「煉獄!?」
夢乃が慌てて駆け寄ろうとする。だがその距離は一向に縮まることなく、いくら走ろうと彼の下にたどり着くことは出来ない。
「煉獄!?」
彼の背後に影が忍び寄る。
癖のある長い黒髪の──
「煉獄、逃げろっ。闘うなっ」
ただの一太刀すら届かなかった相手、上弦の壱。
その鬼が杏寿郎の背後にいた。
「煉獄!」
鬼の方へと振り返り、抜刀しようと杏寿郎が身構える。
だが彼は、日輪刀を抜かずに……振り向いた。
その顔には笑みが浮かび、そして苦悶の表情へと変えながら落ちていく。
「れんっ……ぁあぁ、い、嫌あぁぁーっ」
ようやく彼の下へと到着した時には、夢乃の腕の中に杏寿郎の頭があった。
見開かれた焔色の瞳が、じっと見つめている。
なぜこうなった?
なぜ奴がここに現れた?
なぜ自分は何もできなかった?
なぜ煉獄は死んだ?
なぜ
なぜ
なぜ
「煉獄、煉獄、煉獄ぅ」
腕の中の頭をぎゅっと抱え込み、その場に蹲ってむせび泣く。
再び目を開くと、そこに愛しい者の頭はなかった。
面をあげる。
焔の羽織を纏った煉獄杏寿郎が、笑みを浮かべて彼女を見つめていた。
上弦の壱のことなどすっかり忘れ、差し出された手を掴もうと腕を伸ばす。
「煉獄? 奴の首を斬ったのか?」
(奴──奴とは誰だろう?)
その疑問は次の瞬間にはかき消された。
「ごふっ」
「煉獄!?」
駆け寄ろうとするが届かない。むしろ彼との距離が離れている。
「煉獄っ、煉獄!」
背後に人影。癖のある長い黒髪の、上弦の壱。
「嫌、ダメッ。殺さないで!」
杏寿郎が振り返り、笑みを浮かべて──その首が落ちる。
ピシッ。
ガラスにヒビが入るような音がする。
再び杏寿郎の頭を抱え、今度は声を上げ泣きじゃくった。
何度も何度も繰り返される。
そのたびに記憶は白紙にされるが、悲しみと喪失感はどんどん蓄積されていった。
「れん……ご、く……ダメ。逝かないで……もう、誰も、私から……うばわ、ないで」
躯となった杏寿郎の頭を抱え、何度目になるか分からない悲鳴を上げる。
目を開けば、そこにはまた、生きた杏寿郎が待っていた。
「れんご……お前も、結局私を置いて逝ってしまう」
差し出されたその手を取ろうとしなければ、これ以上の悪夢は見ずに済むかもしれない。
どこかでそんな思いが芽生え、夢乃は腕を伸ばすことを止めた。
そして瞳を閉じ、自身に向かって諦めろと言い聞かせる。
・
・
・
「でもね夢乃。人は誰だっていつかは死ぬの。それはあなただって同じよ」
聞こえてきたのは懐かしい声。
何十年も前に死別した、数少ない友と呼べる存在だった。
その友は老婆となり、なにかと彼女に説教をすることが多くなっている。
「深香恵(みかえ)、何を言っている。私は──」
「あなたもよ。あなたも、いつか必ず死ぬ時が来るの」
「……はぁ。まぁ、その時は鬼舞辻無惨が死ぬ時だな」
「そうね。その時が早く来ることを、私は願っているわ」
そうでなければ、この目の前の親友が長い時をずっとひとりで生きることになる。
間もなく自分は死ぬ。鬼に喰われるわけでもなければ、病でもない。
老衰だ。
同期の鬼殺隊の者たちは、もう誰ひとりとしてい生きていない。
ほとんどの者が隊士であった頃に死に、残った者も現役時代に受けた傷が元で長い木は出来なかった。
「私は早くから隊士としてやっていけないと悟って、隠として裏方に回ったからここまで長生きで来たわ」
「まだ80かそこらだろう」
「もう80よ。ね、夢乃。私はもうじき死ぬの」
「……」
死を口にすると、夢乃はいつも嫌な顔をした。
目の前の親友が死ぬことは分かっている。その時が近いことも。
だがそれを口にはしたくない。耳にもしたくない。
また自分ひとりだけが置いて逝かれるのだから。
深香恵もそんな夢乃の気持ちを知っているからこそ、言わずにはいられなかった。
「夢乃。人との繋がりを絶つのは止めて」
「ん? 急に何を」
「あなた、私がいなくなったらひとりぼっちになるつもりでしょう?」
「……別に、珠世さんがいる」
深香恵が大きなため息を吐く。
「じゃあどうしてその人とは時々しか会わないの? そうじゃなくって、常にあなたの傍にいてくれる人を見つけなさいっていう意味よ」
「いや、全然分からない」
「はぁぁぁ……夢乃、恋人を作りなさい。ともに生きてくれる人と。それが例え僅かな時間だろうと、あたなの悲しみや寂しさを埋めてくれる相手をね」
「は? え? いや、え、深香恵。どうして突然、そんな話になるんだ?」
おかしい。彼女との最後の出来事は、こんな感じだっただろうか?
いや、それよりむしろ、何故自分はこれが深香恵との最後だと知っているのだろうか。
夢乃は混乱しはじめる。
「突然? でもそろそろ覚悟するべきじゃないの?」
「覚悟って、何を覚悟しろと」
「あの人と、一緒に生きるってことを」
あの人?
あの人とは誰なのか。
不思議と、考えずとも答えとなる人物の姿が脳裏に浮かぶ。
焔を思わせる色の髪と瞳を持ち、太陽のように明朗快活に笑う男。
煉獄杏寿郎の姿が自然と浮かんだ。
「バ、ババ、バカ。そそ、そんな男はいないっ」
「夢乃、怖がらないで」
「わ、私は怖がってなどいないっ」
「人はいつか死ぬ。それは決して変えられない事実よ。普通に生きている者だって、必ず別れる時がくるのだもの。怖がる必要はないの」
愛した相手と同じ瞬間に死ねる人間なんていない。
どちらから先に逝き、どちらかが看取る。
それは当たり前のことなのだと、深香恵は諭す。
「だから夢乃、好きならそれでいいの。後の事なんて、その時になって考えればいい。別れの時が来ても、その時に悲しめばいい。そうなる前から悲しみ、避けてしまわないで欲しいの」
「深香恵……みんなが私を置いて先に逝ってしまう。お前だってそうだろう? この先もずっと、置いて逝かれ続けなければいけないの?」
夢乃は懇願するように、親友へと縋った。
逝かないで欲しい。それが無理であれば、自分も連れて行って欲しいと、そう願うように。
だけど深香恵は首を振る。
「それはダメ。お館様とも約束したのでしょう? それに、今はあなたを待っている人がいるもの」
「あいつだってそのうち私を置いて逝ってしまうのだぞ!」
「そうかもしれないし、そうならないかもしれない。その時になって見ないと分からないでしょ? だからね、夢乃」
──の!
「だから今を大事にして」
「今?」
「そう、今。いつかどちらかが先に死ぬことになって、その時には悲しみが溢れるかもしれないけど。でも今が二人にとって幸せだったら、それでいいと思うわ」
「今が幸せなら……今が……」
──めの!
「さぁ、彼が呼んでるわ。聞こえているでしょう?」
「彼……か……」
夢乃が振り向く。だがそこに誰の姿もない。
だけど確かに聞こえる気がする。
いや、聞こえる。
「人が死んで悲しいと思うのは、誰だってそうよ。あなただけじゃない」
「分かってる。そんなこと分かっているっ」
「悲しい時は泣いていいの。そうして大好きだった人のことを思い出して」
「でも……でも深香恵」
床の上に腰かけた深香恵が、柔らかな笑みを浮かべる。
その姿は二人が初めて出会った頃の、鬼殺隊隊士になって間もない頃の姿。
「夢乃。あなたは私の事を忘れていないじゃない。柳田くん、松岸くん、琴子ちゃん、さきちゃん。みんんあのこと、ちゃんと覚えててくれているでしょ?」
だから大丈夫だと彼女は言った。
「さぁ、行って。そしてあなたの気持ちに素直になって」
「深香恵……」
「二人で鬼舞辻無惨を倒してね。その時にはきっと、あなたがあなたに戻れることを、私は祈ってるから」
最後の深香恵がもう一度、夢乃の名を呼んだ。
「夢乃」
──夢乃!
ハッとして、目を開くと杏寿郎の姿があった。
その姿は先ほどと同じ、幼い少年のままだ。
「どのくらい意識が飛んでいた?」
「数分もない。大丈夫か?」
数分。もっと長い時間、悪夢を見ていた気がすると夢乃は思った。
そして気づく。
杏寿郎を見下ろす角度が上がっていることに。
「ん? 元に戻った?」
「うむ! 気づいたら戻っていた。君だけ戻るとは、ずるいな!」
「そういう問題か……」
杏寿郎越しに鬼が見えた。
恨めしそうな瞳をこちらに向けている。
(気づかれたか? 早く仕留めなければ)
自分が鬼であることに気づかれれば、無惨に知られることになりかねない。
「煉獄、斬れ」
「承知!」
杏寿郎はその言葉を待っていたかのように飛び出した。