「ん…………」
走り始めてもう30分くらいだろうか。修也が発汗し始めている。ジョギングよりも早い感覚で走り続ければ、寒い時期でも汗はかくだろう。
「ふっ…………」
その汗が問題だ。
汗の匂いなんて、しかも男の汗の匂いなんて嗅ぎたいなんて思わない。
「すーっ、ん…………」
だが、俺の体は発情が始まっていた。ジンジンとむず痒い感覚に襲われる。揺れる体勢、密着する体、聞こえる吐息、そして汗の匂い。
揺れると胸が擦れる。
密着していると体温で体が温まる。
吐息が耳をくすぐる。
汗が嗅覚を刺激する。
「ん…………」
大いにピンチである。
ただ、運ばれているだけなのに、俺の体は発情し、ときどきビクンと体が跳ねてしまう。
「んぅ」
痛いとか、苦しいとか、気持ち悪いとか、わかりやすい負の感情が与えられているのとは違う。それなら文句を口に出している。知られることが恥ずかしいんだ。情けないんだ。女の体に振り回される自分が、本来守らなくてはならない年下の子に心配されるというのが嫌だ。
心地よいリズムで小さな揺れと刺激が体に伝わってくる。
また顔が熱くなってきている。耳まで赤いだろう。
「ムツメ?」
「な、なに?」
今まで終始無言だったのに突然話しかけられるから、会話をするための思考の準備ができていなかった。他のところに脳のウェイトが割かれていたせいで、声が裏返ってしまった。
「東の方に魔族の群れがいる。その群れが俺たちの方に近づいている」
「追いつかれるのか?」
「それはないだろう。ただ、放っておく必要もない」
倒せば喰らっている魂を解放できるかもしれない、か。
「時間に余裕はあるが、どうする?」
確かに、今の速度で走り続ければ正午には到着する。別に1、2時間ずれ込んでも問題はない。昼の分の食料も持っていることだし、なにより、一回降りれば気持ちをリセットできるかもしれない。
「あまり強そうなのはいないが……、うん?」
「どうした?」
「人間か? 何かが交戦している」
「助けに行こう」
「ああ」
修也が進行方向を切り替えて5分もしないうちに数十体の魔族がいた。
なんだこの程度か。スライムばかりだし。
「降ろしてくれ」
「わかった」
「ライトブレット」
獣人のおそらくは親子だろうか。襲われている獣人の家族を助けるために遠距離から魔法をぶっ放した。
最初に一撃が魔族に襲いかかると、獣人たちは振り返って俺たちの方を見る。
「綺麗だ……」
なんだって?
魔族に襲われていたところを颯爽と助けだし、襲われていた獣人の家族の治療を施したところ。俺は助けた獣人の男に迫られていた。
「結婚してくれ!」
「嫌だ」
「お願いします。結婚してください!」
「嫌だって言ってんだろ。それ以前に奥さんいるだろうが、子どももいるだろうが!」
「あんたはレベルが違いすぎる。美しい! ああ、美しい! 毛並みも匂いも! フンフン!」
嗅ぐな。シンプルにキモい。
「奥さんに失礼すぎんだろ! あとそれは香水の匂いだ!」
「香水じゃない! 他の男の匂いが一切しないし、神託まで受けられるほどの芯の強い女性だ。発情期だって来ているのに————」
「ほう?」
「あ……、墓穴掘った気がする」
修也に隠していることを口走りやがって、匂いか何かで俺が発情期に入っているのを感知したのか。
せっかく助けてやったというのに、その命を散らす覚悟があるようだ。俺がお前なんぞになびくと思っているその浅はかな思考回路を叩き直してやる。
「狼の獣人よ。覚悟はいいか?」
「ひぃ!? さ、最後に一度でいいからやらせてくださ————」
「ふん!」
「はぎゃ!?」
下半身に脳がついているのかこいつは。脳天に金属製の杖を叩きつけてやった。白目向いて伸びている。
「ごめんなさい勇者様、うちの主人が失礼を」
「あんたもこんな男と結婚しなくてもいいだろうに」
「え?」
え? 驚かれるのか? 浮気しようとしていたんだぞ?
「いえ、その、主人はとても優秀な男ですので」
「そうか?」
「はい」
どこが優秀なのだろうか。意思すら持たず本能でしか動かない雑魚魔族を相手に苦戦していたし、頭が良さそうにも見えない。どこが優秀なのだろうか。
奥さんはめちゃくちゃ可愛いのに、ちょっと毛並みが荒れているけどさ。こんな性欲丸出しな狼男と全然釣り合ってないぞ。美人系というよりは可愛い系だな。バニー趣味はなかったんだけど、ウサギの獣人の可愛さに男の頃の俺なら惚れてるね。
俺だったらこんなダメ狼よりも幸せにしてやれる自信があるぞ。それくらいにダメ狼だ。
「一体こいつのどこが優秀だというのか」
白目向いて気絶している狼の男をツンツンと杖でついてみる。手加減したんだけどなあ。今まで相手していた周りが強かったから一般人相手への加減を間違えたのだろうか。かなり弱めに叩いたんだけども。
だが、仕方ない貞操を守るためだ。
そのためなら俺は一切の隙は見せない。誰が好き好んで男とやるかってんだ。
「主人は優秀ですよ」
「……どの辺が? どこをどう見てもダメンズにしか見えん」
「ダメンズというのはよくわかりませんが」
「気にしなくていいよ。それで、何が優秀なんだ?」
「性欲が強いことです」
「ぶふっ!?」
「勇者様!?」
それかよ!?
よりにもよって性欲かよ。奥さんも好きモノなのか……。
幻滅……、というのは違うな。この世界ではこっちが常識なんだ。地球の日本のように少子化とか無縁の世界、魔族に喰われる世界で数を増やそうというのは自然の発想だし、自然の摂理なのだろう。
むしろ性欲を押さえ込んでいる俺の方が異端だとでもいうのか。
「はあ……、それで、浮気はいいんですか? 旦那がお……、私に迫っていましたけど……」
「お互い様ですから……」
……あ、うん。俺の貞操観念の方が間違っていましたね。
この子たちがダメ狼と似てないのはそういうこと?
「この世界の貞操観念というものを改めて考える必要があるな……」
「どうしたブツブツ言って?」
「なんでもない」
近くに魔族がいないということで、獣人の家族と別れた後、しばらく進んでから昼食を迎えた。本来であれば昼食は王都で、王宮で食べられたはずなんだけどなあ。あの狼を助けていなければ……。いや、奥さんと子どもたちは助けるべきだったから仕方ないか。
「ムツメ、大事な話がある」
「なんだよ改まって、シチューはまだだぞ」
「冷静に聞いてほしい」
本当になんなんだ? 言い出しづらいことを話そうとしているような……。
修也のやつかなり真剣な目をしている。
「獣人の、発情を抑える薬を作った」
「は?」
は?
「ななな、何を言ってるんだ!?」
バレている!? 俺が発情しているのがバレている!?
「イオーネさんから聞いた。狐の獣人の発情期はそろそろだと」
そろそろ?
そろそろということはすでに発情期が来ていることはバレていないのだろうか。
イオーネ……。シスターさんか。
シスターさんはなんで修也に発情のことを話して……。ってあれ? そういえば、薬は手に入らないと聞いていた。
シスターさんは修也にお願いしたのなら、どうやって修也は作り出したんだ?
修也は目薬のようなものを取り出した。
「簡易的に作ったものだ。効果は薄いかもしれない」
「……」
「……」
「どうやって作ったんだ?」
「持ってきた本の知識で作ってみた」
そういうことか。出発前に図書館でシスターさんと何やらしていたのは俺の発情を抑える薬を作るためだったのか。荷物が多いのはそのせいか。
それにしてもピンポイントのタイミングだ。タイミングが良すぎるくらいだ。発情期が来たのを見越して薬を提供しているように思える。鑑定スキルで俺の状態異常が発情だったりしないだろうな……。
それにしても考えたくはないが、修也に知られたのか? 俺が男に対して劣情を抱いていると……。
あんなに一生懸命隠してきたのに、最初からバレていたなんてな……。
はあ……。
……。
…………。
あれ? 恥ずかしくない?
発情して男に欲情していると知られたら恥ずかしいと思っていたけど……。
もとより体が獣人の女性に変えられたことで起きている現象なのだから仕方なくないか?
俺の意思とは関係なしに体が男に発情するなら別にそれは俺の落ち度ではないし……。
いや、でも男の俺が男に欲情していると思われること自体が本当に嫌なのは確かだ。だが、それも真に伝わることはない。多少ムラムラする程度と認識される分には、多少羞恥心を抱くかもしれないが、多少で済む。体のせいだからな。
だとすれば、発情期が来ることを修也に知られても問題はなかったのか?
「ムツメ?」
「と、とりあえず、これはありがたく受け取って置くことにする……」
「……そうか」
「……」
「……」
気まずい……。
修也の中で、発情期を迎えた俺はどうな感じなのだろうか。昨日のことが思い起こされるが、あれは修也に知られることはないはずだ。バレることはない。修也の中では多少男にムラムラして鳴き声上げている程度に思われているのだろうか? それはそれで嫌だけど。
それにしても、こんな薬、いつの間に作ったのだろう?
きちんとした容器に入っているし。
……。
…………。
なんか嫌な予感がする。直感というか。なんというか。
こいつ初日野宿した時に作っていたのかもしれない。あのとき不審な動きをしていた。食事を作っている最中にこそこそと動いていたし、朝早くわざわざ起きていた。それにその日は————。
”香水を付けていた”。
「修也、この薬の原料はなんだ?」
旅路の間に作れるものがどうして王都で作れない?
道中にたまたま発情に効く薬草でも生えていたというのか?
もし原料が想像するものなら、俺はこれを一滴も飲むわけにはいかない。
「……すまない」
「すまないじゃわからない、原料はなんなんだ?」
修也はとても気まずそうに目をそらす。
「……とある薬草と、……男の、体液だ」
「飲めるか!」
秒で叩き割った。
「ああ!? あんなに時間かかったのに……」
「アホか! 体液って、体液ってお前、そんなの飲めるか!? 今の体は女だけど、俺は男だぞ!?」
「わかっているさ。でも、ムツメが辛いと思ってどうしようか迷ったけど作ることにしたんだ。そんな簡単に割られたらさすがに……」
「あ、ごめん。つい……」
俺のために何時間もかけて作ってくれたのか。それを簡単に叩き割ってしまった。いや、でも流石に飲むのには抵抗がある。
嫌だぞ。
絶対に嫌だ。
飲めるわけがないだろう。
「まあ、無理だよな」
「割ったのは悪かった。でも俺は嫌だったから、どうせ飲まないから」
「嫌なのはわかっているさ。男の唾液なんて」
「そうだ! 男のせいえ————、え?」
「うん?」
「……」
「……」
「いや、うん、そうだな。うん。唾液なんて嫌だよ飲めないよハハッ」
「違う言葉が聞こえたけど?」
「幻聴だな、疲れてるんだろうよ。ほら白い液体をお飲み」
「その言い方はやめてくれ」
唾液かあ。
飲めるか飲めないか微妙なラインだな。まあ飲めないよな。嫌だよな……。
つい目線が修也の口元に寄ってしまう。
「——っ!」
「ん? どうかしたか?」
「っ! なんでもない」
下を向いてシチューを口に運ぶ。あまり考えないようにしよう。味がわからなくなる。
ちょっと作りすぎたな。そろそろ着くはずだし、帰ったら2人にも食べさせよう。残り物だけど。
視界に壊れたガラスが入る。
「本当にごめんな……、わざわざ時間かけて作ってくれたのに……」
「いや、いいよ。俺がムツメなら同じことしているし」
「おいこら、わかってたのかよ」
修也もそんなに落ち込んではいないみたいだ。作ってみるかと軽い気持ちで作ったのだろうか。
不意に修也が空を見上げる。
「大雨が降るぞ」
「え? まじか?」
「あと数分だ」
急いでシチューを食べ、荷物をしまいこんだ頃には冷たい雨が降り始めた。
「どうする!? 結構強いぞ!」
「あそこなら雨宿りができる!」
「わかった!」
修也が指差した方へ走るが、俺の足は遅い。修也に手を引かれて洞窟に滑り込んだ。
「うへえ、びしょびしょ」
「思ったより雨脚強っ————!?」
なんか今日は間が悪いなあ。雨に降られては修也も走りたくないだろうし、俺も雨を顔面に受けるのは嫌だなあ。
あれ?
なんで修也は反対向いているんだ?
「どうした? 背中向けて……」
「……自分の体を見てみろ」
2つのぽっちが浮かんでいた。
「みゃあああぁぁぁ!?」
2人しかいない旅路で普通シチューは作らないけど。