風鳴翼は、暗く深い水のなかに沈んでいく感覚を受けていた。本人もこれは現実ではないという実感がある。所謂、明晰夢というものをみているのだということだ。
「……ここは……」
次第に薄れていく意識にどこか気だるさと心地好さが混じりあった不思議な感覚に堕ちていく。
次第に風景が暗い水の中から白い空間へと写り変わる。
白い空間から幾つかの声が聞こえてくる。聞こえるというよりも響いていると言えるものであった。
聞こえてくる声は、ライブで耳にする喜びの歓声から、ノイズとの戦いで響く無数の悲鳴が混ざりあう。
あまりの両極端の感情が渦巻く声に嫌悪感が翼のなかに渦巻き思わず耳を塞ぐ、だがそれでも鳴り止まない声に目を瞑り、外界との関わりを絶とうとする。
「もういやだ、やめて……聞きたくない!」
そんな彼女の悲鳴すら書き消すように声が徐々に、騒音のような爆音に変化し、彼女の頭の中から何かが溢れ出すような痛みに支配される。
「イヤだ……もういやぁ……ヒッ、なに!」
そんな彼女の体を何処からか現れた白い泥のようなものが彼女を深い意識の底に引きずり込んでいく。
「イヤ……おじさま……かなで……たすけて……」
白い泥が翼の全身を引きずり込むと、彼女の意識は暗い闇に包まれた。
ミーンミーンと蝉の鳴き声が聞こえてくる。身体に今まで感じていなかった熱を感じる。
翼はゆったりと目を開ける身体に痛みや嫌悪感はなくいたって普通の感覚であった。
「さっきまでのは……夢?」
夢と認識していても現実感をもつ悪夢が彼女の体を強ばらせていた。腕で目を多い先ほどの恐怖から涙が流れる。
暫くの間そのままじっとしているとようやく周囲を確認する余力が沸き上がり、涙を拭いて体を起こし辺りを見回すと
「ここは、和室? でもどこかで見たような?」
既視感を感じる景色。どこか懐かしささえも感じる日本屋敷の1室であった。
何かに導かれるように縁側に出て、歩いて行くと、閉まりきっている1室の部屋があった。
その部屋の障子に手を伸ばそうとするとイヤな悪寒が背中を駆け抜ける。だが、なぜか手は再び、本人の意識を無視する。
そして、障子をゆっくりと開けていくと、そこには自分そっくりの女性が布団から体を起こしてこちらを見つめていた。
「待っていたぞ。随分と時間がかかってしまったな」
目の前の自分に似た誰かは、どこか天羽奏のような特徴のあるしゃべり方をしていた。
自分と同じ顔の人間が目の前にいる不気味さと少し血色の悪い肌そして、自分よりも年を取っていると感じれる程度には自身よりも大人びている。
「そんなに怯えなくていい。私は未来の風鳴翼だ。過去の私、こうやって会うのは2度目かな」
未来の自分だと名乗る相手であるが、どこかで出会ったような記憶が翼にはあった。
「あなたはあのときのライブで亡くなった人とそっくりなのは何か関係があるんですか?」
「あぁそれは私だ……私はあの時死んでいる。もともと長くはなかったから……だからこそ、奏を救えなかった過去を変えたかった」
「救えなかったって、それじゃあ、まるで奏に何かがあったみたいな……」
未来の自分の言葉に激昂するが、目線を目の前の布団に落とし、強く布団を握りしめていた。
「あなたの予想どうり、奏はあのライブで死ぬはずだった。でも、今は生きてる。それで充分……充分……」
自分に言い聞かせるように答える姿に彼女が嘘をついていないとわかる。彼女は弱々しく布団から抜け出し、縁側まで歩いていきそこに腰かける。
そして振り向かずに本題を切り出す。
「あなたを呼んだ理由は、2つ」
「1つは彼を救ってほしい」
「もう1つはあの子のことを許してほしい」
訳のわからない2つの頼み。だが、自身にとってとても大事なことなのだろう。死人が託す願いが本人にとって軽くないものだとは、未熟な自身にとっても理解はできる。
「彼とその子って誰ですか?」
「……いずれわかるよいずれね」
どこか諦めているような目で彼女は庭を眺める。
穏やかな風が家屋を吹き抜ける。
「未来の自分ができなかったことを過去の私ができるとは思えない。だから」
「いや、できるよ。貴女なら……何者にもなれなかった自分と違って……」
「そんなこと……いわれても」
翼は未来の自分の頼みを引き受けるか迷っていた。未来の自分が為せなかったことが自分に為せるのかと、その答えを聞いた彼女の表情は見えないが、背が丸まる。
「そうか……私は……何者にもなれなかった……防人にも……立派な母にも……そして」
項垂れながら自分の半生を後悔するように本人の意図に反し涙が流れ落ちる。
「彼の心の傷を、癒すことさえも……できなかった」
振り返り過去の自分にすがり付く。
「頼む、おねがい……彼を救って、私にはなにもできなかった……余計に彼を傷つけた。おねがい……おねがい……おねがいします……」
もはや、先ほどまでの気丈な姿はなく、最後に残った希望にすがりつくだけの病人がソコにいた。
未来の自分の情けなさに目を背けたくなる。しかし、
「分かりました。その人たちを救います。絶対に」
自分の良心に従い、弱い心を奮い立たせる。自分のもつ防人の使命として、弱きものを助けなければならないと、その願いを引き受ける。
「……ありがとう」
彼女は涙に濡れた顔を上げる。表情は安堵に満ちた安らかなものであった。
翼はその表情を見ると、自分の選択は間違っていなかったと確信する。
確信を抱いた瞬間、目の前が白い光に包まれる。ここに来たときと違い、聞こえた声は唯1つであった。
「あの人とあの子をおねがいします」
その声は確かに母であり、妻であった。
微かな光が目に差し込む。
目を開くとそこは医療カプセルの中であると分かる。先ほどのことが夢であると、証明するには充分であった。
ボーッとカプセルの外の天井を眺めると、回りに人が集まり、騒がしくなる。
しかし、少しだけ不思議な感覚に包まれる。ゆったりとした時間が流れている感覚がある。意識はまだ微睡みのなかに沈み込もうとする。
(約束は忘れないよ。でも、こんなになっちゃって奏はきっと怒るんだろうなぁ)
未来の自分との約束を浮かべながらも、今回の無茶について相方(親友)がとても怒っているだろうと呑気に考えて眠りについていった。