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どんっという音と共に、飯屋の戸が吹き飛んだ。それを寸でのところで躱すと、杏寿郎は解放された戸口の正面に立った。
灯りはない。
民家の軒先にぶら下げられた提灯の明かりでは、中の様子まではハッキリとは分からなかった。
が、そこには独特の異臭が漂っていた。
その異臭を、杏寿郎は何度となく嗅いでいる。
血。
鼻の奥にこびりついたこの匂いは、どうやっても忘れることなど出来ない。
その血の匂いが、昼に食事をした店内に充満している。
「鬼殺隊? そういや
店の奥から聞こえた声は、予想外なことに子供の声であった。
品書きを持って来てくれた少年のものではないが、声の主は確かに少年のようだ。
杏寿郎は軒先にぶら下がる提灯を手にして店の中を照らす。
ぽたり、ぽたりと雫の落ちる音がして、薄っすら浮かんだのはくの字に折れ曲がった娘の姿だった。
その傍らには娘の腹を切り裂き、臓物を食らう少年鬼が。
「んー、この味にも飽きたな。次は弟の方を食べてみるかな」
「っさまぁーっ!」
どんっと、杏寿郎が駆ける。
一瞬にして間合いを詰めた──はずだったが、鬼は天井を突き破って屋根へと跳躍する。
杏寿郎もすぐさま外へ出るが、鬼の手はいつの間にか飯屋の少年を掴んでいた。
「その少年を離せ!」
「うるさいなぁ。人の食事の邪魔をしておいて、そんな大声出さないでくれるかなぁ」
「離さぬのならば、こちらから取り返すのみ!」
「ほんっと、うるさい人間だ──」
鬼の意識が杏寿郎に向けられていた。
そこに隙が生じたのだろう。
「氷の呼吸、参ノ型──氷月斬り」
そう声がした。
その声に鬼が反応した時には、少年の襟首を掴んだ手が既に宙を舞っていた。
鬼の傷口が凍結し、斬撃が過ぎたあとには雪の結晶が舞う。
そして舞うのは鬼の手と、未だ掴まれたままの少年も同じだった。
「よ、よもや!?」
弧を描き落下してくる少年の軌道に、杏寿郎はやや慌てながらもしっかり先回り。
刀を地面に落としながらも見事キャッチすると、すぐさま生死の確認をする。
「よし! 生きているな少年!!」
と声を上げたものの、少年は気を失っていて彼の声など聞いてはいない。
少年を抱きかかえたまま見上げれば、子供の鬼と女の鬼とが激しくぶつかり合っていた。
それを杏寿郎は見開いた眼でじっと見つめる。
(勝負あったな)
杏寿郎が倒した鬼と比べれば幾分は強い鬼ではあるが、それでも脅威とは感じられない。
もちろん油断はせず、万が一を考えて既に地面に置いた刀は拾って手にしている。
だが──
「うむ! 手助けの必要なし!!」
と決めて、鞘に納めてしまった。
屋根上での戦いは、夢乃の防戦一方に思える。
だが押されてはいないし、氷のように冷たい表情も微動だにしていない。
対して鬼の少年は明らかに苛立っていた。
五十年生きていた。この幼い姿のまま、五十年。
金のために自分は売られた。不老不死の妙薬を作るのだという男に、母自らが自分を売ったのだ。
その結果が鬼である。
力を手にし、真っ先に食らったのは母の血肉。それから母に出来た男も食った。
どうでもよかった、人の世など。
力ある者だけが贅を尽くし、貧しいものは、特に子供は親の都合で生き死にが決まる。
そんな世の中など、どうでもよかった。
ただ腹が空くので食ったのだ。
人を。
それのどこが悪い?
何がいけない?
親に売られて鬼になったのだから、鬼として立派に生きることが自分を捨てた母のためでもある。
なのに──
「何故お前はあぁぁーっ。鬼でありながらボクの首を──は──ね……」
チンっと、刀が鞘に納められる音がした。
それと同時に少年の鬼の首がずるりと落ちる。
「鬼になろうとも、鬼殺隊であったことに変わりはない。私は──鬼が憎い。だから狩るまでのこと」
冷たく言い放つ夢乃の姿を、鬼は憎しみを込めて睨んだ。
睨んで、そして朽ちた。
塵と化して風に舞う鬼を見届け、それから夢乃は屋根の上から飛び降りた。
とんっと着地すると、杏寿郎が抱きかかえる少年に目をやる。
それから建物内を振り返り、そこに横たわる骸を見つめた。
鬼となってから夜目が利くようになった。おかげで夜の行動にも支障はない。
だからこそ見えるのだ。
あらぬ方向に体が折れ曲がり、体の至る所が欠損した娘の遺体が。
その遺体に向かって、夢乃は手を合わせる。
長い黙祷のあと、夢乃は杏寿郎に抱かれた少年をちらりと見てからその場を立ち去ろうとした。
「む? もう行くのか夢乃!」
「……」
立ち去ろうとする夢乃の足が止まった。
「気安く名前で呼ぶな」
感情のこもらない、冷たい印象を与えるその口調は、だがしかし杏寿郎にはまったく無意味だった。
今ここの空気はまったく読めていないからだ。
「そうか! では俺のことも杏寿郎と呼ぶがいい。おあいこだ!」
「は?」
思わず夢乃は振り向いた。
何を言っているのだこいつ?
おかしいのか?
そう思わずにはいられない。
「お前……」
「杏寿郎と呼ぶがいい!」
「……うるさい。そんなに大きな声を出したら」
その子が目を覚ましてしまう──と言いかけ、時すでに遅しと気づく。
うっすらと目を開いた少年が、自分を抱きかかえる杏寿郎を見て驚いた。
「お客さ……ん?」
「うむ! 昼間は馳走になったな」
「お、お客さんが、どうしてここに……ね、姉ちゃんは‥‥…父ちゃんと母ちゃんは」
不安げな少年の顔を見て、さすがに杏寿郎も眉をしかめた。
十二かそこいらの年齢の子に、姉の死を伝えるのは忍びない。恐らく両親も同じ目に遭っているのだろう。
どう伝えるべきか悩む。
杏寿郎が悩んでいる間に、少年はあるものを見つけた。
「姉ちゃん!? 生きて、生きてたんだ!」
「む?」
少年が手を伸ばす。
家の奥で横たわる、物言わぬ姉にではなく。
立ち去ろうとしていた夢乃に向かって。
「姉ちゃんどうしたの? そんな怖い顔をして」
「……違う」
「姉ちゃん?」
そう言われて夢乃は酷く怯えた。
人であった時、彼女には弟がいた。その弟は両親と一緒に鬼に喰われ、生き残ったのは彼女ひとり。
百年以上も前の記憶にある弟は、自分を今姉と呼ぶ少年と同じ年ごろだったから。
「私は……お前の姉ではない。お前の本当の姉は、お前を守って……鬼に殺されたのだ」
「……姉ちゃん……死んだの?」
「そう」
夢乃は真っ直ぐ少年の目を見つめ、辛い現実を伝える。
嘘を言ったところで少年の姉は生き返らない。後になって真実を知るより、今、この時に現実を受け入れるべきだろうと彼女は思った。
その目は冷たく、だが悲しみに満ちていた。
「少年。どこかに身寄りはいるか?」
杏寿郎が穏やかな口調で語り掛ける。だが少年は首を左右に振った。
「父ちゃんには兄弟がいるって、聞いた……けど、どこにいるか知らない。俺、ひとりになっちまうの?」
少年は杏寿郎を見て、それから夢乃を見た。
懇願する瞳はまっすぐ夢乃を見据え、まるで一緒にいてくれと頼んでいるようにも見える。
その瞳を振り払い、夢乃は「あとはお前に任せる」と告げる。
「任されよう。だが俺のことは杏寿郎と呼ぶがいい!」
歩き出した夢乃の足が再び止まった。
振り返り、そして──
「断る!」
それだけ言ってすたすたと足早に歩きだす。
「何故だ! おい! おぉーい!!」
杏寿郎がどんなに声を上げようと、それ以後夢乃の足が止まることはなかった。