咲-Saki- 天元の雀士 (改稿版)   作:古葉鍵

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東場 第一局 五本場

 

 

 彼が背を向けて去ろうとしている。

 それを黙って見送るか、引き止めるのか。

 何が正しくて、私は一体どうすべきなのだろうか。

 

 歓喜、慕情、親愛、失望、怒り。私の胸中では様々な感情が渦巻いている。

 頭の中もぐちゃぐちゃで、とても冷静な判断ができる状態ではなかった。

 

 ずっと女性だって、大切な友達だって思ってた。

 そんな彼女が実は男性だなんて、疑うどころか毛ほどにも考えたことはなかった。

 なのに、彼女は”彼”だった。

 それは私の期待を、幻想を裏切る残酷な真実だった。

 

 彼は自分が女だなどと一言も言ってはいない。私がそう思い込んで勘違いをしていただけ。

 あのときの状況を考えれば、性別を明かさなかったのは善意だったと語った彼の言葉に嘘はないと思える。

 女装していた動機も、文化祭という事情を考えれば納得できる。

 

 つまり彼には何の落ち度もなく、私を裏切ってなどいない。

 そう、理屈ではわかってる。だけど感情が納得しない。

 

 何もかも許して再会を喜べばいいのか、幻想を壊された事を嘆けばいいのか、期待を裏切られたことを怒ればいいのか……何が正しい選択なのかわからない。

 

 彼は「いつまででも待つから」と言ってくれた。

 それに、同じ学校に通う同級生同士。今後も会おうと思えばいつでも会える。

 今は彼の言うとおり一人になって落ち着いた方がいい。

 

 無理に何かを話そうとしたら、酷いことを口にしてしまうかもしれない。

 それは彼にとっても私にとっても不幸だ。それだけは避けたい。

 

 また、今この瞬間にでも他の部員が部室にやってくるかもしれない。

 それは良くない。今の私を見られたくない。

 きっと誤解が一人歩きし、より事態が複雑になってしまうだろう。

 

 そうしない為にも、最善はこのまま彼を見送る事だ。

 そして私は部室のバルコニーにでも出て、落ち着くまでそこにいればいい。

 

 でも涙の痕はすぐには消えない。きっと気付かれ、何か言われるだろう。

 少なくとも部長は見逃さないはずだ。何かあったのかと聞かれるに違いない。

 その言い訳もこれから考えなくてはならない。

 

 だから彼を引き止めてはならない……どうせすぐにまた会える。会えるはずだ。

 去年の別れの時みたいに、もう会えないなんて、悲観する必要はない。

 

 彼の背中が部室の扉をくぐり、階段へと消えてゆく……

 ふと、あの日の光景が脳裏に蘇る。彼女の微笑みが、彼女の言葉が、私を抱きしめてくれたときの優しさが……

 

 ズキッ、と胸が強く痛んだ。

 荒れ狂っていた感情が、一つの方向性を得てゆく。

 それは切ない、という感情のうねりとなって私の心を蹂躙した。

 

 今度こそもう二度と会えなくなるかもしれない……そんな最悪な想像が頭に浮かび、私の背筋を凍らせた。

 

 ――いやだ。いかないで。もう私を一人にしないで!

 

 そのとき、私の口は勝手に言葉を紡いでいた。あるいは、それは心の声だったのかもしれない。

 

「いや……だめ……いかないで……! お願い、待って!」

 

 視界から消えた彼を追い求めて、階段へと走る。扉の下をくぐり、階段を見下ろす。

 

 私の大声に驚いたのだろう。

 彼は目を丸くして、階段の踊り場でこちらを見上げている。

 

 よかった、間に合った。

 

 多分に衝動的だった私はただ感情が突き動かすまま、彼を求めて階段を降りようとする。

 

「あの……きゃ!」

 

 ろくに足元を見ずに踏み出したのがいけなかったのだろう。

 私は一段目で足を踏み外してしまい……バランスを失い、前のめりに転げ落ちようとした。

 

「飛べ!」

 

 怒声が飛んだ。

 その指示を刹那の間で理解し実行できたのは、運動神経の鈍い私にとってまぐれとも僥倖とも言える奇跡だった。

 あるいは、神様が力を貸してくれたのかもしれない。

 

 私はあらん限りの全力を足に込め床を蹴った。飛ぶというより、前方へタックルするような跳躍だった。

 

 一瞬の浮遊感。

 絶体絶命の危機に感覚が鋭敏になっているのか、引き伸ばされた時間で彼の緊迫した表情とこちらへ手を伸ばしてくれるのが見えた。

 

 目を瞑る。

 不思議と恐怖は感じなかった。

 

 次の瞬間、全身に軽い衝撃が走った。そして気がつけば私は彼に背中から抱きしめられていた。

 どうやら彼は右腕を私の胸の下に差し込むようにして体を受け止め、落下の勢いを殺しつつ自分の方へと巻き込むように抱きとめてくれたようだった。

 

 その途中で彼の左腕は私のお腹のあたりに回され、姿勢を支えてくれていた。

 つまり、胸の下と下腹部あたりを両腕で抱きしめられている形だ。

 

「…………」

「…………」

 

 命の危険すらありえた、危機一髪のトラブル。その直後のことで思考は真っ白。言葉も出てこない。

 それは彼も同じのようだった。

 

 三つ数えるほどの時間が過ぎてから、彼は私を背後から抱きしめたままふぅー、と長く吐き出すように安堵のため息をついた。

 その吐息がうなじにかかり、背筋をぞくっと刺激する。

 

 男性の吐息を肌で感じるなど、常の私ならば生理的嫌悪感を抱いて彼を拒絶しただろう。

 しかしその時の私は、逆にその刺激を快いものと感じてしまった。

 そして同時に、危なかった、という恐怖と、助かった、という安堵をも実感した。

 

「……随分とお転婆だったんだな、君は」

「そ、それは貴方が飛べって……!」

 

 揶揄うような彼の物言いに、反射的に反駁してしまう。

 不愉快だったからではなく、気恥ずかしかった為だ。

 

 初めて出会ったときのように、またしても彼に危機を救われた。

 もしかしたら私と彼の相性はよくよくそういうものなのかもしれない。

 庇護者と庇護される者……

 

「はは、そうだね。……よく出来ました」

「あ、あの……ありがとうございました」

 

 彼は私の拘束を解かぬまま、背後から優しい口調で囁いてくる。

 その声には身を案じるいたわりの気持ちが籠もっており、私は礼を言うと共に大きな安らぎを感じて脱力した。

 

 かくんと足が折れてずり落ちそうになる私を、彼は「おっと」と呟いて抱えなおした。

 それで正気づいた私は胸とお腹を支える彼の腕の感触で、抱きしめられているという今の状況を強く意識してしまう。

 

 いまだにドクンドクンと、心臓がかなりの勢いで鼓動を刻んでいる。

 危機を脱して落ち着くどころか、そのボルテージはいささかも弱まる気配がない。

 

 密着しているため、彼にも私の胸の高鳴りが伝わってしまっているはずだ。

 その事を彼はどう受け止め、解釈するだろうか。

 

 羞恥を覚えて俯くと、視線の先に私のコンプレックスでもある胸を鷲掴みしている彼の手が映る。

 

 ……ワタシノムネヲカレガツカンデイル。

 

 事態を理解したとき、私の頭は一瞬で沸騰した。

 

「……きっ……きゃぁぁあああ!!」

「うぉっ!?」

 

 羞恥心がオーバーヒートした私は大声で悲鳴をあげてしまう。

 

 私は反射的に胸を庇うように前屈みに座り込もうとする。

 しかし突然の狂騒に驚いた彼がより腕に力を込めて拘束したため阻まれる。

 

「胸! 離してくださいっ!」

「うわ!? ご、ごめんっ」

 

 私が指摘したことで、彼もようやく自分がどこを掴んでいるか気付いたようだ。慌てて謝罪しながら両腕の拘束を解いてくれる。

 

 彼の行いは、邪な意図があっての事ではないだろう。

 私を救おうとした一連の行為の結果そうなっただけで、故意ではない。

 そう、理屈ではわかっている。

 

 だけど、生まれて初めて異性に胸を掴まれる体験をした私に、そんな理屈は何の慰めにもならなかった。

 

 彼を恨めしく思う気持ちが怒りとなってふつふつと湧いてくる。

 階段の踊り場の床にいわゆる女の子座りでぺたんと腰を落とした私は、両手で胸を隠しながら首だけ動かして背後の彼をじとっと見つめる。

 

 彼はバツの悪い表情で頬を掻いており、私の視線による呵責を受け止めながら何を言うべきか迷っている様子だった。

 

「ごめん、本当に申し訳な……」

「この不届き者め、のどちゃんに何をしたーー!?」

 

 ダダダダダッ!

 

 彼が謝罪を口にしようとしたところで、それを遮るように大声が階下より響いた。

 そして階段をすごい勢いで駆け上がってくる音も。

 

 とても聞き覚えのある声の主が、数秒とかからず私たちのいる踊り場に飛び込んでくる。

 

「天誅ーー!!!!」

 

 その突然の乱入者は気迫の篭ったかけ声と共に私へと……いや、私の頭上を飛び越えて背後の彼へ躍りかかった!

 

 ガッ!

 

 背後で鈍い音が聞こえたかと思うと、私の目の前にひらりと着地する小柄な影。それは……

 

「やるなきさま! だがのどちゃんに手を出した落とし前はきっちりつけさせてもらうじぇ!!」

 

 右手を突き出して私の背後にいる彼を指差した、親友の片岡優希の姿だった。

 

 

 




今回はちょっと短いので次話は早めに投稿します
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