「うぇ……汚い……それに臭い」
山中まで逃げてきた女は、ここに来て鬼の返り血を浴びていたことに気づいた。
首を刎ねた時、頭側は凍結させたが胴まではそうしなかった。そのせいで返り血を浴びたのだろう。
「早く落とさなければ染みになる」
女は耳を澄ませ、水の流れる音を探した。
近くに川のせせらぎを聞きつけ、そこに向かって疾走する。
数度呼吸する間に目的の場所へとやって来ると、女は着物を脱いで川の水で返り血を洗い流した。
「消えるかな?」
本来ならぬるま湯を使うべきところなのだろうが、ここにはそんなものはない。
仕方ないと、女は着物を何度も揉み解して洗った。
その甲斐あってか、染みは目立たない程度には落ちたようだ。
だが女はそれでも気に入らないようだった。
洗った着物に顔を近づけ、その匂いを嗅ぐ。
「鬼臭い。はぁ……そろそろ買い替え時か」
さて、かれこれ何年この着物を着ているだろうかと、女は首を傾げた。
「今度、呉服屋に行くか」
それまではこの臭う着物を着なければならない。
絞った程度では当然着られる訳もなく。
(どこかで火を焚いて乾かすしかないな)
どうせならと、袴も脱ぎ捨て同じように川の水で汚れを洗い流した。
ひと段落すると、次は乾かすための場所探しだ。
人が訪れることのない場所──そして日光から身を隠せる場所を見つけなくてはならない。
夜の夜中に山をうろつく者などいないので、女はその姿のまま歩き出した。
少し山奥に行けば、日中でも陽の当らない場所もあるだろう。
枝を拾い集め火を点け、傍で着物を乾かすしかない。もしくはどこかの枝にぶら下げ、夜が開け太陽が出て、再び陽が沈むまで待つか……。
そう考えていると、女はわずかな気配を察知して駆け出した。
(追ってきた!?)
何故──と思うよりも先に、その気配が先回りしたことに気づいて踵を返す。
が、それも間に合わなかった。
目前に現れたのは、あの派手な髪色をした煉獄家の剣士。
立ち止まろうとしたが、それよりも前に目の前の剣士が動いた。
女の首を鷲掴みしようと、煉獄の手が伸びる。女は体を仰け反りそれを躱すと、代りに後ろへ倒れ込んでしまった。
図らずも、倒れた女の足が煉獄の足に絡み、彼もまた倒れることに。
どさっと、柔肌の上に覆いかぶさるようにして倒れた煉獄は、その暖かさに違和感を抱く。
(鬼にも体温があるのか?)
目の前には着物に隠された山があった。
煉獄は直感的にこれが女の胸である──ことを理解できるはずもなく。
だからこそ思わず掴んでしまった。
「ぃ──っ」
「む? 柔らかい」
そう。それは柔らかかった。
はてこれはなんだろう?
そう思って煉獄は、女の上に跨る姿勢で起き上がった。
そして知った。
先ほど掴んだそれが、女の胸であったことを。
掴まれた女の鬼は顔を真っ赤に染め、口を真一文に閉じて煉獄を睨んでいる。
そこに殺気があったわけではない。
だが相手は鬼であるのだからと、煉獄は反射的に女の両腕を抑え込んだ。
「は、離せ!」
と言われて離す者も早々いない。
だが煉獄は押さえつける力を、思わず緩めてしまった。
そしてぽつりと声が漏れる。
「美しい」
──と。
その言葉を聞いて、抵抗する鬼の力も弱まった。
「は?」
どこか呆けたような声を出した鬼は、痛々しいものでも見るような視線を煉獄に送る。
「うむ! 美しい鬼だ。鬼でなければ惚れていただろう」
「は?」
「鬼の女。お前に聞きたいことがある」
「は?」
「お前は何故、鬼殺隊の剣士を食わなかったのだ。いや、何故彼の腕を繋げたのだ?」
煉獄は女を押さえつけたまま、大きな眼で女に問う。
暫く沈黙が続くと、煉獄は再び口を開いた。
「俺の名は煉獄杏寿郎という。お前は本当に鬼か?」
「……違うといったら?」
「それは有り得ない。お前からは鬼の気配がする。ただ他の鬼より随分と小さな気配のようだが」
小さい。そう言われて女はカチンときた。
それは他の鬼より自分が劣っている。そう言われているような気がしたからだ。
それに、鬼かどうか尋ねておいてその言い草はなんなのだと。
「──け」
「うむ! 聞こえないな!!」
「……どけ」
「いや、それは無理だ!」
「変態」
「え?」
さすがの杏寿郎も、その言葉には驚いた。
何故自分が変態呼ばわりされるのか、それが分からない。
「助平」
「なに!? お、俺がすけべ──」
と言いかけた所で、確かに今の自分のこの状況はそうかもしれないと首を傾げた。
僅かに頬を染め、杏寿郎が女の上からおずおずと下りて立ち上がる。
女も着物で前を隠しながら立ち上がり、それから不意に足を蹴り上げた。
「──がっ」
「変態助平!」
女が蹴ったのは杏寿郎の、男としての急所だった。
そこを鍛えることは不可能に近く、杏寿郎は前かがみになって痛みに藻掻くしかない。
「ま、待てっ」
手を伸ばすが、女は既にそこにはない。
気配がどんどん遠ざかってゆく。
「ま、待てっ。お、お前は何者だっ。何故人間を助ける!?」
闇に向かってそう叫ぶ杏寿郎だったが、その声は既に相手には届いていなかった。