人は今でもきっと傍にいるはずだ。だから、頑張ろう――。
『生きて』……また会うために。
□ ◇ □ ◇ □
「む……」
ふと、老人は足を止めた。
おおよそ、人が通るようなものではない道中である。所謂、獣道に近しいものだが、その老人にとっては普通の道とは何ら変わりのないもの。毎日の日課も兼ねて、山道を駆け下りていた途中であった。
さて、足を止めるに至った理由は、老人の鼻がそうすべきと感じていたからである。鼻、と言われて目に付くのは真っ赤な長鼻。無論、老人当人が持つものではなく、それは天狗面のものである。そのような面を身に着けているのことは、皆目見当も付かないわけであるが――。
「人の匂い……血の匂いも僅かに、か」
鼻が利く。そう説明しただけでは正しく伝わらないだろうが、認識としてはそれで間違いではない。接頭として『とても』や『
そんな鼻が、違和感を感じ取ったという事実だけで、足を止めるのに値する。察知、理解、行動までの判断が恐ろしく速い。獣道を駆けている時点で察していると思うが、この老人は只者ではなかった。
名を、鱗滝左近次。此処、狭霧山に住む
「この辺りだが……いるな」
内心、諦めているようなものもあった。感じ取ったときに手遅れの場合を幾度となく見てきた。年の功とは言うが、それだけ悲しみも背負ってきたのだ。前借されたやるせなさを胸に、周囲を見渡す。匂いの濃さを鑑みるに、相当な時間この場に留まっているのだろう。少なくとも、半日以上だ。希望は薄い。せめて、安らかに眠れるよう弔うべき――。
「……ッ!? これは――」
信じがたい光景が飛び込んでくる。思考が固まるが、体が動くのは流石といったところだろう。匂いの大本へと駆け寄り迅速に、それでいて慈愛の籠った手つきで
「そんな事が……こんな齢で……」
余りにも深く、それでいて一切の音が漏れない【呼吸】。
この山一の大樹の元、未だあどけない『少女』がそんな寝息を立ていた――。
腕に抱いたところで、事実に変化は起きない。そんな事はわかりきっている。だが、それでも目の前で起きている事象に目を丸くする。理解のある者が見れば、同じような反応をすることは必至。言葉にならないとは正にこの事だった。
時間にして極僅かな間ではあったが、呆然としていたことを自覚する。己を内心叱咤すると共に、来た道を再度疾走する。下山時とは倍以上の速度で駆け上がっていく。目指すは自身が住む小屋。一刻も早く着かねばならない。
疾走する最中、鱗滝は今一度自分の今後について悩む。この『少女』に為すべきことは決まり切っている。間違いなく、寸分の狂いもなく、自身の立場上では絶対に正しいことだ。寧ろ、そうせねば無能の証明を晒す事だろう。今後、育手としての信用は皆無となるに違いない。
だが、それ以上に目頭の熱さが否と断じている。
いったい、どれ程の過酷さがこの少女を追い詰めたのか。想像するに難くないが故に、止め処ない思いが足を急がせる。他人に過酷な事を強いる事は幾度もあった。何度も心を折ったことさえある。だが……だが、ここまでを強いたことは無い。この少女が置かれた環境を鑑みれば生ぬるい。
いや逆だ。少女が受けた試練の方が異常なのだ。そして、それを乗り越えてしまった少女自身も。そう考えれば考えるほど腸が煮えくり返るようだった。
「この子の行く先は、この子が決める……今は取り零さぬよう、ただ駆けるのみ――」
覚悟を決める。それ以上の覚悟を、少女も決めているのだろうから。
選択を迫ることも、強いることもしない。帰る場所が無いのであれば、自分が作ろう。この子が望むのなら、親として寄り添おう。ただひとりの少女として、この子を育てることを誓おう。
だが、もし……少女が『強さ』を求めるのであれば、自身の全力を以て鍛えよう。
元水柱育手、鱗滝左近次の名に置いて。この子が死なぬよう、最大限の力をつけれるよう叩き上げる。下手な情けをかけるようなことはしない。どんな苦難にも勝てる力を身に着けさせる。この子がもし死ぬようなことがあれば、自分は育手を降りて腹を切ろう。
「……まずは、鍋を用意するか」
――そして、幸せを願おう。
何よりも、この子が笑って暮らせる……願わくば、そんな未来が訪れますように――。
雪花の一片が、ひらひらと舞う。
今日は特に冷えるというのに、不思議と妙な温かさを感じていた。気のせいだと思いなおし、雪を払うかのように駆ける。急いでいるが故に、幾度か少女に雪が触れることがあったが、腕の中で眠る少女は、どこか安心したような表情を浮かべていた。
師走の候。少女にとって、7度目の冬の出来事だった。
・要約
早い話、少女が剣式を身卸してデミサーヴァント化。
病弱属性を亡き者にするパワーの代償に記憶を失う。