「あなたのような、強く優しい子の母になれたこと、私は嬉しく思います」
女そう言って息子の体を抱きしめた。
「あとのこと、頼みましたよ。杏寿郎」
その言葉に息子は応えることが出来ず、ただ涙を堪えることだけに務めた。
息子──杏寿郎が瞬きをする。
すると先ほどまでの光景が一変し、夜を迎えていた。
「は……はうえ」
布団の上には、誰かが横たえられていた。
顔には白い布が被せられ、誰なのかは分からない。
だが、黒く艶のある髪が母のそれと同じだということを、杏寿郎は気づいた。
死んだのだ、母は。
そのことに気づかず、幼い弟の千寿郎は母の遺体の傍で眠っている。
父はいない。
鬼殺の任務に出ていて、妻の死に目には間に合わなかったようだ。
どうすればいい?
母は亡くなった。
父はいない。
弟は眠っている。
自分はどうすればいい?
「あぁ……そうだ。千寿郎、お腹が空いただろう?」
眠っている弟は応えない。
母は昼少し前に息を引き取り、そこから二人は何も口にしていなかった。
一時期は千寿郎が泣き喚いたが、杏寿郎はそこから一歩も動くことはなく。
そうするうちに千寿郎は眠り、そして陽が沈んで夜になった。
なにか食べさせなくては。
自分は母上に、あとのことは頼むと──そう、言われているのだから。
ふらりと立ち上がり、土間へと向かう。
バンっと音がしたかと思うと、どたどたと足音が聞こえた。
「杏寿郎っ」
「あ、父上……お勤め、ご苦労さまでした」
「きょ……瑠火は……瑠火……は……」
隊服に代々受け継がれて来た羽織を纏い、蒼白な面持ちの父、槇寿郎がそこにあった。
「母上は……昼前に息を引き取りました」
杏寿郎はそう説明したが、全て聞き終える前に父、槇寿郎は駆けだしていた。
先ほどまで杏寿郎がいた部屋に向かって。
杏寿郎は一歩も動かない。
だが背後の部屋から父のむせび泣く声が聞こえてきた。
「瑠火、瑠火ぁぁぁーっ」
父の声に気づいたのだろう。ついで千寿郎の泣く声も聞こえてきたのだ。
恐らく本人は母の死を知らない。いつものように眠っているだけだと、そう思っているに違いない。
だが嗚咽交じりに叫ぶ父の姿を見て、驚き、怯え、父と一緒に泣いているのだ。
背中でそれを聞き、杏寿郎は拳を握る。
(俺は泣かない。泣いてはいけないのだ。俺は、母上と約束したのだからっ)
ぎゅっと瞳を閉じ、開いた時には湯呑が飛んで来た。
条件反射でそれを躱し前を見れば、わなわなと震える父の姿が。
「稽古、稽古だと? そんなものやってなんになる! お前も、俺も、ただの凡人にすぎぬのだぞ!!」
「しかし父上。俺は鬼殺隊士になるため、もっともっと鍛錬が必要なのです」
「うるさい、黙れ!」
今度は茶碗が飛んでくる。
これでいくつ目だろうか。湯呑も茶碗も、お皿さえも。ここ最近の父はなんでも投げて、息子の杏寿郎に当たった。
あとどれくらい繰り返せば──
『壊れるでおじゃろうか?』
杏寿郎は諦めたように立ち上がり、ふっと目を閉じた。
そして次に開くと、
「杏寿郎。母がこれから聞くことを、よく考えて答えるのですよ」
体を起こし、自分を真っ直ぐ見つめる母がそこにはいた。
布団の脇では幼い弟の千寿郎が眠っている。
強く生まれた者の責務。
諭すように、母、瑠火は息子に語った。
「私はもう、長くは生きられません」
──あぁ、俺は母上を何度看取ればいいのだろうか。
「あなたのような、強く優しい子の母になれたこと、私は嬉しく思います」
瑠火そう言って、息子の体を抱きしめる。
「あとのこと、頼みましたよ。杏寿郎」
──母上はまた、逝ってしまわれるのか。
母の死を看取るのは初めてであるはずなのに、杏寿郎には不思議と「何度目」という思いがあった。
『まだか? まだ壊れぬか?』
瞼を閉じ、再び開けば辺りは暗闇に包まれており、布団には白い布を顔に掛けられた母の遺体があった。
千寿郎は眠っている。
母を呼んだが、当然動くことも返事をすることもない。
しばらくして、千寿郎に何か食べさせねばと口にする。
ふらりと立ち上がって、次の瞬間──
「その千寿郎はお前の記憶の中のものであって、本物ではない」
突然、杏寿郎の耳に女の声が聞こえた。
振り返ると、黒髪の少女が立っている。
知らない者だ。
いや、知っている?
「だ、れですか」
「私が誰なのか、自分で思い出せ」
「俺を、知ってる? 俺も、知ってる?」
少女──夢乃は頷き、床を指差した。
そこには母の亡きがらがある。眠っている千寿郎もいる。
母の死を見たくない。
杏寿郎は瞳をぎゅっと閉じ、それから「見ろ」という声が聞こえて恐る恐る目を開いた。
「杏寿郎。そこへお座りなさい」
凛とした声は、確かに亡くなった母のもの。
夜であったはずなのに、今は昼。
「え……どう、して」
杏寿郎は戸惑う。
この母は、数日前のあの母なのだとすぐに分かった。
強き者の責務を教えてくれた、あの母なのだと。
「繰り返すだけだ」
「くり、返す? なにを」
「術に掛けられた者にとって、一番辛い記憶」
だから夢乃にとって家族が失った時のことなのだろう。
恐らくあのまま悪夢に捕らわれていれば、次に見せられるのはあの日──上弦の壱、黒死牟によって一方的に打ちのめされた日の記憶を見せられる。
そうなれば、夢乃が鬼であることが知られてしまうかもしれない。
が、長い間ずっと見続けていた悪夢が、今さら彼女の心を壊すことはなかった。
「思い出せ。自分が何者なのか」
「俺が…‥俺は──俺は──」
杏寿郎の頭の中は、霞がかったように記憶がはっきりしない。
だがその霞が、少しずつ晴れていく。
「お前は誰だ?」
自分より少し年長に見える少女が、そう問いかける。
俺は誰だ。俺は誰だ。
彼女は──
「俺は、炎柱煉獄杏寿郎!」
自分が何者で、何故ここにいるのか。
目の前の少女が誰で、自分にとってどんな存在なのか思い出した。
「小さい炎柱だな」
「よもや!? 何故俺はこんなに小さいのだ? それに君も」
杏寿郎の姿は、母を亡くした十歳の頃のものだ。
辺りを確認すると、先ほどまでいた母と、眠っていた千寿郎の姿もなくなっている。布団すらない。
「俺の記憶……あの鬼は悪夢を見せると言っていたが」
「夢じゃない。完全な記憶だ。術を受けた者の記憶の奥底に眠らせている、最も嫌な物を思い出させているだけだ」
「何故そんな面倒なことを? 作り話の方がよっぽど恐ろしいものが作れるだろうに」
小さくなった自分の体を確認するように、手をぐーぱーし、それからぴょんぴょんと跳ねた。
「作り物より、本物のほうが本人にとってはよっぽど堪えるだろう。そうじゃなかったか、煉獄?」
「む……そう、だな。ん? いや、待て。何故君がここにいる?」
杏寿郎がそこまで言うと、夢乃は彼の頭に手刀を見舞いする。
「痛い。夢の中なのに痛いな!」
「そうか、それはよかった。私が何故ここにいるのかと聞いたな?」
夢乃は杏寿郎の頬を掴み、ぐいぐいと引っ張った。
「お前がぁー、あっさりとぉー、血鬼術に掛かって、眠ったからだろうがあぁぁっ」
「うああぁぁぁー、ひひゃい、ひひゃいゆえのぉ」
「あはははははははは。お前柔らかいな。はははははははは」
夢乃の手がぱっと離れる。
すぐに杏寿郎は頬を押さえて痛みに耐えた。
「君は! 幼い子供をいたぶる趣味でもあったのかっ」
「幼いお前をいたぶる趣味はあったようだ」
「嫌な趣味だな! 俺は優しくされたい!」
そう言うと、今度はゲンコツが飛んできた。
「むぅ」
「さて、ここからどうやったら目が覚めるのか」
「目を覚ます? どういうことだろうか、夢乃」
「はぁ……」
ため息を吐き、それから夢乃は見聞きしたことを杏寿郎に伝える。
「なるほど。眠っている者同士が触れると、夢の中で同居することになるのか」
「そうらしい。鬼の言葉と照らし合わせると、目覚めるようなのだが……」
「うーん、今のところその気配はないようだが……いや、待てよ」
夢──いや記憶の中で、あの時には耳にしなかった何かが聞こえていた気がする。
そう思って杏寿郎は思い出そうとした。
繰り返される母の死。何度目だったか、確かに聞こえたのだ。
まだ壊れぬか、と。
「もしやあの鬼。俺の夢の中にいるのやもしれぬな」