夜が明け、古寺を後にした杏寿郎は、
「うむ。正月三が日にギリギリ間に合うかもしれんな」
と口にして帰路へと──
「カァーッ。杏寿郎! 北西ダ! 北西ニ向カエェーッ」
「……千寿郎よ。兄はやはり戻れそうにない」
苦笑いに似た顔を引きつらせ、杏寿郎は要が飛ぶ方角へと歩き出す。
最後にもう一度だけ古寺を振り返り、黙祷を捧げてから再び歩き出した。
要は北西に向かって飛び、杏寿郎が向かうべき地に案内する。
途中の町で宿を取り、更に翌日も宿に泊まって二日目にようやく到着した。
そこはまだ電気の通っていない小さな町。
それでも杏寿郎の生家のある駒沢村よりはずいぶんと大きい。
既に陽も暮れかけており、杏寿郎は急いで旅籠へと向かった。
「まずは腹ごしらえだな。うむ!」
泊まるのはひとり。
だが食事は五人前。もちろん追加料金を支払って。
満足したところで、杏寿郎は町を歩くことに。
旅籠屋の者から提灯を借り受ける際、主人からは気を付けるようにと忠告を受ける。
「ここ七日程で、三人行方不明になってましてねぇ」
「うむ! 俺が来たからにはもう安心だ!!」
「はい?」
「はははははは。なんでもない!」
意気揚々と出ていく杏寿郎を、狐にでもつままれたような顔で主人が見送った。
町の中は電気が通っていないので、当然だが暗い。
それぞれの家屋の軒下にぶら下げられた提灯と、町の所どころにある松明の火だけが地面を照らした。
「ふぅ……冷えるな。これはまた、雪になるかもしれん」
吐く息は白く、見上げる空に月は浮かんでいなかった。
あの日のようだと杏寿郎は思う。
雪の日の、山で再会したあの日のようだと。
あのあと十日以上も珍しく任務が入らず、その間は弟千寿郎と鍛錬をする日々を続けていた。
任務に行かないということは、夢乃と再会する機会もほぼなく。
だが果たして再び再開したところで、どう声を掛けるべきか。
いや、声を掛けることさえ許されないのかもしれない。
そんなことを思うと、杏寿郎は自然とため息が零れた。
これのせいで弟には無駄に心配を掛けさせている。
関わるなと言われたのだから、諦めろ──そう自分に言い聞かせた。
しかし、いったい何を諦めるべきなのか。
そこが今一つ分かっていない。
そもそも、誰かに対し恋心というのものを抱いたことすら、生まれてこの方初めてなのだから。
(関わるなと言われたから、俺のこの気持ちは捨てねばならないのか?)
ただ一途に、叶う事のない気持ちを持ち続けることも許されないのだろうか。
叶うことのない──
(そうだな。叶うことはないだろう。俺は人で、夢乃は鬼なのだから)
自分はいつか死ぬ。もしかすると鬼に喰われて死ぬかもしれない。
だが夢乃はそうはならないだろう。
寿命もなく、頸を跳ねられない限りは生き続ける存在。
「は、はは。そうか。最初から俺の恋は終わって──」
「終わっていたの?」
耳元で声がした。
左手で刀の鍔を弾き、振り返ると居合向き一閃。
だがそこには誰もいなかった。
「んふっふっふっふ。元気な子ねぇ」
顔を上げると、家屋の屋根に鬼の姿があった。
都会の女子に流行っているらしい、洋服姿の女の鬼だ。
「そちらから出てくるとは、殊勝な心掛けだ!」
とんっと杏寿郎が地面を蹴る。
消火用桶を置いた小屋の柱を蹴り、そして屋根へと跳ぶ。
瓦を落すことなく駆け、一気に鬼へと間合いを詰める。
「んっはっはっはっは。若い血、若い肉! 鬼殺隊を喰らえばあのお方がお喜びになるわっ」
「俺は喰われはせん!!」
杏寿郎の斬撃を鬼はひらりと躱す。
鬼の手が薙ぎ、その爪が伸びた。
杏寿郎もまたその爪を掻い潜り一歩踏み込む──が、
「くっ」
「あっはっはっはっは。あたしの爪はね、真っ直ぐ飛ぶだけじゃないのよぉ」
躱したはずの攻撃を背中から食らい、わずかな痛みに顔をしかめる。
それも一瞬のことで、杏寿郎は前を見据え二撃目を繰り出した。
「あら、痛みに悶える姿が見たかったのに。まぁ爪の先でちょっと突いた程度じゃ、そんなに痛くないかしらね」
「この程度、かすり傷にもなりはせん!」
「んふふ。あたしは
そう言って鬼は戻した爪の先についた杏寿郎の血を舐めた。
「あっは。お前の血、なかなか美味しいわぁ。そう。恋をしているのね。ステキ。人はね、誰かに恋をしていると一番輝くものなのよ」
「だ、黙れ!」
「あらぁ、怒ってるのぉ? ってことは、図星ってことよねぇ」
鬼の女は妖艶な笑みを浮かべて跳躍すると、血鬼術を発動させる。
「血鬼術──
杏寿郎は身構えて攻撃に備える。
紅い霧が鬼を包み、そして消えた。
「ぬ? 姿を隠したか……だが!」
気配までは消せまい。
そう言いかけて言葉を詰まらせる。
そこに立っていたのは鬼。
ただし魅姫香ではなく、氷のような鬼──夢乃だった。
「ゆ、夢……(いかん。また構えば彼女が)」
だから呼ぶのを止めたが、相手は意に介した様子もなく杏寿郎へと近づいて来る。
一歩、また一歩。
その顔に妖艶な笑みを浮かべて。
「煉獄……」
「夢、乃」
杏寿郎に向かって手を差し伸ばす。その手を、杏寿郎はぼんやりとした目で見つめ、取った。
「んふふ。私と行きましょう。煉獄杏寿郎」
「あぁ、行こう……」
(ふふふ。煉獄、煉獄杏寿郎! 炎柱の一族だわこいつっ。こいつを……そうだわ。あの方にご報告すれば、いい鬼になるかも。あたしの血鬼術で捕らわれている間に、まずは私の血で──)
繋いだ手を離し、鬼は杏寿郎の頬を取る。
ぼぉっと前を見つめる男に顔を近づけると、まずは自らの牙で唇を噛んだ。
つぅーっと赤い血が流れる。
(さぁ、飲みなさい)
ぐいっと杏寿郎の顔を引き寄せ、唇を重ねようとして止まった。
「ハッ──ハッ──な、なんなの、この冷気は」
ピキ、ピキと音がして、鬼の髪が凍り付く。
目線を逸らして背後に立つ者の姿を見ようとするが、足がすくんでそれが出来ずにいる。
「情けない奴め……その程度の女に術を掛けられるとは」
「そ、その程度ですって!」
魅姫香が怒りに震えて振り返ると息を飲む。
銀色に輝く瞳が魅姫を真っ直ぐ見据え、目が合った瞬間に頸を撥ねられた気がした。
「かはっ──はぁ、はぁ……なんなの。なんなのよあんた!」
(どういうことよ! 煉獄の記憶にあった女は確かにこいつのはず。だけどこいつ、鬼じゃない!!)
「くふっ。くふふふふふ。まさか彼、鬼に恋しちゃったのかしらぁ?」
「……氷の呼吸、壱ノ型──」
「うそっ。呼吸って」
その時になって魅姫香はようやく気付いた。
氷のような瞳の女が手にしているのが、鬼殺隊が持つ日輪刀と同じ素材で出来た刃だと。
反射的に『死』を悟った。
(嫌よ! 絶対に死んでたまるものですか!)
「杏寿郎、助けてっ」
魅姫香のその声に、杏寿郎がピクリと動く。
その姿も、声も、夢乃のものではない。だが杏寿郎には確かに夢乃として映っているし、声もそうだ。
「助けて杏寿郎。あの鬼が……あの鬼がわたしを喰らおうとしているのっ」
「お、に……」
「そう。鬼は鬼を喰らって力を得ることもできるの。助けて」
「承知した。まかせて、お、け」
魅姫香を下がらせ、杏寿郎は本物の夢乃と対峙する。
その様子に夢乃は舌打ちした。
「幻惑系の血鬼術か。だからといって、こうも簡単に術にハマってしまうとは。それでも貴様! 煉獄の者か!!」
「炎の呼吸、壱ノ型──」
「氷の呼吸、祇の型──」
お互い距離のある状態で構える。
同時に踏み込み、一瞬にして間合いは零に。
「不知火!」
「氷柱一閃!」
杏寿郎は頸を取ろうと正面へ斬撃を放ち、夢乃はそれを掻い潜って身を翻して──
狙ったのは杏寿郎の後ろに立つ魅姫香の頸。
「き、杏寿郎!?」
「炎の呼吸、弐ノ型──昇り炎天!」
夢乃の氷の刃が鬼の頸を刎ねる。
杏寿郎の炎刀が夢乃の頸を──
「かはっ!?」
刎ねることはなかった。だが炎刀はその頸の中ほどまで到達しようかというところまで食い込み、そして止まった。
「あ……お、俺は……なん、て……」
「斬れ」
「ゆめっ」
「そのまま斬れ!! 斬ってしまえ!!」
夢乃はそう叫ぶが、出来ようはずもない。
杏寿郎は慌てて彼女の頸に手を置き、血が噴き出さぬようにしてから刀を抜く。
いくら抑えていようと、頸の半分近くが切れていればどうしようもない。
ぶしゅっと噴き出す鮮血に、杏寿郎は顔面を蒼白にしながら叫んだ。
「血鬼術を使え!」
「ちっ。もう少しだというのに……」
「夢乃……お前は、死を望んでいるのか?」
お経を唱えながら、杏寿郎の刃を受け入れた鬼と化した住職の姿が重なる。
どくどくと流れ出る出血を抑えようと、杏寿郎の手に力がこもった。
「……血鬼術──齢譲再生」
流れ出る血が霧となり、その頸にまとわりつく。
杏寿郎はようやく手を離し、そこについた夢乃の血を見た。
赤く、ぬるりと生暖かい。
(人のそれとどこが違うのか。人と鬼の違いとはなんだ?)
違い。それは人を喰うか喰わないかの差であろう。
ならば。
「お前は……人を喰ったのか? それを後悔して死にたいと考えているのか?」
住職はまさにそうだった。
行く当てのない幼子を引き取り、世話をし。そして喰った。
鬼にさえならなければ、きっと優しいまま人生を送っただろう住職。その住職は幼子を喰ったことで自我を取り戻した。
それが幸か不幸かは別として。
ならば夢乃も同じなのかと、杏寿郎は全身の血の気が引く思い出尋ねる。
「喰ったか……だと? 私が、人を、喰ったなどと……ふざけるな!!」
怒りをあらわにする夢乃の姿を見て、杏寿郎は安堵する。
それはつまり、これまで彼女が人を喰ったことがないという証になる。
「す、すまぬっ。この通りだ、許せっ」
すぐさま杏寿郎は頭を下げた。無防備なほどに、その頸を曝す。
「ふぅー、ふぅー。だいたい、貴様っ。幻惑にあっさりかかって、なんの幻を見ていたんだ! あぁ?」
「まぼろ……はぁーっ!?」
そう。幻を見ていたのだ。
魅姫香の姿が夢乃に見え、姿だけでなく声までも。
その言葉にあがなえず、言われるがまま動いた。
動いて自分は、本物の夢乃の頸を斬り落とそうとしたのだ。
杏寿郎は頭を下げたまま、今度は土下座をする。
「すまん! ほんっっっとうにすまん! 怒りが収まらないのなら、俺の頸を持って行ってくれ!」
「……は?」
がばっと面を上げ、焔の眼が夢乃をじっと見つめる。
「俺が不甲斐ないばかりに、て、敵の術中にはまって、よもや夢乃に斬りかかろうとは。面目次第もない!」
「……そうだな。あの女、お前を鬼にしようとしていたようだし」
「え? お、俺を鬼に?」
「そう。よかったな、血の接吻を受けずに済んで」
「え? 血のせ……せせ、せ、せせせせ、せっぷん!?」
ぼんっと音が聞こえそうなほどに、杏寿郎の顔は一瞬にして赤く染まる。
夢乃は刀を鞘に納めながらその姿を見る。
「い、いやしかしだ。しかしだぞ! あの鬼は無惨ではないっ」
「……無惨ではないが、奴の血が流れている。私もそうだ」
夢乃は挑発するように、自身の掌にこびりつく血を杏寿郎に見せた。
「ぐ……お、鬼は、無惨でなくても鬼を増やせるという事か」
「そういうことだ。もっとも、それをすれば鬼としての力が衰えるがな」
「衰える? いったいどういう……さ、差し支えなければ教えてくれっ」
(そうか、知らないのか……知っていれば、鬼殺隊のためにもなる……かもしれない)
ため息を吐き、それから杏寿郎に向き直る。
「鬼が鬼を生むことは出来るが、全ての鬼ではない。私のように無惨の血が少なければ、そもそも分け与えることも出来ないからな」
「しかし! 血とは流れれば新しく作られ、循環するのだろう? なら奴の血が少なければ──」
「全身の血を入れ替えれば人に戻れるとでも? そう簡単なものではない。無惨の血はそれだけで別の生き物のようなものだ。人間を鬼に変えようとして血を流せばそこに無惨の血が流れ込むが、そうでなければ奴の血はしつこく体の中に留まる」
「……無惨によって鬼に変えられた者から、鬼が生まれるのか……」
鬼殺隊ではそれまで、全ての鬼は無惨によって生まれたとばかり思っていた。
ある意味ではそれは間違ってはいない。
だが鬼に変えようという意思そのものが、無惨だけで行われた訳ではないということが杏寿郎にとっては衝撃だった。
(だから鬼は一向に減らないのか)
無惨ひとりであれば、確かにそう多くは生み出せていないかもしれない。
そう考えれば合点がいく。
杏寿郎は背後で塵と化す鬼を見た。
憎悪の目を夢乃に送るが、既に意識はないようだ。瞬きする間に完全に塵となって消滅した。
「もし夢乃が来ていなければ、俺は鬼になっていたのか?」
「そうだな。ならなかったかもしれないが、その時は生きてはいまい」
肉体的な適性が必要だ。適性がない者は死ぬ。
そう夢乃は話した。
もし自分が鬼になればどうなったのだろうと考えると、杏寿郎は身震いする。
鬼は特に身内の血肉を真っ先に求めるという。
ならば、自分が鬼になれば弟の千寿郎と父である槇寿郎か?
「うぐっ──」
自分自身が弟を喰らおうとする姿を想像してしまった。
そしてむせ上がる吐き気、血の臭い。
「もしものことなど、想像しないことだ。お前は人間だ。鬼ではない。それともう一つ言っておくが、例えば返り血を飲み込んだとしても鬼にはならないからな」
「え、そうなのか?」
「無惨の血を分け与える。そう意識しなければ出て行かない──と聞いた」
「聞いた? 誰に」
「お前が知る必要はない。もういいか?」
冷たい、変わらぬ表情で夢乃がそう尋ねる。
やはり頸を斬ったことを怒っているのだろうかと杏寿郎は考える。
「すまん。本当に、すまん。痛かっただろう?」
「……気にするな。むしろ斬り落とされても良かった」
「き、斬れるわけがないだろう! 何故自分が好いた女の頸を斬り落とさねばならないのだ!」
と言ったところで、杏寿郎は固まった。それは夢乃も同様で、二人して時間が止まったかのように動かなくなった。
先に動いたのは杏寿郎。
「い、今のは聞かなかったことにしてくれるか?」
何故かその言葉に夢乃は頷く。
「いややはり聞いてくれ!」
「どっちなんだ!!」
「聞いて……くれ……。君にとっては迷惑かもしれないが、この想いは……変えられそうにない」
いつもと変わらない、真っ直ぐな瞳で杏寿郎は夢乃を見た。
焔の瞳に見つめられ、夢乃は視線を逸らすことも出来ずお互い見つめ合う。
「叶わぬのなら、せめて想い続けることを許して欲しい」
まっすぐ……どこまでも真っ直ぐな瞳と真っ直ぐな意思。
その言葉の意味を、夢乃は嬉しいとさえ思えて。
そう思う自分が恐ろしくて。
そして──
「夢乃!?」
「お前のことなのだから、お前の好きにすればいいだろうっ」
そう言って逃げた。
走って、杏寿郎の声が聞こえなくなるまで走って。
茂みを掻き分け、真っ暗闇の中で呆然と立ち尽くす。
見上げた月の浮かばない空からは、白い雪が舞い降りた。