千寿郎は兄のことを心配していた。
兄の杏寿郎は年末年始の任務から戻って来てからというもの、心ここにあらずといった様子。
(このまま次の任務に行かれては、兄上が……)
怪我──最悪命を落とすのではなかろうかと心配になる。
自分に出来ることはあるだろうかと、幼いながらに必死に考えた。
学び舎での新年会を終えての帰宅途中。
「あら、千寿郎くん」
「あ、伊納尾さん。明けましておめでとうございます」
「おめでとう。ね、ね、千寿郎くん。お兄さん、どうしちゃったんだい?」
「え?」
近所に住む伊納尾の奥さんが、千寿郎を呼び止め杏寿郎の様子について尋ねて来た。
朝方、通りで杏寿郎を見かけて声を掛けたが、いつもなら元気過ぎるほどに返してくる返事が──
「ぺこりと頭を下げて、普通の音量でおはようございますって……それだけだったんだよ?」
「は、はぁ……」
兄は常に大音量で話す癖がある。その癖はご近所だけでなく、この駒澤村では有名になっていた。
普通の人が話すのと同じ声の大きさだというだけで心配されるのだから、いつもがどれだけ元気かということだ。
「体の具合でも悪いのかい?」
「い、いえっ。それはなさそうです。たぶん……」
というのも帰って来てからの杏寿郎は、食事の量も減っていた。
いつもならお茶碗五杯以上当たり前だったのが、僅か一杯しか食べなくなっている。
体調が悪いのではと心配しても仕方がない。
「心配だねぇ」
「……はい」
「変わった様子はあるのかい?」
「……最近……遠くを見てため息をつくことが増えて」
誰に相談できるわけでもなく、ひとりで抱えていた千寿郎はついこぼしてしまった。
「遠くを? あら、あらあらまぁ」
千寿郎の言葉を聞いて、伊納尾の女房はころりと態度を変えた。
訳もわからず千寿郎は目を瞬かせおろおろする。
「あ、あの。兄上が何を悩んでおられるのか、何を心配しておられるのか分かったのですか?」
「ん? あぁ、そうだねぇ。まぁたぶんなんだけどねぇ」
「たぶんでもなんでもいいですっ。教えてください」
懇願する千寿郎の頭にぽんっと手を乗せ、伊納尾の女房は笑う。
「たぶんだよ? たぶんだからね?」
こくこくと千寿郎は頷いた。
「恋煩いさ」
「こいわずらい?」
「杏寿郎さんも年頃の男になったってことだろうねぇ」
こいわずらいとは、なんであろうか。
千寿郎は疑問に思い首を傾げる。
すると伊納尾の女房がからからと笑って千寿郎の頭を撫でた。
「千寿郎くんにはまだ難しい話だったかねぇ。つまりねぇ、あんたの兄上は誰かを好きになったってことだよ」
「兄上が誰かを?」
「あ、たぶんだよ、たぶん」
「はぁ……」
生返事をして、それでも千寿郎はどこかでほっとした。
体の具合が悪い訳でも、心配事がある訳でもないというのが千寿郎にとっては一番嬉しかった。
そんな千寿郎が屋敷へと戻ると、兄の杏寿郎は稽古着姿で庭に立っていた。
その手に竹刀を握りながら構えもせず、ただぼぉっと突っ立ているだけのように見える。
「あ、兄上っ」
千寿郎の声が届くと、杏寿郎がびくりと体を震わせてから、何事もなかったかのように満面の笑みを浮かべて振り返った。
「千寿郎、おかえり!」
「はい、ただいまもどりました」
(兄上が、誰かを好きに……)
声に元気がない。食欲もない。
だが見ている限り体調が悪いわけではなさそう。
ならやはり恋煩いというものだろうか──でもそうでなかったらと思うと、また心配になってくる。
それが顔にでたのか、杏寿郎の手が弟の頭にぽんっと乗せられた。
「どうした、千寿郎?」
その言葉に千寿郎は苛立ちを覚えた。
どうしたのかと尋ねたいのは自分のほうだと。
尋ねても答えてはくれない兄に、千寿郎は珍しく怒りをあらわにした。
「どうしたのかは兄上です! ここ最近、いつも上の空でため息ばかりだし、食欲だってないし! そんなんじゃ任務でも油断して、鬼に……鬼に兄上が負けてしまいます!!」
「せんっ──」
「千寿郎は兄上を心配しているのですっ。兄上、何も話して下さらないし……千寿郎では兄上のお役に立てないのですか!?」
その言葉は杏寿郎の胸をえぐる。
時々ふと夢乃のことを想うことがある。恐らくその時、ため息をつき、ぼうっとしているのだろう。
確かに食欲もなくなれば、心配されても仕方がない。
「すまん、千寿郎。だが特に体調が悪いとか、そういうのではないのだ」
「じゃあ」
「……千寿郎。兄は、その……ある人物を好きに……なってしまったのだ」
「じゃあ恋煩いだったのですか!?」
「こ……難しい言葉を知っているな、千寿郎は」
やや困惑気味に杏寿郎が話す。
恋煩いという言葉に関して、伊納尾のおばさんに教えて貰ったと千寿郎が素直に答えると、更に杏寿郎は困惑した。
(何故そのような話題が上ったのか)
自身の変化に気づいていないのは本人のみで、杏寿郎を知る人からすれば一目瞭然だ。
「こほんっ。と、とにかくそういうことだから、別に心配は──」
「兄上頑張ってください!」
「え?」
見下ろせば、目を輝かせた弟が。
「いや、実はだな」
「僕、応援しています!」
きらきらと光り焔色の瞳にじっと見つめられ、兄の杏寿郎はたじろぐ。
(ゆ、夢乃もこんな気持ちだったのか)
この目からは逃れられない。嘘偽りを付けない。
いっそ本当に穴があればとすら思えた。
「いや、千寿郎。実はな……俺の想いは通じぬのだ」
「え……どうしてですか?」
途端、千寿郎の眉尻は下がり、不安気な表情になる。
「さぁ、どうしてだろうな。とにかく俺の独りよがりなのだ。だが、想い続けることの許可は得た。それだけでいい」
「想い続ける……その方に想いを伝えて、それで尚ダメだったということですか?」
ダメ──という言葉が杏寿郎の胸をぐいぐいとえぐった。
「それでも兄上は、その方を……想い続けるのですか?」
「うむ」
真っ直ぐに答えた杏寿郎の言葉を聞き、千寿郎は目を伏せ考え込む。
(想い続けることの許可……嫌いな相手から想われ続けても、きっと嫌なんじゃないかな。じゃあ、その方は──)
「兄上!」
千寿郎はくわっと面を上げると、兄に詰め寄る。
「ど、どうしたのだ千寿郎?」
「兄上! 頑張ってください!!」
「い、いやだから」
「兄上は大嫌いな人はいらっしゃいますか!?」
嫌いな者はいるかと聞かれ、特に思い当たる人物もなく。そう答えると千寿郎は、
「なら鬼に例えてください。にっくき鬼の始祖が兄上を好きだと言ったとします」
「いや、その例えは相当えぐられるので止めてくれないか」
「そうでしょう? 嫌でしょう?」
弟が何を言いたいのかさっぱり分からず、杏寿郎はますます混乱した。
「相手がどんなに自分を好きだと言っても、嫌いな相手なら想うことすら止めて欲しいって思いますよね?」
「千寿郎?」
「だから兄上、その方はきっと兄上のことを嫌ってはいないと思うのです」
「俺のことを……え」
「そうです。きっとそうです。でも何か訳があって、今は兄上の気持ちにお応えできないのかもしれませんね」
嫌いではない?
嫌われてはいない?
だが関わるなと言われた。
何故?
そんな考えが堂々巡りを始め、結果──
「うむ! 考えるのはよそう。分からないことを考えても仕方がないな!」
そう言って笑う。
その声はいつものような大音量で、元気を取り戻したのかと千寿郎は喜んだ。
「千寿郎、不甲斐ない兄ですまなかったな」
「いえ、いつもの兄上に戻られてよかったです」
「ははははは。では千寿郎、お前が恋煩いに罹った時には、この兄が相談に乗ってやるぞ! それとも今誰かいるのか?」
「い、いませんよ!」
「ははははは。そうか、まぁ千寿郎はまだ小さいものな」
杏寿郎はそう言って千寿郎の頭をわしわしと撫でる。
そもそも関わるなと言われても、同じ鬼狩りをする限り出会うことはあるだろう。
そして鬼狩り同士である限り、協力することもあるかもしれない。
(うむ。関わるなという方が無理な話。よし! 気にせずこれまで通り、俺は俺の想いを貫くまで!!)
弟にも応援されるのだ、とにかくくよくよするのは止めよう。
そう思ったとたんだった。
──ぐぎゅるるるるぅぅ。
杏寿郎の腹が鳴った。
「ぷっ」
「は、はは」
「学び舎の新年会でお餅を頂きました。七輪で焼いて食べましょう、兄上」
「餅か! よし、たしか大根もあったな」
二人は屋敷に入って餅を焼く準備をした。
千寿郎は砂糖醤油を、杏寿郎は大根をすりおろしてそこに醤油を垂らした。
ぷぅーっと膨れた餅をおろし醤油で食べるとだ──
「兄上、力加減してくださいよぉ。辛いですぅ」
「むぅ。確かに辛い」
辛い辛いといいつつ、二人はおろした分は全て平らげ、それから全力で砂糖醤油につけて食べた。